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第十話 王子協力関係を得る


 その夜、悠真の部屋でレオンハルト・アルヴァレインは机に向かっていた。


 窓の外には、現代日本の夜が広がっている。


 街灯の白い光。

 遠くを走る車の音。

 どこかの家から漏れる、かすかな笑い声。


 王都の夜とは違う。


 魔力の気配は薄く、空気は軽い。けれど、その静けさの奥には、無数の暮らしが密やかに息づいている。


 机の上には、学校の教科書とノート、スマホ、そして開かれていない黒いノートが置かれていた。


 レオンは、その黒いノートをじっと見つめる。


 神代悠真が、夢の中で「見ないでください」と言ったもの。


 おそらく、神代悠真という少年を理解するための最短経路。


 読めば多くのことが分かるだろう。


 神代の言葉使い。

 神代の妄想。

 神代がどのように世界を見ていたのか。


 一ノ瀬舞が口にした「漆黒の断罪者」や「灰色の王国」の意味も、たぶん載っている。


 だが、レオンはまだ開かなかった。


 代わりに、白い紙を一枚、机の上に広げていた。


 そこには、これまでの事を書き出してある。


 神代悠真は異世界にいる。

 勇者として召喚された。

 王国には隠し事がある。

 召喚陣には拘束式が含まれている。

 夢通信は不安定。

 偽貌の指輪は、現代では負荷が大きい。

 一ノ瀬舞には、すでに大枠を話している。


 そして、明日。


 レオンは舞に、改めて詳しく話すことになっていた。


 正体はもう隠せない。


 いや、正確には、隠す段階は終わっている。


 体育の時間に偽貌の指輪が揺らぎ、舞は見てしまった。


 そのあと、廊下で問い詰められた。


 レオンが異世界の王子であること。

 神代悠真が異世界に召喚されていること。

 自分がその身代わりとして、現代に来ていること。


 そこまでは、すでに話した。


 ただし、断片的にだ。


 場所も悪かった。

 時間もなかった。

 舞も混乱していた。


 レオン自身も、どこまで話していいのか判断しきれていなかった。


 だから明日は、認識を合わせる。


 何を話すべきで、何を今は伏せるべきなのか。


 問題は、そこだった。


 全てを話すのは早計だろう。


 王国の事情。

 召喚術式の不穏な構造。

 

 そして、神代悠真が置かれている正確な状況。

 この世界にいる以上、彼女が危険に巻き込まれる事はないだろう。


 しかし、全て話せば混乱するだろうし、負担も大きい。だが隠せば彼女の信頼を壊す。


 ――変な嘘で傷つけないでください。


 夢通信で神代悠真が言った言葉が、耳の奥に残っている。


 レオンは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


「厄介な幼なじみを持ったものだな、神代悠真」


 呟きは、静かな部屋に溶けた。


 その時、スマホが震えた。


 画面に表示された名前は、一ノ瀬舞。


 レオンはメッセージを開いた。


舞

明日、放課後。

昨日の続き。

学校じゃない場所で話したい。


 短い文面だった。


 けれど、その向こうにある感情は重い。

 不安。

 怒り。

 混乱。

 それでも向き合おうとする意思。


 レオンは少し考え、近頃慣れてきた携帯端末を使い返信する。


悠真

分かった。場所は君に任せる。


 送信してから、レオンは画面を見つめた。


 今の文面は、少し硬すぎたかもしれないが、もう取り繕う段階ではない。


 すぐに舞から返信が来る。


舞

了解。

逃げたら本気で怒る。


 レオンは小さく息を吐いた。


 どうやら、明日は逃げられないらしい。


 そもそも逃げるつもりもないが。


 翌日。


 学校の空気は、いつもと同じだった。


 朝の教室には、眠そうな声と、スマホを眺める生徒たちと、小テストの結果に怯える者たちがいた。


 窓から入る光は明るく、黒板には前日の授業の跡が薄く残っている。


 誰かが笑い、誰かが机に突っ伏し、誰かが購買のパンについて真剣に議論していた。


 日常の中で、レオンだけが少し違う重さを抱えていた。


 舞は普段通りに登校してきた。


「おはよ」


「ああ。おはよう」


「今日、放課後ね」


「分かっている」


 それだけだった。


 周囲から見れば、いつもの幼なじみの会話に見えただろう。


 だが、レオンには分かった。


 舞の声は、ほんの少し硬く目の下には、微かな疲れがある。


 おそらく昨夜、あまり眠れなかったのだろう。


 当然だ。


 幼なじみだと思っていた相手が、異世界の王子だった。


 本物の神代悠真は異世界にいる。


 目の前の少年は、顔だけ悠真で、中身は別人。


 そんな話を聞かされて、平然と眠れる方がおかしい。


 それでも舞は学校に来た。


 普段通りに振る舞おうとしている。


 強いな。


 レオンはそう思った。


 ただし、強いからといって、傷つかないわけではない。


 授業は、いつもより長く感じたが、特に何もなく放課後を迎えた。


 レオンと舞は連れだって学校を出た。


 舞が選んだ場所は、学校から少し歩いた先にある小さな公園だった。


 住宅街の中にある、目立たない公園。


 滑り台とブランコ、古いベンチが二つ。

 端には背の低い植え込みがあり、夕方の風が葉を揺らしている。


 小さな砂場には、忘れられた黄色いバケツがひっくり返っていた。


 子どもたちはもう帰った後らしく、公園には誰もいない。


 西の空は夕焼けに染まり、雲の端が金色に光っている。


 車の音は聞こえるが、学校よりはずっと静かだった。


 舞はベンチの前で足を止めた。


「ここなら、たぶん人来ない」


「いい場所だ」


「悠真と昔、たまに来てたんだ」


 レオンは黙った。


 また、自分の知らない神代悠真の記憶だった。


 舞はベンチに座らず立ったまま、レオンを見る。


「昨日の話、確認させて」


「ああ」


「あなたは、神代悠真じゃない」


「ああ」


「レオンハルト・アルヴァレイン。異世界の王子」


「そうだ」


「悠真は、あなたの世界に召喚された」


「ああ」


「勇者として」


「王国は、そう扱おうとしている」


 舞の眉が動いた。


「扱おうとしている?」


「神代悠真本人は、まだ何かを成したわけではない。少なくとも、彼自身は勇者と呼ばれることに戸惑っていた」


「そこ、悠真っぽい」


 舞は小さく呟いた。


 怒りたいのに、少しだけ安心してしまったような声だった。


「それで、悠真がこっちで行方不明扱いにならないように、あなたが代わりに来た」


「そうだ」


「顔は、その指輪で変えてる」


 舞の視線が、レオンの左手へ向かう。通常透明化していて見えないが今は、見える状態にしてある。


「偽貌の指輪だ。外見を神代悠真に近づけている。ただし、記憶や癖までは補えない」


「だから、あんなに変だったんだ」


「かなり努力はしたんだがな」


「努力してるのは分かった。でも、努力すればするほど悠真じゃなかった」


「非常に厳しい評価だな」


「事実だから」


 舞はそこで、ほんの少しだけ苦笑した。


 その苦笑に、レオンは密かに安堵した。


 まだ笑えている。


 もちろん、それは傷ついていないという意味ではない。


 舞は深く息を吸った。


「昨日聞いた話、ずっと考えてた」


「混乱しただろう」


「した。今もしてる」


 舞は正直に言った。


「でも、あんたが全部嘘をついてるようには見えなかった。むしろ、嘘ならもっと雑に誤魔化すと思った」


「それは評価されているのか」


「半分くらいは」


「残り半分は?」


「疑ってる」


「妥当だな」


「そういうところ、変に冷静」


 そう言うとようやく舞はベンチに座った。


 レオンも少し距離を置いて隣に座る。


 夕方の風が、二人の間を通り抜けた。


「悠真は、本当に無事なの?」


 舞の声が低くなる。


 昨日も聞かれた。


 だが、この問いは一度答えれば終わるものではない。


 何度でも確認したくなる。


 それだけ不安なのだ。


「ああ。少なくとも、昨夜話した時点では無事だった」


「夢で話したってやつ?」


「ああ。夢通信のようなものだ。俺と神代悠真の間で、不安定に繋がった」


「私も会える?」


 その問いに、レオンは少しだけ目を伏せた。

「難しい」


 舞の表情が曇る。


「……やっぱり?」


「君には、異世界と繋がるための術式的な接点がない。俺と神代悠真は、召喚術式、偽貌の指輪、魂紋の同調が重なっている。だから偶然に近い形で繋がった」


「魂紋?」


「魂の性質、のようなものだ。正直、俺も専門ではない」


「王子なのに?」


「王子は万能職ではない」


「それ、昨日も言ってた」


「便利な言葉だからな」


 舞は少しだけ笑った。


 けれど、すぐに表情を戻す。


「そっか。会えないんだ」


「すまない」


「謝らないで。たぶん、あんたが悪いわけじゃない」


 舞は視線を落とした。


「でも、都合よく私まで夢で会えるって言われたら、それはそれで怪しい。そんな簡単に会えるなら、最初から全部解決してるだろうし」


「君は冷静だな」


「冷静じゃないよ。全然」


 舞は膝の上で手を握った。


「頭の中、ぐちゃぐちゃ。悠真が異世界にいて、目の前の悠真は悠真じゃなくて、でも顔は悠真で、あんたは王子で、しかも家では悠真として暮らしてる。意味分かんない」


「当然だ」


「でも、昨日からずっと考えてた」


 舞はレオンを見る。


「あんたは、おばさんや美琴ちゃんを雑に扱ってない。悠真としては変だけど、守ろうとしてるのは分かる」


 レオンは何も言わなかった。


 ここへ来たのは、王命だった。


 嫌で、面倒で、早く戻りたいと思っていた。

 

 だが、神代悠真の家族に触れ舞と関わり悠真本人と話す内に、少しずつ分かってきた。


 神代悠真の日常は、簡単なものではない。


 不器用で、照れくさくて、黒歴史だらけで、時々情けない。


 だが、その周りには確かに暖かい人がいる。


 母。

 妹。

 幼なじみ。

 クラスメイト。

 それらを、ただの任務として扱うことは、もうできなかった。


「神代悠真は、君のことを信頼していた」


 舞が目を上げる。


「夢通信で話した時、君について聞いた。彼は、君なら怒っても最後まで話を聞いてくれると言っていた」


「……悠真」


「ああ。それと、変な嘘で君を傷つけるな、とも言われた」


 舞は視線を落とした。


 その顔には、泣きそうな色が浮かんでいた。


 だが、彼女は泣かなかった。


「ばか」


 小さな声だった。


「自分が異世界に行ってるくせに、こっちの心配してるの、ほんと悠真っぽい」


「彼は家族のことも心配していた」


「うん。そうだろうね」


「君への明確な伝言は、預かっていない」


「そこは気を遣わなくていい」


「だが、彼は君を大切に思っている」


 舞の頬が、夕陽のせいではなく少し赤くなった。


「そういうの、本人じゃない人から言われると変な感じ」


「すまないな」


「だから、すぐ謝らない」


「気をつける」


「それでいい」


 少しだけ、空気が柔らかくなった。


 だが、話は終わっていない。


 舞は真剣な顔に戻る。


「それで、悠真はいつ帰ってくるの」


 最も答えにくい問いだった。


 レオンは正直に言うしかなかった。


「分からない」


「分からない?」


「ああ。王国は勇者として彼を召喚した。すぐに帰すつもりはないだろう」


「そんな……」


 舞の顔が青ざめる。


「じゃあ、ずっと帰ってこない可能性もあるってこと?」


「否定はできない」


「何でそんな冷静に言えるの」


「冷静に言わなければ、君を余計に不安にさせる」


「もう十分不安だよ!」


 舞の声が、公園に響いた。


 レオンは黙って受け止めた。


 怒る権利は、彼女にある。


「悠真は勝手に連れて行かれて、こっちには別人が来て、おばさんも美琴ちゃんも何も知らなくて、私は知っちゃって。でも帰ってくるか分からないって……そんなの、どうすればいいのよ」


 声が震えていた。


「悠真はバカだし、変だし、中二病だし、面倒くさいけど……いなくなっていいわけじゃない」


 最後の言葉は、痛いほど本音だった。


 レオンはゆっくり口を開いた。


「俺は、彼を戻す方法を探す」


 舞が顔を上げる。


「本当に?」


「ああ。俺は神代悠真の帰る場所を守ると約束した。だが、帰る場所を守るだけでは足りない。彼が帰れなければ意味がない」


「王命だから?」


「最初はそうだった」


 レオンは少しだけ視線を落とす。


「だが、今は違う。これは俺の意思だ」


 舞が黙って聞いている。


「だから、俺は彼を戻す方法を探す。君に協力を頼みたい」


 舞は驚いた顔をした。


「私に?」


「ああ。俺には神代悠真の記憶がない。家族との距離感も、学校での立ち位置も、君たちとの過去も分からない。《バイブル》は現代知識を補助するが、個人の記憶は補えない」


「バイブル?」


「現代知識を表示する支援術式だ。俺にしか見えない」


「何それ便利そう」


「便利だが、かなり信用ならない。体育祭を戦闘儀礼として扱う」


「うん、意味分かんない」


 舞は少しだけ笑った。


「だから君が必要だ。神代悠真をよく知る者として。彼の帰る場所を守るために」


 舞は長く黙った。


 公園の夕暮れは、少しずつ夜に変わり始めていた。


 街灯が一つ、ぱっと点く。


 滑り台の影が長く伸び、ブランコが風でかすかに揺れる。


 やがて舞は、深く息を吐いた。


「分かった」


 レオンは黙って待つ。


「協力する」


 その声には、覚悟があった。


「でも条件がある」


「聞こう」


「一つ。悠真の家族を絶対に傷つけないこと」


「ああ」


「二つ。私に必要なことはちゃんと話すこと。全部じゃなくてもいい。でも、危ないこととか、悠真に関係あることは隠さないで」


「約束する」


「三つ」


 舞は少しだけ目を細めた。


「悠真の顔で、変な王子ムーブしないで」


「王子ムーブとは」


「よ、要するに悠真の顔で、らしくない事しないでってこと」


「気をつける」


「な、ならいいわ」


 舞は少し居心地悪い顔をしながら立ち上がった。


「レオン」


 舞が名前を呼んだ。


 今度は、少し自然だった。


「悠真を、絶対帰して」


「ああ」


 レオンは静かに頷いた。


「必ず方法を探す」


「探すだけじゃなくて、帰して」


「……分かった。帰す」


「よし」


 それは、約束だった。


 神代悠真と交わしたものとは別の。


 現代側で初めて交わした、協力者との約束。


 舞はスマホを取り出した。


「連絡先、ちゃんと使えるよね?」


「最低限は」


「じゃあ、何かあったら私に連絡して。バイブルよりは役に立つと思う」


「それは非常に助かる」


 それから二人は公園を出た。


 帰り道、空はもうかなり暗くなっていた。


 街灯の光が道路を照らし、家々の窓には明かりが灯っている。


 どこかから夕食の匂いが漂ってきた。


 神代家へ向かう道。


 これまでレオンは、その道を一人で歩いていた。


 正体を隠し、違和感を隠し、何とか状況を保とうとしていた。


 だが今は、隣に舞がいる。


 彼女は真実を知った。


 そして、協力すると言った。


 それだけで、道の重さが少し変わった気がした。


「ねえ」


 舞が言った。


「何だ」


「学校では、私がフォローする」


「それは、助かる」


「でも、頼りすぎないでよ」


 そのやり取りは、少しだけ軽かった。


 だが、その軽さが救いだった。


 重い秘密を抱えたままでも、会話はできる。


 笑うこともできる。


 少なくとも、舞はそれを選んだ。


 神代家が近づく。


 家の明かりが見えた。


 レオンは立ち止まる。


 沙織と美琴には、まだ真実を話せない。


 彼女たちの日常を守るために。


 舞も、それを分かっているのだろう。


「じゃあ、また明日」


「ああ。また明日」


「一人で抱え込まないで」


 その言葉は、神代悠真に向けられているようでもあり、レオンに向けられているようでもあった。


 レオンは少しだけ考え、頷いた。


「分かった」


「よし」


 舞は手を振って、自分の家の方へ歩いていった。


 レオンはしばらく、その背中を見送った。


 それから、神代家の玄関へ向かう。


 扉を開ける前に、一度だけ深く息を吸った。


 今日から、状況が変わった。


 秘密を知る者ができた。


 協力者ができた。


 そして、守るべきものも増えた。


 レオンは、これからの日々を想像して、小さくため息をしつつも、その顔は思いの外、明るかった。

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