第1話 完成印は押せません
「完成印は押せません。南環の結界は、今夜落ちます」
豪奢なシャンデリアが照らし出す王宮の大広間に、ルネの澄んだ声が響き渡った。
王都防衛結界の完成を祝う式典の最中である。着飾った貴族たちと、招かれた三国使節の談笑が水を打ったように止まった。数百の視線が一斉に、分厚い書類の束を抱えた魔法構造監査官の小柄な令嬢へと突き刺さる。
だが、ルネ・エルフォードの目は、彼らの非難がましい表情など見てはいなかった。彼女の【構造眼】は、広間と同じ王都網に接続された魔力線を伝い、南環から届く乱れを捉えていた。接続網越しの遠隔観測では、見えるのは流れの太さと大まかな異常だけで、個々の留点まで見分ける精度はない。それでも黄金に輝くはずの束は、南環区画の周辺でひどく濁った赤に染まり、今にも弾けそうなほど不規則に脈動していた。
「ルネ、貴様……他国の使節殿の御前で何という妄言を吐く!」
壇上から声を荒げたのは、王太子であり、ルネの婚約者でもあるアルベルトだった。金糸の礼服に身を包んだ彼は、面目をつぶされた怒りで端正な顔を歪めている。
アルベルトにとって、この式典は単なるお披露目ではない。三国防衛協約の更新を控え、セレネス王国の強固な魔法インフラを諸外国へ誇示するための重要な外交舞台なのだ。ここで「欠陥がある」などと認めれば、どれほどの政治的、財政的損失を生むか計り知れない。
「妄言ではありません、殿下。南環の第十三留点から第十八留点にかけて、魔力流の逆流と致命的な負荷集中が起きています。このままでは、今夜予定されている祝砲の魔力供給が引き金となって、結界の基幹術式が破断します」
「馬鹿なことを言うな! 結界は完璧だ」
アルベルトをかばうように前に出たのは、建設院総監のマルセルだった。恰幅の良い体を揺らしながら、彼は胸を張って一枚の羊皮紙を掲げてみせた。
「エルフォード監査官。建設院が誇る王都認定規格の安全証明がここにある。我々が構築した巨大な中央核は、過去に類を見ない出力を誇っているのだ。末端の細かな線の揺らぎなど、巨大な核の力で容易に押し流せる。君のような小手先の構造しか見えない者には、この大いなる文明の美学が理解できんのだろうがね」
マルセルの口元には、せせら笑いが浮かんでいた。彼にとって魔法とは、いかに巨大な高級魔石を使い、いかに莫大な出力を一点に集約させるかという権力の象徴だ。
ルネは思わず眉根を寄せた。
一本の巨大な柱にすべての重さを押し付け、それが折れれば全体が死ぬような設計のどこが安全だというのか。
「中央核の出力が高いからこそ危険なのです! 受け止める側の留点が負荷に耐えきれず、すでに三箇所で焦げ付いています。書類上の計算が合っていても、実際の導線は悲鳴を上げています。直ちに祝砲を中止し、南環の魔力を抜かなければ――」
「黙れ!」
アルベルトの怒声が、ルネの言葉を暴力的に遮った。
「安全証明は出ている。それを、重箱の隅をつつくような難癖で国の威信を傷つけるなど、万死に値する行いだ。お前のような、全体を見ず、細かい数字と構造にしか執着しない書類女に、我が国の監査は任せておけん!」
ルネは息を呑んだ。
冷ややかな視線が四方から突き刺さる中、アルベルトは冷酷な宣告を下した。
「ルネ・エルフォード。貴様を魔法構造監査官の任から解く。そして――貴様との婚約を破棄する。王家の名において、貴様に国外退去を命じる」
広間がざわめきに包まれた。貴族たちが嘲笑交じりに囁き合う声が聞こえる。
ルネの足元が、わずかに揺らいだ。
泣き崩れるような情けない真似はしない。自分が専門家として正しい警告をしたという自負はある。だが、胸の奥で、カチンと小さく何かが折れる音がした。
――アルベルト殿下だけは、わかってくれると思っていたのに。
毎晩遅くまで計算を繰り返し、目を血走らせながら書き上げたあの分厚い改修報告書を、彼だけは最後まで読んで、この危険を理解してくれていると信じていた。だが、彼は読んでなどいなかったのだ。事実よりも、書類上の安全証明と、体面という名の虚飾を選んだ。
「……承知いたしました」
ルネは静かに一礼した。これ以上、何を言っても無駄だ。見栄えしか見ない者たちに、地下の破断線は見えない。
彼女は差し出されるはずだった総合完成承認書を冷たく見下ろし、決して自身の印を押すことなく、手元にあった未提出報告書の控えだけを抱きしめた。
そして、誰の目も振り返ることなく、豪奢な王宮に背を向けた。
*
その日の夜。
ルネを乗せた質素な馬車は、すでに王都を離れ、隣国へと続く国境街道をひた走っていた。
ガタゴトと揺れる車内で、ルネは小さな窓から身を乗り出し、遠ざかるセレネスの王都を見つめていた。夜空には、完成を祝う色鮮やかな魔法の祝砲が次々と打ち上げられている。鮮やかに花開く光の輪。
だが、ルネの構造眼が追っていたのは、その華やかな光の裏側だった。街道まで延びる補助供給線を介して届く像は粗く、どの留点が先に切れるかまでは判別できない。
それでも祝砲が上がるたび、王都の地下から空へ向かって巨大な魔力が吸い上げられ、その負荷が一本の中央核を通って南環へ雪崩れ込む大きな脈動だけは、はっきりと見えた。
「あ……」
ルネの唇から、微かな声が漏れた。
視界の端で、張り詰めていた赤い魔力線が、限界を超えて弾け飛ぶのが見えた。
直後だった。
遠景の王都の空で、盛大に上がっていた祝砲の光がふっと途切れた。それだけではない。王都の南半分を煌々と照らしていた祝祭の灯りが、まるで巨大な獣に食いちぎられたかのように、一帯すべて同時に暗転したのだ。
本当の闇が、王都の南環を飲み込んだ。
結界が、落ちた。
ルネが式典の場で警告した通りの未来が、その日のうちに証明された瞬間だった。
胸に去来したのは、「それ見たことか」という快感ではない。ただ、専門家としての自分の計算が正しかったという冷酷な事実と、あの美しいはずだった魔力の流れが醜く引き千切られたことへの底知れぬ虚しさだった。
だが、絶望の暗闇に沈んだ南環の空に、遅れて、ぼんやりとした青い光が浮かび上がった。
それは、見栄えが悪いからとマルセルが撤去しようとし、ルネが「二重の備えは構造の基本だ」と猛反対してなんとか残させていた、旧式の非常結界の光だった。
青い光は頼りなく瞬きながらも、結界の破断箇所を覆い隠すように持ちこたえている。
あれが起動したということは、少なくとも南環の居住区が一斉に崩壊する最悪の事態は、避けられた可能性が高い。
ルネは窓枠を強く握りしめていた指から、ゆっくりと力を抜いた。深く、冷たい夜気を吸い込む。
「……今の私にできる仕事は、ここまで」
ポツリと呟き、彼女は窓を閉めた。もう振り返る必要はない。自分の専門性を否定し、虚飾を選んだ国に、ルネの居場所はもうないのだから。
馬車は再び、暗い街道を進み始めた。
しかし、その静寂は長くは続かなかった。
いななきと共に、馬車が急ブレーキをかけて停止した。ルネが驚いて身構えるより早く、窓の外から複数の馬の蹄の音が聞こえてきた。
ルネが恐る恐る窓の外を覗き込むと、そこには松明の炎に照らし出された一団がいた。
闇夜に溶け込むような漆黒の外套。そして、彼らが掲げる旗には、ルネの知らない黒い紋章が刻まれている。
後に、それが隣国ノルガルドのヴァルハルト公爵家の紋章だと知ることになる。
完全武装した騎馬隊が、国境へ向かうルネの馬車の進路を、静かに、しかし逃げ場のないほど完全に塞いでいた。




