第六話 王子、力加減に苦戦する 上
神代悠真として生活するうえで、レオンハルト・アルヴァレインが最も警戒すべきもの。
それは、魔王軍ではない。
暗殺者でもない。
王宮の陰謀でもない。
体育である。
その日の午前、時間割を見た時点で、レオンは嫌な予感を覚えていた。
机の上には、現代日本の教科書とノート。
窓からは朝の光が差し込み、教室には生徒たちのざわめきが満ちていた。
誰かが昨日の動画の話をし、誰かが小テストの点数を嘆き、誰かが眠そうに机へ突っ伏している。
その一見平和な空間の中で、レオンの視界の端に《バイブル》の表示が浮かんでいた。
体育:
現代日本の学校教育における身体活動科目。
走る、跳ぶ、投げる、球技、集団競技などを通じて体力・協調性・精神力を育成する。
注意:運動能力の急激な変化は周囲の疑念を招く可能性があります。
珍しくまともな警告だった。
だからこそ、なおさら嫌だった。
レオンは自分の手を見下ろす。
今の外見は神代悠真だ。やや細身で、特別鍛えているようには見えない普通の高校生。
手の甲も、指も、王宮で剣を握っていた時の自分とは違って見える。
だが、中身は違う。
レオンハルト・アルヴァレインは、王族として鍛えられている。
礼法だけではない。
剣術。
体術。
馬術。
魔法基礎。
戦場での身のこなし。
毒を避けるための食事作法。
第三王子とはいえ、王族である以上、最低限の自衛能力は必要だった。
いや、最低限というには少し多いかもしれない。第一王子ほど表舞台に立たず、第二王子ほど派閥争いに熱心でもなかったレオンは、面倒ごとを避けるための実力を身につけてきた。
敵を倒すためではない。
厄介ごとから逃げるために。
だから、身体は動く。
問題は、どの程度までなら神代悠真として自然なのか、まったく分からないことだった。
前の席の男子が振り返った。
「神代、今日体育サッカーだってよ」
「サッカー」
レオンはその単語を反芻する。
《バイブル》が即座に反応した。
サッカー:
足で球を扱い、相手陣地の門へ入れる集団競技。
世界的に普及しており、熱狂的支持者も多い。
手の使用は原則禁止。
注意:局地的には戦争に近い熱量を帯びる場合があります。
「戦争に近い……」
小さく呟いた瞬間、前の男子が笑った。
「大げさすぎだろ。まあ、男子はわりとガチるけど」
そうなのか。
レオンは窓の外を見た。
校庭では、すでに別のクラスが体育をしている。
生徒たちがボールを追い、走り、声を上げている。
砂埃が舞い、春の風が白いラインをかすめていく。
見たところ、武器はない。
防具もない。
魔法の使用も確認できない。
だが、集団で一つの球を奪い合い、敵陣の門へ押し込むという形式は、たしかに戦術要素を含んでいる。
侮れない。
「悠真」
声がした方を振り向くと舞だった。
彼女は自分の席からこちらを見ている。
その視線は、最近ずっとそうであるように、柔らかさの奥に疑いを隠していた。
「体育、無理しないでよ」
「なぜだ」
「なぜって……あんた、運動得意じゃないでしょ」
また新情報。
神代悠真は、運動が得意ではない。
いや、それ自体は予想していた事だった。
神代の部屋にトレーニング器具はなかった。本棚には魔術や神話の本があり、ゲーム機もあったが、運動部らしき痕跡はない。
靴も、運動で使い込まれているというより、ただ普段履きとして少しくたびれている程度だった。
だが、問題は程度なのだ。
少し苦手なのか。
かなり苦手なのか。
体育のたびに逃げたいほど苦手なのか。
「どの程度だ」
「何が?」
「いや、何でもない」
舞の目が細くなる。
「また変なこと言った」
「気のせいだ」
「最近の悠真、気のせいでできてるよね」
鋭い。
レオンは内心で身構える。
舞は小さくため息をついた。
「ほんとに無理しないで。変に張り切ったら怪我するから」
その声には、探るような響きだけでなく、純粋な心配も混ざっていた。
レオンは一瞬、返答に迷う。神代悠真としてなら、どう返すべきか。
強がるか。
適当に流すか。
面倒そうに頷くか。
王宮なら、心配には礼を返す。
だが、神代悠真が幼馴染みからの心配に素直に礼を言うとは思えない。
迷った末に、レオンは短く答えた。
「分かった。気をつける」
舞は目を丸くした。
「素直」
「素直では駄目か」
「駄目じゃないけど、悠真が素直だと不安になる。というか調子狂うな」
神代悠真よ。
君はどれほど周囲に不安定な信頼を積み上げてきたのか。
レオンは小さく息を吐いた。
そして体育の時間がやってきた。
生徒たちは更衣室で体操服に着替え、校庭へ出た。
青い空。
乾いた土の匂い。
白線が引かれたグラウンド。
校舎の窓に反射する光。
王宮の訓練場とは違う。
王宮の訓練場は、石床と砂地が整備され、武器棚があり、監督官が立つ。
剣戟の音。
魔法の炸裂音。
馬のいななき。
掛け声。
常に戦いの匂いがあるが、この校庭には、それがない。
勝ち負けはある。
だが、命は懸かっていない。
誰かを殺す訓練場ではなく、体を動かすための場所。
それが少しレオンの常識とは、ズレていて不思議だった。
教師が笛を吹いた。
「今日はサッカーな。軽くアップしたあと、男女別でミニゲームやるぞ。怪我すんなよ」
男子たちがざわつく。
「よっしゃ」
「俺フォワードな」
「神代、キーパーやる?」
「いや、神代にキーパー任せたら終わるだろ」
笑いが、どっと起きる。
レオンは聞こえていないふりをしたが、情報は得た。神代悠真は、少なくともサッカーにおいて戦力として期待されていない。
ならば、目立たない役割を選ぶべきだ。
だが、問題はルールである。
足で球を扱う。
手は使わない。
相手の門に入れる。
味方と連携する。
概要は分かるが、細かい動きは分からない。
《バイブル》が表示を出す。
サッカー基本戦術
球を保持し、相手の守備を突破し、得点を狙う。
初心者は無理に前へ出ず、味方への短いパスを意識してください。
注意:過度な身体接触は反則となる場合があります。
まともだ。
今日は珍しく頼れるかもしれない。
レオンはそう思った。
その考えは、数分後に崩れることになる。
準備運動が始まった。
まずは軽く走る。
グラウンドを一周。
周囲の生徒たちは、だらだらと走り出した。
話しながら走る者。
面倒そうに足を引きずる者。
最初だけ全力で飛び出してすぐ失速する者。
レオンは迷った。
どの速度が神代悠真らしいのか。
遅すぎれば目立つ。
速すぎても目立つ。
普通が分からない。
とりあえず、集団の後ろから三分の一あたりに位置取る。
体は軽かった。
現代は魔力が薄い。
だが、走るだけなら問題ない。むしろ、神代悠真の体格に調整された状態でも、レオンの感覚では動きやすい。
無意識に呼吸を整え、足音を殺し、重心を安定させる。
その結果、妙に綺麗なフォームになった。
前を走る男子が振り返る。
「神代、走り方きれいじゃね?」
レオンは慌てて足運びを乱した。
すると今度は、前の男子が言う。
「急にバテた?」
「調整中だ」
「何を?」
「呼吸を」
「体育ガチ勢かよ」
また失敗。
校庭の端では、舞が女子の集団の中にいた。
彼女は準備運動をしながらも、ちらりとこちらを見ていた。
舞の眉が、わずかに寄る。
レオンは軽く視線を逸らした。




