第五話 王子と小テスト 上
レオンハルト・アルヴァレインは数学小テストという名の戦場から帰還した。
テストの結果は、まだ返ってきていない。
だが、レオンには分かっていた。
芳しくない。
問一の因数分解は、かろうじて形を理解した。
問二の二次関数は、途中から数字がこちらを嘲笑っているように見えた。
問三の文章題に至っては、登場人物がなぜそんな速度で歩いたり追いかけたりするのか、その動機が不明だった。
問題文には、こうあった。
A君が家を出てから十分後にB君が同じ道を追いかけた。
A君の速さは毎分八十メートル、B君の速さは毎分百二十メートル。
なぜ追いかける。
話し合え。
レオンはそう思った。
王宮であれば、まず使者を出し緊急性があるなら馬を使う。
相手が逃亡しているなら、理由を確認する。
毎分百二十メートルで追いかける前に、やるべきことがある。
だが、試験用紙に「話し合いによる解決を推奨」と書くわけにはいかなかったので、適当に式を組んだ。
結果は知らない。
知りたくもない。
昼休み。
教室には、朝とは違うざわめきが満ちていた。
弁当箱を広げる音。
購買のパンを袋から出す音。
机を寄せる音。
スマホを覗き込んで笑う声。
誰かが椅子を引きずり、誰かが「それ一口ちょうだい」と言っている。
窓から入る風がカーテンを揺らし、黒板の端に残ったチョークの粉を淡く光らせている。
王宮の昼食とは、まるで違う。
王宮では席順が決められ、給仕が料理を運び、誰が誰の隣に座るかにも意味がある。
食事とは、栄養補給であり、同時に政治でもあった。
だが、この教室では違う。
誰もが好きな場所で食べ、好きな相手と話し、笑い、騒ぎ、時に一人でスマホを見ながら黙々と食べている。
しかし、その自由の中にも目に見えない規則がある。
どこに座るか。
誰と食べるか。
何を話すか。
どの程度笑うか。
一人でいても不自然ではないか。
すべてが、神代悠真という人物像に関わってくる。
レオンは自分の席に座り、神代悠真の弁当箱を見つめていた。
沙織が朝、持たせてくれたものだ。
白い布に包まれている。
それをほどくと、四角い弁当箱が出てきた。
中には、白米、卵焼き、唐揚げ、ブロッコリー、きんぴららしきものが整然と詰められている。
王宮の昼食と比べれば、質素だ。
だが、隙間なく詰められた料理には、作った者の手間が見える。
朝の短い時間に、沙織は仕事の準備をしながらこれを用意していた。
レオンは箸を取った。
そして、視界の端に浮かぶ《バイブル》を見た。
昼休み:
学生が昼食を取り、交友関係を維持・強化する時間。
一人で食事を取る者は「ぼっち」と分類される場合があります。
陰キャの過度な社交は不審を招く可能性があります。
「……難しいな」
小さく呟く。
誰かと食べれば目立つ。
一人で食べれば、ぼっち。
しかも、神代悠真は一人で食べることが多いらしい。
ならば、一人で食べるべきだ。
そう判断し、レオンは弁当を食べ始めた。
レオンは、沙織の「行ってらっしゃい」を思い出した。
神代悠真は、これを日常として受け取っていたのだろう。
少なくとも、昨日までの彼は。
それがどれほど大切なものか、本人はどれほど自覚していたのか。
考えていると、前の席の男子が振り返った。
「神代、今日弁当なんだ」
朝、レオンに「シャキッとしてる」と声をかけた男子だ。
まだ名前は分からない。
レオンは箸を止めた。
「ああ」
「いつもパンじゃね? 珍し」
また新情報。
神代悠真は昼食にパンを選ぶことが多い。
沙織の弁当を持ってきたのは今日だけなのか。
それとも、いつも作ってくれているのに神代が断っていたのか。
「今日は、弁当の気分だった」
「神代が弁当の気分とか言うの、何かウケるな」
「そうか」
「しかも食べ方きれい」
男子は唐揚げを見ながら笑った。
「お前、そんな箸ちゃんと持ってたっけ?」
レオンは箸を見た。
食事作法が出ている。
慌てて持ち方を崩すべきか。
だが、わざと不作法にすれば、それはそれで不自然だ。
レオンは短く答えた。
「最近、矯正した」
「何を急に」
「人生を」
「重っ」
男子は笑いながら前を向いた。
会話は終わった。
被害は軽微。
そう判断しかけた時、横から声が飛んできた。
「悠真」
舞だった。
弁当箱を片手に、少し呆れた顔で立っている。
「ちょっといい?」
拒否する理由もない。
レオンは箸を置いた。
「何だ」
「その言い方」
「……何?」
対しては近くの空いている席を引いて座った。
周囲のクラスメイトが、少しだけこちらを見る。
神代悠真と一ノ瀬舞が昼休みに話すこと自体は珍しくないのかもしれない。
だが、舞がわざわざ席を持ってくるのは、何か意味があるのかもしれない。
レオンは内心で警戒を強めた。
この少女の視線は、数学より厄介だ。
続く




