第3話 この橋、核の負荷を七分の一にできます
石造りの橋は、今にも断末魔の悲鳴を上げようとしていた。
欄干に両手を押し当てたルネの【構造眼】には、橋の内部を巡る魔力線が鮮明な光の筋となって見えている。本来ならば穏やかに流れるべきその線は、今やどす黒い赤に染まり、危険な脈動を繰り返していた。
原因は火を見るより明らかだった。
すべての魔力流と物理的な荷重が、橋のど真ん中に埋め込まれたたった一つの巨大な『中央核』に向けて、無理やり束ねられているのだ。
見栄えを良くするための過剰な装飾術式が魔力を無駄食いし、肝心の橋脚を支えるラインを圧迫している。まるで、豪華な衣装を着飾った巨漢が、細い一本足で綱渡りをさせられているような状態だ。
「……なんて醜い構造なの」
ルネは奥歯を噛み締めた。
高価で巨大な魔石を一つ置き、そこにすべての負荷を集約させればいいというセレネス旧式の典型的な思想。一点が崩れればすべてが死ぬ、欠陥だらけの設計だ。
「安全を無視して飾り立てるなんて、魔法建築への冒涜よ」
ルネは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
やるべきことは明確だ。足りないものを足すのではない。間違った繋がりを正すのだ。
【構造眼】は接続網を伝って遠方の異常も粗く観測できる。だが、実際に線を組み替える【再配列】が届くのは、自身を中心とした半径三十メートル以内か、両手で直接触れている結節点だけだ。巨大な王都の防衛結界を遠方から一瞬で直すような奇跡は起こせない。しかし、この石橋の結節点は今、彼女の掌の下にある。
「解け」
ルネが魔力を込めて紡いだ言葉とともに、橋の表面を覆っていた豪奢な装飾術式がパラパラと光の粒子になって剥がれ落ちた。物理的な装飾が消え、無駄に消費されていた魔力の線が宙に浮かび上がる。
ルネは目に見えない琴の糸を弾くように、空中で指先を素早く動かした。
彼女は新しい魔石など一つも使わない。手持ちの材料を増やすことはできないからだ。その代わり、彼女の目は橋の各所に放置されていた、以前の設計の名残である小さな『留点』を七つ見つけ出していた。
「中央核に向かっている主線を三つに割って。それを装飾用に使われていた迂回ラインへ接続。そのまま力を七つの留点へ逃がす……!」
どす黒く絡み合っていた魔力線が、ルネの指先の動きに合わせてスルスルと解け、新たな軌道を描いて結び直されていく。
極端に太かった一本の死線が、七本の細くしなやかな青い線へと分散し、橋の全体に均等な網の目を作り上げた。
作業開始から、きっかり三十分後。
橋の中央から響いていた不吉な軋み音が、嘘のようにピタリと止んだ。
ルネが石から手を離し、額の汗を手の甲で拭う。彼女の目には、青く澄んだ魔力が橋全体を滞りなく循環する、美しい多点格子の構造が見えていた。
「応急的な安全は確保しました。正式点検が終わるまで、大型荷馬車は一台ずつ通してください」
ルネが振り返って告げると、退避させられていた荷馬車の持ち主と幼い子供が、へなへなとその場に座り込んだ。
「お、おお……直ったのか? あの今にも崩れそうだった橋が……」
「おい、あんた! 一体何をやったんだ!」
野太い声とともに、騒ぎを聞きつけたのか、作業着姿の筋骨隆々な男が人混みを掻き分けて現れた。公爵領の現場監督を務める、ゲルト・ハーンだ。
彼は橋の裏側へ回り込み、点検用の魔力計を当てて目を丸くした。
「なんだこりゃあ……。あの今にも割れそうだった中央核の脈動が完全に治まってる。いや、それどころじゃねえ。核にかかる負荷そのものが、ごっそり減ってやがる」
「中央核が一人で背負っていた集中負荷を、七分の一まで落としました」
ルネは淡々と事実を告げた。
「無駄な装飾を省いたので総魔力消費も減っていますが、重要なのはそこではありません。力を七つの小さな留点に逃がしたんです。これでもう、中央の大きな魔石に無理をさせる必要はありません」
ゲルトは信じられないものを見る目で、ルネと橋を交互に見比べた。
「力を逃がした……? おいおい、それってつまり……」
「ええ。次に魔石が寿命を迎えても、王都からわざわざ高価な専用部材を取り寄せる必要はありません。町の工房にある、ありふれた汎用の小魔石を交換するだけで、安全に保守できるようになりました。しかも、一本の線が切れても、他の六本が迂回して支えるので、一本が切れただけで即座に橋全体が落ちる危険は、大幅に下がります」
「……傑作だ」
ゲルトは大きなため息をつき、頭を掻いた。
「俺たち現場の人間が、いつもあのクソ高い専用魔石の機嫌取りにどれだけ苦労してきたか。あんた、現場の『直しやすさ』まで考えて、この線を組み替えたってのか? たった三十分で」
「壊れないこと。そして、現場で直し続けられること。それが構造の本来あるべき形ですから」
ゲルトは、五年前に専用部材の到着を待つしかなく、橋を三日閉ざした冬を思い出していた。仮支柱を守っていた若い職人が凍傷を負って以来、『部品がないから直せない』という言葉は、彼の胸に刺さったままだった。
彼はニヤリと笑い、ルネへ親指を立てた。
そのやり取りを、腕を組んで静かに見届けていたレオンが歩み寄ってきた。
彼は橋の上の荷馬車と、修復された石畳を一瞥すると、極めて事務的な口調で口を開いた。
「ゲルト。この橋が崩落し、街道が三日間封鎖された場合の物流停止損害はいくらだ?」
「へっ? ああ……冬前のこの時期なら、農作物の腐敗も合わせて金貨百枚は下らねえでしょうね。架け替え工事の費用を入れりゃあ、もっと跳ね上がります」
「そうか」
レオンは小さく頷くと、ルネの目を真っ直ぐに見下ろした。
「聞いた通りだ。君がたった三十分で生み出した価値は、金貨百枚を優に超える。君の報酬に関する契約条項だが、今の仕事ぶりを見て上方修正することにした。初任給から二割上乗せする」
「え……? で、でも、私はただ線を本来の正しい位置に戻しただけで……」
戸惑うルネに対し、レオンは表情を崩さずに言い切った。
「君の技術と人件費がいかに高くとも、領地が被る被害額に比べれば圧倒的に安い。私は合理的な投資をしているだけだ。見事な仕事だった、エルフォード監査官」
その言葉には、同情も哀れみも、余計な感情は一切含まれていなかった。
あるのはただ、ルネの「専門家としての仕事」に対する、客観的で冷徹なまでの正当な評価だけだ。
王宮で「書類女」と蔑まれ、誰も見てくれなかった彼女の成果を、この隣国の公爵は、金額という最も明確な形で認めてくれた。
「……ありがとうございます」
ルネの唇から、ふっと自然な笑みがこぼれた。
婚約を破棄され、国を追放されてから、初めて見せた心からの笑顔だった。自分が信じてきた設計思想が、こうして誰かの生活を守り、正しく評価される場所がここにはある。
*
翌朝。
ルネは案内された公爵館の一室、彼女のために用意された新しい仕事部屋の前に立っていた。
胸の中には、これからの仕事に対する期待が膨らんでいる。あの橋のように、間違ったインフラを一つひとつ、安全な形へと整えていくのだ。
意気揚々と扉を開け、真新しいデスクに向かったルネは――そこでピタリと動きを止めた。
「……なに、これ」
広いデスクの上には、羊皮紙が山のように積み上げられていた。
一番上に置かれた書類には、レオンの整った筆跡で、赤々とこう記されている。
『至急監査求む。以下二十七件』
見れば、それは領内の貯水塔から地下水路、防壁に至るまで、改修が必要な魔法インフラの図面の束だった。
ルネは引きつった笑いを浮かべながら、その赤字だらけの図面の山に手を伸ばした。




