四日目・夜
夜半、屋敷の裏手はすっかり寝静まっていた。
今朝の乱戦で薙ぎ倒された庭木の影が、月明かりのなかに黒く伸びている。
離れの井戸へ続く小径は、雲が月を出入りするたびに闇へ沈み、スカーラはその闇の奥に身を寄せて、遠くに揺れるひとつの灯りを目で追っていた。
手燭を提げたメイド——アンシラが、空の水差しを片手に、井戸のほうへゆっくりと歩いてくる。
灯りの輪は足元を照らすばかりで、小径の脇の暗がりまでは届いていなかった。
突如発生した魔法使い同士の争い。
スカーラはその混乱にまぎれて、魔法使いたちの詠唱を直接聞くことができた。いざとなれば、あの魔法使いたちは何とでもなる。
評議会の権能魔法は強力だが、それとて自分なら切り抜けられる。スカーラには、その自信があった。
しかし、途中から屋敷に来たメイドは様子が違っていた。
今朝の魔法使い同士の争いの中でも、ロクィアを担ぎ上げ、安全な場所に退避してみせた動きは、ただものとは思えなかった。
それに、スカーラの頭を悩ませているのは、彼女の魔法だ。その内容は分からないものの、すべてが見える、と言っていた。
それが誇張を含んでいたとしても、オラクラの未来視を目の当たりにしている以上、侮ってかかることはできなかった。
井戸の手前で、アンシラの足が止まった。
手に持っているのは手燭だけで、他に魔法触媒らしきものは持っていない。魔法触媒がなくとも魔法は発動できるが、その威力は格段に下がる。
魔法名を唱える前に正体を明かし、粗忽者の詩人の顔で、泣きべそのひとつでもかいてみせればいいだろう。
仮に魔法が実行されてしまっても、威力のない魔法なら、偶然を装ってかわしてみせる。
危険だが、あまり悠長にはしていられない。
スカーラが、足音を殺して姿を現すと、気配を察したのか、アンシラがこちらを向いた。
銀縁の眼鏡が手燭に照らされて光る。
この距離なら、こちらの顔はまだ見えないはずだ。このまま向こうが警戒して、魔法を唱えれば——。
アンシラは手燭を掲げ、軽く首を傾げると、散歩の途中で顔見知りにでも出会ったかのように、なんでもない様子で声をかけた。
「——ごきげんよう」
言葉と同時に、琥珀色の光線がスカーラのすぐそばに突き刺さり、爆風が身体を小径の奥へ吹き飛ばした。したたかに地面へ打ちつけられたスカーラの肺の底から、息が絞り出される。
あまりの衝撃に、目の前の景色が霞む。
スカーラは、自分の身に何が起きたか理解できなかった。あまりの衝撃に、目の前の景色が霞む。
魔法で攻撃されたのか——しかし、魔法は唱えてられていなかったはずだ。
生垣の陰、灯りのかろうじて届かぬ闇のなかで、スカーラは痛む体を無理に起こした。伏兵かと気配を探るが、この闇に、アンシラのほかに人の気配はない。
追撃がこないうちに、姿を現して、名を名乗ればいい。うっかりと迷い込んだ道化を演じて、そして、この場を逃れる……。
しかし、あの一撃は、詠唱もなく放たれたというのか。いや、制御句のひとつもないまま成立する魔法など、この世にない。
世界がその言葉を受け入れなければ、結果としての現象が起きるはずがない——。
混乱し、まとまらない考えを抱えたまま、スカーラは、結局身をひるがえし、その場を後にする判断をした。
この時のスカーラに、もはや自分を偽る余裕はなかった。
* * *
「アンシラ!」
響き渡る衝撃音を聞きつけて、ロクィアが飛び出してきた。
「お騒がせして申し訳ございません、お嬢様」
「怪我はない? いったい何があったの?」
ロクィアはアンシラに駆け寄ると、怪我をしていないか、せわしなく確認していく。
「怪しげな人影を見つけたのですが、殺気を感じましたもので、思わず……」
「まさか、フォルティスさんを殺した犯人が? でも、どうしてアンシラを」
「きちんと外したのですが……どうやら逃げられてしまったようです。死体はありませんでしたので」
散歩の途中で見つけた野良猫を、うっかり見失ってしまいました、くらいの軽さで話すアンシラに、ロクィアは頭を抱えたい気分だった。
「気楽に話す内容じゃないわ! アンシラにもしものことがあったらどうするの」
「まあ。ご心配いただけるなんて、光栄でございます」
あくまで変わらぬアンシラの表情を見て、ロクィアは思わず抱きしめたくなったが、遠くから自分たちを呼ぶ声を聞いて、アンシラの手をつなぐに留めた。
「ロクィア、アンシラ! 何事だ!」
屋敷から姿を現したのは、セクンダを伴ったアウルスだった。
「お前も魔法使いだったのか。ただのメイドではないと思っていたが」
アンシラの説明を聞くと、セクンダは感心した様子で頷いた。
ロクィアはセクンダの反応を見て、ケレリクトルがアンシラに初めて会った時、一瞬何かに反応していたことを思い出した。
「そういえば、ケレリクトルさんは?」
「儂はセクンダから、今朝のいざこざについて話をきいておったところでな」
「俺が口火をきったわけではないのに、テンプスの意識は戻らず、インヴィラの婆さんは非協力的で、結局俺に皺寄せがきている」
セクンダは不機嫌そうに眉を顰める。
「インヴィラさんについては、私が話を聞くために部屋を訪れていましたが、扉越しに断られたところです」
倒れて自室に運ばれたテンプス、部屋にこもったインヴィラ、目の前のセクンダとアウルス、そして襲われたアンシラ。
「となると、ここにいないのはケレリクトルさんだけですね」




