番外編① もうひとつの居場所
真新しい制服を着た学生を見かける季節、流美は会社の先輩に声をかけられた。
「流美、明後日の金曜日に飲みに行こうよ」
「いいですよ〜。どこに行きます?」
「いつもの所〜。貴一も誘ったから三人ね」
「わかりました!久しぶりの飲みだから楽しみです!」
三年先輩の聖良は、流美の教育担当だった。
いつも、こうして飲みに誘ってくれる。
自転車で転んで入院していた頃の記憶は、どこか曖昧だった。
怪我自体はそこまで酷くはなかったが、頭を打っていたらしく、しばらくは会話ができなかったり、表情も虚ろだったらしい。
流美は、何か夢を見ていた気がする。けれど、今では何も思い出せない。
退院してから三週間ほど自宅療養をしていたが、ある日を境に、頭の中が急にクリアになり、劇的に回復した。
その後、散歩や買い物に出かけられるようになり、職場復帰も果たした。
今でも時折、頭にモヤがかかることはあるが、医師からは、入院中に起きた感染症の影響かもしれないと言われている。
「よし……これで終わり!」
流美はパソコンを閉じると、デスク周りを軽く拭いた。
「じゃあ、お先に失礼します」
流美は、足早に会社を出た。
今日は、前から気になっていた人形を買おうと、朝から浮き足立っていた。
休職中、ふらりと立ち寄ったアンティークショップに、そのビスクドールはあった。
白銀の髪は、つま先まで長く。
目は伏し目がちで、その奥には赤い宝石が嵌め込まれている。
口元は、僅かに微笑んでいた。
美しい女性をかたどったそれは、すべてを見通すような、どこか神々しさを感じさせた。
流美は、そのビスクドールを見た瞬間、理由もなく涙が溢れた。
『ここに居ていい』
そう言われているような気がした。
復職して、給料が出たら買おうと、店のオーナーに頼んで取り置きをしてもらっていた。
「あぁ……よく来たね。きっとこの子も、待ってたよ」
店のオーナーは、店の奥の棚からアクリルケースで保護されたビスクドールを流美に差し出す。
「取り置きして頂き、ありがとうございました。私も、この子に会えるのを楽しみにしていました」
流美は、店のオーナーが箱に入れるのを見ながら、笑顔で答えた。
ーーーーー
家に帰ると、兄が遊びに来ていた。
兄の愛犬も一緒だ。
「おっ……流美おかえり」
「ただいま」
「調子はどうだ?」
「うん、大丈夫だよ。仕事も無事に復帰出来たし。それより、このワンコ、兄ちゃんの?」
「あぁ……言ってなかったっけ?俺、犬飼い始めたんだ。パピヨンだよ」
「パピヨンって……マリー・アントワネットが飼ってたってやつだよね。蝶みたいな耳の」
「そうそう、それそれ」
「えー名前はなんて言うの?」
「風斗だよ〜」
「ふうと?……フーちゃんだね!よろしく、フーちゃん」
流美が屈むと、尻尾を振って飛び込んできた。
手を舐め、頬を舐め、口、鼻と、順番に舐めていく。
「ぶへっ……兄ちゃん、鼻の穴に舌が入ったー」
「あはは。鼻の中まで舐めるのは、よくあるらしいよ。なんでも、おいしいんだって」
「うへ〜なんかやだ〜」
「ほら、顔を洗っておいで。母さんがご飯できたって」
「はーい」
なんでもないやり取りなのに、流美の心は、なぜかきゅっと締めつけられるような気がした。
「今日は泊まっていくの?」
「いや、飯食ったら帰るよ。今日は流美の様子を見に来ただけだから」
「……そう言いながら、フーちゃん見せびらかしに来たんでしょ?」
「ははっ。バレたか!おもちゃやおやつ、いつでも待ってるよ」
「もー兄ちゃんったらー」
「あははは」
ビスクドールを無事に家に迎え入れることができたし、フーちゃんにも会えた。
日常が戻ってきた。
それでも——どこか、物足りない。
そんな違和感を、流美は感じていた。
夕食を終え、兄とフーちゃんを見送ると、流美は自室に入った。
部屋の出窓に飾った、ビスクドールを眺める。
赤い瞳がキラキラと輝いている。
『もう、寝なさい』
そう言われた気がした。
静かな美しい声を想像しただけなのに、どこか懐かしさを感じながら、流美は眠りについた。
*****
約束の金曜日、いつも流美たちが飲みに行く焼き鳥屋は、今日も満席だった。
周りでは歓迎会なのか、会社帰りの人が多い。
少し狭い席に腰を下ろし、アプリで注文を済ませると、すぐに冷たいビールが運ばれてきた。
「それでは!流美の復帰2ヶ月経過を記念しまして、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
「って、聖良さん、復帰1ヶ月もやりましたよ〜」
「いいじゃない、なんだって。飲む理由よ!」
「あはは!さすがです!」
流美は届いたビールを、一気に半分以上飲み干した。
「あー、やっぱりビールは冷たいのが美味しい!」
「本当、いつもいい飲みっぷりね。次は何飲むの?」
「生搾りレモンサワー!」
「おっけー」
聖良はスマホで追加注文をする。
「流美さんは、もう問題なく働けてる?」
一つ先輩の貴一は、少し心配そうに流美に問いかけた。
入院中も見舞いに来てくれたそうだが、流美は全く覚えていない。
「うん。大丈夫ですよ。貴一さんは課が変わりましまけど、どうですか?」
「まあ、なんとか上手くやってるよ」
「そうなんですね〜」
「もしかしたら、今の課の方が合っているかもしれないな」
「どんなところですか?」
流美は、残ったビールを飲み干すと、届いた生搾りレモンサワーのレモンを絞る。
「自分のペースで出来るんだ。今までは、周りに気を遣うことが多かったから」
貴一は、ねぎまをビールで流し込む。
「周りよく見てましたよね。そういうの得意なんだと思ってました」
「得意なことが、好きなこととは限らないわよ〜」
聖良はサラダを取り分けると、それぞれの前に置いた。
「さて!ここで皆さんにご報告があります!」
聖良は手を挙げ、胸を張った。
店員が呼ばれたと勘違いして近づいてきたのを、貴一が軽く首を振って制した。
「すみません……ただ手を挙げただけなんで……」
貴一は小声で店員に謝った。
「聖良さん、何があったんですか?」
「この度、私、聖良は——結婚しまーす!!」
「えー!おめでとうございます!!」
「おめでとうございます」
聖良は、高らかに宣言したかと思えば、急に照れくさそうに笑った。
「それでね、結婚式に二人に参加してほしくて……」
「もちろんです!いつですか?」
「再来月よ」
流美と貴一は、ほとんど同時に頷いた。
「わー、結婚式に参列するの初めて!聖良さん、きれいなんだろうなぁ〜」
「やだ〜今から想像しないでよ」
「あっ、ちなみにドレスの色ってもう決まってます?被っちゃダメなんですよね?……私、お呼ばれの服、どうしよう」
流美は、ぽつりと呟く。
「それ、私の前で言う?」
「だって〜、これまで呼ばれたことないし、靴だってスニーカーと就活で使ったパンプスしかないですよ〜」
「そしたら〜流美、貴一と靴を見に行ったら?貴一、センスいいし似合うの見つけてくれるよ」
聖良は、流美にウィンクをする。
「へっ?」
「いいよ。流美さん、いつ行く?」
「えっ?えーっと……来週末?」
「分かった。来週末な」
聖良はにやりと笑うと、ビールを飲み干し、おかわりを注文した。
(貴一さんとお出かけ……)
流美はアルコールに強い。決して酔ったわけではない。
それでも……
(あれ?顔あつい……私、酔った?)
流美の心臓は、早鐘を打ち始めていた。
番外編、流美パートは続きます




