第2話 冷酷公爵は、私の監査報告書を読んでいた
闇夜の国境街道は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
ルネを乗せた馬車の周囲を、黒い外套を翻す屈強な騎馬隊が完全に包囲している。掲げられた旗に描かれているのは、隣国ノルガルド王国の有力貴族、ヴァルハルト公爵家の紋章だった。
馬車の扉が外から無造作に開けられ、ランタンの灯りが車内を照らし出す。
現れたのは、夜の闇よりもなお深い漆黒の髪と、氷のように冷たい灰色の瞳を持った長身の男だった。ノルガルド王国工務卿であり、若くして公爵位を継ぐレオン・ヴァルハルトその人である。
婚約を破棄され、国を追われた哀れな令嬢。普通であれば、まずは同情や労いの言葉をかける場面だろう。
だが、レオンの口から出たのは、甘やかな慰めの言葉ではなかった。
「エルフォード監査官。一つ聞きたい」
レオンは手にした分厚い書類の束を、パラリと捲った。
ルネは目を丸くした。彼が持っているのは、先ほどルネがアルベルトに突き返し、そのまま持ち出してきた『南環防衛結界・改修報告書』の控えではない。彼の手にあるのは、それよりもずっと前にルネが書き上げ、あちこちに赤字で修正が加えられた、使い込まれた束だった。
「君の書いたこの第七次迂回設計案だが。第三留点から第七留点にかけての魔力流をバイパスさせるこの手法、提示された概算費用の範囲内で、本当に実現可能なのか?」
「え……?」
「ここだ。既存の装飾用術式を剥がして基幹ラインに転用するとあるが、素材の劣化を考慮すれば、耐用年数が二割落ちる計算にならないか?」
レオンの指先が、図面の一点を正確に叩く。
ルネの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
そこはまさに、ルネ自身が「費用と安全性のトレードオフ」として一番悩んだ末に導き出した、ギリギリの最適解の箇所だった。
アルベルトは一瞥もくれなかった。マルセルは鼻で笑ってゴミ箱へ投げ捨てようとした。その専門的な妥協点と苦肉の策を、目の前の他国の公爵は、ただ一読しただけで正確に見抜いているのだ。
「……耐用年数は落ちません。装飾用の術式線は無駄に太く作られています。それを三つに細分化し、並列で接続すれば、個々の線にかかる負荷はむしろ下がります。維持費は確実に減ります」
ルネは前のめりになり、早口で答えていた。婚約破棄の感傷など、すでに頭から吹き飛んでいる。
レオンは満足げに頷くと、背後に控えていた書記官へ視線を向けた。
「聞いたな。この設計思想をベースに、我が領の北辺結界の予算案を組み直せ。それと、明朝までに国際工務同盟の中立保全庫へ正式な照会をかけておけ。取り寄せた過去十年分の加盟国の単核崩落記録と、彼女の報告書にある負荷予測を突き合わせる」
「はっ。直ちに保全庫へ照会申請を送ります」
書記官が一礼して下がる。
国際工務同盟の保全庫。そこは越境保険や復旧融資のために、各国の重大インフラ事故記録の中立的な写しが保管されている場所だ。正規の工務卿としての権限がなければ、照会すらできない。この男は裏工作や諜報ではなく、合法的で検証可能な手段によって、技術の真偽を客観的に証明しようとしているのだ。
レオンが再びルネに向き直る。
「一年前に国際工務会議で出回った匿名の安全提言。あれを書いたのも君だろう。私は正しさの議論には興味がないが、事故を減らし、無駄な予算を削れる仕組みには大いに金を出したいと考えている」
「あの……あなたがどうして私のことを? それに、私はたった今、セレネスの監査官を解任されたばかりの――」
「殿下に書類女と罵られ、婚約を破棄された上での国外追放だろう。報告は受けている」
レオンは表情一つ変えずに言った。
「だが、そんな感情のコストに割く時間はない。私が欲しているのは慰め相手ではない。事故だらけの私の領地を、その異常なまでの執念で直せる本物の専門家だ」
レオンは懐から、すでに署名と公爵印が押された羊皮紙を取り出した。
一年間の専属契約。提示された報酬は、セレネスで受け取っていた額の三倍近い。さらに、安全な住居と、十分すぎるほどの独自研究費まで記載されている。
「契約を強制する気はない。断るなら、このまま国境まで護衛する。条件に不満があれば言え。可能な限り調整する」
レオンが片手を上げると、騎馬隊は馬車の前から退き、国境へ続く道を空けた。
ルネは開いた道を一度見てから、羊皮紙へ視線を戻した。
「報酬は十分です。それより、一番大切な条件があります」
ルネは羊皮紙を真剣な目で見つめた。
「図面への最終拒否権です」
「ほう?」
「私が『危険だ』と判断して承認印を押さなかった工事は、公爵様であっても、絶対に勝手に進めないこと。政治の面子や式典の都合で、私の技術的判断を覆さないこと。それがお約束いただけるなら、今すぐサインします」
レオンの灰色の瞳が、面白そうに細められた。
彼は懐から万年筆を取り出し、羊皮紙の余白にスラスラと一文を書き加えた。
――『技術的承認なき施工の絶対禁止。本条項は公爵権限を以てしても覆らないものとする』。
「これでいいか?」
「……はい。完璧です」
ルネは差し出された万年筆を受け取り、迷うことなく自身のサインを書き込んだ。
同情でもなく、哀れみでもない。純粋に能力だけを評価され、その権限まで契約で守られた。ルネにとって、これほど心地よい扱いは生まれて初めてだった。
*
夜が明け、朝霧が晴れる頃。
レオンの馬車に同乗したルネは、国境を越え、ノルガルド王国の公爵領へと足を踏み入れていた。
窓の外には、豊かな農地と、レンガ造りの家々が立ち並ぶ活気ある街並みが広がっている。だが、ルネの【構造眼】が見ているのは、景色の美しさではない。地中を這い、建物を取り巻く魔力の線の流れだ。
「……ひどい」
ルネは思わず顔をしかめた。
街灯、水道管、防壁。目につく魔法インフラのほとんどが、魔力線の整理がされておらず、まるで毛玉のように絡み合っている。
「言ったはずだ。我が領地は事故だらけだと」
向かいの席で書類に目を通していたレオンが、顔を上げずに応じる。
その時だった。
馬車が、街の中心を流れる川に架かる大きな石橋に差し掛かった。
ルネの視界が、チカチカと不快な明滅に襲われた。
橋の構造を支える魔力線だ。無数の細い線が、橋の中央部にあるたった一つの巨大な『中央核』に向かって、無理やり束ねられている。
セレネス建設院が好む、見栄えだけを重視した単核式の設計思想。すべての負荷を一個の高価な魔石に押し付ける、ルネが最も警戒する危険な構造だ。
その中央核が今、許容量を超えてどす黒く脈動している。
「止めて! 馬車を止めてください!」
ルネが叫ぶと同時、橋の中央部から、バキリという石が嫌な音を立てて軋む音が響いた。
窓の外を見れば、朝市へ向かうのか、山盛りの野菜を積んだ重そうな荷馬車が橋の真ん中を通り過ぎようとしているところだった。そのすぐ脇を、籠を持った幼い子どもが歩いている。
馬車が急停止するより早く、ルネは扉を開け放って石畳の上に飛び降りた。
転がるようにして橋の欄干に取り付き、冷たい石に直接両手を押し当てる。
欄干に触れたことで【構造眼】の焦点が橋へ絞られ、半径三十メートル内の空間構造が、手に取るような精度で彼女の脳内へ展開された。
装飾用の術式が魔力を無駄食いし、肝心の橋脚を支える線が悲鳴を上げている。限界はもう、数分と保たない。
「退避! 橋の上の人たちを今すぐ降ろしてください! 荷馬車は置いていけと伝えて!」
ルネの鋭い声に、レオンの護衛騎士たちが弾かれたように動き出す。
悠然と馬車から降りてきたレオンは、歪み始めた橋のアーチを見上げ、極めて事務的な声で尋ねた。
「どうする? 被害が出る前に落として、架け替えるか?」
工期と安全を考えれば、それも現実的な判断だろう。
だが、ルネは強い意志を込めて首を横に振った。
「いいえ。こんな醜い線のせいで、彼らの生活の足である橋を壊させはしません」
ルネは両手に魔力を集め、橋の裏側に走る術式へと意識を潜り込ませた。
「私が直します。三十分で」




