第九話 王子、正体を隠しきれない
放課後の校舎は、昼間とは別の顔をしていた。
教室のざわめきは少しずつ薄れ、廊下を走る生徒の足音も、部活動へ向かう者たちの声も、遠くへ流れていく。窓から差し込む夕陽は橙色に変わり、床に長い影を伸ばしていた。黒板に残された白いチョークの跡も、掲示板の端がめくれたプリントも、一日の終わりを静かに告げている。
その中で、レオンハルト・アルヴァレインは、神代悠真の姿のまま廊下を歩いていた。
隣には一ノ瀬舞がいる。
いつもなら、彼女はもっと自然に話しかけてくる。
小テストの愚痴。
クラスメイトの話。
神代悠真の妙な言動へのツッコミ。
時には、美琴から届いたらしい連絡の内容。
だが、今の舞は黙っていた。
その沈黙は、怒りだけでは、ないし恐怖だけでもない。
問い詰めたい気持ちと、問い詰めたら何かが決定的に壊れてしまうのではないかという不安が、複雑に絡んでいる沈黙だった。
レオンには、それが分かった。
王宮で生きてきた者は、人の沈黙を読む。
言葉にならない視線。
隠しきれない呼吸の乱れ。
踏み出そうとして踏みとどまる足の向き。
そうした小さなものから、相手の心の温度を測る。
舞は今、怒っている。
だが、それ以上に心配している。
神代悠真のことを。
そして、目の前にいる「悠真ではないかもしれない誰か」のことも、完全には切り捨てられずにいる。
――変な嘘で傷つけないでください。
夢通信で、神代悠真はそう言った。
その言葉が、今になって重くのしかかる。
「……どこで話すの」
舞が小さく言った。
声は硬い。
だが、震えは抑えられていた。
「人のいない場所がいい」
「そりゃそうでしょ」
「君が落ち着いて話を聞ける場所が望ましい」
「それ、あんたが決めることじゃない」
「確かに」
レオンが素直に認めると、舞は少しだけ眉を寄せた。
「そういうところも、変」
「何がだ」
「悠真なら、今みたいにすぐ認めない。もうちょっとごまかすか、面倒くさそうにする」
「なるほど」
「なるほどじゃない」
舞は足を止める。
二人は校舎の端、人気の少ない階段前にいた。
窓の外では、グラウンドでサッカー部らしき生徒たちが声を上げている。笛の音が鳴り、ボールが地面を跳ねる音が遠くから聞こえた。
昼間、体育でレオンが目立ってしまった場所だ。
舞もそれを思い出したのだろう。
彼女の視線が、窓の外へ一瞬向かった。
「昨日の体育も、今日の校舎裏も」
舞は言う。
「あんた、動きが違う。悠真の運動神経が急に上がったとか、そういう話じゃない。立ち方も、反応も、目も違う」
レオンは黙って聞いた。
「それに、昔のことを覚えてない。妄想の話にも変な返しする。おばさんに優しくなったのは悪いことじゃないけど、悠真が急にそんなふうになる理由が分からない」
舞は拳を握る。
「だから、聞く」
彼女はレオンを見た。
「あんたは、誰?」
廊下に、沈黙が落ちた。
その問いは、もう何度目か分からない。
だが、今の問いはこれまでと違った。
冗談ではない。
揺さぶりでもない。
確信の手前で、彼女は最後の確認をしている。
レオンは息を吸った。
ここで真実を明かすべきか。
神代悠真は無事だと伝えるべきだ。
自分が異世界の第三王子であることも、王命で神代の身代わりとして来たことも、話さなければならない。
だが、今、この廊下で全てを話すのは危険だ。
誰が聞いているか分からない。
舞が動揺して大きな声を出す可能性もある。
何より、神代本人の言葉を届ける手段がまだ不安定だ。
夢通信が再び繋がる保証はない。
それでも、何も言わなければ、信頼はさらに壊れる。
レオンは、静かに口を開いた。
「場所を変えよう」
舞は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頷く。
「わかった」
二人は校舎を出た。
向かったのは、校庭の裏手にある古い花壇の近くだった。
放課後でも人通りは少なく、部活動の声も少し遠い。
夕陽が校舎の壁を橙色に染め、グラウンドの砂埃が光の中に薄く舞っている。
花壇には季節の花が植えられているが、夕暮れの中では色が沈み、静かな影を作っていた。
舞は、レオンから数歩離れた場所で立ち止まった。
それが、今の彼女とレオンの距離だった。
そして振り返りレオンを見据えると、少し震えた声で舞は切り出した。
「あんたは、悠真じゃないん……でしょ」
レオンは一拍置いて頷く。
「そうだ」
「髪や目の色が変わったり。昨日も、体育の時動きがおかしかった」
「ああ」
「否定しないの?」
「もう、否定しても意味がない」
舞の拳が震える。
「じゃあ、やっぱり……悠真じゃないの?」
レオンは答えなかった。
その沈黙が、答えになった。
舞の顔が歪む。
「悠真は?」
最初に出たのは、その問いだった。
自分が騙されていたことへの怒りではない。
目の前の存在への恐怖でもない。
神代悠真の安否。
その一点だった。
やはり、彼女は神代悠真の帰る場所の一部なのだ。
「生きている」
レオンは言った。
舞の瞳が揺れる。
「本当に?」
「ああ」
「どこにいるの」
レオンは少しだけ迷った。
だが、ここまで来て曖昧にすることはできなかった。
「俺の世界だ」
「俺の……世界?」
「ああ」
「何、それ」
舞は、力なく一歩下がった。
「意味分かんない。世界って何。外国とか、そういう話?」
「違う」
「じゃあ何」
レオンは、静かに息を吸った。
ここから先は、後戻りできない。
だが、もう隠す段階ではない。
ただし、全てを一度に話せば、舞は混乱するだろう。
言葉を選ぶ必要がある。
「俺は、神代悠真ではない」
舞は唇を噛んだ。
「知ってる」
「俺の名は、レオンハルト・アルヴァレイン。アルヴァレイン王国の第三王子だ」
舞は数秒、黙った。
そして、かすれた声で言った。
「……王子?」
「信じがたいのは分かっている」
「信じがたいとか、そういうレベルじゃないんだけど」
「だろうな」
「異世界とか、そういう話?」
「そうだ」
舞は笑わなかった。
冗談だとも言わなかった。
すでに、彼女は見てしまっている。
髪の色が変わる瞬間。
人間離れした動き。
神代悠真ではない目。
だからこそ、否定しきれない。
「悠真は……異世界にいるの?」
「ああ」
「何で」
「召喚された」
「召喚?」
「俺の国が、勇者として神代悠真を呼んだ」
舞の顔が強張る。
「勇者って……何それ」
「俺もそう思う」
思わず本音が出た。
舞は、ほんの少しだけ目を見開いた。
「神代悠真は、召喚を受け入れる条件として、自分が元の世界で行方不明にならないよう代役を要求した。母君と妹君を心配してな」
「悠真が……」
「その代役として、俺がここに送られた。偽貌の指輪で彼の姿になり、彼の生活を維持するために」
舞は黙って聞いていた。
だが、指先が震えている。
「そんなの」
彼女は低く言った。
「そんなの、勝手すぎる」
「ああ」
「悠真を勝手に連れて行って、代わりに別人を寄こして、家族には黙ってて、それで生活を守ってるつもり?」
「その通りだ」
「認めるの?」
「事実だからな」
舞の目に涙が浮かびかける。
だが、彼女は泣かなかった。
怒りで押し返している。
「悠真は、無事なの?」
「昨夜、話した」
「話した?」
「夢のような空間で、一時的に意識が繋がった。神代悠真は生きている。王国で勇者として扱われ、魔法訓練も始めている」
舞の表情に、わずかに安堵が混じった。
だが、すぐに怒りが戻る。
「何で私に黙ってたの」
「話せば混乱すると思った」
「もう十分混乱してる」
「それは……そうだな」
「おばさんと美琴ちゃんは?」
「知らせていない」
「知らないって……」
「話せば、彼女たちの日常が壊れる。神代悠真がそれを望むか、まだ判断できない」
舞は言葉に詰まった。
そこだけは、彼女も簡単には否定できないのだろう。
神代沙織。
神代美琴。
彼女たちが真実を知れば、どうなるか。
息子が、兄が、異世界に召喚されている。
目の前にいる悠真は別人。
そんな話を、すぐに受け入れられるはずがない。
舞は震える息を吐いた。
「じゃあ、私は何? 知っちゃった私は、どうすればいいの」
「君には、選ぶ権利がある」
「何を」
「俺を信じるか。拒むか。協力するか。全てを暴くか」
舞はレオンを睨んだ。
「それ、ずるい」
「そうだな」
「何でそんなに認めるの」
「ここで取り繕っても、君には見抜かれる」
舞は唇を噛む。
夕陽が彼女の頬を照らしていた。
その横顔には、怒りと混乱と不安が入り混じっている。
レオンは静かに言った。
「神代悠真は、君を信頼していた」
舞の目が揺れる。
「夢通信で言っていた。君は怒っても最後まで話を聞いてくれる、と。変な嘘で傷つけないでくれ、とも言われた」
「悠真が……」
「ああ」
舞は視線を落とした。
しばらく、沈黙が続く。
グラウンドから、部活動の掛け声が聞こえる。
遠くでホイッスルが鳴る。
夕方の風が花壇の葉を揺らし、校舎の窓に橙色の光が反射した。
舞は小さく息を吸った。
「会えるの?」
その声は、先ほどまでよりずっと弱かった。
「悠真に」
「現段階では、おそらく無理だ」
「そう」
明らかな落胆の色を見せる舞。
「次に繋がった時、君の言葉を伝える事は出来るが、神代悠真とのパスが繋がっていない君をそこへ連れて行くのは難しい」
舞は、レオンの目を見た。
神代悠真の顔をした、別人の目。
その事実を受け止めようとしているように見えた。
「王子なんだよね」
「一応な」
「一応って何」
「第三王子だ。王位継承の本命ではない」
「そこはどうでもいい」
「そうか」
舞は少しだけ、疲れたように笑った。
だが、すぐに真剣な顔へ戻る。
「一つだけ言っておく」
「何だ」
「悠真の家族を傷つけたら、王子だろうが異世界人だろうが、絶対許さない」
その声には、強い意志があった。
レオンは、静かに頭を下げた。
王族としてではない。
神代悠真の居場所を預かった者として。
「肝に銘じる」
「あと」
「まだあるのか」
「私にも、もう嘘つかないで」
レオンは少しだけ黙った。
完全に嘘をつかないというのは難しい。
話せないことはある。
王国の事情、召喚術式の不穏な部分、神代悠真が置かれている状況。
だが、少なくとも、彼女を傷つけるための嘘はつかないと決められる。
「分かった」
レオンは続ける。
「話せないことはある。だが、君を騙すための嘘はつかない」
舞はじっと見つめた。
「……それ、悠真じゃ絶対言わないね」
「だろうな」
「でも」
少しだけ目を伏せた後もう一度レオンをみすえて。
「今のは、信じる」
レオンは何も言わなかった。
夕暮れが深くなる。
空の橙は少しずつ紫へ変わり、校舎の影が長く伸びていく。
舞は鞄を持ち直した。
「今日は帰る」
「ああ」
「頭の中、ぐちゃぐちゃだから」
「当然だ」
「明日、ちゃんと話して。もっと詳しく」
「分かった」
「あと、悠真に会える方法も考えて」
「ああ」
少し歩きかけて舞は、立ち止まった。
「レオン……でいいの?」
「本来の名はそうだ」
「じゃあ、レオン」
初めて、彼女がその名を呼んだ。
神代悠真の声ではなく、レオンハルトに向けて。
「悠真の顔で変なことしないで」
「努力は、するが神代悠真と彼の演技をするのは止める事に決めたんだが」
「それであんな態度だったんだ。なんだか不安なんだけど」
「やり過ぎない程度で、とも言われている」
「よ、よし」
少し呆れた顔をしつつ舞は、校門の方へ歩いていった。
レオンはその背中を見送る。
秘密は守れなかった。
だが、全てが壊れたわけではない。
むしろ、ここからが本当の始まりなのかもしれない。
神代悠真の居場所を守るために、初めて現代側の協力者を得る。
その可能性が生まれた。
夕陽はもう、校舎の向こうへ沈みかけている。
「神代悠真」
レオンは小さく呟いた。
「君の幼なじみは、やはりかなり厄介だ」
少し間を置き、口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「だが、悪くない」
レオンは鞄を持ち直し、神代家への帰り道を歩き出した。




