第三話 王子の初陣 上
翌朝。
レオンハルト・アルヴァレインは、見知らぬ天井を見上げていた。
いや、正確には見知らぬ天井ではない。昨夜も見た。神代悠真の部屋の天井だ。
だが、王宮の私室に比べればあまりに低く、あまりに近い。
アルヴァレイン王国の王宮で目覚める朝は、もっと静かで整っていた。
高い天井には、装飾が施され光を遮る厚いカーテンを開けると白を基調とした空間が現れる。気品に満ちた家具、光が反射する程磨かれた床。
控えの間に侍従が立ち、決まった時刻に鐘が鳴る。
そして、朝の支度を告げる柔らかな声。
それに対して、現代日本の朝は容赦がなかった。
枕元で黒い板が震え、甲高い音を鳴らしている。
「っ……!」
レオンは反射的に上体を起こした。
敵襲か。
警報か。
魔獣か。
寝起きの頭が、王宮で培った危機対応を一瞬で並べる。
だが、違った。
スマホだった。
画面には、淡々とした文字が浮かんでいる。
7:00 起床
レオンはしばらくそれを見つめた。
昨夜、バイブルを使い最低限の使い方は、覚えた。
この小型魔導端末は、通信、記録、検索、娯楽、時間管理、地図、決済、その他よく分からない機能を兼ね備えているらしい。
王国であれば、国家機密級の魔道具である。いや、機能的に見るとアーティファクトの領域だ。どういう原理か解らないが他国の路地まで実際に歩いている様に画面に写し出される。
それを、この世界の住民はほぼ一人一台持っている。
軍事力の評価を根本から見直す必要がある。
もっとも今の問題は、国家戦略ではない。
この耳障りな音を止めることだ。
レオンは昨夜の記憶を頼りに、画面を指でなぞった。
音が止まり、部屋に静寂が戻った。
「……勝ったな」
レオンは小さく呟いた。
その瞬間、視界の端に淡く青白い表示が浮かんだ。
注意:二度寝の誘惑
起床後、再び睡眠状態へ移行する状態異常現象。
学生における遅刻の主要原因の一つ。
次に起きると大体昼頃になっている。
幼馴染みが、起こしに来てくれる場合もあるが、親密な関係の場合二人して遅刻する。
妹パターンもある。
推奨:速やかに寝具から離脱してください。
「なんだこの説明は」
レオンは、バイブルの評価をまた一段下げつつベッドから降りた。
足の裏に、ひんやりと床の感触が伝わる。部屋はまだ薄暗くカーテンの隙間から朝の光が細く差し込み、机の上の教科書やノート、積み重なった本の背を淡く照らしていた。
神代悠真の部屋。
昨夜、この部屋を見た時も思ったが、ここには神代悠真という少年の内側が詰まっている。
本棚には、ライトノベル、漫画、神話辞典、軍事雑学、魔術に関する怪しげな本。
机の上には、教科書と筆記具、そして幾何学模様が描かれた紙。そして謎の指ぬきグローブ。
ベッドの下には、隠しきれていない何かの気配。
そのすべてが、王宮の整いすぎた私室とは違っていた。
雑然としている。
だが、無秩序ではない。
本人なりのこだわりと、本人なりの世界がある。
レオンの視線は、机の上に置かれた黒いノートで止まった。
神代悠真は言った。
――黒いノートは見ないでください。
レオンはまだ、それを開いていない。見れば役に立つだろう。神代悠真の趣味、思考、言葉遣い、場合によっては学校での振る舞いまで分かるかもしれない。
だが、約束した。
王族として約束したのは、神代の帰る場所を守ることだけではない。彼の生活を、彼自身を、雑に扱わないことも含まれている。
レオンはノートから目を離した。
「まずは学校か」
今日の任務を確認する。
神代悠真として登校する。
美琴と沙織に不審がられすぎない。
幼なじみの一ノ瀬舞に注意する。
クラスメイトの前で目立ちすぎない。
教師に怪しまれない。
提出物を確認する。
数学小テストを乗り切る。
並べるほどに、気が重くなった。
王宮の外交任務の方が、まだ情報がある分だけ楽かもしれない。
レオンは制服に袖を通した。
シャツにネクタイを合わせブレザーと言われるスタイルのようだ。これが学校指定の制服というものらしい。王国の礼装に比べれば簡素だ。
だが、この世界ではこれが所属を示す衣服なのだろう。同じ学校の生徒が同じ服を着る。規律と集団意識を保つためのもの。
軍服に近いが、剣を吊るす場所がないのは不服だ。
鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、神代悠真の姿をした自分だった。
黒髪にどこか眠たげな目。王族らしい華やかさはないが、悪くない顔立ち。だが問題は姿勢だった。
背筋を伸ばし、肩の位置を整え、視線を正面へ向ける。
それだけで、鏡の中の神代悠真は神代悠真ではなくなった。
美琴の言葉が蘇る。
――姿勢がいい。
――言葉が変。
――全体的にちゃんとしてる。
ちゃんとしていることが疑われる原因になるとは、人生で初めての経験だった。
レオンは肩の力を抜き、少し猫背にしてみる。
「……こうか」
違和感がすごい。
王族教育とは、姿勢と所作を体に刻み込む教育でもある。
椅子に座る時も、立つ時も、歩く時も、視線を向ける時も、そこには意味がある。
そして今、その全てが神代悠真の生活では邪魔になっていた。
視界の端に《バイブル》が浮かぶ。
陰キャ高校生の基本姿勢:
視線をやや下げ、周囲との接触を最小限に抑える。
ただし、過度な猫背や不自然な沈黙は逆に注目を集める場合があります。
「どうしろと」
レオンは小さく吐き捨て、鞄を手に取った。
部屋を出ると、階段の下から味噌汁の匂いが漂ってきた。昨日の夜も感じた、あの温かい匂いだ。
階段を下りると、リビングにはすでに美琴がいた。制服姿で食卓に座り、眠そうな顔で牛乳を飲んでいる。
髪が少し跳ねているのに、本人は気にしていないらしい。レオンを見るなり、美琴の目が細くなった。
「おはよ」
短い挨拶が、飛んでくる。レオンは一瞬だけ迷った。丁寧すぎると怪しまれる。爽やかすぎても怪しまれる。ここは、自然に。
「……おはよう」
美琴はしばらくこちらを見ていた。
「ちょっと普通」
「それは良いことか?」
「普通に普通」
「評価基準が難しいな」
「そういうとこだよ」
何がだ。
聞き返しかけて、レオンはやめた。妹との会話は、深追いすると危険である。
台所から沙織が顔を出した。
「悠真、おはよう。今日はちゃんと起きたのね」
「ああ」
言った直後、少し硬かったと気づく。
「……起きた」
沙織はくすっと笑った。
「昨日は疲れてたみたいだから心配してたのよ」
「睡眠は取れた」
「睡眠って」
美琴が呟く。
「お兄、たまに保健室の先生みたいな言い方するよね」
「そうか」
「うん。今のはお兄っぽくない方向に変」
食卓には、ご飯、味噌汁、卵焼き、海苔が並んでいた。
昨日と同じように湯気が立ち、部屋全体に優しい匂いを広げている。
レオンは席に着き、慎重に箸を取った。
綺麗に持ちすぎては、いけない。姿勢を正しすぎてもいけない。料理を褒めすぎてもいけない。
魚はない。助かった。
味噌汁を口に運ぶと、温かさが喉を通って体に広がる。
思わず「美味しい」と言いそうになったが、寸前で止めた。
昨日はそれで食卓を凍らせた。
感謝も褒め言葉も、神代悠真としては用量調整が必要らしい。
沙織が問い掛ける。
「今日は小テストあるんでしょ?」
レオンの箸が止まった。
数学小テスト。忘れていたわけではない。意識の奥深くへ追いやっていただけだ。
「……ある」
「大丈夫?」
「最善は尽くす」
美琴が牛乳を噴きかけた。
「小テストにそんな覚悟いる?」
いる。
少なくとも、今のレオンにとっては。
《バイブル》曰く、数学は多くの高校生に精神的損傷を与える強敵である。
しかも、対策には日々の積み重ねが必要らしい。
現代に来て二日目のレオンに言うことではない。
「赤点じゃなければいいから、気楽にね」
沙織はそう言った。
赤点は、昨夜検索済みである。
赤点:
試験において基準点を下回る状態。
補習、追試、保護者面談などの追加イベント発生条件となる場合があります。
赤点を、取った者同士謎の親近感が生まれる。
追加イベントは、絶対に避けたい。
朝食を終え、レオンは鞄を持って玄関へ向かった。
靴を履く。
昨日、靴を揃えすぎて疑われた。
したがって今日は、適度に乱す必要がある。
レオンは履いたあと、脱いだ室内履きの向きを少しずらした。すると背後から美琴の声がした。
「……お兄、靴を乱すの下手だね」
「乱すのに上手い下手があるのか」
「ある。今のは、丁寧に乱してる」
手厳しい。
沙織が玄関まで見送りに来る。
「行ってらっしゃい、悠真」
その言葉に、レオンは一瞬だけ動きを止めた。
行ってらっしゃい。
王宮にも、送り出す言葉はある。だが、そこには任務があり、義務があり、時には政治的意味がある。
今の声には、それがなかった。ただ、無事に帰ってくると信じて送り出す声だった。
レオンは振り返る。
「……行ってきます」
沙織は柔らかく笑った。
「うん。行ってらっしゃい」
玄関の扉を開けると、朝の空気が流れ込んできた。冷たいが、刺すような冷たさではない。
遠くで車が走る音。
自転車のブレーキ音。
どこかの家から聞こえる食器の音。
制服姿の学生たちの話し声。
現代日本の朝は、王都の朝とは違う。
レオンは住宅街の道に立ち、周囲を観察した。
同じような家々。
細い道路。
電柱。
電線。
小さな庭。
干された洗濯物。
塀の上で眠そうにしている猫。
この世界は、魔法がない。少なくとも、表向きは。だが、魔法とは違う技術と秩序がある。
《バイブル》が視界に表示を出した。
登校:
学生が自宅から教育機関へ向かう日常的移動行為。
遅刻は社会的信用を損ねるため注意。
曲がり角からパンを、咥え走ってくる女の子との遭遇イベントが発生する可能性があります。
うまく衝突すればラッキースケベイベント発生のチャンス。
「だからなんなんだこの解説は」
レオンは、頭が痛くなる感覚を覚えながらも一応曲がり角に注意し、しっかりと前方を見て歩き出す。
しばらくすると角の向こうから、一人の少女が歩いてきていた。
肩の少し下で髪を揺らしながら鞄を片手に持ち、歩き方には迷いがない。
少し勝ち気な印象を受ける彼女は、一ノ瀬舞。スマホのアイコンで顔は認識していた。
昨夜、電話越しにレオンの違和感をいくつも拾った要警戒対象である。
「パンは、咥えてないな」
レオンは心の中で安堵したイベントまで発生したら対応出来る自信がなかった。
舞はこちらに気づくと、軽く手を上げた。
下へ続く




