四日目・深夜
「……本当に、どこも何ともないのね」
ロクィアは、自室に戻るなり、アンシラを椅子に座らせ、体のあちこちを調べ始めた。
「ご安心ください、かすり傷ひとつございません」
お茶の支度をしましょう、といって、湯を沸かす支度を始めた姿は、とても襲われかけた直後だとは思えない。
「もう……心配したのよ、こっちは」
ベッドの端に腰を下ろし、深いため息をつくロクィアを、アンシラが、ちらりと覗く。
「今夜は珍しく、素直でいらっしゃいますね」
「事件が進展しないんだもの。……不安になっているのかもね」
「どうぞ、夜用のお茶でございます。失礼して、わたくしもご一緒に」
受け取ったカップから漂う甘い香りを嗅ぎながら、ロクィアはそっとアンシラに目をやった。いつでも自分を守ってくれるこのメイドは、時々自分のことには無頓着になる。
「アンシラ、さっきの件、もう一度、聞かせて。相手に気づいたのは、いつ?」
「気配自体にはかなり前から気づいておりましたが、人間だと分かったのは井戸に着いた後です」
「だとすると、相手はしばらく様子を見ていたってこと?」
「そうなりますね。魔法のひとつやふたつ、不意打ちできるだけの隙はあったと思います」
さらっと言われた物騒な言葉に、ロクィアは思い切り眉をひそめた。
「ともかく、アンシラを襲おうとした相手を、一連の犯人だと仮定してみる」
「良いことだと思います。現状確かなことは少ないですから」
「フォルティスさんは、誰にも破れない障壁の内側にいた。そして、ごく初歩の魔法で、抵抗せずに殺された。次に、オラクラさんは、ごく普通の魔法で襲われた。そして今夜、あなたが襲われたけれど、相手は何もしなかった。もしくは——」
「何かを企んでいたが、失敗した、でしょうか」
ロクィアはカップに口をつけると、しばらく黙り込んだ。
「そう。……それに、もうひとつ引っかかっているのが『じぶんの、じゅもんで』という、オラクラさんの最期の言葉」
「その言葉だけならば、やはり精神操作の魔法が考えられます」
誰かに操られて、自分の呪文で。そう置き換えれば、オラクラの最期の言葉とも噛み合う。
「でも、精神操作の術は、フォルティスさんの障壁に阻まれる。精神干渉を受けた痕跡も残っていなかった。私がこの目で確かめたんだから、間違いない」
「先日拝見した皆様の固有魔法は、凄まじいものでしたが、それでも、フォルティス様の魔法障壁は破れないものなのでしょうか」
インヴィラの見えざる魔物の顎、テンプスの満ちては欠ける月の相、ケレリクトルの穿つ、セクンダの多重焔。
フォルティス自身が選び抜いた魔法使いたちの魔法は、どれも桁違いの威力を持っていた。
「無理だと思うわ。インヴィラさんはフォルティスさんに恨みがあるようだけれど、その彼女が手出しできないと諦めていた」
ロクィアは立ち上がると、髪の毛をぐちゃぐちゃと掻き回して天井を仰いだ。
「ダメだわ。いっそのこと、全部別々の事件が、偶然重なったと思ったほうがましなくらい!」
「お嬢様、お座りください」
アンシラは、ロクィアを椅子に座らせると、どこからか取り出した櫛で、その髪を丁寧に梳いていく。乱れた髪が一筋ずつほどけていくうちに、ロクィアの尖った息も、少しずつ収まっていった。
しばらく髪を梳く規則正しい音に身を委ねていると、あら、と言って、アンシラがその手を止めた。
「なに! 何かに気づいた?」
「はい、気づいてしまいました」
アンシラは、ロクィアの髪の横を、両側でつまんでみせた。
「お嬢様はいつも片方だけ結んでいらっしゃいますが、両方結んでも可愛らしいのではないですか?」
「もう! 今はそんなことどうでもいいわよ。この髪型が気に入ってるんだから、余計なことしないで」
アンシラの変わらぬ態度に、ロクィアは力が抜ける気持ちだった。
ふっと息を吐き出すと、ロクィアは気を取り直して、もう一度考えを整理していく。
「……手口はいったん後回し」
ロクィアの手が無意識にこめかみに当てられると、アンシラはそっと髪から手を離した。
「アンシラが襲われた時、誰がどこにいたか。——テンプスさんは、今朝の魔法戦で気を失ったまま、自室から動けない。セクンダさんは、叔父上と今朝のいざこざの話をしていた。インヴィラさんの姿は見ていないけど、扉越しに私が声を聞いてる。あとは——」
ロクィアが名前を口にしかけたとき、扉が二度ノックされた。アンシラが扉を開くと、姿を見せたのはアウルスだった。
「叔父上。ちょうどよかった、様子はどうでしたか?」
「うむ。ケレリクトルは、床に就いておったようだ。昼間に魔法を多用して疲労したとかでな。先ほどの騒ぎには気づいておらんかったようだ」
「やはり、それだけでは、アリバイとしては弱いですね。アンシラの件だけ考えれば、怪しいのはケレリクトルさん……」
「——ですが、お嬢様は、腑に落ちておいでではありませんね」
ロクィアはカップを手に取ると、まだ残っていたお茶を一気に飲み干した。
「ひとつ、確かめたいことがあるわ」
「何かわかったのかね?」
「いいえ、叔父上。今のところは何も。でも、私たちは最初から何か勘違いしていたのかもしれません」
アンシラは、カップを受け取りながら、ロクィアの顔に浮かんだ表情を見つめた。
「お嬢様、もしやまた何か危ないことをお考えですか?」
ロクィアは肩をすくめると、少し頬を膨らませてみせた。
「まただなんて……いつも無茶をやってるみたいじゃない」
「それは失礼しました。いずれにせよ、お嬢様にはこのアンシラがついております」
アンシラの微笑みを見ると、抗議するように膨らませていた頬はすぐに元へ戻っていく。
「確かに少し危険かもしれないけど。——きっと何か仕掛けがあるはずなのよ。だって、魔法はすべて言葉でできているんだから」




