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今日もハムスター少女として生きていく  作者: 酣睡


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だから……パンツはそうやって被るものじゃない……

早朝の帝都は、煙るような微雨の帳に包まれていた。


初春の肌を刺す寒風が、帝国学院の壮麗にして優美なバロック様式の巨石回廊を吹き抜け、肌に冷涼な気配を忍ばせる。


列柱にはアカンサスの葉を幾重にも重ねた精緻な浮き彫りと優美な渦巻装飾が施され、穹頂に描かれた帝国建国叙事詩のフレスコ画は、湿り気を含んだ大気の中で古色蒼然たる厳粛な威圧感を放っていた。


整然と敷き詰められた青石のアーケードを歩みながら、マリーズは首をすくめた。


滝のように流れる艶やかな灰色の長髪が風を孕んでふわりと舞い上がり、そのライラック色の瞳には、どこか物思いに沈むような迷いが微かに宿っていた。


この瞬間に至って、彼女はようやく思い至ったのだ。


あの小さなハムスターの祈りによってこの小柄な女の身体へと強引に押し込められて以来、日々権謀術数や修練、そして生死を賭した殺伐たる戦いに追われ続け、この異世界の巡る四季に心を配る余裕すら持てずにいたことに。


季節ごとの風土病はあるのか。猛暑の盛りには水質汚染や疫病が猛威を振るうことはないのか。冬を迎える前に、極寒の嵐を凌ぐためのいかなる物資を備蓄すべきなのか。


前世においてなら一介の社畜ですら弁えていたはずの常識が、ただ殺伐とした争いと身分の奪い合いに明け暮れるこの野蛮な帝国においては、貴族たちから一顧だにされていない。


知らず知らずのうちに、彼女自身も現代の日本に比してあまりに不便なこの遅れた世界に慣れつつあった。


重厚な大理石、濡れそぼる石畳、肌寒き朝の風……そんな静まり返った清晨の中、マリーズの脳裏には何の前触れもなく、前世の東京の街角に佇んでいた自動販売機の姿が鮮明に浮かび上がった。


冷たい硬貨を投入すれば、コトンと鈍い音を立てて転がり落ちてくる、掌の中で熱いほどに温もりを放つ缶入りの濃厚なコーンポタージュスープ。


あの素朴で甘い芳香、底に沈むシャキシャキとした粒コーンの確かな歯ごたえ――今となっては、それこそが彼女の魂の深淵に刻まれた、この上なく贅沢で愛おしい追憶のぬくもりであった。


初春の細雨は、夏の驟雨よりも遥かに柔らかく、しめやかに降り注ぐ。平和な世であれば、マリーズとてこのような静けさを心から愛したであろう。


しかし、ひとたび暴力を尊ぶこの修羅の場に身を投じ、戦闘態勢へと移行した彼女の振る舞いは、むしろ真夏に天地を叩きつける荒れ狂う雷雨そのものへと変貌する。


性急で、激しく、容赦がない。疾風怒濤の半剣術、徒手による近接絞殺、そして空間を断ち切る重剣の斬撃。一度幕を開ければ、敵を数秒のうちに物理的に消滅せしめんとする苛烈極まる攻め立て。


その戦法はあまりに暴力的で、相対する者に息を継ぐ暇すら与えない。だがそれは同時に、マリーズ自身すらも殺気の渦に呑まれ、呼吸の調律を忘れてしまうほどの諸刃の剣でもあった。


これこそが、マリーズ自身が骨身に染みて弁えている致命の弱点であった。この小柄な少女の肉体が宿す肺活量と心肺の耐久力には、自ずと限界がある。


いかに百戦錬磨の武術的直感を宿していようとも、その「強襲による爆発力」は、己の命の火を削って焚きつける火薬に他ならない。


戦局が引き延ばされさえすれば、同格の強者であれば体力を消耗し尽くした彼女を容易く打倒できるはずなのだ――もっとも、その嵐のごとき猛撃を前にして、持久戦に持ち込める生者が果たして存在するのかという前提を度外視すればの話だが。


斜めに煙る雨糸を縫うように、バロック様式の長廊を行き交う学生の姿は途絶えることがない。このしめやかな細雨のせいか、貴族の子弟や令嬢たちも、普段の傲岸不遜な喧騒を幾分か潜め、石畳を踏み鳴らす乗馬靴の足音を落ち着かせ、声高に語らうこともなく囁き合っている。


それゆえに、この雄大なる石柱の回廊には、普段見られぬ静謐と規律が漂っていた。


マリーズは視線を微かに横へと流し、己の両脇を歩む二つの影を見つめ、ふと呆然とした思いに囚われた。


一方は引き締まった長身にしなやかな四肢を誇り、頭上の黒い獣耳を時折ぴくぴくと揺らす獣人の少女・ドウバオ。


もう一方は、陽光をそのまま紡いだような金髪をなびかせ、優雅にして高貴な歩調を崩さぬ公爵令嬢・オーレリア。


まるで……あの理不尽極まりない客への応対も、鈴木財閥の冷酷無情な泥沼の抗争に苛まれることもなく、傍らには懐かしき故郷の美味があり、真心を通わせ合える仲間がいる。


このような日々もまた、得難き幸福と呼べるのではないだろうか。


マリーズの視線に心を通わせるかのように、オーレリアとドウバオが同時に首を巡らせ、彼女に向けて極上の温もりを湛えた燦然たる笑みをこぼした。


それは、肺腑の底から溢れ出る慈しみと包容の情であった。


ドウバオは普段こそ大雑把で能天気に見えるが、野性の獣としての直感は誰よりも鋭敏であった。この小柄な灰髪の少女の内に横たわる、底なしの深淵のごとき孤独と寂寥を、彼女は肌で感じ取っていたのだ。


一切の打算なく温もりを注ぎ、美味なる糧を分かち合うことこそ、親友としてのドウバオの魂が命じる本能であった。


そしてオーレリアの湛える笑みの裏には、生死の輪廻を超越し、自らの血肉深くに刻み込んだ「桐生蓮」としての狂おしい執念と、何があろうと守り抜くという絶対の誓いが秘められていた。


三人が呼吸を合わせ、華麗な彫刻が施された石造りの楣をくぐり、教室の敷居を跨ごうとしたまさにその刹那――


柔らかく、澄み渡り、されど微かな震えと緊張を孕んだ清らかな鈴の音が、マリーズの背後から静かに投げかけられた。


「……マリーズさん、私……『日本』から届いたかもしれない贈り物を、あなたにお渡ししたくて」


歩みが、寸分の狂いもなくピタリと止まった。


回廊の大気が、一瞬にして凍りついたかのようだった。


もし背後に立つ者が、単なる平民特待生のフェイ・クラインであるだけなら、これほどまでに皆が色めき立つ理由にはならなかった。


だが、その場にいた二人の転生者、そして一頭の獣人の脳天を直撃し、思考を完全に麻痺させたのは、彼女の唇からあまりに明瞭に紡がれた、その二文字の響きであった――


「日本」……?!


パタパタ、パタパタ。


ドウバオの背後で、黒く太い毛並みの豊かな尾が、神経質に激しく揺れ動いた。この一ヶ月の間、マリーズから吹き込まれ続けた世界観において、「日本」とは神仏すらも畏怖する途方もなく凄まじい大国であった。


馬の力すら借りずに鉄の軌条を疾駆する高力学の巨獣でんしゃ、街中に芳香を漂わせ、舌鼓を打たずにはいられない神仙の美味(すき焼き、ラーメン、焼き肉)、さらには想像を絶する綺羅星のごとき娯楽の数々……それはまさに、すべての美食家と旅人が生涯を賭して目指すべき至高の極楽浄土に他ならなかった。


そんな地よりもたらされた贈り物だとすれば、まさか未だ見ぬ秘境の極上食材なのではあるまいか?!


一方、マリーズとオーレリアの二人は、ぎこちなく身体を強張らせて振り返り、互いに息を呑むような視線を交錯させた。


オーレリアの瞳の奥に宿っていた普段の冷徹なまでの余裕と気品が、一瞬にして罅割れた。


彼女がこの世界で生を享けてからの十余年、ヴァロワ公爵家が誇る強大無比な諜報網を総動員し、大陸の隅々に至るまで地球から、日本から渡ってきた他の「転生者」が存在しないか血眼になって探索を続けてきたのだ。


しかし、突きつけられた現実は無残を極めていた。同郷の者の大半は、異世界に降り立った直後に風土病に倒れるか、戦乱の荒野で野垂れ死んでいた。


唯一発見できたある遺跡に遺されていたのは、錯乱の跡が生々しい日本語の日記帳一冊のみ。その主すらも、死の間際には異形の神々の狂気に蝕まれ、完全に発狂していたのだ。


それ以来、オーレリアはこの世界の冷酷さを呪い、諦めを抱いて生きてきた。あの八重の魂が巡り来るその日までは。


それなのに……今、目の前に立つこの異世界の土着の平民精霊使いが、あろうことか「日本からの贈り物」を手にしていると言い放ったのだ。これが何を意味するか。


まさかこの帝国学院の奥深くに、あるいは帝都の暗がりに、今なお息を潜め、日本の近代文明を知る「第三の転生者」が生存しているとでもいうのか?!


異郷の地に放り出され、寄る辺なき魂にとって、その情報の衝撃は青天の霹靂以外の何物でもなかった。


だが、マリーズのライラック色の瞳が、フェイの両手に捧げ持たれたその小箱を捉えた瞬間、胸中に湧き上がった驚愕と期待は、形容しがたい不気味な違和感によって瞬時にへし折られた。


見れば、普段は孤高にして清廉潔白を絵に描いたようなフェイが、両の手で恭しく捧げ持っているのは、可憐な桃色のリボンでこれ以上なく丁寧に結ばれた、小ぶりな化粧箱であった。


……その外観は、どう見てもあまりに小さく、そして小洒落すぎている。お好み焼きやケーキといった類の菓子が収まるような器では到底なく、ましてや刀剣の金具が収められているような気配もない。


そして何より致命的だったのは――マリーズがその小さな鼻をかすかに動かした瞬間、初春の湿り気を帯びた肌寒い大気の中に、極めて明瞭に漂うある「異臭」を捉えてしまったことだ。


絹のリボンと紙箱の微細な隙間から漏れ出してくる、猛烈に甘ったるく、微かな酸気を孕んだ……


イチゴジャムの匂い……?!


マリーズの目元がピクリと不吉に痙攣した。彫刻の施された石扉の前で全身を硬直させ、その脳裏にある「理性」という名の弦が、限界を告げる悲鳴を上げ始めた。


初春の細雨が回廊の外の芝生を濡らし、立ち上る水煙が風景を滲ませる。古風なバロック様式の大理石回廊に漂う冷気は、今や滴り落ちそうなほど重苦しく沈み込んでいた。


ドウバオの金褐色の獣瞳が、警戒を孕んでフェイと小箱の間を行き来した。普段は大雑把な彼女であったが、野獣の直感ゆえに、マリーズのこの小柄な女の身体が己ほど頑強でないことを誰よりも理解していた。


万が一、その箱の中に何らかの魔導の罠や危険な術式が仕組まれていたとしても、頑丈な己の肉体であれば耐え凌ぐことができる。


親友を守るという義侠心に駆られ、大柄で均整の取れたこの黒髪の獣人少女は何の躊躇もなく大股で前へ踏み出すと、掌に肉球を持つその大きな手で、フェイの差し出す小箱をガシッと受け取った。


フェイはその振る舞いに、一片の拒絶も示さなかった。


ドウバオとマリーズが片時も離れぬ親密な間柄であることは、全校の誰もが知る事実だ。


フェイの胸中に打算が走る――この単純で美味い肉のことしか頭にない愚鈍な犬を抱き込み、マリーズの前で取り成してもらえさえすれば、二人の間に横たわる分厚い氷を融かし、マリーズの閉ざされた心を再び撃ち落とすことなど、もはや時間の問題に過ぎないはずだ。


バロックの陰影が落ちる柱廊の影で、その場の空気は神仏の審判を待つかのごとき厳粛さに包まれていた。


マリーズ、オーレリア、そしてドウバオの三人が寄り添い、息を詰まらせ、「異世界の同郷人の重大な手がかり」への期待と緊張に指先を震わせながら、箱にかかったリボンを慎重に解いていく。


そして、その精緻な蓋が静かに持ち上げられたまさにその瞬間――


目に飛び込んできたのは、神聖なる日本の文字でも、古代の精巧な魔導具でもなかった。


それは紛れもなく、長年にわたって穿き古され、縁には毛玉が浮かび、幾度となく洗い晒されて生地の白さすら透けかけた……木綿仕立ての女性用三角パンツであった。


さらに魂を凍りつかせたのは、その薄くなった白い布地の中央に、寸分の狂いもなく端正に、そしてたっぷりと塗りたくられた、鮮血のごとく赤く、甘酸っぱい香りを放つ手作りのイチゴジャムの塊であった!


石化。完全なる石化。


オーレリアの深い祖母緑の瞳は瞬時に凍りつき、貼り付けられていた優雅な微笑は塵芥となって砕け散った。


そしてマリーズは、まるで雷霆に頭蓋を直撃されたかのごとく灰色の髪をだらりと垂らし、その小柄な身体を、風雨に晒されて今にも崩落せんとする脆い石像のように硬直させていた。


回廊の影から息を殺して見守っていたティナの心臓が激しく跳ね上がり、正面に立つフェイの背中には、冷汗が滝のように滲んで制服のローブを濡らしていた。


悟ってしまった。


この反応は……故郷の神聖なる儀礼を思い出して感涙に咽ぶ者の姿などでは断じてない! 推論を誤ったというのか?


それとも「日本」なる秘境において、イチゴ味のパンツなる概念は確かに実在すれど、他人に手渡しで献上するなどという無作法は、神聖なる掟に反していたというのか?!


凍てつくような沈黙が長廊を支配する中、不意に回廊の向こうから慌ただしい靴音が響き渡った!


黒髪を乱したイリノーが息を切らして駆け寄ってきた。その手には、これ見よがしなまでに絢爛豪華な木箱が握りしめられている。


近衛騎士長のフリードから持ち帰られた「起死回生の情報」を受け取るや否や、イリノーはホーエンツォレルン家の商業網と一流の職人を即座に動員し、大急ぎでこの至高の品を仕立て上げさせたのだ。


出し抜いたと確信して角を曲がった彼女の視界に飛び込んできたのは、無情にも先回りを果たしていたフェイの姿であった。


だが、足を止めたイリノーが目にしたのは、全身を粉々に砕かれて呆然自失となったマリーズの異様な佇まいであった。怜悧な公爵令嬢は、即座に足を止めて様子を窺った。


あれはどう見ても歓喜の表情ではない。むしろ脳の処理能力が完全に焼き切れ、己の信じる世界そのものが崩壊したかのような、虚無の極致であった。


「……あれ?」


その果てしない沈黙を破ったのは、皮肉にも能天気なドウバオであった。黒髪の獣人少女は果実の香りを放つ箱に鼻を近づけ、金褐色の瞳をパチクリと瞬かせると、頭上の黒い耳をぴくぴくと揺らした。


「これって……アンタたちが前に話してた、あの『マンガ』とかいうやつに出てくるアレなんじゃないの?」


ドウバオは思い出したのだ。かつて温室で肉を焼きながら、マリーズとオーレリアが前世で読んだというある物語について懐かしそうに語り合っていたことを。


荒唐無稽な恋愛模様を描いた、世にも奇妙な代物について話していたことを。ドウバオには「マンガ」なるものが何たる高等魔導書なのか見当もつかなかったが、このイチゴとパンツという異様な組み合わせは、彼女の単純な思考回路を一瞬で直結させるに十分であった。


その一言が、理性の導火線に着火した。


マリーズは焦点を失った瞳をゆっくりと動かし、眼前のフェイを凝視した。その顔は言語を絶する不条理と戦慄によって青ざめ、柔らかく紅い唇をピクピクと痙攣させていた。


数秒の窒息しそうな沈黙ののち、彼女はようやく喉の奥から、冷たく透き通った声音を絞り出した。


「……この肌着、まさか……あなたがご自身でお召しになっていたものでして?」


その声は溶けぬ氷雪のごとく冷え切っていたが、極限の衝撃ゆえにかすかに震えていた。


「人に物を贈るにあたり、自らの使用した下着を差し出すなど……一体どこのどなたから手ほどきをお受けになりましたの? それに……そのように奇怪極まる不埒な所業、どこでお聞き及びになりましたの……?!」


一言一句が、格調高き淑女の規範をもってフェイの胸郭を重く打ち据えた。フェイの面は見る影もなく蒼白となり、膝から崩れ落ちそうになる――間違っていたのだ。


日本の神聖なる秘儀などでは断じてなかった! そして後方でその光景を目の当たりにしたイリノーの胸中に、激震が走った。


鋭敏な彼女は、この情報が踏めば即死する致命的な地雷であったことを瞬時に悟った。恐怖に駆られた彼女は、証拠を隠滅すべく抱えていた木箱を背後へ隠そうとした。


だが、動転のあまり手元が狂った。イリノーの手から滑り落ちた豪奢な小箱は、あろうことかマリーズの足元へと、バタンと無残な音を立てて転落したのだ!


衝撃で外れた精緻な蓋が宙を舞い、中身が白日の下に晒された。


柔らかなベルベットの敷物の上に、帝都最高峰の職人が腕によりをかけて仕立てた、豪奢極まる黒レースの女性用パンツが鎮座していた。


そしてその繊細なレース地の上には、これでもかと言わんばかりに均一に、そして分厚く、艶やかな最高級果樹園のイチゴジャムが塗りたくられていたのだ!


一方は、洗い晒されて薄くなった平民の穿き古し。もう一方は、豪奢を極めた貴族のレース仕立て。そしてその双方が、余すところなくドロリとした果実のペーストを浴びせられている!


このような「神聖なる供物」を、あろうことか一度に二枚も突きつけられたのだ!


マリーズは足元に転がった二つ目の箱を見下ろし、血の気を失ったフェイを見つめ、そして視線を泳がせて激しく動揺するイリノーを見据えた。


脳裏でピンと張り詰めていた「理性」の弦が、パツンと音を立てて完全に破断した。許容量を遥かに超えた情報と、耐え難い羞恥の精神的暴撃が、この小柄な女の肉体の限界を無慈悲に粉砕した。


マリーズは喉を詰まらせ、白目を剥くと、糸の切れた操り人形のように全身の力を失い、そのまま後方へとバタリと倒れ込んだ。


「マリーズさん――!」


「マリーズ――!」


小柄な少女が白目を剥いて直立不動のまま倒れ込む様を見て、フェイとイリノーの心臓は口から飛び出さんばかりに跳ね上がった。


二人は半狂乱となり、己の怪異な凶行によって失神へと追いやられた少女を受け止めようと、無我夢中で手を伸ばした。


だが、それよりも疾く、鋭い金色の残影が割って入った。


波打つ金髪を翻し、オーレリアの祖母緑の双眸に冷徹な殺気が閃く。他者を寄せ付けぬ圧倒的な覇気をもって二人の間に割り込むと、意識を失ったマリーズの身体を、己の柔らかく馨しい胸元へと優雅かつ完璧な所作で掻き抱いたのだ。


「――お二人とも、ご令嬢としての弁えが、あまりに欠けていらっしゃるのではありませんこと?!」


オーレリアの凛として冷酷な叱責が、バロック様式の大理石回廊に冬の氷刃のごとく劈いた。大気そのものが震え上がるほどの威圧感。


普段の温厚篤実な公爵令嬢の仮面を脱ぎ捨て、我が子を奪われまいとする雌獅子のごとき冷え切った眼光で、彼女は二人を見下ろしていた。


容赦なきその喝破を浴びせられ、普段は全校生徒から「不可侵の高嶺の花」と崇められていた二大女神は、完全に正気を失っていた。


周囲を行き交う貴族の生徒たちの視線が、すでに好奇と困惑を孕んでこちらへと注がれている。


足元に散らばる高価なレース、薄汚れた木綿、そして周囲に漂う甘ったるくねっとりとしたイチゴジャムの香り……己たちが全校の面前において、取り返しのつかぬほど無様を晒してしまった現実を、二人は嫌というほど思い知らされていた。


だが、彼女たちに一体何ができたというのか。


あの演練場の一件以来、マリーズの行動範囲は鉄壁の如く防衛されていた。必修の大講義を除けば、彼女は常にドウバオと共にあり、オーレリアの厳重極まりない白薔薇の温室へと引き籠もってしまっていたのだ。


私生活において、マリーズの衣の端に触れることすら叶わない。


退路を断たれ、二人きりで接触する機会すら奪われた彼女たちには、衆目に晒される危険を冒してでも、この唯一の登校路において「日本の至宝」を差し出し、関係を修復する他に術がなかったのだ。


しかし待っていたのは、この上なく残酷な破滅であった。見当違いの暴走を犯した挙句、想い焦がれる少女を恐怖のあまりその場で気絶させてしまったのだ。


オーレリアの腕の中で青ざめ、微かに紅い唇を震わせるマリーズを見つめながら、フェイのアクアマリンの瞳は絶望の色に染まり、イリノーの誇り高き美貌もまた見る影なく歪んでいた。


終わった。関係の修復どころではない。マリーズの瞳に映る自分たちの姿は、「裏切り者」や「傲慢な貴族」から、一足飛びに「常軌を逸した破廉恥な変態」へと堕ちてしまったのだ!


二人の名門令嬢が天変地異に呑まれ、己の人生の完全なる終末を悟ったその刹那――


タッ、タッ。


柱の陰と回廊の曲がり角から、躊躇いのない力強い二組の足音が、死に絶えた沈黙を無造作に踏み砕いた。


無二の親友たる影属性の暗殺者・ティナ、そして絶対の忠誠を誓う近衛騎士長・フリード。二人は示し合わせたかのように同時に姿を現すと、己が命を捧ぐ対象の前へと迷いなく歩み出たのだ。


ティナは蒼白のまま膝を折らんとするフェイを見つめ、フリードは奥歯を噛み締めて立ち尽くす主君・イリノーを見据えた。


諜報と暗殺の最前線において、昨日まで血で血を洗う死闘を繰り広げていた不倶戴天の宿敵同士。その二人の瞳の中に、今この瞬間、まったく同一の悲壮と決死の覚悟、そして己の尊厳をかなぐり捨てた狂熱の炎が燃え盛っていた。


その眼差しは、言葉を発することなく、己の守るべき少女へと告げていた。


【案ずるな……ここから先は、すべてこの私に任せてもらおう!】


足を止めた貴族の生徒たち、ドウバオ、そしてマリーズを抱きかかえるオーレリアが息を呑む中――


ティナが疾風のごとく地を蹴り、床に転がる小箱へ手を伸ばすと、幾度となく洗われて薄くなった、中央にドロリと深紅のジャムが鎮座する木綿の白パンツを電光石火の速さで引っ掴んだ!


時を同じくして、フリードもまた戦場で王国の軍旗を掲げるがごとき荘厳な所作で片膝をつき、金糸をあしらった黒レースの、したたるジャムの重みで歪む豪奢なパンツを力強く握りしめた!


二人に、刹那の躊躇いすら存在しなかった。


ぐちゃっ――!


ねっとりとしたジャムが潰れ、弾ける異様な音が響き渡る。


ティナは何食わぬ冷徹な面持ちのまま、イチゴジャムまみれの白い木綿パンツを頭からすっぽりと顔面へと被りついた! 布地は鼻筋へと無慈悲に密着し、両足を通すための穴から左右の耳が虚しく風に揺れている。


そして、屈強なる体躯を誇る近衛騎士長フリードは、神聖な兜の面頬を下ろすがごとき厳粛さをもって、あの黒レースのパンツを目深に頭部へと装着してみせたのだ!


深紅のイチゴジャムが彼の無骨で引き締まった顔立ちを伝ってぬらりと滴り落ちる中、大手柄を立てた男のあの朗らかな笑みは、青松のごとく揺るぎなく、燦然たる輝きを放っていた!


回廊の風が止み、細雨の音すら掻き消えた。


バロックの壮麗なる巨石校舎のすべてが、神仏の救済すら届かぬ、永遠にも思える十秒間の絶対の死寂へと沈み落ちていた。

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