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「完成印は押せません」婚約破棄・追放された魔法監査官は、冷酷公爵の国を立て直す~戻れと言われても契約済みです~  作者: 他力本願寺


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第39話 王太子が、王宮を捨てる日

セレネス王国王宮の地下深く、王冠塔の最下層に置かれた中央制御室。


 分厚い壁越しにすら、地脈反転の余波で王都が炎と崩壊に呑み込まれていく地鳴りが響いていた。


「殿下! これ以上は危険です! ただちに旧来のマニュアル通り、市街への魔力供給を全て断ち、王宮の防衛結界に全残存魔力を集中させてください!」


「そうだ! 平民どもは捨て置け! 我々王家の血筋と、高貴なる者たちだけでも生き延びねば、国家は再建できんのだぞ!」


 制御室に詰めかけた特権階級の貴族や、旧体制にしがみつく官僚たちが、血走った目でアルベルトに決断を迫っていた。


 これまでのセレネス王国であれば、彼らの主張が通っていただろう。パニックを切り捨て、一握りの支配層だけが分厚い結界の中で嵐が過ぎるのを待つ。それが、巨大な単一の核にすべてを依存する、この国の『正しい』やり方だった。


「……黙れ」


 アルベルトの低く、鋭い声が、貴族たちの喚き声を一刀両断した。


「殿下……?」


「我々が『安全だ』と盲信し、しがみついてきたその旧来のマニュアルが、今、頭上の街を燃やしているのだ」


 アルベルトは制御卓の前に立ち、各種メーターが危険な赤色に振り切れているのを見つめた。


 あの完成式典の日。彼は建設院が発行した安全証明という紙切れと、外国使節の前の面子を守るために、専門家であるルネの警告を握り潰した。彼女の『目』ではなく、自分たちの都合の良い『制度』を信じた。


 そのツケが今、地上の市街で何万もの命を脅かしている。


 これ以上、国の頭脳たる者が現実から目を背け、保身に走ることは、統治者としての最大の罪だった。


「王都の民を見捨てて、何が国家か」


 アルベルトは震える貴族たちを冷たく一瞥すると、卓の中央にある『優先供給切替鍵』に手をかけた。


 王冠塔を止める鍵ではない。各層の圧力を抜くまでは、中枢を安全に停止させられない。今は、王宮へ集めるはずだった魔力の送り先を、市街へ変える。


「や、やめろおおおっ!」


 貴族の悲鳴を引き裂くように、アルベルトは力強く鍵を回し、レバーを根元まで引き下げた。


 ガゴンッ、という重い物理音が響く。


 王宮防衛結界への優先供給が断たれた。魔力は王宮専用核へ流れ込む手前で迂回し、ルネが事前に設計していた『市街からの段階避難ライン』へと、区画ごとの制限器を通して送り出された。


 王都の空に、異様な光景が広がった。


 王宮の威信を誇示していた防衛結界が薄れ、宮殿を照らす装飾灯が次々に消えていく。王冠塔の警告光だけが残る闇の中で、王太子は自らの盾を市民に譲った。


 その代わり。暗闇と瓦礫、そして煙に覆われた市街地で、奇跡のような光が灯り始めた。


 崩落の危険が高い南区や東区の脆弱区画から、王都の巨大な南広場、さらには国境へと続く街道に沿って、青白い非常灯のラインが次々と点灯していく。


「……光だ! 道が見えるぞ!」


「こっちだ! この光に沿って進め!」


 暗闇の中で絶望に沈みかけていた市民たちが、その光を頼りに立ち上がる。彼らは手に手を取り合い、怒涛のような脱出の波となって、王都から国境を目指して歩き始めた。


 ノルガルド国境要塞の監査鏡板に、優先供給の切替完了信号が届いた。市街の段階避難ラインが青く点灯し、出力が安定域へ入る。


 ルネは数値を確認すると、すぐ次の回線を開いた。


「ミナさん! 第七区画のデータが来たら、すぐにゲルトさんの班へ共有して!」


「はいっ、先生!」


 ルネはもう、目の前の自分の仕事だけを見ていた。


 感傷に浸る暇など、ルネには一秒たりともない。彼女の頭脳はすでに、目前に迫る次なる巨大な脅威へとフォーカスしていた。


「レオン様。避難路が機能したということは、この要塞に向けて、セレネス王都の人口の数割が直接押し寄せてくるということです」


 ルネは国境周辺の地図に素早く線を書き込みながら、隣に立つレオンに告げた。


「分かっている。軍部にはすでに国境警備の増強を指示した。物資管理局にも、備蓄食料の放出準備を進めさせている」


「インフラ側も限界まで拡張します。ゲルトさん! 国境要塞周辺の簡易多点格子をフル稼働させて! 急造の野営地と配水所の処理容量を、規定の二・五倍まで引き上げます!」


「無茶言うな! 陶石モジュールが保たねえぞ!」


「保たせます! 私が直接、限界値のギリギリで位相の調整を行いますから、現場はモジュールの交換にだけ集中してください!」


 怒号と指示が飛び交い、国境要塞はかつてない緊張感に包まれていた。


 地脈の反転はまだ終わっていない。その余波で要塞自体も時折激しく揺れる中、ルネとレオンはそれぞれの戦場で、一つの命でも多く救うために無駄のない動きを続けていた。


 やがて、長く過酷な夜が明けようとする頃。


 東の空が白み始めたその時、要塞の最も高い見張り台から、悲鳴のような報告がもたらされた。


「国境街道、前方に人影! 先頭集団だけで数千! 後続は街道の彼方まで途切れません!」


 ルネが通信室の窓から外を見ると、薄暗い地平線の彼方から、巨大な黒い波がうねりながらこちらへ向かってくるのが見えた。


 それは、炎と崩壊に沈むセレネス王都から、夜を徹して最短避難街道を歩いた先頭集団だった。監査鏡板の街道人流計は、その背後に続く人々まで含めた最終流入が数万人規模に達すると示している。


 後続まで含めれば数万という途方もない数。これほどの人間を受け入れれば、食料も水も治安も限界を超え、ノルガルドという国そのものがインフラごと破綻しかねない。


 だが、ここで国境の門を閉ざして彼らを拒絶すれば、彼らは行き場を失い、確実に死ぬ。


 王宮での決着がつき、本当の意味での『命の選別』という絶対的な決断の時が、ルネとレオンの目の前に巨大な壁となって迫っていた。

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