三日目・夜
その夜、広間の暖炉のそばには、また小さな影があった。
「オラクラ様。今宵も、眠れませんか」
声をかけると、少年は肩を跳ねさせてから、相手が詩人だとわかって、ほっと息をついた。
「はい。部屋にいると、いろいろ考えてしまって」
「ご無理もない。ご一緒してもよろしいですか?」
少年が頷くのを見て、スカーラは、暖炉を挟んだ反対側に腰を下ろした。
「実は、先日のお話が、どうにも頭から離れませんでして。あなた様の、その目のことですが。いえ、なにぶん、歌の種を探すのが商売なもので」
「僕の目を歌に?」
「そうです。あなた様の目は、きっと恐ろしいものではなく、素晴らしい目なのでしょうとも」
「そんなすごいものじゃないです。魔法を唱えると、ほんの少しだけ視えるだけで。視たいものが視えるわけでもないし……」
「どれくらい先のことが視えるのですか? そう、たとえば明日の天気とか」
「視えるのは、ほんのちょっと先のことだけです。あと、僕のまわりで起きること」
少年は膝の上で指を組んで、ぽつりぽつりと答えていく。
自分のまわりで起きる、とは、どれほどの範囲なのだろうか。
スカーラとしては、この屋敷から抜け出すまで、些細なことでボロを出すわけにはいかない。
その魔法は、脅威になるものなのか、見極めなければいけない。
「ふうむ。して、その『まわりで起きる』とは、どれほどの——」
オラクラの指が、ぎゅっとローブを握りしめていることに気づいて、スカーラは言葉を止めた。
指は白くなるほど力が込められていて、先ほどまでこちらを見ていたはずの視線は、宙に向けられている。
「……オラクラ様?」
オラクラは、スカーラの問いかけには答えず、その口からは、流暢な呪文の旋律が流れ出た。
「ぼくは視ます、ぼくのまわりの、すこし先を——揺らぎ移ろう末々」
最後の制御句が唱えられると、オラクラの魔法が成立し、その瞳が乳白色に染まる。
一瞬のあと、再び元の色に戻ったオラクラの瞳は、大きく見開かれてスカーラの顔を凝視していた。
そして、慌てて両手で自分の口を塞いだ。
「これはこれは。実際に魔法をお見せいただけるとは。……何か、視えましたかな」
オラクラは手で口を覆ったまま、激しく首を振った。
この少年は、生来と思しき臆病さで、スカーラの態度に違和感を覚えたのかもしれない。
焦って踏み込みすぎたか。
「よほど恐ろしいものをご覧になったとみえる。なんでしたら、もう一度お唱えになって、お確かめになっては?」
オラクラは先ほどより強く首を振ると、口を塞いだまま立ち上がり、じりじりと後ずさっていく。
そのとき、広間に続く廊下から、話し声が近づいてきた。
スカーラは素早く立ち上がると、短く何事かを唱えた。
閃光が広間を白く塗り潰し、オラクラの小さな体は、燭台もろとも壁際まで薙ぎ払われた。
* * *
「お嬢様、足元にお気をつけて」
「わかってるってば、子どもじゃないんだから」
「お部屋に籠ってばかりでは、良い考えも浮かびません。歩くことは良い刺激になるのです」
「確かに現状は手詰まりだけど。早く戻って研究の続きがしたい……」
「お嬢様にはわたくしが付いております。安心して事件の解決に取り組んでくださいませ」
「……私は事件に取り組みたくないのよ」
前の時もそうだったが、アウルスに同行を命じられるときは、碌なことがない。
きっとあの叔父上が、事件を呼び込む体質に違いない。
ロクィアは、自分の置かれた状況を、アウルスのせいにすることで、せめてもの憂さ晴らしを試みた。
「広間で少し休んでから、お部屋に戻るとしましょう」
手燭を提げたアンシラに引かれて、ロクィアが広間に続く廊下の角を曲がった時だった。
広間の奥から、白く眩い輝きが伝わってきた。
少し遅れて、何かの砕ける音と、床を打つ鈍い音が響く。
「——アンシラ!」
「はい」
駆け出した二人が広間で見たのは、倒れて火を上げる燭台と、壁際にうずくまる小さな体だった。
「オラクラさん!」
ロクィアは膝をついて、少年を抱き起こした。ローブの胸に、焦げた穴が開いている。火のにおいに、血のにおいが混ざっていた。
「しっかりして。いま、手当てを——アンシラ、叔父上を!」
アンシラが身を翻すより早く、腕の中で、少年の唇が動いた。
「……僕の、……じぶんの……じゅもんで……」
「喋らないで。傷に障る」
オラクラの言葉は、そこで途切れ、ロクィアの腕の中の重みが、ふっと増した。
その目には恐怖の色が焼き付いていた。
* * *
スカーラは、燭の落とされた廊下の闇に身を置いて、広間の入り口を窺っていた。中から、押し殺した話し声が聞こえてくる。
「——この子は確かに『自分の呪文で』と言った。でも、この傷は他者の魔法によるもの」
「初歩の魔法のようですが、至近距離で受けておりますね」
「フォルティスさんを殺した犯人の仕業? でも、なぜオラクラさんを……」
「いずれにせよ、ロクィア、お主もひとりで出歩くことは控えよ」
声の主は、捜査官のロクィアと、メイドのアンシラ。それに監査官のアウルス。
予定外のことだったが、自分は何も証拠を残していないはずだ。だが、しっかりと確かめておかねばならない。
「わたくしがいる限り、ロクィア様には何人たりとも傷つけさせはいたしません。なにせ、わたくしは、皆さまには見えないものが見えておりますので」
そっとその場を離れたスカーラの耳には、アンシラの言葉だけが残り続けていた。




