真実の愛を乞う魂――騎士殿も三下じみた真似をするのね?
濃厚な薬草の匂いが、静まり返った医務室を満たしていた。薄霧のような白いレースのカーテンを透かして陽光が差し込み、乱れた病床の端を照らし出している。
寝台の上の女の瞼がかすかに震え、やがて極めて困難そうに、少しずつ、少しずつその両目が開かれた。
それは長い病による昏睡のせいで、焦点の定まらぬ虚ろな瞳だった。
長きにわたる仮死の時間は彼女の脳内を混沌とさせ、思考は錆びついた歯車のようにぎこちなく軋んでいたが、それでもなお、その微弱な視線は最初の瞬間、病床の傍らに寄り添う人影を本能のままに捉えていた。
「フェ……イ……」
かすかな呼び声が、ひび割れた唇の間からこぼれ落ちる。女の顔立ちは激痛に激しく歪んだが、残された記憶が潮の如く脳裏へと押し寄せてきた――思い出したのだ。
迷宮の深淵なる絶望の影の下、自分が躊躇うことなく前へ身を投げ出し、この平凡な肉体をもって、フェイに向けられたあの致命的な切り裂く利刃を受け止めたことを。
その直後、自らの意識は果てのない漆黒の夜へと落ちていった。
「ティナ! 私を覚えているのね……?! 本当に目を覚ましたのね……!」
フェイの涼やかな瞳が一瞬にして赤く潤み、張り詰めていた声が激しい震えとなって零れる。
ティナと呼ばれた女の瞳から混迷が次第に薄れ、意識が清明さを取り戻し始めていた。しかし、九死に一生を得た喜びを噛み締める間もなく、彼女の視線は無造作に枕元の低い木机へと向かった――
そこには、まるで羊脂白玉のように透き通り、潤んだ生気と淡い霜の気配を放つ一握の根が置かれていた。
それは、半分ほどが消費された万年人参の残根であった。
ただの一瞥で、小さなそばかすが散らばるティナのあまりに平凡な顔は、瞬時に紙のように真っ白になり、心臓全体が底なしの谷底へと沈み込んでいった。
万年人参……大貴族ですら家財を傾けてなお一本すら得がたいとされる、伝説の延命の至宝。
ティナは己の身分を誰よりも弁えていた。彼女は家名すら持たず、貧民窟で残飯を拾い、泥水をすすって生き延びてきた孤児にすぎない。
その命は道端の草芥よりも賤しい。だが、フェイは違う。フェイは最上級の精霊親和を持つ天才であり、その容貌は清らかに美しく、その前途は計り知れないほど輝かしいのだ。
この屑のような己の命を救うために、フェイは一体……一体どんなものを差し出し、あの吸血鬼のような貴族たちと、いかなる不潔で絶望的な取引を交わしたというのか?!
「あんた……どうして……」
ティナは胸の奥底から絞り出すように激しく咳き込み、掠れた詰問を喉から絞り出した。その瞳は恐怖と取り乱しに染まっている。
「あんた、一体どこの貴族と取引して手に入れたの……?! 何と引き換えてきたっていうのよ……?!」
「マリーズさんよ。彼女がこの薬草を私に手渡してくれたの」
フェイはそっと手を伸ばし、宥めるように優しく掛け布の端を整え直した。その声音は、どこまでも平穏で、他愛のない日常の出来事を口にしているかのようだった。
「……何と引き換えたのよ……?!」
フェイのその平然とした様子を見て、ティナの神経は完全に張り詰めて弾け飛んだ。
ヴァレンシュタイン家のマリーズ! あの全校に知れ渡る落ちこぼれのハムスター!
ティナが昏睡する前の記憶において、あの小柄な伯爵令嬢は魔力すら覚束ず、一日中尊厳もなく美しく強大な公爵令嬢イリノーの背中を追い回し、果てには性癖の異常な好色者として笑い者にされていた道化のはずだ。
今やイリノーへの執心が行き詰まったからと、矛先を変え、あの下劣で粘つく手を、行き場を失ったフェイへと伸ばしたというのか?!
「彼女、初めは……私に生涯の花嫁になれと仰ったわ。でも先ほど、自らその約束を取り消したみたいなの」
少し前の回廊の曲がり角で、マリーズが無造作に雪参を投げ渡してきた時のあの冷淡で、疎遠で、さらには失望と疲労を滲ませていた瞳を思い出し、フェイの心臓は抑えきれぬちくちくとした痛みを覚えた。
彼女は分かっていた。自分がマリーズをひどく傷つけたのだと。
ティナを目覚めさせ、そして将来二度と親友に自分の身代わりとして血を流させないために、彼女はあの孤独な魂の最も致命的な弱点を浅ましくも利用しようとしたのだから。
けれど、今こうしてティナが再び目を開き、その胸が平穏に上下しているのを目の当たりにして、フェイの胸を締め付けていた重い枷のような結び目は、奇妙なほど完全に解け去っていた。
マリーズは、優しい人だ。
なぜ突然あのように性情を一変させ、冷酷で苛烈、それでいて直情的な振る舞いをするようになったのかは分からない。
しかし、フェイは精霊使いなのだ。彼女は誰よりもはっきりと理解していた――マリーズの体内に宿るあの純粋にして神秘的な未知のエネルギーが、塵埃すら寄せ付けぬほどに清らかであることを。
マリーズの感情が揺らぎ、無意識のうちにあの一握の未知なる力を滲み出させるたび、周囲を彷徨う自然の精霊たちが魅入られたようにこっそりと群がり、その恵みを吸い上げていたほどなのだから。
精霊は嘘をつかない。大自然と純粋な精霊たちにあれほど熱烈に愛される者が、心の底で残忍で邪悪な者であるはずがないではないか。
むしろ、腹に打算を抱え、仮面を貼り付けて奪い取ろうとした己自身こそが、真に醜悪で下劣だったのだ。
「あんた……本当にあんな奴と一生一緒にいるつもりなの……?!」
ティナはシーツをわなわなと掴み、その瞳は信じられないものを見る驚愕と胸の痛みに満ちていた。
彼女の認識では、無垢で純白なフェイをあの無能な好色女の腕の中に突き落とすことなど、火中の栗を拾わせるどころの狂気ではない。
「分からないわ」
フェイは長い睫毛を伏せた。生死を共にしてきたこの無二の親友の前でだけ、彼女は何の防備もなくすべての迷いを露わにすることができた。
「あの方が求めているのは純粋な真心なの。でも私には……そんな保証はできないわ。私が本当に、一人の女の子を愛せるかどうかも分からないのだもの」
彼女は言葉を切り、そして、ふっと口元を微かに持ち上げた。
その微笑みは解き放たれたように坦懐で、未だかつてない優しさと純粋さを帯びていた。まるで初春の氷を融かす陽光のように、薄暗い病室を惜しみなく照らし出していく。
「でも、たとえこの生涯で真実あの方を愛せなかったとしても……あなたの命を救ってくれたこの天にも届く大恩だけは、必ず返さなければならないわ」
フェイはティナの震える手を握りしめ、静かに、だが揺るぎない響きを込めて囁いた。
「あの方は愛に飢え、孤独から抜け出すことを望んでいるの。ならば私は、この生涯を捧げてあの方のその空白を埋めてみせる。たとえ最期まで、あの方のために『深く愛している』という名の芝居を一生演じ続けることになろうとも、私は喜んでそれを受け入れるわ」
少なくとも今度ばかりは、利益のために欺くのではない。己の生涯そのものを贖罪と報恩の供物として捧げる覚悟だった。彼女の心には、もはや一片の遺憾も動揺も残されていなかった。
「あんた、あんな落ちこぼれの脅迫に、あっさり頷いたっていうの……?!」
フェイの殉教者のような告白を聞いて、ティナは全身を激しく震わせ、涙を瞳から溢れさせた。
彼女は、生死の境においてフェイの代わりに内臓を引き裂くほどの致命傷を受け止めた、あの無二の親友なのだ!
彼女が昏睡する前、この学院に満ちていたのはマリーズがいかに下劣に公爵令嬢を弄んでいたかという醜聞ばかりだった。
今目を覚ました途端、己の泥濘のような命のために、命懸けで守り抜いた白鳥が自ら奈落の底へと喜んで飛び込む様を、どうして黙って見ていられようか?!
「絶対に認めないわ! フェイ……私のせいであなたの人生が全部めちゃくちゃになるくらいなら、私が生きていたって何の意味もないじゃないの……っ!」
ティナの掠れて千切れそうな泣き声が、静かな医務室の中で震え続けていた。フェイは赤く染まった目元を潤ませ、怯える雛鳥を宥めるように、取り乱した親友を優しく抱きしめ、囁くようにあやし続けていた。
「……まことに美しく、心揺さぶられるお気持ちですこと。これが、あなたの仰るすべてを賭けたという『決心』ですの?」
氷のように冷たく、何の温度も宿さぬ平坦な声が、九幽の氷海より吹き抜ける微風のように、半ば開かれた医務室の扉口から何の予兆もなく響き渡った。
別の寝台に半ば横たわって養生していたフリードは、悪夢の再来のようなその涼やかな声の響きを不意に耳にし、尻の筋肉が無意識に引き攣って痙攣を起こし、危うくベッドから跳ね起きそうになった。
だが直後、この大柄な護衛騎士は急速に平静を取り戻した――このお嬢様が今や見せつけている規格を考えれば、本気で己に牙を剥いたなら、先ほどの声どころか、部屋の壁ごと粉々に吹き飛ばされていたはずなのだ。
演習場での交鋒を思い返せば、フリードには痛いほど分かっていた。マリーズは初めから終わりまで、己に対しても公爵家に対しても、充分すぎるほどの面目と体面を残してくれたのだ。
自ら傲慢で残虐、好色で下劣な悪名を被ってまで、彼が手も足も出ずに打ちのめされた無様な醜態を公に晒すことを避けてくれた。
だからこそ、先ほどからフェイとティナの会話を耳を澄ませて盗み聞きしていたフリードの脳裏で、目まぐるしい損得の計算が弾けたのだ。
この底知れぬ伯爵令嬢は、間違いなくヴァレンシュタインの軍神の血を完全に覚醒させた恐るべき怪物である。
同世代に並ぶ者のない至高の強者であるならば、我が公爵家の大小姐がこの好色に見える「ちっちゃなハムスター」と結ばれることこそ、両家にとってこれ以上なく揺るぎない連繋となる!
将来的に己が頭を低く下げ、二人の主に同時に仕えることになろうとも、それは望むところだった。
ゆえに――彼は今すぐ、徹底的にフェイとマリーズの関係をぶち壊さねばならなかった!
扉口で、フェイはいつの間にかドアの縁に寄りかかっていた小柄な姿を見つめ、何の波紋も浮かべぬマリーズの紫紺の瞳と視線を合わせた瞬間、全身が氷の穴に突き落とされたように凍りつき、喉がからからに張り詰めた。
「マ、マリーズさん……あなた……いつからそこに……」
「あの方が錯乱し、あなたが一体どこの貴族と不潔な取引をしたのかと問い詰めた、まさにその瞬間から……かしらね」
マリーズの声は極めて平淡だった。しかし、長袖の陰に隠された指先は、誰の目にも触れぬ暗がりの中で掌へと深く食い込んでいた。
心臓を錆びた鈍刀で何度も繰り返し引き裂かれるような、鋭い痛痒が胸を締め上げる。
彼女はあれほど言葉を明確に、決然と告げたはずだった。
演習場でのわだかまりすら寛大に水に流し、何の見返りも求めず限界を打ち砕く万年の至宝を相手の手へと投げ渡してやったというのに……なぜ、自分が背を向けた途端、耳に飛び込んできたのは、親友を抱きしめながら「たとえ一生芝居を演じることになろうとも、喜んで傍らに寄り添う」というフェイの悲痛な誓いだったのか?
芝居? 一生をかけて?
そちらの目には、私がこの万年雪参を施したことなど、仮面を被った薄汚い肉体取引にしか見えていなかったというのか?
あなた方は私のことを、他人の清らかな肉体に目を眩ませ、善良な女を脅迫して侍らせる、それほどまでに下劣な悪党だと思っていたというのか……?!
(……いくらなんでも、私を薄汚く見くびりすぎじゃないかしら)
抑えきれぬ悔しさと鼻を突く酸鼻が鼻腔へと突き上げ、視界の端がじわりと熱を帯びていく。
マリーズには分かっていた。この女性の肉体が持つ過敏で脆い神経が、感情の揺らぎを過剰に増幅しているのだと。
しかし、前世の泥濘の中で必死に三十年間を生き抜き、死に至るまで清廉潔白であり続けた魂として――彼女が生涯で最も嫌悪したのは、他人に強権を振りかざして弱者を貪る卑劣な「加害者」の汚名を着せられることだった!
「あなた、本当に一線を越えてしまいましたわね、フェイ」
マリーズの声は極めて低く、細やかに震えていた。それは真に自尊心を傷つけられ、踏み越えてはならぬ底線を土足で踏みにじられた者だけが漏らす、重々しい悲哀の響きだった。
「ち、違います……! そんなことありません! どうか私の話を聞いてください!」
その端麗で小さな顔に浮かぶ断絶と沈痛を目にして、フェイの瞳から耐えかねた涙がとうとう溢れ出た。彼女は取り乱して前へ歩み寄ろうとした。
彼女は本当に、マリーズに誤解されることを恐れていたのだ!
先ほどティナに告げた一言一句は、すべて彼女の心の底から絞り出された本物の覚悟だったのだから!
彼女の知る倫理において、伴侶への誠意、至高の真情とは、相手に全霊で仕え、己の角を削ぎ落として言われるがままに従う完璧な妻になることではないのか?
フェイは自分なら絶対にそれができると誓えたし、一生を賭けてその約束を全うする覚悟すらあったのだ!
しかし、フェイに理解できるはずがなかった。
それはこの歪で、過酷で、生存と従属を絶対の理とする異世界の価値観にすぎないのだということを。
地球の現代文明からやってきた一個の魂が認める「愛」とは、似ても似つかぬものだということを。
自我を殺して従順に従い、ただ尽くすだけの都合のいい良妻賢母になることが、死に至るまで変わらぬ真実の愛だとでもいうのか?
彼女マリーズ――いや、彼、鈴木八重は、自らの尊厳を足元で踏み砕いて成り立つような従属関係のすべてに、骨の髄から反吐が出るほどの唾棄を覚えていたのだ!
人は生まれながらにして対等であるはずだ。男は女の欲望を満たすだけの道具であってはならず、女もまたいかなる権力者の玩具や付属物であってはならない!
鈴木八重が生涯をかけて飢え求めていたのは、二つの独立した健やかな魂が歳月の奔流の中で互いを理解し、思いやり、対等な立場から注ぎ合う無二の偏愛であり、どちらか一方が魂を去勢し、無理に自分を押し殺して成り立つ、奴隷制度の如き哀れな茶番などでは断じてないのだから!
「マリーズさん、どうか私を信じてください、私は決してそんな――」
取り乱したフェイが言葉を失い、縋るようにマリーズの袖を掴もうとしたその瞬間、病床で極めて不自然な体勢のまま固まっていた負傷兵が、不意にわざとらしく咳払いをした。
「ゴホン……伯爵令嬢様。出過ぎた無礼をお許しください。この不肖フリード、どうしても申し上げねばならぬ肺腑の言がございます」
フリードは痛む身体を無理やり支えて上体を起こし、その剛毅な顔に悲壮感すら漂わせる厳粛な色を作ってみせた。
マリーズの足が止まった。伏し目がちに冷たい眼差しを落とし、顎を微かにしゃくって、言葉を促した。
フリードの胸中で狡猾な笑みが弾けた。彼は先ほどマリーズが口にした「ティナが取引を問い詰めた時から聞いていた」という言葉を敏感に捉えていた。
それはすなわち、ティナが目を覚ました直後の詳細な様子や、いつ意識を取り戻したのかを、この令嬢が何も知らぬという決定的な証拠だった!
「あなたがこの医務室に足を踏み入れられる前から、不肖このフリード、ずっと意識を保っておりました」
フリードは深く息を吸い込み、いかにも胸を痛めているかのような情感を込めて、周到に紡ぎ上げた嘘を吐き出し始めた。
「率直に申し上げましょう。先ほどこの二人が病床の前で抱き合い、涙を流して語り合っていた姿……しかと見届けさせていただきました。表向きは平民同士の無二の友と名乗ってはおりますが、その言葉の端々に滲む、死なば諸共、互いをおいて他になしという綿々たる情愛は……明らかなる者の目には一目瞭然。それはすでに生死を越えた深愛に他なりませぬ。伯爵令嬢様におかれましては、まことに気高く清廉潔白なお方。恐れながらこのフリード、衷心より懇願申し上げます……どうか、哀れな比翼の鳥を無慈悲に引き裂く悪人になど、成り下がられますな」
その出任せの毒言は、重い鉄槌となって空虚な病室に叩き落とされた。
もともと血の気を失っていたマリーズの、陶器のように精巧で小さな顔から、今この瞬間、最後の一滴の温もりすらもが完全に掻き消え、幽霊のように蒼ざめて透き通っていった。
引き裂く……比翼の鳥を?
生死を越えた……深愛……?
マリーズの華奢な身体が激しく揺らぎ、胸の真ん中を生きたまま抉り取られたかのような錯覚に襲われた。
そうだったのか……。
フェイがすべてを賭け、己の誇りも矜持もかなぐり捨ててまで救おうとしたその人は、彼女の魂の最も深い場所に刻まれた最愛だったのだ。
それならば、これまでの間、己の前で屈辱を耐え忍び、作り笑いを浮かべて「奥様」と呼び、あまつさえ一生をかけて芝居を演じ切るとまで誓ってみせたあの白髪の少女は……一体どれほどの生き地獄を味わいながら、己の足元で屈従していたというのか?
そして自分は、自らの道徳的な高潔さに酔い痴れ、醜悪な暴君のように、追いつめられた彼女の無様な足掻きを冷笑混じりに見下ろしていたとでもいうのか……?!
突如として、胃の底から煮えくり返るような凄まじい悪心が込み上げ、喉元へと一気に逆流した。
マリーズは咄嗟に口元を手で覆い、喉の奥から苦悶に満ちた空嘔吐の音を漏らした。
その生理的な嫌悪感。自らの置かれたグロテスクな立場への激しい自己嫌悪と自嘲。全身の毛細血管に至るまでが、羞恥と罪悪感のあまり激しく震え上がっていた。
他人の愛を奪い取り、窮地に付け込み、心から愛する人がいる女を脅迫して己の膝元に侍らせる――。
その言葉の数々が脳裏をかすめただけで、三十年間にわたり良心と一線を頑なに守り続けてきた孤独な男の魂は、呼吸すら許されぬほどの泥濘と屈辱に叩き落とされていた。
誰かの愛を奪い取るような、下劣極まりない外道にだけは、死んでも成り下がりたくなどない。
滅亡にも似た激しい恐慌と罪悪感がマリーズの全神経を灼き尽くし、まるで万死に値する大罪を犯した逃亡者のように、彼女は勢いよく身を翻した。
一秒たりともその場に留まることすら耐えられず、扉を蹴破らんばかりの勢いで駆け出していったのだ!
いらない……こんな愛など、死んでも欲しくなどない!
前世の取るに足らぬ男であった頃も、彼女は薄暗い片隅に縮こまり、心から愛した女が別の男の腕の中へと微笑みながら身を寄せる姿を、幾度となく見送ってきたのだ。
心臓を引き裂かれ、奥歯を血が滲むほど噛み締めながら呑み下したあの酸鼻と絶望の味は、輪廻を越え、肉体を変えてなお、魂の奥底で鈍い痛みを放ち続けている。
あの時の自分は、ただの一方的な片思いに過ぎなかった。
それなのに……もしも生死の境を共に支え合い、真実魂を通わせ合う二人の人間が、己の浅ましい威圧によって、あの一枚の不条理な戯言によって無残に引き裂かれ、引き離されることになったとしたら?
その地獄の苦しみを、誰よりも痛感しているのは他ならぬ八重自身なのだ。
今のマリーズを支配していたのは、底なしの恐怖だった。
彼女は狂ったように回廊を疾走し、その華奢な肢体を激しく震わせていた。初めから終わりまで、彼女が欲していたのはただ一つ――この傷だらけの肉体のために、あの臆病な少女を無条件で包み込み、ただ一途に愛してくれる伴侶を見つけ出してやること。
そうしていつの日か、世界のどこかを彷徨い旅しているあのちっちゃなハムスターがこの身体へと還ってきた時、優しく迎え入れられ、二度と冷たい涙を流さずに済むようにと。
しかし、他人の真実の因果を土足で引き裂く大罪など、あまりに薄汚く、あまりに重すぎる。
背負えるはずもない。背負うことなど、魂が断じて許しはしない。
……
それと同時に、薬草の匂いが漂う医務室の内にあって。
フェイは、扉の彼方へと無我夢中で逃げ去っていったあの儚く痛々しい灰白の背中を、魂を抜かれたように立ち尽くして見つめていた。
やがて、その呆然とした空白がひび割れ、内側から骨を凍てつかせるほどの絶対零度の冷気が這い出してきた。
白髪の少女の瞳から温もりは完全に消え去り、その精緻な美貌は、万年雪を戴く氷嶺の切っ先のように冷たく凍りついた。
荒れ狂う激情に呼応するかのように、室内の温度は目に見える速さで急降下を始め、無数に現界した氷の上位精靈たちが耳をつんざく金切り声を上げながら、病室の四壁に禍々しい白霜の結晶をびっしりと刻みつけていく。
彼女の視線は、ベッドの上に這いつくばるあの男へと、緩慢に、そして隠しようのない冷酷な殺意を込めて落とされた。
「……わざと、やったのね?」
「兵は詭道なり、ですよ。特待生席の精霊使のお嬢さん」
その身を即座に氷像へと変えかねない身の毛もよだつ殺意を正面から浴びながら、フリードは微塵の動揺も見せず、乱れた襟元を気取るように整えると、狂気じみた愉悦の笑みを浮かべてみせた。
「それにねえ、門閥、血統、将来的な利益……そのいずれを鑑みても、我が至高のイリノーお嬢様こそが、あのマリーズ様に相応しき真の良配。その傷だらけの五体で高枝に攀じ登ろうなどと目論む底辺の平民風情は、身の程を弁えて冷や飯でも食っていなさい」
マリーズが耐えかねて逃走し、フェイとあの孤児が徹底的な混乱の泥濘へと突き落とされた様を見届け、フリードの胸中は暗い快感で満たされていた。
公爵家のためにこの茶番を叩き潰し、マリーズの視線を再びイリノーへと引き戻すことができるのであれば――この程度の薄汚い離間の策など、何の痛痒も覚えぬ一手だったのだから。




