第40話 国境を開ける
夜明けの薄明かりに照らされた地平線は、黒い染みが蠢いているように見えた。
いや、染みではない。最初に国境へたどり着いた数千人の避難民と、その背後で街道の彼方まで連なる後続だった。最終的な流入予測は数万人規模。疲労と恐怖に顔を歪ませた人々の波が、足を引き摺りながらノルガルドの国境要塞へ押し寄せている。
「受け入れは物理的に不可能です!」
要塞の司令室で、国境警備隊の将校が血相を変えて叫んだ。
「最終的に数万の人間を収容するなど、我が国の防衛網ごと内側から食い破られるようなものです! 食料の備蓄もすぐに底をつき、暴動が起きて治安は確実に崩壊します! 公爵閣下、非情ではありますが、国境の門は固く閉ざすべきです!」
将校の主張は、国家を防衛する軍人として極めて正しかった。
他国の難民を数万人規模で無計画に受け入れれば、ノルガルド自身のインフラと経済が致命的な打撃を受ける。自国民を守るためならば、門の外で彼らがどうなろうと見捨てるのが、為政者としての定石だ。
レオン・ヴァルハルトは、司令室の大きな窓から眼下に迫る黒い波を見下ろしていた。
「……彼らを門外で見殺しにすれば、数万の死体が国境線に積み上がることになる。そこから発生する疫病や魔障の処理にかかる将来コストを計算すれば、一時的な物資の枯渇を許容してでも要塞内に収容した方が、結果として衛生維持費は安く済む」
冷徹な工務卿らしい、効率と費用対効果の理屈。
だが、レオンは言い終える前に、自嘲するように短く息を吐いた。
「……いや。違うな」
レオンは窓から振り返り、司令室の通信卓で絶え間なく指示を飛ばし続けているルネの小さな背中を見つめた。
効率だの、将来のコストだの、そんな後付けの理屈はどうでもよかった。
「公爵閣下……?」
戸惑う将校たちを片手で制し、レオンはルネの傍らへと歩み寄った。ルネが不思議そうに顔を上げる。
「あの門の外にいるのは、君が救うと決めた人々だ」
レオンの灰色の瞳に、これまでにないほど深く、熱い光が宿っていた。
「君はこれまで、この国で『誰も見捨てない、誰でも直せる』インフラを必死に築き上げてきた。その尊い安全思想を、自国の都合が悪いからといって、国境の境界線でだけ例外にしたくはない」
それは合理性の放棄ではなかった。門外の大量死、疫病、治安崩壊まで含めて損失を見直し、管理された受け入れの方が被害を抑えられると判断したのだ。だが、その計算の最後に人命を置くことは、レオン自身の選択だった。
「国王陛下より預かっている非常災害時の越境受け入れ権限を、今ここで発動する」
「国境の門を開け! 難民を要塞内の演習場へ誘導しろ!」
レオンの声が、司令室に雷鳴のように響き渡った。
「受け入れは無制限に流し込むことではない。十五分ごとに五百人ずつ通せ。第一関門で武器を預かり、家族単位の番号札を渡す。第二関門で負傷者、乳幼児、高齢者を選別し、発熱者は風下の隔離区画へ回せ」
レオンは要塞地図へ次々と線を引いた。
「演習場は二百人単位の区画に分け、区画ごとに配水所、炊き出し所、警備担当を置く。便所溝は井戸より下流かつ風下。内郭と武器庫は閉鎖したままにし、避難民の通路と守備隊の動線を交差させるな」
食料は守備隊の七日分だけでは足りない。近隣三都市との緊急買い上げ契約を発動し、六時間後から穀物と塩、薪の輸送隊を連続到着させる。翌朝からは身元登録の済んだ者を、受け入れ枠のある国内各都市へ分散移送する計画も同時に走らせた。
「物資不足と事後の政治的責任は、工務卿である私が負う。計画通りに門を開けろ!」
ルネは地図へ身を寄せた。
「一時間あたり二千人なら、仮設多点格子の増設速度と釣り合います。水は一人一日二桶を上限に配給札で管理します。西側の衛生区画はミナさんへ任せます」
重厚な金属の摩擦音とともに、国境の巨大な門が開かれた。
怒涛のように流れ込んでくる避難民たちを収容するため、ルネは要塞の敷地内で即座に陣頭指揮を執った。
「第一班、国内魔源からの引き込み線を演習場へ延長! 第三班は荷馬車から陶石モジュールを下ろして、等間隔に配置して!」
ここで、第二段階へと進化した多点格子の真価が発揮された。
高価な位相安定晶を必要としない、安価な『耐熱陶石』の留点。国内の窯元で大量に焼き上げられ、国境に大量輸送されていたこの陶石モジュールを既存の魔源と繋ぎ合わせることで、ルネは巨大な難民キャンプ用の簡易多点格子を、目をみはる速度で敷設していった。
「ルネ先生! 西側の区画は、私に任せてください!」
圧倒的に人手が足りない中、助手のミナが一隊を率いて飛び出してきた。
「ミナさん、でもそこは地盤の魔力波長が……」
「大丈夫です! 事前のマニュアルにあった『不均一な地盤における仮設結界の展開手順』通りにやります! 先生は、もっと重要な全体指揮に集中してください!」
そう言い残すと、ミナは職人たちに的確な指示を飛ばし、ルネの助言を仰ぐことなく、あっという間に西側区画の防寒結界と照明網を完成させてしまった。
「……すごい」
ルネは目を丸くした。かつてはルネの早口な説明に固まっていた少女が、今や立派な現場の指揮官として自立している。
自分がすべてを背負わなくても、現場は回る。自分が残した『仕組み』が、確実に人を育て、命を救い続けているのだ。
だが、その喜びも束の間だった。
ビーッ、ビーッ!
要塞の通信室から、耳を刺すようなエラー警報が鳴り響いた。
「院長! セレネス王都の巨大結界が、限界を超えました! 暴走状態に入ります!」
通信兵の絶叫に、ルネは血相を変えて制御卓へと駆け戻った。
監査鏡板の画面には、真っ赤に染まった魔力波形のグラフが狂ったように乱高下しているのが映し出されている。アルベルトが王宮への優先供給を切り、市街へ魔力を逃がしたことで時間は稼げたが、王冠塔の中央核に蓄積した魔力の自己増幅は、もはや後戻りできない臨界点に達していた。
「このままでは、膨大な魔力の逆流が国境を越えてこちらへ向かってきます!」
ルネは歯を食いしばり、各地の遠隔測定値を猛烈な速度で重ね合わせた。
頭の中で、王都から国境へ至るすべての魔力線の太さ、抵抗値、地脈の反転ベクトルが組み上がり、一本の明確な答えを導き出す。
「……計算終了。逆流する魔力の『最終負荷』が向かう場所が分かりました」
「どこだ!」
レオンの問いに、ルネは地図の一点を力強く指し示した。
「セレネスの単核網と、我が国の多点格子が直接接続されている『国境主幹結合点』です」
災害時の越境遮断により、他の国境接続はすべて閉じている。だがこの一点だけは、セレネス側の避難路と、国境キャンプの配水設備と防寒結界へ魔力を送るため開いたままだった。しかもノルガルドの多点格子は、暴走したセレネス網から見れば、もっとも抵抗が低く、魔力を受け入れられる巨大な逃げ道になっている。
逆流は意思を持って国境を選ぶのではない。開いている経路のうち、最も流れやすいこの一点へ集中するのだ。
ここを閉じれば、ノルガルド側の結合点は守れる。キャンプも順次、国内魔源だけの供給へ切り替えられる。だが、セレネス側の避難路には、まだ代わりの魔力源がない。非常灯と誘導結界が落ちれば、門外から街道へ続く数万人が、暗闇の中で押し合うことになる。
「国外の避難路に最後の集団が残っています。……ここは、まだ閉じられません」
ルネは遮断レバーから手を離し、結合点の負荷を示す針へ向き直った。
「今、地方班に指示して各中継留点を開いています。ですが、王都からの放散魔力がどんな位相でぶつかってくるのか、実際に波が到達するまで事前の確定はできません」
ルネの額に、冷たい汗が伝った。
「既存の規格の組み合わせでは、吸収しきれない『未知の条件』が発生します。遠隔からの指示だけでは相殺できません」
遠方の異常は、接続網越しの【構造眼】で粗く追うことができる。だが、【再配列】で直接組み替えられるのは、ルネを中心とした半径三十メートル以内か、彼女が直接触れている結節点だけだ。安全な遠隔地から線そのものを直すことはできない。
だからこそ、ルネは迷わなかった。
「制御卓ごと、国境結合所へ移動します」
「なっ、ルネ! あそこはこれから最大の負荷が集中する爆心地だぞ!」
レオンが鋭く制止するが、ルネの瞳は真っ直ぐに彼を射抜いていた。
「分かっています。でも、未知のエラーが起きるその場所で、私が直接三十メートル圏内で見て、その場で新しい構造を発明しなければ……最後の一手は打てないんです」
それは技術者としての、命を懸けた決断だった。
ルネは図面を抱え、破滅が約束された国境の死地へと、自らの足で駆け出していった。




