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今日もハムスター少女として生きていく  作者: 酣睡


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18/29

前世の心残りは、今世で埋め合わせるとしましょうか

演練場に吹き荒れた凄惨な流血劇の波紋がようやく収まりを見せてから、時は密やかに流れ、すでに一月が過ぎ去っていた。


この一月の間、演練や講義に一区切りのつくたび、マリーズは幾度となく敷石の小道を歩み、オーレリアが帝国学院内に擁する専用の「白薔薇の温室」へと足を運んでいた。


階級制度の厳格極まりないこの帝国学院において、入学時に外からの視線や詮索を完全に遮絶した私的領域を与えられるのは、ひとえに公爵の血を引く直系の子女のみに許された特権である。


温室全体は精緻を極めた透かし彫りのドームに覆われ、特製の遮光硝子を透過して降り注ぐ陽光は、外の喧騒をことごとく濾過し去り、ただ室内に凛とした幽雅な冷香のみを漂わせていた。


「外では随分と賑やかな噂が飛び交っておりますわよ?……あの孤高にして愛らしいヴァレンシュタイン伯爵令嬢は、ついにわたくしの猛攻に屈し、その胸元へ飛び込む道を選んだのだ、と」


オーレリアは金彩の施されたボーンチャイナの茶杯を指先で優雅に持ち上げ、柑橘の澄んだ香りを孕む紅茶をひと口啜った。


立ち上る微かな湯気の向こう側で、彼女の双眸は、向かいの席で貴族令嬢の矜持など欠片も見せずに寛ぐ灰髪の少女を捉えていた。


マリーズは銀のフォークに目もくれず、白磁のごとく透き通る小さな手で、直接フランボワーズのマカロンをつまみ上げては無作法に口へと放り込んでいた。


前世の記憶通りに豪快にかぶりつこうとするものの、この身体の紅い唇と顎骨があまりに小さく華奢に作られているため、二口ほど噛んだだけで両頬がぷっくりと膨らみ、食糧を蓄え込む小動物のような愛嬌を晒してしまう。


かつて社畜として世波に揉まれていた三十男の魂とは、あまりに不釣り合いな幼さと愛らしさがそこには滲んでいた。


思えば不可思議な身体であった。マリーズ自身、口腔へマナを濃密に凝縮させたその刹那にしか、生理的な限界を超えて大きく口を開くことはできない。


まるで空間そのものを折り畳む異能のごとく、頬の内側の深奥から長剣などの創造物を引きずり出せるのはその瞬間のみであり、平素の彼女の口許は、正真正銘、か弱き幼女の小さく愛らしい唇に過ぎないのだ。


「……くだらないゴシップでわたしをからかわないで」


マリーズはようやく甘味を嚥下すると、茶杯の紅茶を一気に煽り、眉根をぎゅっと寄せて不満げな溜息を吐き出した。二人きりの場ゆえに、社交界の貼り付けたような慇懃無礼さは脱ぎ捨てられ、前世の素が滲み出たぶっきらぼうな口調が零れ落ちる。


「貴族たちが茶飲み話に撒き散らす雑音なんてどうでもいいの。今のわたしにとって一番切実なのは、一刻も早く安全で確かな庇護先を確保して、この身体を元の持ち主へ無傷で返すことなんだから」


彼女は本心から、この器の中に長居することを望んでいなかった。


それ以上に彼女の背筋をじわじわと凍りつかせていたのは、日を追うごとに自覚させられる、魂と肉体の恐るべき同化現象であった――己の精神と知覚が、肉体が持つ本来の生理機構によって内側から侵食されているのだ。


近頃の彼女は酷く多疑で過敏になり、感情の起伏が抑えきれなくなっていた。朝、鏡の前にぼんやりと立ち尽くす折、ふとした瞬間に、自分がかつて三十歳の現代を生きる成年男性であったことすら、白昼夢のように忘却しかけることすらあった。


この肉体と霊魂の変調を、同じく前世は男でありながら転生を果たしたオーレリアが察知していないはずがなかった。


ただ、オーレリアとマリーズの間には決定的な差異が存在した。オーレリアは赤ん坊の段階から前世の記憶を保ったままこの世界で生を享け、十数年という歳月をかけて女性としての生と貴族の礼法に緩やかに順応してきた。


しかし鈴木八重は違う――突如としてあの臆病な小倉鼠の懇願を受け、理不尽にこの器へとねじ込まれた「憑依者」に過ぎないのだ。


その魂の芯に、大人の男としての冷徹な理性と自尊心が辛うじて踏み止まっていなければ、常人であれば疾うに肉体の本能へ完全に呑み込まれ、自我の境界線を喪失していたはずであった。


認めざるを得ないことだが、この身体の素質は類稀なほどに極上であった。


指先で触れれば弾けそうな無疵の白肌、柳のようにしなやかで華奢な骨格、最上の絹糸のごとく滑らかに流れ落ちる灰白色の長い髪。


そこに潤いを湛えたライラック色の双眸が加わり、八重の成熟した静謐な魂が沈殿したことで、前身の持っていた卑屈さと怯懦はすっかり剥ぎ取られ、純真無垢さと冷艶たる傲岸さが溶け合った、息を呑むほどの魔性の魅力を放っていた。


所詮は人から借り受けた器であるという意識から、八重は偏執的なまでの美意識を抱き、日々の大半の精力をこの身体の維持と手入れに注ぎ込んでいた。


幸いにも、前身の遺した「口腔より創造物を具現化する」異能は格別に便利であった。意識を集中させるだけで、前世の高級スキンケア用品が手元へ容易く引き出せるのだ。


使用者の精神にかかる負荷は尋常ではないものの、前身の遺産が破格の恩恵をもたらしていることだけは疑いようのない事実であった。


「その甘いお考えは、今のうちにお捨てになったほうがよろしくてよ?」


オーレリアは静かに茶杯をソーサーへと戻した。硬質な磁器が触れ合い、小気味よい澄んだ音を鳴らす。彼女はマリーズを見つめ、その瞳の奥深くに意味深な薄笑いを潜ませた。


「もし貴女が今、独断で器を脱ぎ捨てて強引に返還など試みれば、世界の因果律は貴女を不法に滞留する迷い児の魂と判定いたしますわ。生じたパラドックスを修正すべく、世界の法則は無から適当な肉体を組み上げ、そこへ貴女の魂を強引に押し込めるでしょうね――その時、貴女がどのような姿形となり、男になるか女になるかすら、選ぶ余地など微塵もございませんのよ」


オーレリアは、容姿こそ美しく変貌し、中身には親しき友の魂を宿したマリーズを心底気に入っていた。だが、この高嶺の花を手折ることを焦る気は毛頭なかった。


この一月の間、マリーズは幾度となくオーレリアの前世の名を詮索しようとした。


そのたびオーレリアは「胎児の記憶を抱いて育ったから、昔の細かいことなんて忘れちゃいましたわ」と軽くいなしてきたが、マリーズの確信は揺らいでいなかった。


二人が前世で同じ小学校に通っていたことは、もはや明白だったのだ。


眼前におわすこの公爵令嬢は、校舎の棟の配置や近所の古びた商店、通学路の坂道に至るまでを鮮明に把握していただけでなく、かつて男子たちだけで神社の裏山に板切れと廃タイヤを集めて築いた「秘密基地」の合言葉や隠しギミックまで、昨日のことのように諳んじてみせたからだ。


間違いなく、前世のオーレリアは泥にまみれて共に駆け回った悪ガキ仲間の一人であった。


しかし、八重が三十年の記憶をどれほど浚ってみても、目の前に座る気品に満ち、優雅でありながら底知れぬ悪意を覗かせる公爵令嬢の面影を、泥だらけだった往時の誰一人とも結びつけることが叶わなかった。


実のところ、前世におけるオーレリアの名は――桐生蓮、といった。


当時の蓮は、決してその名の響きが示すような優美な気質の持ち主ではなく、陽に焼けた浅黒い肌と大きな体躯を誇る、粗野で威勢のいい「ガキ大将」そのものであった。


その傍らで、鈴木八重は女の子と見紛うほどに華奢で美しく、人形のように精緻な顔立ちをしていた。


身を寄せる血縁の庇護もなく、学校の中ではいつもぽつねんと孤立していた八重を、蓮はいつからか己の縄張りの内側へと囲い込み、理不尽な悪意やからかいから陰で守り続けていたのだ。


少年たちの間にあった他愛のない喧嘩と戯れは、歳月の熱に当てられ、やがて静かに変質していった。


進学によって別の道を歩み、互いの距離を置かざるを得なくなった空白の季節。


幾夜もの眠れぬ夜を重ねるうちに、桐生蓮はようやく己の心の底に巣食っていた、決して抱いてはならぬ情動の輪郭を思い知ることとなった。


蓮は同性愛者などでは断じてなく、他の男に心を動かされたことなど生涯ただの一度もなかった。


ただ、八重という唯一無二の存在を前にした時にのみ、骨の髄を焼き尽くすほどの渇望と衝動が、肉体の性別という枠組みを軽々と飛び越え、世俗が定める道徳の檻をことごとく引き裂いていったのだ。


彼はただ、どうしようもなく「鈴木八重」という魂に囚われ、狂おしいまでに焦がれていたに過ぎなかった。


やがて、八重が本家である鈴木財閥へと引き取られたという報せを耳にした時、蓮は幼い希望を抱いた。あいつはようやく、温かな幸福に包まれるのだ、と。


しかし、密かに探りを入れた先で突きつけられたのは、凍えるような絶望であった。


政財界の巨頭であるあの名門一族は、舞い戻った八重に対して寒々しいまでに冷淡であり、冷遇の極みの中でその存在を家の片隅に放置していた。八重はあの豪邸の中で、一握りの温もりすら与えられず、ただ冷酷に飼い殺されていたのだ。


何よりも掛け替えのない相手が無惨に踏みにじられる姿を目の当たりにし、蓮の胸中で逆巻く怒りと苦悶は限界を超えた。


彼は持てるすべてを投げ打ち、八重をあの冷酷な黄金の檻から力尽くで奪い去り、何処か遠くの地へと二人で逃亡する計画を密かに練り上げた。


だが、幾重にも張り巡らされた巨大な権力の網の前に、一介の青年の稚拙な覚悟など、薄氷のごとく脆いものに過ぎなかった。


蓮の企ては最初から鈴木家に見透かされており、彼を待ち受けていたのは、冷徹な死の罠であった。


冷たく湿り気を帯びた路地の血だまりの中に斃れ、意識の光が薄れゆくその時――靴音と共に蓮の前に現れた真実は、あまりにも残酷で、あまりにも理不尽なものであった。


鈴木家は、八重を疎んでいたのでは断じてなかった。逆なのだ。


政敵と財界の怪物が四方を囲む断崖絶壁において、手元に戻ったこの無防備な我が子を守り抜くため、彼らはもっとも過酷で、かつもっとも確実な欺瞞の策を講じていたのだ。


「この子供には、人質としての価値も利用価値も欠片すらない」とあらゆる敵対者に信じ込ませることこそが、嵐の渦中で八重を無傷で生かす唯一の手段であった。


そして、八重が失われていた歳月を埋めるために引き取られていた養子は、自ら進んでその欺瞞劇の「生贄」となり、八重へ向けられるはずであったあらゆる凶刃と毒針を一身に引き受ける囮を演じ続けていたのだ。


ぽた、ぽた、と。


舗装された地面へ、己の血が蛇のように這い広がっていく。蓮はその瞬間を、永遠に忘れることができなかった――血煙の向こうから現れ、息絶えゆく己の傍らへ静かに膝を突いた、質素な和服を纏う少年の姿を。


霜雪のごとく冷ややかに研ぎ澄まされたその容貌は、八重と八割方酷似しており、ただ目元と鼻梁の境目にのみ、外科の刃を当てた微かな痕跡が残されていた。

鈴木家の養子――鈴木柊羽。


柊羽は瀕死の蓮を見下ろし、その水面のごとく静まり返った瞳の奥底に、底知れぬ狂気を孕んだ執着の影を揺らめかせながら、静かに唇を開いた。


「あなたが八重兄さんを愛していたことは知っています……ですが、他人の人生における唯一の光を奪い去ろうとするなど、決して許されることではありませんよ」


その瞬間、肉体を切り裂く激痛と失血の冷え込みの中で、蓮はすべての構図を悟ってしまった。


八重の顔を己の骨肉へ刻みつけ、八重の身代わりとしてあらゆる苦患を引き受けてきたこの義弟もまた――血の繋がらぬ兄に対して、自分よりも遥かに深く、昏く、常軌を逸した病的な情念を秘めていたのだということを。


取り返しのつかぬ悔恨と遺憾の念に魂を焼かれながら、桐生蓮は息を引き取り、その魂は境界を越えてこの見知らぬ異世界へと転生し、公爵家の令嬢オーレリアとなった。


十余年にわたり、前世の執着など時の彼方へ散り果てたものと諦観していた彼女の前に、かつて命を賭しても触れることの叶わなかったあの魂が、時空の狭間を突き破って現れたのだ。


前世で遺した欠落を、今世においてこそ埋め合わせる機運が巡ってきたのだ。


マカロンを頬張り、無防備に頬を膨らませるマリーズを見つめながら、オーレリアの双眸に宿る苦さは、底知れぬ慈しみと執念の光へと静かに沈んでいった。


焦る必要などどこにもない。ここには血道を上げる冷徹な一族の追手もいなければ、あの八重と同じ顔を貼り付けた偏執狂の義弟も存在しないのだ。


この甘やかな巣を編み上げ、再生した魂をその懐深くに捕らえる時間は、いくらでも残されていた。


だが、この新たな遊戯盤の上において、己に競争者がいないわけではないことを、オーレリアは冷徹に認識していた。


筆頭は、同じく公爵の血を引くイリノー。ホーエンツォレルン家の高慢なる令嬢はすでに違和感を嗅ぎつけ、その権勢を用いて陰から露骨な圧力をかけてきている。その瞳に燃える独占欲の深さは、己と比べても些かの遜色もない。


そしてもう一人、遥かに厄介で、狂気すら孕んでいるのが特待生のフェイであった。


以前、演練場で見せた一幕を反芻するたび、オーレリアの背筋はいまだ微かに粟立つ――普段は世離れした静謐さを装っているあの精霊使の少女は、オーレリアがマリーズへ向ける不穏な気配を察知するや、学院の規律を完全に踏み躙り、次元の彼方より焔を統べる「炎の精霊王」を現世へと降臨させてみせたのだ。


あの天地を灼き尽くさんとする白銀の焦熱は、オーレリアの肉体のみならず、その魂魄ごと世界から消滅せしめんとする確固たる殺意に満ちていた。


学院上層部の防護陣が総動員され、オーレリア自身が秘匿していた手札を総出で切らなければ、あの演練場は跡形もなく灰燼に帰していたはずであった。


オーレリアはドレスの裾に広がるレースを優雅に整え、茶杯の縁で口元を覆い隠しながら、冷酷な薄笑いを漏らした。


前世における生と死の淵を越えた執念。今世において交錯する、権謀術数と劫火の修羅場。


一度死に果ててなお再会を果たした以上……尊大なる皇族の公爵であろうと、魂を焼き尽くす狂乱の精霊であろうと、己の手から八重を掠め取ることなど断じて許しはしない。


(前世であれ今世であれ……八重、貴女の周りには、真に病的な輩ばかりが群がりますのね?)


ふと袖口を引かれ、オーレリアは視線を落とした。


そこには、白く小さな手で己のドレスをくいくいと引っ張り、潤んだ瞳で紅い唇をちまりと尖らせたマリーズの姿があった。


「……ねえ、オーレリア。すき焼き……作ってくれないの?」


舌足らずな甘えた声。


大人の男としての矜持で押し止めようとしているはずなのに、肉体の幼さと生理現象に抗えず、無意識のうちに縋るような上目遣いになってしまっている。


オーレリアの双眸は一段と甘く蕩け、見る者の背筋を凍らせるほどの昏い溺愛の色を濃くしていった。


前世における鈴木八重という男の本質を、彼女は誰よりも知悉していた。


骨格こそ細く、陶器の人形のように美しく儚い風貌をしていながら、その性根は骨の髄まで誇り高く、傲岸なまでに強情な男であった。


他者から弱者と侮られぬよう、奥歯を噛み締めながら古今東西の武術に打ち込み、己を針鼠のように尖らせていたのだ。


だが、今の彼女はどうだ?


この華奢な幼き女の肉体がもたらすホルモンと生理本能の侵食に晒され、かつて桐生蓮が焦がれつつも触れることの叶わなかったあの鋭利な刃は、いまや甘やかな水蜜のように蕩け崩れかけている。


唇を尖らせ、弱音を吐き、縋り付き、まるであどけなく甘やかされた深窓の令嬢のごとく、一片の警戒心もなく己の懐へと擦り寄ってくるのだ。


なんと愛らしく、狂おしい変容であろうか。


そう遠くない未来、日々の同化の果てに、この魂は大人の男としての自覚をすっかり削ぎ落とし、真に彼女の胸中にある、あの柔らかな獲物の姿へと生まれ変わるに違いない。


オーレリアは、この蜜の罠を慌てて引き絞るつもりはなかった。


ただ静寂の中で待てばよいのだ――マリーズがこの肉体との身心同化をさらに深め、己の境界線を見失うその時まで。


機が熟したその日、彼女は「救済者」の相貌を湛え、この器から八重の魂をすくい上げ、ヴァロワ公爵邸の最深部に隠匿された「完全なる肉体」へと移し替えてやればよい。


十余年に及ぶ退屈な日々の間、オーレリアが公爵家の莫大な財力と禁断の人形錬金術を駆使し、血を吐くような偏執をもって彫り上げた至高の傑作。


地下の密室で冷ややかに眠るその器は、前世の鈴木八重の目鼻立ちを寸分違わず再現しながら、その輪郭には造物主の歪んだ私欲が注ぎ込まれていた――それは最早、男の身体ではない。たおやかで、成熟し、見る者の理性を狂わせるほどの妖艶さを湛えた「女の肉体」であった。


あらかじめその肉体を手掛けた際、桐生蓮もまた真夜中の虚無の中で、自嘲じみた妄執に凭れながらその肌を撫でていたに過ぎなかった。


もし前世の八重が普通の女であったなら、白日の下で堂々と抱き合い、夫婦の契りを結ぶ未来があったのではないか、と。


だが今……運命は、八重の魂そのものを己の掌中へと送り届けてきたのだ。


届いた以上、手放す道理などどこにもない。


鈴木八重の中に残された最後の男性としての自認を、優しく、緩やかに削ぎ落としさえすれば、二世にわたる壮大な鳥籠は、ついに最後の一片を嵌め込むこととなる。


「……ふふっ、本当に貴女には敵いませんわね」


オーレリアの双眸に宿った暗がりは一瞬にして霧散し、いつもの高雅で隙のない微笑へと塗り替えられた。彼女はゆっくりと立ち上がり、豪奢なドレスの裾を水波のように揺らめかせた。


視線を僅かに巡らせれば、長椅子の端で、垂れ下がった黒い獣耳をピコピコと揺らしながら一月もの間「地球の物語」を聞き入っていた黒髪の獣人少女の姿があった。


オーレリアは唇の端を吊り上げ、獲物を誘うような甘い声音で、ドウバオが一月もの間待ち焦がれていた果実を差し出した。


「ドウバオ様……貴女もご一緒に、わたくしたちの故郷の美味を味わってみてはいかがかしら?」


「ガルッ?!……ほんとにっ?!」


力なく垂れ下がっていた黒い尻尾がピンと跳ね上がり、ドウバオの黄金がかった褐色の獣瞳が、獲物を狙う肉食獣のごとく爛々と輝きを放った!


ケンペス侯爵家の令嬢でありながら、ドウバオは好戦的で血腥い獣人の部族の中にあって純然たる異端であった。争いと流血を心底から嫌悪し、その生における唯一の執着は――ただ「食」の一点にのみ注がれていた。


至高の味覚を追い求めるあまり、彼女は己の才覚のすべてを香辛料の調合と開発へと注ぎ込み、一介の手腕で以て一族を帝国の経済を揺るがす巨大な香辛料王国へと押し上げ、大陸中の全獣人から崇められる「香辛料の女王」へと上り詰めたのだ。


この一月の間、マリーズは彼女の耳元で、お好み焼き、鮪の鮨、甘辛く煮絡めたすき焼き、粘りつく納豆、さらには生クリームを巻いたクレープに至るまでを熱っぽく語り聞かせていた……稀代の美食家にして香辛料の求道者にとって、それは精神をじわじわとなぶり殺しにされるような酷刑であった。


そして、この世界で十数年を生き抜き、公爵家の権力を握るオーレリアは、とうの昔に醤油、味醂、昆布の代替となり得る植生を密かに買い集め、故郷の味をすでに完璧な領域まで再現せしめていたのだ。


「すき焼き……お肉! すっごく柔らかいお肉がいっぱいなんだよねっ?!」


ドウバオは弾かれたように長椅子から飛び起き、頭上の黒い獣耳をせわしなくパタパタと震わせ、太い尻尾を旋風が起きるほどぶんぶんと振り回した。


「マリーズが言ってたもん! あま〜いタレで一番上等なお肉をさっと煮て、とろっとろの生卵にたっぷり潜らせて食べるんだって! オーレリア、本当に作れるの?! ウソじゃないよねっ?!」


歓喜のあまり鼻息を荒くして身を乗り出す無邪気な獣を見下ろし、そして故郷の味を口にできる喜びにぽうっと頬を染めるマリーズの無垢な表情を眺めやりながら、オーレリアは胸元に優雅に手を添え、網を絞り上げる狩人特有の昏い悦楽を瞳の奥で深めていた。


なんと美しく、完璧な温室であろうか。


甘美なる故郷の料理、警戒心を持たぬ忠実な猟犬、そして……かつて天空を翔けた猛禽の記憶を忘れ去り、自ら一歩ずつ檻の奥へと歩み寄ってくる愛しい籠の鳥。


この温もりと美味に満ちた夕餉こそが、彼女が八重のために編み上げた、もっとも甘やかで抗えぬ猛毒であった。

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