第12話 単一障害点は、私でした
冷たい湿気が漂う地下道の中で、ルネはランプの灯りを頼りに石壁を睨みつけていた。
ここは公爵領の北区居住区を走る『地下暖房水路』。冬が来る前に絶対に直さなければならない、優先順位第一位の危険箇所だ。
ルネは昨夜からほぼ一睡もせず、迷路のように入り組んだ旧式の配管と、そこに絡みつく魔力線を【構造眼】で追い続けていた。
「……ここの分岐点も駄目。逆流の兆候があります。第七留点の位相差を調整して、こっちの主線に逃がす設計図を――」
ルネが手元のバインダーに赤ペンを走らせようとした、その時だった。
視界に映っていた、青く透き通るような魔力線の光。そのはっきりとしていたはずの「輪郭」が、じわっと水に濡れたインクのように滲んで見えた。
「あっ」
ルネはペンを止め、ギュッと強く目を閉じた。数秒おいて再び目を開くが、魔力線のエッジはやはり少しぼやけている。
それは、ルネの目が限界を迎えつつあるという、明確な疲労のサインだった。
このまま作業を続ければ、必ず判断を誤る。線を見間違えれば、間違った設計図を引くことになり、それは即ちインフラの破綻と人命の喪失に直結する。
「……今日の監査は、ここまでです」
ルネはバインダーをパタンと閉じ、きっぱりと宣言した。
その言葉に、後ろで待機していたゲルトがギョッとして声を上げた。
「おいおい、待ってくれ監査官殿! まだ水路の半分も終わってねえぞ。あんたがこの先の配線の安全確認に判子を押してくれなきゃ、明日の管の入れ替え工事が全部止まっちまう!」
「分かっています。ですが、私の目に疲労の兆候が出ました。これ以上は正確な構造を見極められません。不確かな図面を現場に渡すわけにはいきません」
「そ、そりゃあそうだが……!」
ゲルトが頭を掻きむしる。彼が焦るのも無理はなかった。冬はもうそこまで来ている。一日でも工期が遅れることは、現場にとって致命傷になりかねない。
だが、プロとして「見間違えて事故を起こす」という最悪の失態だけは避けなければならなかった。
ルネは唇を噛み締めながら、重い足取りで地上への階段を上った。
翌日。
ルネが休養をとったことで、地下暖房水路の工事現場は完全に沈黙していた。
配管材の横で何十人もの職人が手持ち無沙汰に座り込み、煙草を吹かしている。そこに、護衛を連れたレオンが視察に訪れた。
「……申し訳ありません、公爵様」
現場に駆けつけたルネは、レオンの前に深く頭を下げた。
「私の体力不足です。少し目を休ませたので、午後には監査に復帰します。遅れた工期は、私が徹夜してでも取り戻しますから――」
「徹夜は許可しない。午後も休め」
レオンは短く切り捨て、動きの止まった巨大な現場を冷徹な視線で見渡した。
「君の体力が足りないのではない。これは明らかな体制の欠陥だ」
「え……?」
「考えても見ろ。たった一人の監査官が目を休ませただけで、領地の生命線となる工事が丸一日完全にストップするのだぞ」
レオンはルネに向き直り、灰色の瞳で彼女を見据えた。
「今の工事体制は、ルネ・エルフォードという個人の能力にすべてを依存している。君が倒れれば工事が死ぬ。君自身が、この領地における最大の『単一障害点』になっているのだ。これこそが、君の嫌う『一本足で支える醜い構造』そのものではないか」
ルネはハッとして息を呑んだ。
図面上の魔力線の集中にはあれほど口うるさく警告していたのに、運用上の負荷が自分一人に集中していることには気づいていなかった。
「君の健康と判断力を維持することは、領地の安全を維持することと同義だ。摩耗して壊れるまで使い倒すなど、三流の現場監督がやることだ。私はそんな危険な運用はしない」
レオンは傍らに控える書記官に振り返り、淀みなく指示を出した。
「本日から、公爵領監査班の就業規則に以下の項目を追加しろ。第一に『監査官の連続勤務時間の上限設定』。第二に『休息インターバルの義務化』。第三に『特定個人に依存しない二重監査体制の構築』だ」
「かしこまりました。直ちに明文化いたします」
レオンがルネを見る。
「これは君を甘やかしているのではない。システムを止めないための、可用性を高める安全設計だ。プロなら、自分の能力を最も高く保つ運用を受け入れろ」
「……はい」
ルネは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、深く頷いた。
感情論で「休め」と言われるよりも、ずっと心に響く。自分の能力が価値ある資産として認められ、それを守る勤務体制まで用意してくれたことが、何よりも嬉しかった。
翌朝。
レオンが定めた新体制に基づき、地下水路の現場では新たな分業が始動していた。
先陣を切るのは、助手のミナだ。
「ここの留点の魔力流は正常値です! 次、行きます!」
ミナは【構造眼】を持たないが、支給された測定具を配管に当て、そこから得られた「既知の数値」を次々と図面に書き込んでいく。
ルネは現場の入り口で椅子に座り、ミナから上がってくる基礎データをチェックしていた。
「ありがとう、ミナさん。ええと、この第十二区画までは正常値の範囲内ね。なら、私が直接見に行く必要はないわ。図面通りに施工を進める許可を出します」
これまでは、何の問題もない正常な配線まで、ルネが一つ一つ目を凝らして確認していた。だが今は違う。ミナが測定具で「ここは異常なし」と切り分けてくれるおかげで、ルネは送られてきたデータの中で数値がブレている『未知の異常箇所』だけに赴き、そこだけを【構造眼】でピンポイントに確認すればよくなったのだ。
結果として、ルネの眼の負担は激減した。
それどころか、ミナが前もってデータを整理してくれるため、工事全体の進行速度は、ルネが一人で全てを抱え込んでいた時よりもはるかに跳ね上がっていた。
「すごい……私がいなくても、仕事が回っている」
ルネは書き込まれた図面を見つめながら、静かな感動を覚えていた。
天才の目を一人で酷使するのではなく、手順と仕組みで現場を回す。それがこれほどまでに美しく、淀みのない流れを生み出すとは。
点検作業が終盤に差し掛かった頃。
ルネは、真剣な顔で数値を記録し続けるミナの背中を見つめ、ふと立ち上がった。
「ミナさん」
「はいっ、ルネ先生! 次は第十五区画の測定ですね!」
「いいえ」
ルネはミナから測定具の記録紙を受け取ると、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「この先にある第十六区画の、分岐管の導線。あそこは手順書に沿った既知の構造のはずです」
ルネはバインダーをミナの胸に押し付けた。
「あの一本の導線の一次監査……ミナさん、測定から判定まで、あなたが一人でやってみなさい」
「えっ……!?」
ミナは目を丸くし、自分の手にあるバインダーとルネの顔を交互に見比べた。
「わ、私がですか!? でも、最終的な安全確認はルネ先生の眼で――」
「最後の承認は私が別に確認して出します。でも、既知の型の測定と一次判定まで、私の眼を待つ必要はない。それを証明するのは、あなたよ」
ルネは静かに、だが強い信頼を込めて頷いた。
ミナは第十六区画の保守口へしゃがみ込み、測定具を当てた。手順書の項目を一つずつ読み上げる声は、初めの二つだけ震えていた。
「位相差、許容範囲内。分岐先の負荷、正常。……確認用の負荷を加えても、戻りの値は上限を超えません」
記録紙を取り外したミナは、判定欄に自分の名前を書いた。ルネはその数値を伏せたまま別の測定具で重要箇所を確認し、最後に二枚の記録を並べた。
どの項目も許容誤差の範囲で一致していた。ルネが承認欄へ印を押す間、ミナは息を止めてその手元を見ていた。
「合格です。この型の一次監査は、今の手順で担当できます。手順にない値が出た時は、止めて呼んでください」
「……はいっ」
ミナは記録紙を工具箱の蓋にはさみ、もう一度、自分で書いた名前を指でなぞった。




