79:ジャスミンの目覚め
ブランシャール家の屋敷は、王都から離れた地にある。
リオンはブランシャール家の長男であり、三年前に家督を継いだ。
国境に位置するが、隣国との関係は概ね良好だ。
金山などを抱える家が取り潰され、その領地もリオンが管理している。
邸宅の装飾は豪奢でありながら無駄がなく、選び抜かれた最高級の品で統一されていた。
廊下には濃紺のカーペットが敷かれ、塵ひとつ落ちていない。
セイラはジャスミンの部屋の前で足を止めた。身体が強張り、指先一つ動かせない。
リオンは軽やかに三度ノックをすると、部屋の中から小さく「はい」と返事が返る。
「ジャスミン、私だ。開けてもいいか?」
「お兄様?……どうぞ、お入りください」
リオンが扉を開けると、天蓋付きのクイーンサイズのベッドの上で、上半身を起こしたジャスミンが静かに座っていた。
大きな瞳は、痩せた頬を際立たせている。
それでも、その瞳は子どものように輝いていた。
「体調はどうだ」
「お兄様、そればかりですね。大丈夫です。それより、お菓子が食べたいです」
「はは……しばらくは控えなさい。もう少し体調が回復したら、いくらでも食べればいい。王都中のお菓子を取り寄せよう」
リオンは優しく微笑むと、扉の外で立ちすくむセイラを一瞥した。
「セイラ、早く入って来なさい」
リオンの言葉に、ジャスミンは身を乗り出して扉を覗く。
「お姉様?いらっしゃるのですか?」
長らく聞いていなかった、愛らしいジャスミンの声。
セイラはふらつきながら、それでもベッドサイドへ駆け寄った。
「ジャスミン!……良かった」
涙を流しながら、セイラはジャスミンを強く抱きしめる。
「お姉様、なぜ泣いているんですか?」
きょとんとしたジャスミンの顔を、真っ直ぐに見つめる。
「ジャスミン……ジャミー……」
「……お姉様、お兄様にまた意地悪されましたか?」
ジャスミンは困ったようにセイラを見つめると、リオンを睨みつけた。
「おやおや、とんだ濡れ衣だよ……ジャスミン。君が元気になって、セイラは喜んでいるんだ」
「……?私はずっと、元気ですよ?」
ジャスミンは、不思議そうに首を傾げる。
「あれ?後ろにいるのって……ルキオ?」
まだ扉付近で控えていたルキに気付く。
「……はい。ルキオです」
ルキはリオンとセイラの許可を得てから、静かにベッドへ近づいた。
「……ルキオ、背伸びた?なんだか、大人っぽくなったね……」
ルキは「はい」と静かに答えた。
「ジャスミンは、この六年間の記憶がなくてね。まだ十四歳だと思っているんだよ」
「……記憶が、ない」
セイラは、予測していたとはいえ、その長すぎる時間を前に言葉を失った。
「ジャスミン……今、君は二十歳だよ。六年間、ずっと体調が悪くて、この部屋で過ごしていたんだ。ルキオの背が伸びたように見えるのも、私が老けたように見えるのも、そのせいだよ」
リオンは静かな声で、ゆっくりとジャスミンに語りかける。
「……でも、お姉様は変わりませんよ?だから、それはおかしいです」
ジャスミンはセイラの顔をまじまじと見つめ、首を傾げた。
「うん……セイラはあまり変わらないかもね。元々大人びていたから」
ジャスミンはうつむいたまま、それでも納得がいかない様子でいた。
「……じゃあ、学園は?みんな、卒業しちゃったの?友人たちは?……ローズマリーは?」
「……ジャスミンは病気だったから、学園は卒業できないまま、中退という形になったんだ。学びたいことがあれば……家庭教師をつけよう」
リオンは、ジャスミンの手をそっと包み込んだ。
「……友人たちは、みな遠いところに引っ越してしまったよ」
リオンは、穏やかな表情をひとつも変えず、続けた。
「……ローズマリーも、遠い場所で病を患ったようでね……。もう、会えないんだ」
セイラも、友人を失ったジャスミンを慰めるように、そっと肩を寄せた。
(……表情のコントロールまで、お兄様と同じくらい出来るようになってしまったわ)
ジャスミンに表情を見られて、空気を壊さないよう、ルキはリオンの背に隠れた。
——表情に、きっと出てしまっているから。
「……お友達、いなくなっちゃった?」
ジャスミンは、寂しそうにぽつりと呟く。
リオンはセイラに視線を向けると、わずかに口角を上げた。
(……まずい……この流れは)
「セイラ、ルシナ嬢は友人になれないかね。確か、年は同じだっただろう?」
(……この兄は……)
「えぇ……そうね。年も同じだし、きっと性格も合うと思うわ」
セイラは穏やかに微笑むと、ジャスミンの頭をそっと撫でた。
「そうだろう。では、屋敷に招待して、お茶会でも開こう。ルシナ嬢も一人では心細いだろうから、あの場にいた女の子も連れてくるといい」
(……お兄様の思い通りにはさせない)
「ジャスミンがもう少し元気になったら、カフェに行くのはどう?……ジャスミン、私、今はカフェを経営しているのよ?」
カフェと聞いて、ジャスミンはぱっと目を輝かせた。
「お姉様すごい!私、お姉様のカフェに行ってみたい!」
「えぇ。じゃあ元気になるように、ご飯をしっかり食べましょう。待っているわ」
セイラはリオンを見つめ、妖艶に微笑む。
リオンは、その視線を真っ直ぐに受けると「それはいい案だね」穏やかに微笑んだ。
ジャスミンは、兄たちの話を聞きながら、リオンの背に隠れているルキを覗き込む。
「ねぇ、ルキオ。私が病気になった時、そばにいた?」
急に話しかけられ、ルキの心臓は、大きく跳ねた。
「……いえ、お守りできず……床に伏せられてからは、護衛騎士を辞めましたので……」
ルキはうつむきながら、か細い声で答えた。
胸の奥にある傷が、静かに抉られるような感覚がした。
「……守る?病気なのに?」
ジャスミンは、首を傾げた。
「私が寝てばっかりだから、仕事なくなっちゃうもんね。お姉様の護衛をすれば良かったのに……。ルキは今何をしてるの?」
「今は、町で靴職人をしています」
「そうなんだ!ものづくりが好きって言ってたもんね!お祖父様が靴職人だったのよね。騎士のルキオも素敵だけど、靴職人のルキオも素敵よ」
ジャスミンは、ルキに優しく微笑む。
「……なんだかね、苦しい時にルキオがそばに居てくれた気がしたの。ありがとうね」
「……はい……」
ルキの痛みは少しだけ和らいでいく。
「私からも礼を言おう。今なら聞いて貰えそうだ」
リオンはルキに向き直ると、手を差し伸べる。
「君が、ジャスミンの護衛騎士でいてくれて、本当に良かったと思っている。君が思っている以上に、我々を護ってくれた。心から礼を言う」
ルキは、手のひらから伝わるリオンの感謝の気持ちに、胸が熱くなる。
「……はい、ありがとうございます」
握手していた手を離すと、ルキは胸に手を当てて一礼した。その目は、もう前を向いて歩き出す青年の目をしていた。
その時、扉から筆頭執事が顔を覗かせた。
「お食事のご用意が整いました。皆さま、食堂へお越しください」
「えっ!ご飯!?なんだろう」
ジャスミンは嬉しそうな顔で、ベッドから出ようとする。
「ホリッジだよ」
リオンが柔らかく答えると、ジャスミンの勢いが、ふっと落ちる。
「えー、ホリッジ?私、あまり好きじゃない」
「体力は落ちているのだから、我慢しなさい。私たちも同じものを食べるから」
リオンが諭すと、ジャスミンはしぶしぶ頷いた。
ジャスミンはセイラに身支度を整えてもらい、食堂へ移動した。
歩くのもやっとの様子で、ルキがそっと支えた。
「ふぁ〜……食堂まで歩くだけで、こんなに疲れたかしら?」
「少しずつ運動すれば、すぐに戻るよ」
リオンはジャスミンの様子を見ながらそう言い、筆頭執事をそばに呼んだ。
「これから、私たちだけで食事をする。お前とルキオは、別の場所で待機していてくれ」
「かしこまりました」
筆頭執事ユージンは、恭しく一礼をすると、ルキと共に、自室へ向かった。
「リオン様にお気遣いいただいてしまいましたね。さあ、ルキオさん。久しぶりにお話しませんか?」
ユージンは、満面の笑みを浮かべた。




