第9話 「戻れ」と言われても、契約済みです
レオンの執務室の重厚なデスクの上に、一通の書状が置かれていた。
国境の公文書便で届けられた、王太子アルベルトからの正式な召還状だ。配達人は受領証だけを残し、返書を待つため外の控え室へ下がっている。
ルネは封蝋を解き、書面を読み進めた。
内容は、南環結界の破断事故に関する調査と復旧への協力要請。解任や婚約破棄への謝罪はなく、『三ヶ月の臨時主席監査官として帰国せよ』と命じるだけだった。
「私はすでにセレネスの官職を解かれ、今はノルガルドで一年の専属契約を結んでいます。契約を放り出して帰ることはできません」
ルネは白紙を二枚引き寄せた。一枚には帰国を拒否する正式な返書を、もう一枚には南環の負荷を一時的に逃がす『緊急迂回手順』を書き始める。
「市民に罪はありません。現地の技師がこの順番で遮断器を操作すれば、完全崩壊までの猶予は作れます。ただし、私が遠隔から直接【再配列】できるわけではありません。実行と検証は現地の責任です」
レオンは黙って、ルネの前へ二つの書類を置いた。
一つはノルガルド最高位の弁護士への全権委任状。もう一つは、公爵印入りの国境特別通行証だった。
「君が直接救援へ行くと決めた場合、建設院が事故責任を押し付けて拘束する恐れがある。その時に使え」
「私が戻ると言っても、止めないのですか?」
「選ぶのは君だ。私は、どちらを選んでも君が不当に権利を失わないようにする」
ルネは二つの書類を見つめ、それから首を横に振った。
「ありがとうございます。でも、今回は必要ありません。私の仕事はここにあります」
返書と手順書は複写され、一部が国際工務同盟の中立保全庫へ送られた。原本は控え室で待つ配達人へ託された。
*
返書を託したルネは、夜の仕事部屋へ向かっていた。
レオンが守ってくれたこの環境で、自分は思う存分、美しい構造を作り上げればいい。
机の上に残っている改修図面を開き、一本の魔力線に鉛筆を走らせようとした、その時だった。
カーン! カーン! カーン!
夜の静寂を切り裂いて、公爵館の外からけたたましい警鐘が鳴り響いた。ただの火事や小競り合いを知らせるものではない。領地全体に危機を伝える、重く甲高い非常鐘の音だ。
「な、なに!?」
ルネが窓に駆け寄ると、遠く北の夜空に、赤い狼煙が次々と上がっていくのが見えた。
バタンッ、と仕事部屋の扉が勢いよく開く。
そこに立っていたのは、息を切らし、真っ青な顔をしたミナとゲルトだった。
「ルネ先生! 大変です!」
「北辺の見張り台からの急報だ! 北の荒野から、推定千体規模の魔物の群れが、こっちの防壁に向かって大移動してきてるってよ!」
局所的なインフラの欠陥ではない。
数と力による物理的な大災害が、ルネのいる公爵領へ向かって牙を剥き始めていた。




