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第四話 勇者 妄想を形に 上

 悠真は、異世界に来た。


 その事実を、もう何度頭の中で繰り返したか分からない。


 石造りの神殿。

 見上げるほど高い天井。

 壁に刻まれた、見慣れない紋章。

 青白く淡い光を放つ魔石灯。

 甲冑をまとい、無言で整列する騎士たち。

 白い法衣を着た神官たち。


 そして、奥の玉座に座っていた王。


 どこをどう見ても、現代日本ではなかった。


 石でできている床は、踏みしめる度、足裏に硬く冷たい感触が返ってくる。


 見上げれば、天井近くの丸窓から差し込む光は、埃の粒を銀色に浮かび上がらせていた。


 目を閉じても、目を開けても、現実は変わらない。

 夢なら、そろそろ目覚ましが鳴るはずだった。


 母さんが階下から「悠真、起きなさい」と呼ぶ。


 美琴がドアの向こうで「お兄、また変な夢見たの?」と呆れた声を出す。


 学校へ行けば、いつもの教室、いつもの席、いつものように舞が「また寝癖ついてる」と言ってくる。


 けれど、目覚ましは鳴らないし母の声も聞こえない。美琴の小言もない。


 舞の呆れ顔も、今ここにはない。


 代わりにあるのは、神殿を満たす感じた事の無い気配だった。


 肌の上を、細い針で撫でられているようなピリつく感覚と空気そのものに、微細な粒子が混ざっているような圧。


 息を吸うたび、肺の奥に冷たい光が入ってくるような錯覚。


 魔力。


 その言葉が、自然と頭に浮かんだ。


 悠真は、自分の内側で何かが震えるのを感じた。

 魔力。

 魔素。

 霊子。

 エーテル。

 世界干渉率。

 術式構成。

 魔法陣。

 属性変換。

 魂紋同調。

 召喚式。

 魔力循環。


 どれも、これまでの人生で何度もノートに書いてきた言葉だった。


 授業中、教科書の端に。

 家の机で、黒いノートに。


 深夜、誰にも見られないようにしながら時には、あまりに気分が乗ってしまい、翌日読み返して枕に顔を押しつけたくなるほど詳細に。


 全部、現代日本では黒歴史と思われる。


 舞に見られた時には、数日間まともに目を合わせられなかった。それがきっかけで吹っ切れたのか、脳内で浮かんだセリフも言ってしまうようになってしまった。


 そんな、自分の中だけで完結するはずだった言葉たち。


 それが今、この世界では現実の手触りを持っていた。


 胸の奥が熱くなる。


 声を大にして叫びたかった。


 ついに来た。


 俺の時代が来た。


 この世界は、俺を待っていたのかもしれない。そう思いかけて、悠真は奥歯を噛んだ。


 浮かれるな。


 ここで浮かれたら駄目だ。自分は、好きで異世界旅行に来たわけではない。


 召喚されたのだ。

 あの巨大な魔法陣。

 神殿を揺らした光。

 見知らぬ人々の視線。


 王の声。


 そして、自分の前に提示された「勇者」という役割。


 向こうの世界では、本来なら自分は行方不明になっていた。


 母さんが心配する。


 美琴が不安になって、でも素直に泣けずに怒る。

 舞も、なんだかんだ心配するかもしれない。


 学校も騒ぎになるだろう。

 

 そういう未来が、簡単に想像できた。


 だから悠真は、召喚を受け入れる条件として、自分の代役を現代へ送るよう求めた。


 そして、自分の代わりに現代日本へ送られているのが、レオンハルト・アルヴァレイン。


 アルヴァレイン王国第三王子。


 気だるげな目をした、けれど妙に隙のない少年。


 王命に文句を言いながらも、最後にはきちんと受け入れた。


 自分とは違う世界で育った、自分とは全然違う立ち方をする人間。


 大丈夫だろうか。


 ちゃんと家に着いただろうか。


 母さんに変な敬語を使っていないだろうか。


 美琴に三秒で怪しまれていないだろうか。


 舞には、できれば会わずに済んでいてほしい。

 ……無理だな。


 悠真は、早々に諦めた。


 舞は鋭い。


 幼なじみというだけではない。あいつは、悠真が少し声の調子を変えただけでも気づく。


 機嫌が悪い時、嘘をついた時、何か隠している時も本人より先に気づくことすらある。


 レオンは有能そうだった。


 あの場で状況を理解し、王命に反発しながらも自分の役割を把握していた。姿勢、目線、声の出し方それらのどれを取っても、ただの高校生とは違う。


 違いすぎる。


 だからこそ不安だった。


 姿を変えただけでは、神代悠真には見えないだろう。


 せめて黒いノートだけは見ないでいてくれと悠真は、心の底からそう願った。


「勇者様」


 澄んだ声が聞こえた。


 悠真は顔を上げる。


 神殿の奥へ続く廊下に、一人の少女が立っている。

 白を基調とした法衣を纏い、胸元に輝く銀色の聖印が眩しい。

 腰まで届く淡い金色の髪をなびかせ透き通った青い瞳が悠真を捉えていた。


 年齢は、悠真と同じくらいか、少し上だろうか。

 立ち姿は凛としているが、その表情には緊張と戸惑いが混じっていた。


 綺麗な人だ。


 そんな感想の後に、悠真の頭の中には別の単語が浮かんだ。


 聖女。


 いや、待て。


 異世界だからといって、白い法衣を着た美少女が全員聖女とは限らない。


 神官かもしれないし、王国付きの術者の可能性もある。はたまた召喚儀式を補助したエリート見習いかもしれない。


 だが、雰囲気はどう見ても聖女系だった。


 少女は悠真の前まで歩み寄り、静かに頭を下げた。


「私はセレスティア・ルミナリアと申します。王国神殿に仕える神官であり、勇者様の案内役を務めるよう命じられました」


 悠真は、慌てて表情を引き締める。


「神代悠真です。あの、勇者様はやめてください。まだ何もしてないので」


 セレスティアは少し驚いた顔をした。


「ですが、あなたは異界より召喚された勇者様です」


「召喚されたことと、勇者であることは別です。少なくとも、俺はまだこの世界で何も成し遂げてません」


 言ってから、悠真は少し気恥ずかしくなった。

 何だ、この真面目な返しは。


 普段の自分なら、「戦場は、どこだ? この手が疼いて仕方ない」とか言って間違いなく舞に「はいはい」と流される。


 田崎あたりには「神代、また始まった」と笑われるかもしれない。


 だが、実際異世界に来てみたらそんな言葉は、出てこなかった。


 彼女は悠真の言葉を、受け止めていた。


「……あなたは、不思議な方ですね」


「よく言われます」


「現代日本でも?」


「主に悪い意味で」


 セレスティアは一瞬、返答に困ったように瞬きをした。


 どうやら、異世界人に自虐は通じにくい。


 悠真は咳払いをした。


「それで、これから何を?」


「まずは王国の現状と、勇者様に求められる役割についてご説明します。その後、魔力適性の測定を行います」


「魔力適性」


 悠真は、自分でも分かるくらい声が上ずる。それを見たセレスティアが小さく首を傾げる。


「ご興味がおありですか?」


「いや、まあ……知識としては」


 知識としては。


 便利な言い訳だ。


 昨日から何度も使っている気がする。


 セレスティアは不思議そうにしながらも、それ以上は聞かなかった。


 彼女に案内され、悠真は神殿に隣接する別棟へ向かった。


 廊下は長く、天井は高い。


 壁にはステンドグラスのような窓が並び、そこから差し込む光が床に赤や青、金色の模様を落としていた。


 石壁には古い戦いを描いたレリーフがある。

剣を掲げる王、祈る神官、巨大な黒い影に立ち向かう兵士たち。


 その彫刻の表情は、どれも妙に生々しかった。


 悠真は歩きながら、それらを目で追った。


 これは、作り物ではない。ゲームやアニメの背景でもない。誰かがこの世界で生き、戦い、祈り、死に、その記憶を石に刻んだのだ。


 異世界。


 その言葉の軽さに比べて、目の前の世界は重かった。


「現在、アルヴァレイン王国は北方の魔王軍と長く交戦状態にあります」


 セレスティアが説明を始めた。


「魔王軍……」


 悠真は声に出してから、少し頬が熱くなるのを感じた。現実に魔王軍という単語を口にしてしまった。


 現代日本の教室で言えば、完全にネタにされるだろう。


 だが、ここでは誰も笑わない。


 セレスティアは真剣な表情で頷いた。


「はい。魔王軍は魔族と魔物を率い、王国北部の砦を幾度も攻撃しています。近年は魔物の発生数も増え、辺境の村々では被害が拡大しています」


 セレスティアの声に混じる恐れは本物だった。

 この世界では、魔物に襲われれば人が死ぬ。魔王軍が砦を攻めれば、兵士が命がけの戦いに身を投じる。辺境の村が襲われれば、家が焼け、家族を失う者がいる。


 それは、悠真がノートに書いてきた「設定」ではない。


「勇者様には、王国軍と協力し、魔王軍に対抗する力となっていただきたいのです」


「……俺は、戦ったことなんてありません」


 思わず本音が出た。


 セレスティアは足を止め、悠真を見た。


「分かっています」


「いや、たぶん分かってないです。俺は普通の高校生です。剣も持ったことないし、魔物も見たことない。喧嘩だって、まともにしたことはない」


 勇者に憧れたことはある。


 もし自分が異世界に召喚されたら。

 もし隠された力に目覚めたら。

 もし世界を救う役割を与えられたら。


 そんな妄想を何度もした。


 だが、妄想の中で人は死なない。


 設定を変えれば取り返せるが現実は違う。


 ここで自分が失敗すれば、誰かが傷つくのかもしれない。


 自分が逃げれば、誰かが死ぬのかもしれない。


 自分が力を使えば、誰かを殺すのかもしれない。


「それでも、俺を勇者として使うんですか」


 セレスティアは静かに答えた。


「使う、という言葉は適切ではありません。ですが、王国にはもう、異界より力を借りるしかないほど余裕がありません」


 その声は、綺麗事ではなかった。


 セレスティアは続ける。


「あなたが不安に思うのは当然です。ですが、今日すぐに戦場へ出るわけではありません。まずは適性を測り、訓練を行います。あなたに何ができるのか、私たちも知る必要があります」


「適性……」


「はい。勇者召喚に応じた者は、多くの場合、この世界の人間とは異なる魔力特性を示します」


 悠真の胸が、また少しだけ熱くなった。

 怖い。

 不安だ。

 帰りたい気持ちもある。

 それでも、魔法という言葉に反応する自分がいる。


 どうしようもない。


 ずっと、こういうものに憧れていたのだ。


 訓練場は、神殿の裏手にあった。

 高い壁に囲まれた石畳の広場。

 端には木製の人形や的が並び、別の場所には剣や槍が整然と置かれている。

 壁際には、魔法の実験に使うのだろうか、焦げ跡のついた石柱もあった。


 空は青い。


 遠くには、王都の尖塔が見えた。白い石造りの建物が連なり、その向こうに城の屋根が光っている。


 風が吹く。


 緑と土と石の匂いを含んだ、少し乾いた風だった。


 本当に来たんだな。


 改めてそう思うと、膝がわずかに震えた。


 訓練場には、数人の魔導士と騎士が待っていた。

 彼らの視線は、明らかに悠真へ向けられている。

 期待。

 不安。

 値踏み。

 疑念。


 その全部が混じっていた。


 現代の教室で受ける、遠巻きな視線とは違う。

 ここでは自分は、ただの目立たない陰キャではない。


 勇者として見られている。


 その肩書きが、じわじわと背中に重さを加えてくる。


「まずは魔力測定を行います」


 セレスティアが、水晶のような球体を台の上に置いた。


 透明な球の内部には、薄い霧のようなものが揺れている。


 触れる前から、そこに何かがあるのが分かった。

「手を置いてください。力を入れる必要はありません。ただ、呼吸を整えてください」


 悠真は水晶に手を置いた。


 冷たい。


 その瞬間、手のひらから何かが吸い上げられるような感覚があった。


 いや、吸われているのではない。


 流れている。


 体の奥にあった何かが、細い管を通って水晶へ伝わっていく。


 胸の中心から肩へ、腕へ、手首へ、指先へ、そして水晶へ。


 水晶の中の霧が動いた。


 最初は淡く。


 次に、ゆっくりと渦を巻くように。


 やがて、青白い光が水晶の内側から広がった。

 周囲の魔導士たちがざわついた。


「反応が早い」


「魔力量は……そこまで大きくはない?」


「だが、波形が安定している」


「初回測定でこれは……」


 魔力量は大きくない。


 悠真は、少しだけ肩を落としかけた。


 異世界召喚でのお決まりで勇者の魔力測定とくれば、規格外の魔力量で水晶が割れるとか、神殿全体が震えるとか、周囲が「あり得ない」と驚愕するとか、そういう展開を正直少し期待していた。


 いや、少しではない。


 かなり期待していた。


 だが、現実は違ったらしい。


 セレスティアは水晶を見つめ、目を細めていた。


「不思議ですね」


「不思議?」


「魔力量そのものは、王国の宮廷魔導士ほどではありません。ですが、魔力の乱れが非常に少ない。初めて魔力に触れる方とは思えないほど、流れが整っています」


「整ってる……」


 悠真は自分の手を見た。


 魔力の流れは、なぜか何となく感じる。


 体の中心から腕へ。


 腕から指先へ。


 そして水晶へ。


 まるで、頭の中で何度も想像した魔力回路の図に近い。


 黒いノートに書いた。


 何度も書いた。


 魔力は体内を循環し、意識によって流路を形成し、術式へ供給される。


 心臓を炉に、血管を回路に、呼吸を調律に見立てる。


 魔力の乱れは精神の揺らぎに比例し、術式の安定は想像力の解像度に依存する。


 もちろん、全部妄想だった。


 そのはずだった。


「……まさか」


 悠真は小さく呟く。


 俺の妄想、ちょっと合ってる?


「どうかされましたか?」


「いや、何でもないです」


 言えるはずがない。


 中学二年の頃に書いた魔力循環設定が、現実の魔法訓練で役に立ちそうです、などと。


 セレスティアは続けた。


「次に、簡単な発火術式を試しましょう」


「発火」


 悠真の声が、また少し上がった。


 セレスティアは手のひらを上に向ける。


「火を生む魔法は、初歩の一つです。ただし、制御を誤れば危険ですので、まずは小さな灯火を作る程度で構いません」


 彼女が短い詠唱を口にした。


 柔らかな声。


 澄んだ発音。


 言葉が空気に溶け、手のひらに魔力が集まっていくのが分かった。


 次の瞬間、彼女の手のひらの上に、小さな火が灯った。


 赤く、揺らめく火。


 悠真は息を呑んだ。


 これは、本物だ。トリックではないし映像でもない。

 

 魔法で火が生まれた。


 胸が高鳴る。


 怖さも、不安も、その一瞬だけ吹き飛んだ。


「同じように、手のひらに魔力を集めてください。火の形を想像し、熱を一点に集める感覚です」


 セレスティアの説明は感覚的だった。


 魔力を集める。

 火を想像する。

 熱を一点に。

 悠真は目を閉じた。

 火。

 ただの炎ではない。

 燃焼とは何か。

 熱とは何か。

 酸素、可燃物、発火点、エネルギー。

 現代知識が頭をよぎる。

 だが、化学だけでは足りない。

 ここは異世界。


 魔法は現象を直接引き起こす力だ。


 なら、必要なのは現象の構造を想像すること。


 中心に熱源。

 外周に魔力の膜。

 燃焼を維持するための供給。

 暴発を防ぐための境界。

 出力は最小。

 球状に固定。


 悠真の頭の中に、かつて黒いノートに描いた術式図が浮かぶ。


 制御線。

 供給路。

 発火点。

 境界膜。


 恥ずかしくなるほど丁寧に描いた、妄想の産物。

 それが今、手のひらの上で形を持とうとしている。


「……灯れ」


 悠真が呟いた瞬間、手のひらに小さな火が生まれた。


 それは、セレスティアの火よりずっと小さかった。


 豆粒のような火は、頼りなく今にも消えそうだ。だが、形が崩れない。


そして、揺れない。


 球形に近い形を保ったまま、手のひらの上に静かに浮かんでいる。


 魔導士たちが息を呑んだ。


「小さいが……」


「形が安定している」


「詠唱なしで?」


「いや、今のは……術式構成か?」


 セレスティアの目が大きく開かれた。


「勇者様、今、どのように?」


「えっと……熱源を中心に置いて、魔力の膜で外周を固定して、燃焼を維持する供給路を細くして、出力を落としました」


 セレスティアは驚いた顔をしている。


「……熱源、外周固定、供給路」


 彼女は真剣に繰り返した。


「それを、初めての発火術式で?」


「いや、まあ、想像としては」


「普通、初学者は火を大きくしようとします。あなたは最初から制御を優先した」


 セレスティアは、悠真の手のひらの火を見つめる。


「魔力量は大きくない。けれど、魔力の形を整える力が高いのかもしれません」


 悠真の胸が熱くなった。


 現代では、何の役にも立たなかった。


 授業中にノートの端へ魔法陣を書いても、何にもならなかった。


 舞には呆れられ、美琴には冷ややかな目で見られ、クラスでは少し話しかけづらい奴として扱われた。


 でも、この世界では。


「……俺の妄想、精度だけは高かったのか」


「今、何と?」


「忘れてください」


 悠真は慌てて火を消した。


 手のひらから熱が消える。


 だが、胸の奥には別の熱が残った。


 妄想が、初めて現実に触れた。


 それは、怖いくらい甘い感覚だった。

                

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