第5話 美しくない貯水塔
ひんやりとした空気が漂う貯水塔の内部で、ルネは言葉を失っていた。
分厚い石壁に囲まれた円筒形の空間。本来ならば、地下から汲み上げた豊かな水を村や農地へと押し出すための、力強く太い魔力の線がまっすぐに伸びているはずの場所だ。
だが、ルネの【構造眼】が捉えた景色は、想像を絶するほど危険で乱雑だった。
水を引き上げるための青い基幹ラインに、見栄えだけを重視した金ピカの装飾線が、なんと三重にもなって螺旋状に絡みついているのだ。それはまるで、太い大樹の幹に巻き付き、養分を啜り尽くして枯らそうとする巨大な寄生植物のようだった。
「……なに、これ」
ルネの唇がワナワナと震えた。
「魔力流が完全に圧迫されています。これでは水を送るどころか、自分の首を絞め殺しているのと同じです。信じられない……どんな神経をしていれば、こんな気持ちの悪い配線ができるの?」
本気で嫌悪感を露わにするルネの様子に、背後に立つ助手のミナがビクッと肩を揺らした。
「あ、あのっ、ルネ先生。やっぱり危ないですか? その、新しい魔石を持ってきて、基幹ラインの安全線を増設しましょうか!?」
「いいえ、必要ありません」
ルネは即答し、迷うことなく袖を捲り上げた。
「安全線を外から足したところで、この装飾線が魔力を横取りしている構造自体が変わらなければ意味がありません。こんな無駄な線は、根元からむしり取る方がよっぽど早くて確実です」
「む、むしり取るって……でも、その金色の線は、領主館の庭にある大噴水を動かすための特別な術式で……」
「水が止まって畑が干上がるかどうかの瀬戸際に、噴水の見栄えなんて知ったことですか」
ルネは両手を前に突き出し、三十メートル以内の構造へと意識を接続した。
「解け」
【再配列】の力が発動する。
ルネの指先の動きに合わせ、基幹ラインに食い込んでいた三重の装飾線が、ブチブチと音を立てるようにして物理的・魔力的に引き剥がされていく。本来の青い線が解放され、勢いよく魔力が循環し始めるのが見えた。
完全に装飾線を切断する直前、ルネは手元で光の糸を少しだけ編み直した。
「ミナさん、見ておいてください。噴水への供給線を完全に消したわけではありません。あとで少ない魔力でも水が循環するように、低コストの省力回路を組み直せば、噴水自体は復活できます」
「えっ? あ、はい!」
「でも今は、とにかく畑への水を優先します。これでよし!」
ルネが最後の結び目をパチンと弾いた瞬間、貯水塔を覆っていた息苦しいほどの魔力の圧が嘘のように消え去り、塔の奥から「ゴオオオッ」という力強い揚水の音が響き始めた。
*
ルネとミナが公爵館の執務室に戻って報告書を整理し始めた直後だった。
廊下からドタドタと慌ただしい足音が響き、勢いよく扉が開け放たれた。
「公爵閣下! 一大事でございます!」
血相を変えて転がり込んできたのは、領主館の管理を任されている地元の有力貴族だった。立派な口髭を震わせ、顔を真っ赤にして怒り狂っている。
「たった今、我が公爵館の威信の象徴たる正面庭園の大噴水が、突如として完全に停止いたしました! 明日は隣領からの賓客をお迎えするというのに……一体、どこの馬鹿者がこんな真似を!」
執務デスクで書類にサインをしていたレオンは、万年筆の手を止めることなく冷ややかに目を向けた。
ルネはサッと立ち上がった。自分のやった仕事だ。技術者として、なぜ切断が必要だったか説明する責任がある。
「あの、噴水の術式を切ったのは私です。貯水塔の基幹ラインを圧迫しており、このままでは――」
ルネが一歩前へ出ようとしたその時。
レオンがスッと片手を上げ、ルネを黙らせた。
彼はゆっくりと立ち上がり、怒れる貴族の前に立ちはだかった。長身のレオンが見下ろす形になり、室内の空気が一瞬で凍りつく。
「騒ぐな、卿。噴水の術式に欠陥があると指摘し、魔力流の切断を提案したのは、そこにいるエルフォード監査官だ」
「なんと! 新入りの小娘が、公爵家の象徴を――」
「最後まで聞け」
レオンの低く威圧的な声が、貴族の言葉を鋭く遮った。
「監査官の技術的判断を精査し、その案を採用すると『決裁』したのは私だ。見栄えだけの噴水よりも、領地の税収を支える農地への給水を優先すると決定したのは、領主であり工務卿であるこのレオン・ヴァルハルトだ」
「なっ……」
「技術の瑕疵を指摘するのは彼女の仕事。だが、それを実行に移した政治的責任はすべて私が負う。公爵家の威信が傷ついたというのなら、私を議会にかければいい。それとも卿は、枯れた畑で育った泥まみれの野菜を、明日の賓客に振る舞うつもりだったのか?」
ぐうの音も出ない正論と、一切の責任転嫁をしない公爵の堂々たる態度に、貴族は顔を青ざめさせ、「し、失礼いたしました……!」と逃げるように部屋を退室していった。
静寂が戻った執務室で、レオンは何事もなかったかのように再びデスクに座り、書類仕事を再開した。
「……あの」
ルネは、胸の奥で小さな炎が灯ったような、不思議な温かさを感じていた。
セレネス王国の王宮では、全く違った。アルベルトは常に周囲の貴族や他国の使節の目を気にし、少しでも不都合なことが起きれば「専門家のくせに配慮が足りない」「空気を読め」と、技術的警告を発したルネを悪者にして盾にしてきた。
だが、レオンは違う。
彼はルネの仕事を尊重し、技術的な領域には一切の妥協を許さない代わり、そこから発生する政治的な摩擦や苦情は、自分の背中で完全に引き受けてみせた。
「庇っていただいて、ありがとうございます」
「勘違いするな。私は領主としての当たり前の責任の所在を明確にしただけだ」
レオンは顔を上げず、淡々と返した。
「君は契約通り、構造の安全だけを見ていればいい。それ以外のノイズは私が消す」
甘い言葉など一つもない。だが、自分の下した専門的な判断が、決して誰かの言い訳に使われるのではなく、真っ当に『守られている』という事実が、ルネには何よりも心地よかった。
*
翌朝。
ルネとミナは、水圧が回復したかの確認のため、村の中心にある共同井戸と周辺の農地を視察に訪れていた。
そこでルネが目にしたのは、村人たちからの大げさな称賛や感謝ではなかった。
「おい、母ちゃん! 今朝は水汲みがいつもの半分の時間で終わったぞ!」
「本当だねえ。チョロチョロしか出なくて腰が痛かったのに、今日は勢いがいいからバケツがあっという間にいっぱいになるよ」
「助かったなあ。これだけ水圧が戻りゃ、水路の奥の畑までしっかり水が届くぞ!」
村人たちは、ルネが通りかかっていることにも気づかず、ただ日常の手間が劇的に減ったことを喜び合っていた。
ミナが嬉しそうにルネを見上げる。
「ルネ先生、すごいです! みんな、あんなに喜んでますよ」
「……ええ」
ルネは眩しいものを見るように目を細めた。
自分が昨日、貯水塔の中で歪んだ線を引き抜き、安全な構造へと整え直したこと。その魔法の数字の変化は、単なる図面上の自己満足ではない。こうして、名も知らない誰かの「当たり前の朝」を豊かにし、人々の生活に直結しているのだ。
(構造を正しくすることは、人を救うことにもなるのね)
これこそが、技術者としての本当の達成感なのだと、ルネは静かに噛み締めていた。
だが――。
その日の夜、平和な空気に包まれようとしていた公爵領に、鋭い悲鳴が響き渡った。
宿舎の窓際で図面を読んでいたルネが顔を上げると、祭りの準備が進められていたはずの北通りの方角が、異様な明るさに照らされている。
ルネの【構造眼】が、遠く離れた場所で魔力が暴走する嫌な光を捉えた。
豪華な装飾が施された魔導街灯の一本が、限界を超えた過負荷に耐えきれず、突如として青白い火花を散らして燃え上がっていたのだ。
次なる旧式規格の欠陥が、凶悪な牙を剥いた瞬間だった。




