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「完成印は押せません」婚約破棄・追放された魔法監査官は、冷酷公爵の国を立て直す~戻れと言われても契約済みです~  作者: 他力本願寺


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第10話 魔物千体より、一本の綺麗な線

北辺の国境都市を囲む高い防壁の上で、ルネは眼下の荒野を見下ろしていた。


 夜の闇の中、地平線の彼方からもうもうと土煙が上がり、無数の赤い目がこちらへと向かってくるのが見えた。硬い甲殻を持つ土塊の獣や、鋭い牙を剥き出しにした魔物の大群だ。


 最近、地下を流れる地脈に微細な揺らぎが観測されていた。それが魔物たちの生態を刺激し、推定千体という異常な規模の群れを生み出し、この街へと押しやっているのだろう。


 ズドォォォンッ!


 先陣を切った巨大な魔獣が、街を覆う防壁の結界に激突した。


 ルネの【構造眼】の中で、防壁の中央に埋め込まれた巨大な魔石――単核式の心臓部が、悲鳴を上げるように極彩色に発光した。


「……駄目ね。こんな構造じゃ、本隊がぶつかれば十分も持たないわ」


 ルネは忌々しそうに吐き捨てた。


 この防壁もまた、セレネス王国が好む「巨大な一つの核」に全負荷を背負わせる構造だった。一撃ごとの衝撃はなんとか弾き返しているが、核そのものが熱を持ち、危険な赤色に点滅している。千体の連続攻撃を受ければ、間違いなく核が砕け散り、結界ごと壁が崩落する。


「ルネ先生! どうしますか、壁を一から作り直す時間は絶対にありません!」


 駆けつけてきたミナが、顔を真っ青にして叫ぶ。


「ええ、新しく作り直す必要はありません。足すのではなく、今あるものを繋ぎます」


 ルネは振り返り、防壁の内側――街の中に広がるインフラ群へと視線を向けた。


「ミナさん、ゲルトさん! 大通りにある『街灯』の魔力線をすべて掘り起こして! それと、第十二区画の『倉庫の保存結界』と、広場の『共同井戸のポンプ』の基幹ラインもです!」


「なっ、街中の線を!? あんた、まさか……」


 ゲルトが驚愕に目を見開く中、ルネは迷いなく頷いた。


「そのまさかです。生活設備の小さな核を全部、防壁の術式に臨時接続します。急いで!」


 ゲルトの怒号飛び交う指揮の下、現場の職人たちが瞬く間に防壁直下の石畳を引っぺがした。そこには、街灯、倉庫、井戸の基幹線を一度集めてから各区画へ配る、旧式の『統合溝』が残っていた。


 ルネは城壁から飛び降りるようにして身を翻し、防壁の根元と統合溝の主結節点を、【再配列】の半径三十メートル内へ収めた。


「解け、そして――繋がれ!」


 ルネが両腕を大きく広げると、街中の小さな設備を動かしていた魔力線が、宙を舞う無数の光の糸となって防壁へと向かって伸びていった。


 一つの巨大な核にすべてを押し付けるのではない。街灯、倉庫、井戸……これまでに直してきた、何十という生活インフラの小さな留点を支点とし、網の目のように力を分散させる『多点格子』の防衛陣地。


 それが、ルネの指先の指揮によって、瞬く間に城壁の裏側に編み上げられていく。


 そして、最後の一本が結ばれた直後だった。


 地鳴りとともに、魔物群の本隊が防壁に激突した。


 ドゴォォォォンッ!!


 凄まじい衝撃波が空気を震わせる。


 だが――防壁は、微動だにしなかった。


「落ちない……! 結界が、全く揺らいでいないぞ!」


 防壁の上で弓を構えていた自警団員が、歓喜の声を上げた。


 ルネの目には、その理由がはっきりと見えていた。城壁の一箇所に千体分の巨大な負荷がかかっても、その衝撃はルネが繋いだ無数の導線を通って、街中の街灯や井戸の留点へと一瞬で迂回し、分散されている。


 一箇所が壊れそうになっても、残りの数十の点が力を支える。魔物がいくら壁に頭をぶつけようとも、網の目のように張り巡らされた魔力は止まることなく循環し続けていた。


「見事だ。これほど安定した足場があるのなら、何も恐れることはない」


 城壁の上に立つレオンが、夜風に漆黒の外套をはためかせながら剣を抜いた。


 彼が率いるノルガルドの精鋭騎士団と魔術師部隊が、城壁の狭間から一斉に魔法弓と投射術式を放つ。


 それは、完全な一方的攻撃だった。


 魔物たちは強固な結界に阻まれて壁を越えられず、ただ足元で押し合いへし合いしている。そこへ、頭上の安全な高所から、雨あられと魔法の矢が降り注ぐ。


 ルネは炎を放ったり、魔物を直接薙ぎ払ったりするような派手な戦闘力は持っていない。だが、彼女が構築した『一部が壊れても全停止しない仕組み』が、味方を戦闘だけに集中させているのだ。


 やがて、一方的に削られ続けた魔物の隊列が崩れ、逃げ腰になり始めた。


「今だ。城門を開け! 残敵を掃討する!」


 レオンの号令と共に城門が開き、温存されていた重装騎士たちが一斉に出撃する。統制の取れた突撃は、すでに戦意を失った魔物たちの市街地侵入を許さず、掃討を成し遂げた。


*


 朝陽が荒野を照らし出す頃。


 魔物の死骸が片付けられていく城門の前で、王都から視察に訪れていた工務監察官が、震える手で羊皮紙に報告書をまとめていた。


「……信じられん。魔物千体の猛攻を受けながら、防壁本体の修復費用がほぼゼロだとは。それどころか、既存の生活設備をそのまま防衛網に転用するこの構造は、もはや一都市の壁ではなく、国家級の防衛資産に値する。国王陛下に至急報告せねば……!」


 工務監察官の独り言は、ルネの耳にも届いていた。


 自分の作った構造が、単なる自己満足ではなく、国家のインフラとして客観的な権威によって高く承認された瞬間だった。


「よくやってくれた、エルフォード監査官」


 剣の血糊を拭い終えたレオンが、ルネの元へと歩み寄ってきた。


「あんな無茶苦茶な線の繋ぎ方をしたのに、怒らないんですか?」


「結果がすべてだ」


 レオンは城壁の上で歓喜に沸く騎士たちを見上げた。


「防壁は守った。だが出撃班には軽傷者が十七人。街灯と井戸は五時間停止し、保存結界を切った倉庫では食料の一部が傷んだ。君の接続は勝因だが、平時の標準運用にはできない」


「はい。今日を生き延びるための非常手段です。明日から、生活網を元へ戻す復旧が必要です」


「その費用を含めても、街を失うより遥かに小さい。よくやった」


 レオンはルネの正面に立ち、真っ直ぐにその目を見た。


「現在、君とは一年の専属契約を結んでいるが。これを直ちに、三年へと延長したい。もちろん、報酬と研究費はさらに引き上げる。受けてもらえるか?」


 それは、ルネという専門家に対する、レオンからの最大級の評価であり、信頼の証だった。


 国を追われたルネの仕事は、たった数日で隣国に認められ、こうして確固たる居場所を築き上げていた。


「……はい。喜んで」


 ルネは深く頷き、清々しい笑顔を見せた。


 追放と再証明の戦いは、これ以上ないほど完全な勝利で幕を閉じたのだ。


 だが――。


 街中が勝利の余韻に包まれる中、レオンはルネを仮設の執務室へと呼び出した。


 先ほどまでの称賛の空気から一転、レオンの表情は領主としての冷徹なものへと戻っている。


 彼は大きなデスクの上に、公爵領全域が描かれた広大なインフラマップをバサリと広げた。地図の上には、赤字で示された「危険箇所」が、文字通り無数に点在している。


「さて、三年間の契約延長が決まったところで、現実の話をしよう」


 レオンは地図を指差した。


「君の技術の価値は完璧に証明された。だが、領地の予算も、君の手足となる職人の数も、無限ではない。魔物の襲撃という不測の事態で資材も消費した」


 レオンの灰色の瞳が、ルネを射抜く。


「これだけの欠陥インフラを、すべて一度に直すことは不可能だ。君なら、どこから優先して手を付ける?」


 ルネは息を呑んで地図を見つめた。


「全部の線を綺麗に直したい」という技術者の理想の前に、圧倒的な「資源の制約」という現実が、高く分厚い壁となって立ちはだかっていた。

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