第11話 百四十二件の危険と、二十件の予算
魔物千体の襲撃という未曾有の危機から、数日が経過した。
国境都市の防衛線を無傷で守り抜いたルネの評価は、公爵領内で確固たるものとなっていた。だが、彼女自身は称賛の美酒に酔う暇もなく、ただひたすらに書類の山と格闘していた。
公爵館の東棟に用意されたルネの仕事部屋。広大なデスクの上には、領内のあらゆるインフラの現状を書き記した図面と監査報告書が、整然と並べられている。
「……よし。これで全部ね」
ルネは最後の一枚に赤いペンでチェックを入れ、大きく伸びをした。
手元に積み上げられた図面の束は、全部で『百四十二件』。
これらはすべて、ルネがこれまでに提出された過去の修理記録や巡回監査のデータから洗い出し、「更新推奨」――つまり、近い将来に破綻する危険性があると判定した欠陥インフラのリストだった。
コンコン、と短いノックの音が響き、仕事部屋の扉が開いた。
「進捗はどうだ、エルフォード監査官」
漆黒の外套を羽織ったレオンが、書記官を伴って姿を現した。
ルネは自信に満ちた笑みを浮かべ、百四十二件の図面の山をバンッと手で叩いた。
「完璧です、公爵様。領内に散らばる単核式の過負荷リスク、導線の歪み、そして不当な契約で縛られた悪質な設備をすべて洗い出しました。総数、百四十二件。これらをすべて多点格子へと改修すれば、この領地の構造は劇的に安定します」
「ご苦労。流石の仕事の早さだ」
レオンはデスクに歩み寄り、積み上げられた報告書の厚みを無表情で見下ろした。
そして、氷のように冷徹な声で告げた。
「この中から、二十件を選べ」
「……はい?」
ルネは一瞬、自分が何を言われたのか理解できなかった。
「二十件、と言いましたか?」
「そうだ。今年中に予算を割いて改修の手を入れられるのは、最大でも二十件だ。残りの百二十二件は来年以降の長期計画に回す。至急、その二十件のリストアップを――」
「お待ちください!」
ルネは弾かれたように立ち上がり、デスクに両手をついた。
「二十件に絞るなど、あり得ません! ここに挙げた百四十二件は、どれもこれも深刻な魔力線の歪みを抱えているんです。明日突然短絡して、火災や崩落を起こしてもおかしくない設備ばかりなんですよ!?」
専門家としての正論だった。危険な構造を見つけたのに、それを放置するなど技術者の倫理が許さない。
「それを、予算の都合で二十件しか直さない? 放置した百二十二件がもし明日壊れたら、領民の生活はどうなるんです!」
ルネの激しい抗議に対し、レオンは表情一つ変えなかった。
彼はルネの技術判定そのものを疑うような、かつての婚約者のような真似はしなかった。ただ、静かに、しかし圧倒的な現実の重さを持って反論した。
「君の言う『危険』は、技術的には完全に正しいのだろう。私は君の監査結果を一切疑っていない」
レオンは図面の一番上にあった、『南部の石橋の完全改修案』を手に取った。
「だが、領地を運営する上で、予算は無限ではない。この百四十二件すべてを『安全な構造』に直すためには、莫大な石材と魔石、そして何百人もの職人の人件費が必要になる」
レオンは手にした図面をデスクに放り投げた。
「仮に、この橋の安全性を最大まで高めるために、今年の『冬の食料備蓄』のための予算を削ったとしよう。落橋リスクは大幅に下がるかもしれない。だが、厳しい冬を越えられず、村の隅で数十人の領民が餓死する。……ルネ。それは、領地全体として見た時、『安全』になったと言えるのか?」
「っ……」
ルネは息を呑み、言葉に詰まった。
「君が見ているのは『構造物の安全』だ。だが私が見なければならないのは、経済、食料、治安、すべてを含めた『領地全体の安全』だ。限られた予算と人員の中で、いかに致命的な破綻を避けるか。橋が少し歪んでいても、通行制限をかけて監視すれば今年は持つ。ならばその予算は、今にも壊れそうな病院の給水ポンプに回すべきだ」
レオンの言葉は、ルネの頭を殴りつけるような衝撃があった。
技術的な最適解が、必ずしも社会の最適解ではない。
これまで「構造が美しいか、醜いか」という基準だけでインフラを見ていたルネにとって、それは全く新しい、そして紛れもなく正しい評価軸だった。
「……私が、間違っていました」
ルネはゆっくりと椅子に座り直した。
ここで意固地になって「予算を無視して全部直せ」と騒ぐのは、ただの子供だ。相手は自分の能力を否定しているわけではない。むしろ、自分の能力を領地全体で最も効果的に使うための枠組みを提示してくれているのだ。
「あなたの言う通りです、公爵様。技術的な危険度と、社会的な緊急度は違います」
ルネの素直な撤回に、レオンの灰色の瞳に微かな驚きと、深い感心の光が宿った。彼はルネがただの専門馬鹿ではなく、対等に議論ができる理性を持っていることを再確認したのだ。
「では、どうやって二十件に絞り込む?」
「指標を作りましょう」
ルネは引き出しから、赤、黄、青に色分けされた小さな付箋の束を取り出した。
「ただ漠然と選ぶのではなく、明確な四つの項目で点数をつけます。『人命影響』『停止時間』『代替手段の有無』、そして『改修費用』です」
ルネは一枚の図面を広げた。
「例えばこの街灯。技術的な倒壊リスクは高いですが、倒れても周囲に民家はなく、夜間少し暗くなるだけ。つまり『人命影響』は低く、『代替手段(カンテラ等の持ち歩き)』はあります」
「ならば、それは黄色か青だ。監視対象として後回しにする」
レオンがルネの隣に立ち、図面を覗き込む。
「だが、こちらの市場の冷却用魔法陣はどうだ。これが止まれば、生鮮食品が腐敗し、流通が数日は麻痺する。代替手段はない」
「『停止時間』と『人命・経済影響』が極めて高いですね。技術的にも、核が寿命寸前です。これは文句なしの『赤』、最優先の二十件に入ります」
ルネが赤い付箋をピタリと貼り付ける。
「よし。その調子で百四十二件すべてを精査するぞ。技術的な判定は君がしろ。全体への影響と優先順位の最終決定は、私が引き受ける」
「はいっ!」
そこからは、息の詰まるような、しかし心地よい共同作業が続いた。
ルネが図面から魔力線の危うさを読み取り、最短の修理時間を弾き出す。レオンがそれを領地全体の物流や生活に照らし合わせ、冷徹に優先度を叩き出していく。
時に激しく意見をぶつけ合いながらも、二人の間には互いの専門性に対する深いリスペクトがあった。専門最適を求めるルネと、全体最適を求めるレオン。異なる視野を持つ二人の知性が噛み合い、百四十二件という膨大なノイズの中から、真に救うべき「命綱」が次々と選び出されていく。
窓の外がすっかり暗くなり、夜半を過ぎた頃。
デスクの上には、綺麗に三色に分類された図面の山が出来上がっていた。
「……終わりました」
ルネは疲れた目をこすりながら、一番高く積まれた「青(来年度以降)」と「黄(監視・応急処置)」の山から視線を外し、手元に残った薄い束に手を置いた。
これこそが、限られた予算と時間の中で、今年中に絶対に直さなければならない「真の二十件」だった。
「見事な判断速度だ。君のような技術者がいてくれて助かる」
レオンもまた、疲れを見せない表情でルネを労った。
「それで、栄えある最優先事項の第一位、もっとも早く手をつけるべき『赤』はどれになった?」
ルネは手元にある図面の一番上、赤い付箋が三枚も重ねて貼られた書類を指差した。
「これです。北区の居住区を走る『地下暖房水路』」
「……なるほど。もうすぐ冬が来る」
レオンの顔つきが険しくなった。
「はい。技術的な魔力流の乱れも深刻ですが、何より……真冬にこれが停止した場合、代替手段を持たない貧しい領民から凍死者が出ます。人命影響、停止時間、ともに最悪です」
ルネは力強く立ち上がった。
自分が直すべき敵は、見栄えの悪い魔力線だけではない。その先にある、人々の凍えるような寒さなのだ。
「明日、朝一番でミナさんを連れて現場の点検に入ります」
ルネは図面を丸めて小脇に抱え、次なる戦場へと瞳を輝かせた。




