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第二話 第三王子入城する 上


「今日なんか、キモい」


 神代美琴の第一声は、兄への辛辣な一言だった。


 異世界アルヴァレイン王国第三王子、レオンハルト・アルヴァレイン。


 現在は偽貌の指輪により、現代日本の高校生・神代悠真の姿をしている。


 レオンは玄関先で、ほんの一瞬だけ沈黙した。


 王族に向かって「キモい」と言う者は、アルヴァレイン王国にいないだろう。


 仮にいたとしても、その者は命知らずか、よほど強固な後ろ盾を持つ者か、あるいは人生を雑に終わらせたい者である。


 だが、目の前の少女は違う。


 小柄な体。


 まだ幼さの残る顔立ち。


 けれどこちらを見る目は、あの侍女や貴族令嬢のそれよりも遠慮がなかった。


 敵意ではない。


 嫌悪でもない。


 おそらくこれは、兄妹間における日常的な罵倒だ。


 ……日常的な罵倒とは何だ。


 レオンの視界の端に、淡く青白い表示が浮かんだ。


検索結果:キモい

現代日本の俗語。

気持ち悪い、不気味、違和感がある、理解しがたい等の意味を含む。

親しい間柄では軽度のツッコミとして用いられる場合もある。

ただし、精神的損傷を与える可能性あり。

また、ある種の者によってはご褒美となる。 


 ……ご褒美とは


「どうしたの。黙って」


 美琴が怪訝そうに首を傾げる。


 レオンは反射的に姿勢を正しかけ、寸前で止めた。

 神代悠真は、おそらく玄関先で妹に罵倒されて背筋を伸ばす人間ではない。


 自然体。


 《バイブル》はそう言った。


 だが、自然体も何も神代悠真にとって自然体というのは、どういったものなのか?


 打ち合わせでは、姿勢が悪くうつむき加減だとしか聞いていないのだ。これは、完全にイメージでしか動けない。


 本当に面倒な事を押し付けられたとレオンは、内心で嘆きつつ神代悠真の自然体を再現する。


 カンで。


「いや」


 レオンは、できるだけ力の抜けた声を意識した。


「少し、疲れただけだ」


 美琴の目が細くなる。


「……お兄が普通に疲れたって言った」


「おかしいか?」


「おかしいっていうか、いつもなら『この世界の肉体も限界に近いか……』とか言うじゃん」


 レオンは沈黙した。


 神代悠真。君は現代で何をしていた。


 視界の端に表示が浮かぶ。


注意:対象人物の通常発言パターンと乖離しています。

推奨:過去の言動に合わせた返答を行ってください。


 無理を言うな。過去の言動を知らないから困っているんだろうが。と、レオンは声に出して言いたかったがグッと堪える。


「……今日は、そういう気分ではない」


「ふーん」


 美琴は納得していない顔でこちらを見た。


 その視線は、観察していた。兄という存在を長年見てきた者だけが持つ、鋭い目だった。

 レオンは、目の前の少女への評価を一段引き上げた。


 この妹は危険だ。


「で、入らないの?」


「ああ」


 促されて、レオンは神代家の玄関へ足を踏み入れた。


 最初に感じたのは、匂いだった。


 王宮とは違う。


 狭い空間だからだろうか。木材の匂いと何か香料の匂いを感じた。


 天井は、高くない。

 大理石の床もない。

 兵士もいない。


 だが、整えられた靴と傘立て、小さな棚、壁にかかった鍵が、ここに生活があることを静かに主張していた。


 レオンは靴を脱いだ。


 王宮では当然、脱ぐ靴を侍従が処理する。

 だが、こちらの世界では自分で行うらしい。

 そこまでは《バイブル》で確認済みだった。

 靴を揃え、踵をきちんと合わせ向きを整える。そして左右の角度を揃える。


 王族として、乱れた履物を放置する習慣などない。


 その瞬間、美琴の視線が靴に落ちた。


 次に、レオンを見る。


「……お兄」


「何だ」


「靴、そろえた?」


「そろえるものではないのか」


「いや、そろえるものだけど」


 美琴はじっと靴を見る。


「お兄が?」


 レオンは理解した。


 神代悠真は、靴を揃えない。


 頭が痛くなるのを感じつつそれくらいしろよと、また内心で嘆いた。


 代償として、美琴の疑念が一段深まった。


「今日はそういう気分だった」


「何その気分」


 美琴は納得していない顔のまま、廊下の奥へ向かった。


 レオンは小さく息を吐く。


「……難易度が高いな」


 王宮の晩餐会で、腹の内を探り合う貴族二十人を相手にする方がまだ楽かもしれない。


 レオンは揃えた靴を見下ろした。


 これは、不正解なのか。


 綺麗に並び整った靴を片方だけわずかにずらした。


 その瞬間、廊下の奥から美琴が顔を出した。


「今、何したの?」


「何も」


「絶対何かしたでしょ」


「気のせいだ」


「ふーん」


 美琴はそう言い残して、今度こそ奥へ消えた。

 レオンは玄関に一人残され、短く息を吐いた。

 妹という存在は、かなり厄介だ。


 少なくとも、宮廷魔導士たちは《バイブル》の妹対策をもう三冊分ほど厚くするべきだった。屋上決闘の情報など後回しでいい。


 廊下を進むと、リビングに出た。


 そこは、神殿とも王宮ともまったく違う。


 低いテーブル。


 柔らかそうなソファ。


 壁際に置かれた薄い黒い板。


 その向こうには小さな台所。


 天井には白い灯りがあり、魔石も炎も見えないのに部屋全体を明るく照らしている。


 窓の外には夕暮れの住宅街が見えた。


 赤く染まった空。遠くを走る車というらしい乗り物の音。かすかに聞こえる人の話し声。


 王城内とは違い、もっと小さく近く個人の暮らしに寄り添った空間だった。


「何キョロキョロしてんの。自分の家でしょ」


 ソファに腰を下ろした美琴が言う。


「ああ。そうだな」


 自分の家。

 もちろん違う。

 ここは神代悠真の家だ。


 レオンハルト・アルヴァレインの家ではない。

 だが、今日からしばらくの間、彼はここを自分の家として扱わなければならない。


 いや、違う。


 扱う、ではない。


 守るのだ。


 神代悠真が戻るまで、この場所を壊さないように。それが王命だ。


 レオンは鞄を置こうとして、手を止めた。

 神代悠真は、鞄をどこに置くのか。


 床か。


 自室か。


 椅子か。


 判断に迷ったレオンは、部屋の隅に置いた。

 美琴がそれを見ている。


「……今日、本当に変」


「いつもと何が違う」


「全部」


「全部か」


 厳しい評価だった。


 そこへ、台所から女性の声がした。


「悠真、帰ってるの?」


 レオンの背筋が、無意識に伸びかけた。


 母親。


 神代悠真が、最も心配していた人物。


 ――俺が消えれば、母さんが心配する。


 異世界の神殿で、神代悠真はそう言った。


 レオンにとって、家族とは王族としての役割と切り離せないものだった。父は王であり、母は王妃であり、兄たちは王位継承者である。親子である前に、立場がある。言葉一つ、視線一つにも、国の事情が絡む。


 だから、ただの母親という存在を前にするのは、少し緊張した。そしてレオンの母親は、もういない。


 台所から出てきた女性は、エプロン姿だった。


 神代沙織。


 悠真の母親だけあって何処と無く似ているが美琴の方が面影を色濃く受け継いでいる印象を受けた。


 レオンの世界では、側室もある為兄妹間で似ていない事などザラである。


 沙織は、少し疲れた目元をしているが、けれど柔らかい表情。


 手には菜箸を持っていて、台所からはレオンの知らない匂いと、焼いた魚の香ばしさが漂っている。


「おかえり、悠真。今日は遅かったのね」 


 沙織は当たり前のように微笑んだ。


 計算も、礼法も、警戒もない。

 ただ、帰ってきた息子に向けられる言葉だった。


 レオンは反射的に王宮式の礼を取りかけた。


 が、寸前で止める。


 だが、止め方が不自然だった。


 美琴の目が光る。


「今、何しようとした?」


「何も」


「今日の何も、多すぎ」


 この妹は、呼吸の乱れまで拾いそうだ。


 沙織はそんな二人を見て、少し笑った。


「手、洗ってきなさい。ご飯、もうすぐできるから」


「承知し――」


 言いかけて、レオンは止まった。


 承知しました、は息子として不自然だ。

 では、神代悠真ならどう返す。


 視界の端に《バイブル》が表示される。


家庭内返答例

親から日常的な指示を受けた場合、「はーい」「りょ」「了解」などが自然。

過度に丁寧な返答は不審を招く可能性があります。


 珍しく役に立ちそうなアドバイスにレオンは、警戒を少し引き下げ提案にのった。


「……はーい」


 レオンは言った。


 沙織が少し目を丸くする。


 美琴が固まる。


 レオンは悟った。


 役に立っていない。


「お兄が、はーい……?」


 美琴の声には、恐怖すら混じっていた。


「何、今日。怖いんだけど」


 沙織も不思議そうに微笑む。


「悠真、今日は素直ね」


「そ、そういう日もある」


 レオンは短く答え、逃げるように洗面所へ向かった。

 廊下を歩きながら、小さく呟く。


「神代悠真。君の普段の態度が、俺の首を絞めているぞ。普通とはなんだ」


 洗面所に着いたレオンは、また立ち止まった。


 白い洗面台には、大きな鏡があり目線を下げると蛇口があった。


 壁にタオルが掛かっており見慣れない容器が並ぶ棚。


 魔石も術式も無いように見える。


 しかし、ここが水場であることは分かる。


 レオンは慎重に蛇口のレバーに触れた。


 水が出た。


「……ほう」


 思わず声が漏れる。


 詠唱も魔力もなし。


 庶民の家で、これほど安定した清潔な水が使えるのか。


 王宮でも、給水設備は魔導士たちが管理する重要設備だ。


 だがこの世界では、どうやら一般家庭で当然のように使われている。


 現代日本。


 侮れない。


 手を洗いながら、鏡を見る。


 そこに映っているのは、レオンではない。


 神代悠真の顔。


 黒髪。


 少し陰のある目元。


 派手さはないが、悪くない顔立ち。


 だが、その目の奥にいるのはレオンだった。


「……借り物の顔、か」


 偽貌の指輪は便利だ。


 だが、便利だからこそ厄介でもある。


 この顔で笑えば、沙織は神代悠真が笑ったと思う。


 この声で返事をすれば、美琴は兄が返事をしたと思う。


 自分の言葉が、自分ではない誰かのものとして受け取られる。


 それは、思っていたよりも居心地が悪かった。


 リビングへ戻ると、食卓には夕食が並び始めていた。


 白米。

 味噌汁。

 焼き魚。

 卵焼き。

 小さな和え物。


 湯気が立ち、部屋の空気に温かな匂いが満ちている。


 王宮の食事とはまったく違う。


 金銀の皿もない。

 毒見役もいない。

 給仕もいない。

 長い食前の祈りもない。


 けれど、ここには別の豊かさがあった。


 沙織が料理を運び、美琴が箸を並べる。


 母と妹が、ごく自然に食卓を整えている。


 レオンは席に着いたまま、その光景を見ていた。


「悠真?」


 沙織が首を傾げる。


「どうしたの?」


「いや」


 レオンは少し迷ってから、正直に言った。


「温かいな、と思って」


 食卓の空気が止まった。


 美琴が持っていた箸を床に落としこちらを見る。


「……お兄」


「何だ」


「今日、やっぱりおかしい」


 しまった。


 神代悠真は、食卓を見て「温かいな」などと言わないらしい。


 《バイブル》が静かに表示を出す。


注意:情緒的発言により違和感が増加しています。

推奨:軽い冗談で緩和してください。


 軽い冗談。それができれば苦労しない。


「いつもなら、いただきますも小声だし、ご飯見てそんなこと言わないし、魚見て『海の眷属か』とか言うし」


「神代悠真……」


 思わず本人の名を呟きかけ、寸前で止める。

「……魚は魚だ」


「それが一番怖いんだけど」


 美琴は真顔だった。

 沙織は困ったように笑った。


「まあまあ。悠真が普通にしてるならいいじゃない」


「普通すぎて変なんだって」


「美琴、ひどいわよ」


「だって本当だもん」


 レオンは箸を手に取った。


 箸。

 これは《バイブル》にも載っていた。


東方文化圏における二本一組の食事用器具。

操作難易度:中級。

不作法な扱いは家庭内評価を下げる恐れあり。


 中級なら問題ない。


 王族教育の一環で、東方諸国の食事作法は学んでいる。二本の棒で料理を扱う技術そのものは、初めてではない。


 レオンは焼き魚を丁寧にほぐし、骨を避け、身を口へ運んだ。


 香ばしい。


 塩気があり、東方諸国の、主食である白米とよく合う。


 王宮の料理のような複雑さはない。だが、余計な飾りのない味だ。


 美琴が絶句していた。


「……お兄が魚を綺麗に食べてる」


「問題か?」


「問題しかない」


 沙織も少し驚いている。


「悠真、魚苦手だったのに」


 レオンは内心で頭を抱えた。


 まただ。


 神代悠真。


 魚の好き嫌いは、黒いノートの件より優先して伝えるべき情報ではなかったのか。


 いや、召喚直後にそこまで求めるのは酷か。


「最近、考えが変わった」


 レオンは慎重に答えた。


「魚にも、魚の良さがある」


「何それ。急に人生二周目?」


「近いかもしれない」


「え?」


「いや、何でもない」


 危ない。


 美琴の視線がまた鋭くなる。

 レオンは誤魔化すように味噌汁を口へ運んだ。

 そして、思わず目を見開いた。


 うまい。


 それは、高級料理のうまさとは違った。


 濃厚なソースも、希少な肉も、魔獣素材の珍味も入っていないだろう。


 だが、体の奥までゆっくり温まる。


 どういった食材が使われているのか後で調べようとレオンは、心に決めながら椀から漂う湯気を眺める。

 

 食卓を囲む静かな気配。


 レオンは、自分でも予想しなかったほど素直に言った。


「とても美味しい」


 また、食卓が止まった。


 美琴がゆっくりと箸を置く。


「お母さん」


「何?」


「お兄が、お母さんのご飯をちゃんと褒めた」


「美琴、そんな言い方しないの」


「いや、事件でしょ。ニュースだよ。神代悠真、母の料理を褒める。号外出る」


 沙織は笑いながらも、少しだけ目元を柔らかくした。


「ありがとう、悠真。そう言ってもらえると嬉しい」


 その声は、本当に嬉しそうだった。


 王宮で料理を褒めれば、料理長が頭を下げる。

 給仕が礼を言う。


 形式としての感謝が返ってくる。


 だが、今の「嬉しい」は違う。


 母親が、息子に料理を褒められて喜んでいる。


 ただそれだけだ。


 それだけなのに、レオンの胸の奥に、静かに何かが落ちた。


 神代悠真が行方不明になることを拒んだ理由が、少し分かった気がした。


 それと同時にもう少し家族との関係性を改善した方が言いとも感じた。


 レオンは一度目を閉じて少し視線を落とした。

「……今日、少し考えたんだ」


 美琴の警戒が深まる。


「何を」


「家族に対する態度を」


 沙織が黙った。


 美琴も、すぐには突っ込まなかった。


 レオンは続ける。


 これは嘘ではない。


 少なくとも、半分は本当だ。


「いつまでも、このままでいるのは良くないと思った」


 食卓に、静かな空気が流れる。


 沙織の目元がわずかに揺れた。


「悠真……」


 美琴はまだ疑っている。


 だが、先ほどのように強くは突っ込めない。

 レオンは内心で安堵した。言っては、みたものの少し踏み込みすぎたかもしれない。


 そう思った瞬間、美琴がぽつりと言う。


「……何。もしかして、変な動画でも見た?」

 レオンは沈黙した。


「まあ、キャラチェンジってやつだ」


 美琴は腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。


「キャラチェンね。急にいい兄ぶられると怖いから、ちょっとずつにしてね」


「善処する」


「ぜんしょ?」


「……気をつける」


「うん。それならよし」


 美琴は再び箸を取った。


 沙織はまだ驚いているようだったが、嬉しそうに微笑んでいる。


「悠真がそんなこと言う日が来るなんてね」


 その言葉は温かかったが、レオンの胸には少し違和感を残した。


 これは、自分に向けられた言葉ではなく神代悠真に向けられたものだ。自分はただ、その顔を借りているだけ。


 忘れてはいけない。

 

 下へ続く。

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