第六話 王子、力加減を間違える 下
体育が終わり、授業後の休憩時間。
生徒たちは更衣室へ向かい、騒がしく着替え始めた。
男子更衣室には、汗と土の匂いが満ちている。
誰かがさっきのゴールについて騒ぎ、誰かが「足が痛い」と言いながら床に座り込んでいる。
体操服を脱ぎながら、田崎がレオンの方へ顔を出した。
「神代、マジで覚醒したかと思ったわ」
「覚醒はしていない」
「いや、あのゴールは覚醒イベントだろ」
「偶然だ」
「偶然であれは出ねえって」
周囲の男子も笑う。
「でも後半いつもの神代だったよな」
「一発だけすげえの何なん?」
「神代、必殺技一回しか使えないタイプ?」
必殺技。
その単語に、レオンは神代悠真の黒いノートを思い出した。
内容は分からないが、おそらく彼なら何か書いている。
漆黒、断罪、灰色、封印、覚醒。
そういう単語が並んでいる気がする。
レオンは曖昧に笑い、できるだけ会話を流した。
「今日は、たまたま調子が良かっただけだ」
「調子良かっただけであれなら、普段も出せよ」
「無理だ」
「即答かよ」
笑いが起きる。
この程度なら、まだ誤魔化せる。
田崎たちにとって、今日の神代悠真は「たまに動けた変なやつ」程度だ。
明日には別の話題に流れるかもしれない。
だが、舞は違う。
あの一瞬、彼女は見た。
偽貌の指輪が乱れた瞬間を。
レオンは体操服を脱ぎ、制服に着替えながら左手の指輪に触れた。
熱はもうないし、術式も安定している。
だが、今後は気をつけなければならない。この世界は魔力が薄い。
補助術式を維持しながら激しく動くのは危険だ。術を解いて魔力を、溜めることを考える必要があるかもしれない。
更衣室を出て廊下へ向かうと、舞が待っていた。
彼女は壁にもたれ、腕を組んでいる。
他の女子たちは教室へ戻っているのか、近くに姿はない。
廊下には、二人の間にだけ、妙な静けさが落ちていた。
「悠真」
舞の声は低かった。
「何だ」
「さっきの、何?」
来た。
レオンは表情を変えないように努めた。
「さっきの、とは」
「とぼけないで」
舞は一歩近づいた。
彼女の瞳には、もう軽いからかいはなかった。
昼休みのような探る視線でもない。
何かを見てしまった者の、戸惑いと警戒があった。
「一瞬、髪……光ったように見えた。黒じゃなくて、銀色っぽく」
レオンは黙る。
「目も、変だった」
やはり見ていた。
レオンは内心で息を吐いた。
ここで否定しきれるか。
おそらく、舞も確信は持っていない。
砂埃、光の反射、見間違い。
そう言えば、今日のところは流せるかもしれない。
だが、嘘を重ねれば重ねるほど、後で崩れた時の傷は大きくなる。
それでも今は、真実を話せない。
神代悠真が異世界にいる。
自分はその身代わりとしてここにいる。
姿を魔法の力で変えている。
そんな話を、ここで言えるはずがない。
「砂埃と光の反射だろう」
レオンは表情に出ないよう言った。
舞はじっと見つめる。
「それ、本気で言ってる?」
「他に説明がない」
「あるでしょ」
「何だ」
「あんたが、悠真じゃないって説明」
空気が止まった。
廊下の向こうから、生徒たちの笑い声が聞こえる。
グラウンドからは、別のクラスの笛の音が響く。
窓の外には、青い空と白い雲。
そんな日常の中に、非日常の言葉が落ちた。
レオンは、舞を見た。
彼女の目は揺れていた。
怒りではない。
恐怖だけでもない。
心配と疑念。
そして、少しの覚悟。
舞は本気でそう思い始めている。
目の前にいる神代悠真が、神代悠真ではないかもしれない、と。
「……俺は神代悠真だ」
レオンはそう答えた。
神代悠真の顔で。
神代悠真の声で。
舞は唇を噛んだ。
「嘘つき」
その言葉は、とても小さかったが、レオンには重く響いた。
「悠真は、あんな動きしない」
舞は一つずつ、確かめるように言った。
「あんなふうにボール止めれない。あんなふうに走れない。あんなふうに、人を庇うみたいに動けない」
レオンは黙っていた。
「それに、さっきの目」
舞の声が少し震える。
「私の知ってる悠真は、あんな色の目をしてない」
言葉が刺さる。
当然だ。
舞は神代悠真を知っている。
不器用なところ。
変なことを言うところ。
黒歴史を抱えているところ。
家族に素直になれないところ。
運動が得意ではないところ。
それでも、根は優しいところ。
その全部を知っているからこそ、違いに気づく。
レオンは、何も返せずにいた。
謝ることも、否定することもできなかった。
少しの間をおいて、舞は深呼吸した。
気持ちを飲み込むように。
不安を抑えるように。
壊れそうな何かを、まだ壊さないように。
「……ごめん。今の忘れて」
「舞」
「呼び方」
彼女は反射的に言った。
そしてレオンは、自分でもそれに気づいたように苦笑した。
「そういうとこも、変」
レオンは何も言えなかった。
舞は壁から離れ、鞄を持ち直した。
「今は聞くのやめとく」
その声は、さっきよりも少し落ち着いていた。
「でも、ずっとごまかせると思わないで」
そう言って、教室の方へ歩いていった。
レオンは廊下に残された。
窓から差し込む光が、床に長く伸びその上に、自分の影が落ちていた。
神代悠真の姿をした影。
だが、その中身はレオンハルト・アルヴァレインだ。
神代悠真をよく知る者の目は、簡単には欺けない。辛そうな舞の顔を見ていると、真実を伝えてしまった方がいい気さえしてくる。
レオン自身も、他人を演じる事に疲れてきていた。自分を抑えた生活に、こんな性格だったかどうか分からなくなりそうだった。
だが、王命だ。
イヤでも面倒でも王族として、ここで逃げるわけにはいかない。
神代悠真の帰る場所を守ると約束した。
その場所には、母と妹だけではなく、舞も含まれている。
ならば、彼女の疑念も、いつか受け止めなければならない。
ただ、今ではない。
レオンは静かに息を吸い、教室へ向かった。
廊下の窓に映る自分の姿が、ほんの一瞬だけ、見知らぬ王子のように見えた。
午後の授業が始まっても、舞はいつものように話しかけてこなかった。二人の間にだけ薄い壁ができたようだった。
レオンは、心の中で神代悠真へ呟いた。
君の幼馴染みは、鋭い。
そして、想像以上に君を大切にしている。
その事実は、レオンにとって救いでもあり、重荷でもあった。
放課後。
教室を出る時、舞は一度だけこちらを見て何かを言いかけて、やめた。
レオンもまた、言葉を探して見つけられなかった。
結局、二人は何も言わずに昇降口へ向かった。
夕暮れの校門を出る。
空は橙色に染まり、街並みは、その光を受けてゆっくりと静かに沈んでいく。
隣で何も言わずに歩いている舞にレオンは、小さく息を吐くのだった。




