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今日もハムスター少女として生きていく  作者: 酣睡


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異界からの来訪者、後悔に苛まれる精霊使いの乙女

風雨吹き荒ぶ訓練場において、早春の刺すような冷気は、天を覆い渦巻くマナの奔流によって無残にも引き裂かれていた。


フェイの、あのアクアマリンのごとく澄み渡り、穏やかであった双眸の奥底に、かつてないほどの鋭い光が過る。


長年、故郷の平民たちの賛美の中にあっても、あるいはこの階級秩序の厳格なる帝都学院にあっても、彼女は常に、万民を救済し慈悲を垂れる「慈愛の女神」であり続けた。


だが今この瞬間、彼女の胸中は、やり場のない屈辱と焦燥によって激しく灼き焦がされていた。


煎じ詰めれば、目の前の小柄な少女が不用意に口にしたあの軽口がなければ、契約の法則に穿たれた間隙によって死角へと追い詰められ、このような荒唐無稽極まる婚姻の誓約を背負わされることなど決してなかったのだ。


そればかりか、マリーズは精霊使いに課せられた過酷な禁忌をまるで理解せず、あの見下すような、あまつさえ憐憫と失望を滲ませた態度を崩さない。それが、フェイの内に鬱屈していた憤りを完全に燃え上がらせていた。


ふたりはまるで、目盛りの合わぬ天秤を背負い合っているかのようであった。誰一人として相手の譲れぬ一線を理解できず、また半歩たりとも退く気などなかった。


だが、どれほど激情に駆られようとも、奇怪な黒気を全身に纏う灰髪の娘を見つめるフェイの胸中には、依然としてひどく厄介な躊躇が渦巻いていた。


マリーズの身には、癒えきらぬ大病の古傷がある。触れれば砕け散る薄氷のごとく脆い。フェイは彼女を真に傷つけることなど望んでおらず、耐え難き劇痛を味わわせることなど毛頭望んでいなかった。


かといって手加減をすれば、相手の精神を苦痛で崩壊させることなく完全に制圧するためには、一体どれほどの力を振るえばよいのか。


そして何よりフェイの胸を騒がせていたのは、マリーズの全身から立ち上る、あの底知れぬ黒気であった。


それは魔力ではない。闘気でもない。闇属性や呪詛が放つ固有の波長すら、微塵も感じ取れない。


帝国が誇る数千年の魔導古文書をいくら紐解こうと、その力の理を解き明かし得る記述など一行たりとも存在しないのだ。前例もなければ、参照すべき知見もない。


常識を根底から覆す未知の現象——これを解く鍵は、自ら危険を冒して直接確かめる以外になかった。


「交える前に、一つお聞きしたいことがあります」


フェイは深く息を吸い、凛とした顎を微かに上げ、冷ややかに、されど揺るぎない声で紡いだ。


「もしもこの決闘、私が勝利を収めましたなら……その時は、すべての我儘を引っ込め、私の願いを受け入れ、正式に婚約を結んでいただきます。この要求……決して過分ではありますまい、マリーズさん?」


彼女には負けが許されず、まして決闘の後にマリーズが言い逃れをして逃げ去ることなど断じて看過できなかった。この小柄で厄介極まりない少女を、己の傍らに縛り付けておかねばならない。


仮にふたりの間に爪の先ほどの情愛すら通っていなくとも、この婚姻だけは完遂せねばならないのだ。


「好きになさるがよろしいですわ」


泥土に深々と突き立てられた重剣の柄頭に片手を預け、マリーズは気怠げなまでに淡々と言い放った。


「この世はもとより、勝者こそが正義。もしも私が勝ちましたなら……その褒美とやらは、終わった後にでもゆっくり考えるといたしましょう」


マリーズは、フェイが差し出そうとする名誉や利益といった条件に、何の関心も抱いていなかった。


鈴木八重の視点に立てば、相手がこれほどまでに頑なになる苦衷も、今となってはおおよその察しがついていた——十中八九、かつて霊薬を授けた折、以前の己が気まぐれに口走った戯言が、この異世界の絶対的な規則契約に触れてしまったのだろう。


だが、神道、仏法、そして幾多の怪談奇譚の記憶を宿す「鬼」にとって、神話の世界において最も事欠かないものこそ、虚妄の誓約や因果の糸を両断する凶悪なる権能であった。


フェイを完膚なきまでに叩きのめして正気に戻し、封建の枷に飼い慣らされたこの籠の鳥に、男であれ女であれ誰もが等しく独立した個であり、他者のために自己を貶めて屈従する必要などないのだと悟らせる。


そうして、目に見えぬあの忌まわしき契約を太刀風一閃で叩き斬れば、すべては自ずと氷解するはずだった。


「……それでは、手加減はいたしません」


その言葉が落ちた瞬間、フェイの瞳から最後の迷いが消え失せた。


上位精霊王の召喚は、いまの彼女にとって過重極まる負担であった。たとえ霊装を完全解放していようと、その凄まじい魔力消費ゆえに現世へと永く留め置くことは叶わない。


しかし、マリーズに精神を壊すほどの苦痛を与えることなく、瞬時に勝敗を決するには、これ以外の選択肢は残されていなかった。


フェイは静かに伏し目になり、両手の十指を固く組み合わせ、神仏に己の身心を捧げる聖女のごとく敬虔に胸元へと添えた。


――キィィィィン!


鼓膜を刺し貫く魔力の励起音が彼女の掌から炸裂し、超新星の爆発を思わせる純白の閃光が視界を白濁させた!


「伯爵令嬢! 早く止めろッ!!」

「術を中断させろ! 召喚術式だぞッ!!」


観客席の最前列で、かつて訓練場において精霊王の猛威を肌で味わったことのある貴族の学徒や駐屯騎士たちが、その祈りの構えを認めた刹那、喉も裂けよと絶叫した!


この令嬢が、近衛騎士を遥かに凌駕する神速の居合を操ることなど、全校の知らぬ者はいない。彼女が今まさに地を蹴って肉薄すれば、召喚の成就を待たずして一撃で術式を崩壊させることも十分に可能であった!


だが、天地を揺るがす悲鳴のような警告の嵐の中にあっても、マリーズは眉ひとつ動かさなかった。


彼女が欲しているのは、フェイに何の言い訳も与ぬ、完全にして圧倒的な敗北であった。


もしも不意を突いて術を中断させたところで、あの偏執的な少女は自らの油断を悔やむばかりで、あの歪みきった思考の迷宮から抜け出すことなど決して叶わないのだから。


しかし次の刹那、マリーズは己の見通しがいかに甘かったかを痛感させられることとなる。


轟――ッ!!


激しい暴雨が両断され、白夜のごとき白光が大地を満たした。


フェイの背後の空間が、見えざる巨人の手によって握り潰された羊皮紙のごとく歪み、同心円状の空間の歪みが波打った。


大気中に満ちるマナが、万物を貪り尽くすような凄まじい勢いで中心へと収縮し、やがて天を覆い尽くす巨大な白影が、引き裂かれた次元の裂け目より緩慢に姿を現し、現世へとその身を這い出させた。


それは、人の言語をもってしては言い表せぬほどの雄渾と圧迫感であった。


小山と見紛う巨躯からは、息を詰まらせるほどの聖潔なる熱波が放たれている。太い頸の上には、威厳と獰猛さを兼ね備えた純白の山羊の頭部が冠され、螺旋を描いて天を突く二本の巨大な角が不吉な弧を描いていた。


そしてその奇怪なる山羊頭の下には、大理石を削り出したかのごとく強靭で均整の取れた屈強な筋骨が連なり、雪のように柔らかく純白の霊毛がその身を覆い、表面には幾万にも及ぶ精霊の本源たるルーンが光を帯びて脈動している。


巨神の腕は人に似て逞しく、だがその指先には城壁すら容易に引き裂く鋭利な鉤爪が生え揃っていた。


その分厚く重厚な両の手甲には、中天の烈日のごとく燃え盛る巨大な琥珀色の宝珠が嵌め込まれ、目も眩むような金赤の光を放っている。


山羊の首の両側からは、神聖なる赤金と純白の糸で織り上げられた豪奢な外套が垂れ下がり、吹き荒れる暴風の中でけたたましく羽ばたいていた。


光の精霊王――ソール。


天球を統べる恒星の劫火を象徴し、至高の光輝と審判の概念を司る存在。純粋なる火の精霊王すら凌駕する神格を有し、一撃のもとにこの帝都学院全域を焦土へと変じせしめる至高の精霊であった!


「…………」


柄頭に添えられていたマリーズの指が、微かに凍りついた。


ライラック色の双眸に、訓練場の空を半ば埋め尽くす山羊頭の巨神が映り込んだ瞬間、八重の背筋を伝って冷気が脳天へと一気に突き抜けた。


(これが……「平民の精霊使いの全力」ですって……?)


(あんなものの一撃を喰らったら、骨の灰すら残らないんじゃありませんの……!?)


強烈にして切実極まりない生存本能が、マリーズの脳内でけたたましく警報を鳴り響かせる。


揉め事の決着どころの騒ぎではない。話し合いの席に核兵器の起爆スイッチを持ち込まれたようなものではないか!


いっそのこと長剣を投げ捨てて、「今日は天候が優れませんので、またの機会にいたしますわ」と審判に告げて逃げ帰りたい衝動に駆られる。


だが……すでに大見得は切ってしまった。世の理を悟りきったような高貴なる令嬢の態度を崩さず、あまつさえこの決闘は、自らが相手へと叩きつけた挑戦状なのだ。


まさに、進むも退くも地獄の窮地。


マリーズは誰にも悟られぬよう引きつった笑みを浮かべ、ぎこちなく小さな首を巡らせて、その「助けて、この人完全に狂ってますわ」と雄弁に語る眼差しを、観客席の最前列に陣取るオーレリアとドウバオへと向けた。


しかし、観覧席の最前列において。


オーレリアとドウバオの二人は、顔面を蒼白に染め、額から大粒の冷汗を滝のように流していた。


マリーズの助けを求める視線を受け止めた瞬間、二人の無二の友は、息を呑むほど見事な連動で――音もなく顔を背け、訓練場の外縁にある排水溝の構造を熱心に観察するふりを始めたのである。


その頑なな横顔が物語る無言の叫びは、あまりにも明白であった。


『マリーズ……もうやめなさい、絶対に勝てっこありませんわ。いっそ少し妥協して、大人しく日取りを選んで婚礼の支度を整えた方が身のためですわ……!』


泥水が熱波を帯びて泡立ち始める地面の上で、マリーズはただ口蓋の苦さを噛み締めていた。


この世界の戦闘力が、これほどまでに理外の領域に達していようとは、夢にも思っていなかったのだ。フェイはまだ何歳だというのか。学院を卒業してすらいない、所詮は上級生の一角に過ぎない。


追い詰められた平民の天才少女一人にして、大陸のプレートすら消し飛ばしかねない上位精霊王をこうも容易く降臨させ得るとするならば――フェイと肩を並べ、背後に帝国の黄金たる通商網を統べるホーエンツォレルン家の三女、イリノー・フォン・ホーエンツォレルンの全盛期の力は、一体どれほど底知れぬ化け物だというのか。


そこまで思考が至った瞬間、鈴木八重の魂の深奥から、途方もない戦慄と敬服が湧き上がった。


かつてあの臆病で脆弱、万民から「無能の伯爵令嬢」と蔑まれていた「ハムスターのリリ」は、一体どれほどの命知らずであったなら、あのような規格外の怪物の後を愚直につけ回し、求愛するなどという暴挙に出られたというのか?!


だがもはや、雑念に逃げ込む猶予は残されていなかった。


光の精霊王ソールの頭上に聳えるねじくれた巨大な角の間には、すでに万物を融解せしめる絶対の太陽熱が凝縮されつつあった。


大気中を狂奔するマナはその圧倒的な神威によって真空へと吸い尽くされ、常規の剣技や小手先の身のこなし程度では、この薄氷のごとき肉体など、三歩と近づかぬうちに蒸発して消し炭と化すに違いない。


常道による勝算が万に一つも存在しないというのなら……もはや腹を括り、持ち得る奥の手を根こそぎ曝け出す他あるまい。


マリーズは硝煙と水蒸気の立ち込める冷気を胸いっぱいに吸い込み、ライラック色の瞳の奥、幽かに揺らめいていた血の紅斑を、紅蓮の花のごとく一気に咲き誇らせた。


詠唱はない。魔法陣の展開もない。まして大気中に遍在するマナへの干渉や同調など、微塵も存在しなかった。


それは純粋に、その小柄な幼女の器の深淵より――三途の川の境界を踏み越えて現世に蹲る幽冥の魂魄より、何一つ惜しむことなく噴出された狂乱の黒気であった。


濃墨のごとき漆黒の瘴気は、解き放たれた瞬間に幾千もの凶悪に咆哮する大蛇の群れと化し、彼女を中心として四方八方へと奔流した。


それは実体ある生命にあらず、極限の死寂、怨嗟、そして崩壊の理そのものが凝結した「黄泉の穢れ」。


黒気は凄まじい地鳴りを伴って疾駆し、触れるものすべての生気、光熱、そして物質を悉く呑み尽くさんとする凶刃となり、決壊した冥府の激流のごとく、訓練場の石畳を這い尽くし、瞬きの間に演練場の全域を完全に呑み込んだ。


ソールの角から飛散し、天より降り注いでいた火の粉すら、その黒霧に触れた瞬間に形を失い、音もなく朽ちて無へと帰していった。


観覧席の防護結界が即座に最大警報を発令し、バロック様式の要塞学院の防衛術式群が激しく軋みを上げて震動する!


『――退け、フェイ! その力に触れるなッ!!』


万古の巨鐘を打ち鳴らしたかのごとき重厚な反響が、隠しきれぬ警戒と戦慄を孕んで風暴を貫き、フェイの耳朶を容赦なく叩いた。


ソールであった。あの小山のごとき山羊頭の巨神が、手甲に宿す琥珀の太陽宝珠の輝きを微かに翳らせ、筋骨隆々たる巨躯の腕を、反射的にフェイを庇うようにして差し向けていた。


フェイは全身を強張らせ、骨の髄まで凍りつくような悪寒に震えた。


光の精霊王と契約を交わして以来、天の烈日を司るこの至高の存在が、これほどまでに敵を前にして慄然とした姿など、一度たりとも見たことがなかった。


「ソール様……あれは、一体……?」


『あれはこの世界の理によって産み落とされた力などではない』


ソールの、神火を宿す黄金の横長瞳孔が、黒霧のただ中に佇む灰髪の幼女を射竦め、魂を軋ませるほどの震えをもって告げた。


『元素にあらず、深淵の魔力にあらず、死霊術師の弄ぶ骨片の類いでもない……あれは神霊すらも無残に汚染し、地脈ごと永劫の寂滅へと引き摺り下ろす異界の法則。ひとたび触れれば、我が神体とてたちまち枯渇し朽ち果てよう!』


フェイの心臓が、激しく跳ね上がった。


神霊すらも腐食し、汚染する力? この世界の理にあらざるもの?


その言葉は、彼女がこれまで信じ疑わなかった狭小な世界の認識を、木っ端微塵に粉砕した。


公爵領で育ち、帝都で研鑽を積んできたはずの病弱な伯爵令嬢が、いかなる因果によって、理を逸脱した異界の禁忌へと触れ得たというのか。


しかし、底知れぬ恐怖に呑まれながらも、死の黒霧の中でただ一人、頑なに、されど絶対の寂滅を纏って立ち尽くすその姿を見つめるうちに――フェイの混迷を極めていた意識の底で、一筋の雷光が走るがごとく視界が拓けた。


……そうだったのか。


なぜこのひと月、どれほど己の矜持を捨て去り、どれほど哀願し誓いを立てようとも、マリーズは一貫して、まるで彼岸の生霊を眺めるかのような冷徹な眼差しを自分に向けていたのか。


なぜ婚姻を語り、献身を語るたび、ふたりの言葉は常に噛み合わず、永遠のすれ違いを繰り返すばかりであったのか。


マリーズの魂は……とっくの昔に、貴族の教条や主従の軛に囚われたこの世界になど、存在していなかったのだ。


この世のすべての法則を凌駕する異界の力を手にしてしまった者が、その双眸に見据える「生の尊厳」が、旧弊なる世界の女たちが甘受してきた自己犠牲の檻に収まるはずなど、端からありはしなかったのだから。


だが、ソールが次に紡いだ重々しき神語は、フェイの胸に芽生えた戦慄を、一息に底なしの絶望へと突き落とした。


『あの娘は……おそらく、自らの魂を完全に生贄として捧げたのだ』


山羊頭の巨神は、黒霧の混じる重苦しい嵐を深く吸い込み、両の手甲の琥珀宝珠から再び猛烈な天火を吹き上げさせ、鉄のごとく険しい面持ちで言った。


『己の肉身を依り代たる生贄の器とし、異界の古き凶神を……この脆弱なる肉体へと強引に降臨させたのだ。いま汝の眼前に立っているものは、もはや温もりある人の貴族などではない』


天地と共に生きてきたソールとて、「異世界転生による乗っ取り」という真実までは見通す術を持たなかった。


彼が導き出した唯一の辻褄の合う解釈――それは、闘気も持たず初歩の魔法すら灯せなかった無力な令嬢が、これほどの神威を振るう対価として、己の魂を異界の邪神へと売り渡す死闘の契約を交わした、という悲劇の推論であった。


「魂を……生贄に……?」


フェイは、天地を覆い尽くし黒蛇のごとく狂い咲く瘴気の奔流を見つめ、アクアマリンの双眸を激しく震わせた。烈日の熱気と身を切る死気が交錯する極限の狭間で、彼女の瞳から溢れ出た涙は、頬を伝う間もなく蒸発していった。


マリーズのあの別人めいた変貌は、まさか……ずっと以前、あの訓練場で四年級の先輩を叩きのめすよりもさらに前から、彼女はすでに己の魂を邪神へと差し出してしまっていたというのか?


ならば、かつてあのように臆病で、脆く、無数の嘲弄に晒されながらも不器用に縋り付いていたあの少女は、一体どれほどの孤独と絶望の果てに、二度と戻れぬ破滅の道を選び取ってしまったというのか。


フェイは知らなかった。マリーズがどのような地獄を歩んできたのかを。だが今にして思えば、学院において、そして身内の社交界において、あまりに過酷に孤立させられ、踏みにじられたからこそ、彼女は異界の怪異に魂を売る他なかったのではないか。


そしてその破滅を……かつての自分は、救い止める機会があったはずなのだ。


フェイは拳を握り締め、爪が皮膚を破るほど強く掌に食い込ませた。


彼女は誰よりも、自らの本性を弁えていた。世人は彼女を親しみやすく慈悲深き「聖女」と持て囃すが、その柔らかな微笑みの仮面を剥ぎ取れば、その本質は誰よりも冷徹で、他者を寄せ付けぬ高慢さに満ちていた。


群がる求婚者たちには綻びのない笑顔で別れを告げ、下心を隠して近づく有力者たちには心の城壁を固く閉ざしてきた。そして過去の日々において、フェイは心の奥底で、確かにマリーズを侮蔑していたのだ。


彼女の目に映るマリーズは、いつも怯え、ホーエンツォレルン家の三女の後ろを惨めに追い回す、身の程知らずの卑屈な道化に過ぎなかった。


だが、今こうして立ち止まり振り返ってみれば、マリーズにそのような浅ましい真似をする必要など、最初から欠片もなかったのではないか。


マリーズの背後に立つのは、あのヴァレンシュタインなのだ。もしもあの令嬢が特権や通商権を真に欲したならば、ただ実家へ戻り父に一言乞い願えば済む話であった。


ヴァレンシュタインの当主が自らホーエンツォレルン公爵と対峙したならば、この帝国の頂点に立つ者たちの誰が、あの「狂人」の要求を面と向かって拒絶できるというのか。


現に、今こうして己を庇う光の精霊王ソールですら、あのヴァレンシュタイン伯爵を前にしては、十二分の警戒を強いられ、戦々恐々と息を潜めるのだ。これこそが、帝国最高峰の武門が誇る恐怖の抑止力。


これほどの後ろ盾を持ちながら、あの少女はかつて、ただひたすらに不器用な純情だけを抱え、愚か者のように独りでイリノーを追い求めていたのだ。


それなのに、自分はどうだった。かつての狭量なる矜持と傲慢ゆえに、泥濘の中でもがいていた幼き姿を見殺しにし、結果として、今日という取り返しのつかぬ結末を招いてしまったのではないか。


もしもあの時……あの灰髪の少女が完全に絶望しきる前に、自らの冷淡さを投げ打ち、嘲弄の泥沼から彼女の手を引いて、その小さな身体を優しく抱きしめてあげられていたならば……。


この子は、これほどまでに死の気配に塗れ、情を捨て去り、生死の狭間で冷徹に刃を振るうような姿に成り果てずに済んだのではないだろうか。

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