第4話 私の仕事部屋には、赤字の図面が山ほどある
ノルガルド公爵館の東棟に、ルネのための真新しい仕事部屋が用意されていた。
大きな窓から朝の光が差し込むその部屋で、ルネは歓喜の声を上げていた。
「す、すごい……! こんなにあるなんて!」
彼女の目の前にある大きなマホガニーのデスクには、「至急監査求む」という赤い札が貼られた羊皮紙の束が、文字通り山のように積まれていた。その数、ざっと数えても二十七件。橋、防壁、街灯、地下水路と、公爵領が抱える欠陥インフラの図面たちである。
ルネは目を輝かせ、その図面の束を愛おしそうに胸に抱きしめた。
「どれもこれも、なんて非効率で危なっかしい線をしているのかしら。ああ、早く全部バラバラに解いて、正しい位置に繋ぎ直してあげたいわ……!」
一人で恍惚としているルネの姿を、部屋の入り口から見ていた現場監督のゲルトは、完全に引いた顔で付き添いのメイドと顔を見合わせていた。
「なあ、あの監査官殿は正気か? 普通の役人なら、初日にあの仕事量を見たら胃を押さえて倒れるぞ」
「天才と呼ばれる方には、どこか常人には理解しがたい趣向がおありなのでしょう……」
こそこそと交わされる会話など、ルネの耳には入っていない。彼女はすでに一本の鉛筆を握りしめ、一番上の図面に猛烈な勢いで修正線を書き込み始めていた。
「ええと、ここの主線を三つに割って、この無駄な装飾から魔力を引っぺがせば……よし、今夜、徹夜してでも全部の図面を引き直します!」
「それは許可しない」
冷ややかな声とともに、部屋に足を踏み入れたのはレオンだった。
彼はルネが徹夜宣言をしたばかりの図面の山を無造作に手で押さえ、鋭い視線を射抜くように向けた。
「図面上の修正は結構だが、現場の工事を同時進行させることは禁ずる」
「どうしてですか!? これらはいずれも数ヶ月以内に破綻する可能性のある欠陥構造です。早く直さなければ、領民の生活が――」
「直すための予算も、作業にあたる職人の数にも限界があるからだ」
レオンは氷のように冷徹な事実を突きつけた。
「それに、二十七件のインフラを同時に改修すれば、工事に伴う一時的な魔力供給停止や断水が領地中で発生する。事故を防ぐために領民の生活そのものを麻痺させては本末転倒だ。君の仕事は『すべてを完璧に直すこと』ではない」
レオンはデスクの上にあった白紙を一枚引き寄せ、万年筆で三つの単語を書き殴った。
『事故確率』『被害規模』『改修費用』。
「この三つの掛け算で、優先順位をつけろ。最も致命的で、かつ少ない費用で生活を維持できるものから順番に手をつける。それ以外は後回しだ」
「……構造的な美しさは、優先事項に入らないのですか?」
「入らないな。私が求めているのは芸術品ではなく、止まらない領地だ」
ルネは唇を尖らせた。技術者としては、欠陥構造を放置したまま優先順位をつけるなどひどく気持ちの悪い妥協だ。しかし、彼が言っていることは国を運営する者としての「全体最適」であり、反論の余地がないほど正しかった。
「……わかりました。では、現場の被害状況を正確に把握する必要があります。図面だけでは、どれが一番領民を困らせているか読み切れませんから」
「手配してある」
レオンが顎でしゃくると、ゲルトの背中から、一人の小柄な少女がおずおずと姿を現した。
栗色の髪を二つに結び、動きやすいズボンに工具帯を下げている。年齢はルネよりもいくつか下の、十九歳くらいだろうか。
「ほらミナ、挨拶しろ。今日からお前が監査官殿の助手だ」
「は、はいっ!」
ミナと呼ばれた少女は、バネで弾かれたように直立不動になり、深く頭を下げた。
「ほ、保守工房のミナ・フェルです! 平民の若輩者ですが、現場の道案内なら任せてください! ルネ先生の足を引っ張らないよう、命懸けで頑張ります!」
ガチガチに緊張し、顔を真っ赤にしているミナを見て、ルネはぱっと表情を明るくした。
「案内役! 助かります。さっそくこの図面を見てください」
ルネはミナの緊張をほぐす間も与えず、デスクに広げた一枚の図面を指差した。
「この第四区画の魔力流ですが、このままでは留点の位相差が崩壊します。この逆流係数を見る限り、おそらく夜間の負荷がピークに達したときに波形が干渉して――ミナさん、この区画の深夜の魔力消費量ってどれくらいか分かります?」
ルネは自分の頭の中にある計算式を、息継ぎも忘れるほどの早口でまくし立てた。
これならきっと、現場の人間にも危険性が一発で伝わるはずだ。
そう思って顔を上げたルネの目に映ったのは――完全に白目を剥き、口から魂が抜けかけているミナの姿だった。
「い、いそうさ……? ぎゃくりゅう、けいすう……?」
ミナの頭の上から、ぷすぷすと煙が出ているようだった。彼女は現場の修理手順を叩き込まれた職人であって、高度な魔法構造の計算式を理解できる学者ではないのだ。
ルネはハッとして、自分の口元を両手で覆った。
――私、またやっちゃった。
王国の監査官時代もそうだった。ルネには、魔力の線が直接「見えて」しまう。だからこそ、その複雑な構造を一瞬で理解できるのだが、それを持たない相手に「どう伝えるか」という技術が致命的に欠けていたのだ。
「……私が全部直すだけじゃ、駄目なのね」
ルネは痛感した。公爵領の広大なインフラを維持していくには、自分が直した後の手順を、ミナのような現場の職人たちに引き継いでいかなければならない。いくら自分が天才的な再配列を行えても、それを共有できなければ、結局は自分一人がいなければ回らない「単一障害点」になってしまう。
「ごめんなさい、ミナさん。難しく言い過ぎました」
ルネは大きく深呼吸をして、言葉を選び直した。
「ええと……この図面の場所で、最近一番困っていることは何ですか?」
ルネが歩み寄り、目線を合わせて尋ねると、ミナは何度か瞬きをして、ようやくホッとしたように肩の力を抜いた。
「あ、はい……。一番苦情が多いのは、農地に向かう『貯水塔』です。なんだか最近、水の出が悪くて……もうすぐ農繁期なのに、このままだと畑が干上がっちゃうって、村の人たちが泣きそうになってて」
「貯水塔の水圧低下……」
ルネは急いで図面の山から貯水塔の設計図を引き抜いた。
紙の上に描かれた構造をじっと見つめ、脳内で魔力線の流れをシミュレートする。
「……見つけました。これです」
ルネが鉛筆の先でトンッと叩いたのは、貯水塔の基幹ラインに後から継ぎ足された、不自然な太い導線だった。
「貯水塔のポンプを動かすための魔力が、本来の灌漑ラインから逆流しています。原因は……ここ。領主館の庭にある、豪華な噴水を稼働させるための装飾術式です」
図面上に描かれた魔力流は、農地へ向かうべき力を奪い取り、見栄えのための噴水へと優先的に回すように設定されていた。
「噴水のために、農地の水が止められているってことですか!?」
ミナが驚きの声を上げる。
「ええ。このまま放置すれば、農繁期に完全に魔力が枯渇し、貯水塔は機能停止します。大規模な断水が起きますよ」
被害規模は領地の食料生産そのものに関わる。事故確率は極めて高く、目前に迫っている。
優先順位は、文句なしの第一位だった。
ルネは図面をレオンの前へ滑らせ、灌漑ラインと噴水の分岐を指でたどった。レオンは二つの供給先と、停止後の給水見込みを確認し、余白に署名した。
「現場でもこの逆流が確認できた場合、農地給水を妨げる噴水の装飾系統を停止してよい。給水の回復を確認し、停止箇所を記録しろ。苦情はすべて私に回せ」
「了解しました。行きましょう、ミナさん! 今すぐ現物を確認します」
二人は急ぎ足で公爵館を出て、領地の中心部にある巨大な石造りの貯水塔へと向かった。
見上げるほど高い塔の基部には、厳重に鍵のかけられた魔力制御室への扉がある。ミナが工房の鍵束を取り出して開錠し、重い鉄の扉を押し開けた。
薄暗い内部に一歩足を踏み入れた瞬間、ルネは顔を覆いたくなる衝動に駆られた。
【構造眼】を通じて視界に飛び込んできたのは、昨日直した石橋すら可愛く思えるほどの惨状だった。
本来なら滑らかに水を汲み上げるための一本の太い主線に、噴水用、照明用、温度調整用と、無数の不要な装飾線が寄生虫のように絡みつき、魔力を啜り取っている。それぞれが勝手な方向に脈動し、空間全体が不協和音を奏でているようだった。
「……なんて、醜い」
ルネは点検口の前に立ち尽くし、心底嫌悪に満ちた表情で深く眉間を寄せた。




