第36話 パニックを恐れた人たち
六日後。最短発生日を翌日に控えた、ノルガルド国境要塞の通信室。
中央に置かれた大型の監査鏡板には、セレネス王国の王宮会議室の様子が映し出されていた。そこでは、数十人の高級官僚たちが顔を突き合わせ、激しい論戦を繰り広げている。
『アルベルト殿下! いくらなんでも、王都に避難準備の公表など正気の沙汰ではありません!』
財務を司る初老の官僚が、血相を変えて反対の声を上げた。
『他国の出した不確かな災害予測一つで、王都全域の市場や物流を止めるおつもりですか! それだけで我が国の経済にどれほどの莫大な損失が生じるか、お分かりにならないのですか!』
『そうです! もし民衆がパニックを起こせば、買い占めや暴動に発展しかねません。国家運営において、実態のない恐怖を煽ることは最大の愚行です!』
別の官僚も同調してテーブルを叩く。
彼らは、マルセル総監の息がかかった単なる悪人というわけではない。国家の経済と治安を預かる者として、「インフラの崩壊」というまだ起きていない未来よりも、「経済活動の停止と群衆のパニック」という目先の確実な損失を恐れているのだ。為政者としての理屈としては、極めて合理的な反対意見だった。
画面の奥で、アルベルトは苦渋の表情を浮かべたまま、沈黙を守っている。
ルネは国境要塞の通信卓の前で、腕を組んだレオンと共にその喧騒を静かに聞いていた。
「……意見は出尽くしましたか?」
ルネは通信機越しに、冷ややかな、よく通る声を放った。
鏡板の向こうの官僚たちが、忌々しそうにルネを睨みつける。
「全国一斉に避難をして、経済活動をすべて止めろとは言っていません。私からの提案は、崩壊リスクが極端に高い『脆弱区画』から先に、段階的に人を移す案です」
ルネは手元に用意していた王都の地図を、鏡板の読み取り機にかざした。
「市場の主要な物流ルートは維持しつつ、もっとも魔力が密集して破断の危険性が高いこの南区と東区の一部から、優先して避難ラインを構築してください。これなら、経済への打撃を最小限に抑えつつ、最悪の人的被害を防げます」
数字に基づいた現実的な段階案に、先ほどまで猛反対していた官僚たちが言葉に詰まる。
だが、その沈黙を切り裂くように、ひときわ大きな怒声が響いた。
『ふざけるなッ! その脆弱区画とやらを特別扱いして、真っ先に避難させるわけにはいかん!』
建設院総監、マルセル・グランツだった。彼は豊かな腹を震わせ、顔を真っ赤にして立ち上がっていた。
『王都の民を一部でも動かせば、無用な不安を煽るだけだ! だいたい、お前の言う脆弱区画など、何の根拠があって指定したのだ!』
「根拠なら、先ほどのデータで示しました。当該区画の魔力集中は、すでに限界値の八割を超えています」
『黙れ! 私は認めんぞ!』
マルセルの猛烈な反発の理由は、パニックや経済保護などではない。
ルネが指定した「崩壊リスクが極端に高い脆弱区画」は、奇しくも、マルセルが近年、自らの政治力を使って巨大な単核式を強引に導入した「肝煎りの区域」と完全に一致していたのだ。
ここでその区画の市民を避難させれば、彼が進めてきた政策と、セレネス旧式の誇る単核式インフラの『失敗』が世間に可視化されてしまう。
(自分の保身と面子のために、市民の命を天秤にかけているのね)
ルネは、マルセルの隠蔽の本当の理由を正確に見抜いていた。
「マルセル総監。あなたは先日、国際工務同盟の場で『我が国のインフラは対応済みだ』と主張されましたね」
『あ、ああ! そうだ、対応済みだ! すでに最新の基準を満たしておる!』
「ならば、その『対応済み』と主張する根拠資料の原本を、今すぐ同盟の中立監査官へ開示してください。こちらには公証転写と原本の測定記録を提出していただきます」
ルネは一歩も引かずに要求した。
『なっ……国家機密である結界の詳細資料を、他国に易々と渡せるか!』
「王太子としての命だ。直ちに提出せよ、マルセル総監」
それまで沈黙していたアルベルトが、冷徹な声で介入した。
「殿下ッ!?」
「これは我が国の命運を左右する事態だ。ノルガルドからの要求を拒み続ければ、それこそ国際社会での我が国の信用は失墜する。同盟の現地監査官には保管庫への立ち入りを認める。……すぐに出せ」
王太子からの厳命、そして画面越しに見据えるレオンの無言の圧力に屈し、マルセルはついにギリッと奥歯を噛み締め、資料の転送に応じざるを得なかった。
一時間後。
国境要塞の通信室に設置された受信機から、同盟の公証符号を付した書類の束が吐き出された。
同時刻、セレネスの建設院保管庫では、現地に駐在する同盟の中立監査官が、対象の承認書原本を一件ずつ封印していた。文書番号、封印番号、保全時刻が、国境側にも送られてくる。
届いた紙は原本ではない。印影の魔力残滓を校正記録付きで写す『同盟公証転写』だ。現地では原本そのものを別系統の測定具二台で読み取り、国境側の転写測定と照合する。送信者の出力だけで真偽を決める手順ではなかった。
ミナが急いでそれらを広げ、目を通していく。
「ルネ先生! これは……」
ミナが驚きの声を上げ、書類の一枚をルネに差し出した。
「……なるほど。そういうことですか」
送られてきたのは、王都の区画別に発行された『条件付き承認書』の束だった。解任前の日付と、ルネ・エルフォードの監査印が確かに並んでいる。
『見たか、エルフォード監査官!』
画面の向こうでマルセルが勝ち誇った。
『お前は総合完成印こそ拒んだが、その前に区画ごとの安全を承認している。これが対応済みの根拠だ!』
ルネは、解任の夜に持ち出した真正控えを隣へ置いた。
印影の輪郭だけなら同じに見える。だが【構造眼】で紙面に残る魔力の線を追った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
百件以上の印が、あまりにも揃いすぎている。
「この書類は、現状のまま一枚も動かさないでください」
ルネは結論を口にせず、同盟の中立監査官へ緊急鑑定を要請した。
「私の目だけでは、国際的な証明になりません。現地の原本の封印を維持し、こちらの転写も保全してください。私が今ここで押す印と真正控えを比較試料にして、原本の独立測定と転写の測定を照合します」
『何を企んでいる』
「本当に私が別々の日に押したなら、魔力波形は一枚ずつ微かに違う。機械で写したのなら――全部、同じ線を残します」
鏡板の向こうで、マルセルの顔から初めて笑みが消えた。




