第37話 私の印は、同じ波形を二度残さない
翌朝。封印された条件付き承認書の公証転写が並ぶノルガルド国境要塞の通信室。
ルネは監査鏡板の向こうで息を呑むセレネス王国の官僚たちに向かって、ひどく静かな声で告げた。
「私は、この区画別の条件付き承認書に判子を押していません」
『馬鹿なことを言うな!』
画面の向こう側で、マルセル総監が顔を真っ赤にしてテーブルを叩いた。
『そこに確かにお前の印影が残っているだろうが! 自分が責任逃れのために出した条件付き承認を、今さら記憶にないなどと言い逃れる気か!』
「記憶の話などしていません。私は監査官として、客観的な事実に基づいた証明を行います」
怒鳴り散らすマルセルとは対照的に、ルネの態度は氷のように冷徹だった。
彼女は自分の手荷物の中から、監査印を押すための特殊な魔力朱肉と、真っ白な紙を取り出した。
「公爵様。セドリック先生と、同盟から派遣された中立監査官の方をこちらへ」
「ああ、すでに手配してある」
レオンが頷くと、通信室の扉が開き、王都一の魔法建築家であるセドリックと、国際工務同盟の紋章を身につけた中立の監査官が、精密な魔力測定具を手に入室してきた。
「セレネスの皆様。鏡板越しによく見ていてください」
ルネは白紙を机の上に広げると、自らの魔力を指先に込め、監査印をトン、トン、トンと三度、連続して試し押しした。
紙の上には、全く同じ形をした三つの赤い印影が並んだ。
「セドリック先生。測定具で、この三つの印影の『魔力波形』を鑑定していただけますか。それと、私がセレネスを解任された夜に持ち出した、未提出報告書の『真正控え』の印影も合わせてお願いします」
「承知した」
セドリックが慣れた手つきで測定具のレンズを印影に当てる。中立監査官も別系統の機器で同時にデータを読み取り、波形を紙に打ち出していった。
三つの試し押しは、承認書と同じ設定の公証転写も通した。細かな山と谷の差は転写後にも残り、校正記録の誤差より十分に大きかった。
「転写で違いが消えたわけではない。セレネス側の原本は、封印番号を照合したうえで二台の測定具が別々に読み取っている。その記録と、こちらの測定も合っている」
中立監査官は、現地担当者の署名が付いた照合表を鏡板に掲げた。
『……何をしている? そんな手品のような真似に何の意味がある』
怪訝な顔をするマルセルに、ルネは打ち出された波形データを鏡板に映し出した。
「正式な監査印には、日付や文書番号といった表面的なインクの印影だけでなく、押印時の個人の『魔力波形』が不可視の暗号として記録されます」
ルネが指し示した四つの波形グラフは、大まかな形こそ同じルネ・エルフォード個人のものを示していたが、細部の山の高さや谷の深さが、それぞれ微妙に異なっていた。
「人間は機械ではありません。生体魔力を用いた印は、押すたびに呼吸や脈拍、その時の感情、さらには周辺の魔素の揺らぎの影響を受けます。ですから、同じ人物が連続して押したとしても、その微細な波形が決して完全一致することはありません。……ここまでは、よろしいですね?」
鏡板の向こうの官僚たちが、沈黙したまま小さく頷く。それは魔法構造を扱う者にとっての常識だったからだ。
「では、マルセル総監。あなたが『私が押した』と主張し、昨日提出した百件以上に上る条件付き承認書の、魔力波形の鑑定結果をご覧ください」
ルネの合図で、ミナが公証転写を次々と測定具にかけ、対応する原本の測定記録と並べて画面に送っていく。
パサッ、パサッと紙がめくられる音だけが通信室に響く。
やがて、転送された百件以上の波形グラフが、一つの画面上に重ね合わされて表示された。
「――っ!」
画面を見たセレネスの官僚たちから、一斉に戦慄の息が漏れた。
百件以上の波形グラフは、測定具が拾える微細な差すら示さず、ただの一本の線として重なっていた。原本を現地で直接測定した二系統の記録にも、同じ一致が現れていたのだ。
中立監査官が封印番号を読み上げ、セレネス側の現地監査官が一件ずつ復唱した。通信や転写によって生じた一致ではない。
「わずかな差もなく、『完全一致』しています。しかもこの波形の形状は、過去に私が別の区画の検査で押した、あるたった一件の真正印の波形と全く同じものです」
ルネは顔を上げ、マルセルを真っ直ぐに見据えた。
「日付の記載ミスでも、連番の打ち間違いでもありません。マルセル総監。これは、私の真正印の魔力波形を特殊な魔導具で記録し、後から別の書類へ機械的に焼き付けた……紛れもない『再生偽造』です」
『な、馬鹿な……!』
マルセルが顔面を蒼白にして後ずさった。
印影と文書番号だけの審査では見破りにくい、高度な偽造。原本の微細な波形を比較する専門鑑定が後回しになったことで、国際的な融資や保険の審査もすり抜け、今日まで通用していたのだ。
完成式典でルネが「総合完成印」を公衆の面前で拒否したという事実。それをごまかすために、マルセルたちは「解任前に、区画ごとの条件付き承認をルネが出していた」という偽造書類を大量にでっち上げ、インフラが安全であるという根拠を補完していた。
もはやこれは、単なる保身や面子の問題ではない。
「国際工務同盟を欺く、詐欺、公文書偽造、および安全記録の改竄。……マルセル総監。あなたの行いは、明白な重犯罪です」
同盟から派遣された中立監査官が、厳格な声で宣告した。
『……っ! ち、違う! これは何かの間違いだ! 私は王都の文明を守るために――!』
「黙れ」
アルベルトの低く冷酷な声が、マルセルの見苦しい弁明を切り捨てた。
王太子はゆっくりと立ち上がり、自らの背後に控えていた近衛の衛兵たちに冷徹な視線を向けた。
「建設院の強制監査を実行する。マルセル総監をただちに拘束し、関連資料をすべて押収せよ」
『で、殿下!? お待ちください、私は――』
叫ぶマルセルの両腕が屈強な衛兵に掴まれ、そのまま会議室の奥へと引きずり出されていく。パニックを恐れ、真実を隠蔽し続けた男の権力は、動かぬ証拠の前にあっけなく崩れ去った。
「そして、全官僚に命じる」
アルベルトは議場を振り返り、王太子としての絶対の威圧感を放った。
「王都全域に、避難準備情報をただちに布告せよ。ルネ・エルフォードが示した脆弱区画の段階避難ラインを即時発動し、市民を安全圏へと逃がすのだ! 一刻の猶予もないぞ!」
『は、ははっ!』
官僚たちが一斉に弾かれたように動き出す。
制度の虚飾が死に、ようやく、人命救助のための歯車が回り始めた。
ルネは画面越しにその光景を見届け、長く止めていた息を静かに吐き出した。
「終わったな」
隣に立つレオンが、労うようにルネの肩に触れた。
「はい。これで、セレネスの市民も……」
ルネが安堵の笑みを浮かべかけた、まさにその直後だった。
ウウゥゥゥゥーーーッ!!
国境要塞の観測塔から、空気を切り裂くような甲高いサイレンが鳴り響いた。
「なっ……魔物か!?」
ゲルトが扉に手をかけた瞬間、通信兵が血相を変えて通信室へと飛び込んできた。
「観測塔より緊急警報!! 地脈の激しい逆流を検知しました!」
「なんだと!?」
レオンが鋭く問い返す。
「大災害の中心予測日からは、まだ三日も早いぞ!」
「は、はい! 中心予測より三日早いですが……事前にエルフォード院長が示されていた、予測幅の『最短側』に入っています!」
通信兵の絶叫に近い報告に、ルネの顔からすっと血の気が引いた。
予測が外れたわけではない。最も恐れていた、時間的猶予が一切なくなる最短側のスケジュールを引き当ててしまったのだ。
避難情報が公開され、人々が動き出そうとしたその瞬間。
まるで制度の決着を待ち構えていたかのように、大陸全土の魔法網を停止させる真の厄災が、その重く絶望的な幕を開けた。




