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「完成印は押せません」婚約破棄・追放された魔法監査官は、冷酷公爵の国を立て直す~戻れと言われても契約済みです~  作者: 他力本願寺


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第35話 助けます。でも、戻りません

国境要塞に設けられた簡素な会談室。


 長テーブルを挟んで、ノルガルドの工務卿レオンと、魔導構造院長のルネ。そして対面には、少数の護衛のみを連れて国境を越えてきたセレネス王国の王太子、アルベルトが立っていた。


 アルベルトの顔には、かつて王宮の完成式典で見せたような傲慢さや、余裕に満ちた笑みは欠片もなかった。


 彼は深く息を吸い込むと、ルネに向かって深々と頭を下げた。


「ルネ・エルフォード殿。……いや、専門家たるあなたに、私は王太子として正式に謝罪しなければならない」


 張り詰めた空気の中、アルベルトの重い声が響いた。


「国際会議でのあなたの警告を受け、私は王都結界の独立再計測を命じ、建設院の生データを自らの目で確認した。……結果は、あなたの言う通りだった。我が国の結界は、すでに致死的な負荷を抱え込んでいる」


 アルベルトは頭を上げ、悔恨に満ちた目でルネを見つめた。


「あの完成式典の日。私は、建設院が発行した『安全証明』という書類の権威と、外国使節の前の面子を優先し、専門家である君の警告を不当に握り潰した。私のその誤った判断が、国を危機に陥れた。……すまなかった」


 それは、感情的な「やり直したい」という泣き落としではない。自らの統治者としての判断の誤りを、論理的に認め、非を被るという公的な謝罪だった。


 ルネは、まっすぐに彼を見返した。


 かつて、この人に信じてもらえなかったことが、ルネの胸に暗い傷を残していた。自分の一番の理解者になってくれると思っていたのに、彼は権威の方を選んだ。だが、その傷はもう痛まない。今のルネには、自分の引いた線を信じ、共に歩んでくれる確かな理解者が隣にいるからだ。


「謝罪は、お受けします」


 ルネは静かに、だがはっきりと言った。


「あの日の殿下の判断は間違っていました。それを認めてくださったことには、感謝します。……ですが」


 ルネは一呼吸置き、決然と告げた。


「私は、セレネス王国の監査官には戻りません。王宮の面子を守るための仕事は、もう御免です」


 アルベルトの肩が、微かに震える。だが、彼は何も言い返さなかった。


「私が協力するのは、逃げ遅れる市民を助けるためです。結界の崩壊を前提とした、王都の避難経路の設計と、被害を最小限に抑えるための緊急停止手順の策定。それだけを引き受けます」


 自分で明確に線を引いたルネの言葉に、アルベルトは無言で頷くしかなかった。


 そのやり取りの間、レオンはルネの隣で腕を組み、一切口を挟まなかった。


 他国の王太子が元婚約者に頭を下げているのだ。横から割って入り、ルネの所有権を主張して優越感に浸ることなどいくらでもできた。だが、レオンはそうしなかった。ルネ自身が、自分の言葉で過去と決別する権利を、ただ静かに守っていたのだ。


 会談が一段落し、ルネが席に座り直した時。レオンは彼女の方を見もせずに、ただ一言だけ短く告げた。


「構造院長室の君の机は、そのままにしてある。……存分にやれ」


「……はい」


 ルネは小さく微笑んだ。自分の机がそのまま残ると聞いて、強張っていた指先から力が抜けた。


 会談を終えると、アルベルトは待機させていた最速の軍用馬車へ乗り込んだ。王冠塔の永久停止用主遮断鍵には、王家の魔力波形による認証が要る。自ら操作を担うための帰還だった。


 セレネス王都は国境に近い西部盆地にあり、宿場ごとに馬を替える軍用急行路なら三時間で戻れる。王宮中央制御室へ帰着したとの通信を受けてから、その日のうちに国境要塞の通信室で遠隔指揮が開始された。


 ルネは手元に広げた王都の地図に、赤ペンで次々と線を引いていく。


「いいですか、殿下。国際工務同盟が配布した緊急規格をベースにします。単核式の崩壊時に最も被害が大きくなる王城周辺の脆弱区画から、南の広場と西の水源へ抜ける『段階避難ライン』を確保してください」


「分かった。避難指示の準備を進めよう」


 通信用の監査鏡板の向こう側で、王宮へ戻ったアルベルトが答える。


「それから、病院、学校、そして孤児院。自力での迅速な避難が難しい施設については、災害告知を待たずに、今すぐ安全圏へ移動を開始させます。理由は『魔導設備の定期点検』で構いません」


 ルネは通信機を切り替え、王都の南区にある大規模な孤児院へと繋いだ。


 鏡板の画面に、初老の孤児院長、エマの顔が映し出される。


『エルフォード様……お久しぶりです。ですが、急に子どもたちを全員移動させるなどと。設備点検と仰いますが、そこまで本当に危険な状態なのですか?』


 エマの不安げな声に、ルネはペンを置いた。


 結界が崩壊して街が火の海になる。そう言って脅せば、彼女はすぐに動くだろう。だが、不必要にパニックを煽ることは、避難の最大の障害になる。


「院長先生。……何も起きなければ、私の取り越し苦労だったと、後で思い切り私を笑ってください。ですが、今夜のうちに子どもたちを移動させてください。お願いします」


 ルネの真摯な頼みに、エマは画面越しに数秒沈黙し、やがて「……分かりました。あなたの目利きを、私たちは信じていますから」と深く頷いた。


 その夜、エマは子どもたちを西広場の仮設避難棟へ移した。王都主幹線から切り離された独立蓄積槽と一週間分の備蓄を持つ、設備点検時の代替宿舎だった。


 避難計画と並行して、致命的な暴走を防ぐためのインフラ停止手順の準備が進められた。


「アルベルト殿下。マルセル総監に命じて、王都の全インフラの詳細図面を直ちにこちらへ提出させてください。それに基づき、遮断の順番を設計します」


 ルネの要求に、アルベルトは即座に同意した。


 さらに、アルベルトが以前、建設院の主流派から切り離して独自に結成していた『王太子直轄技師班』のメンバーが、監査鏡板の前に集められた。


「よく聞いてください」


 ルネは画面越しの若き技師たちに語りかける。


「これから王都の各所に、既存の魔力網から切り離された『独立蓄積槽』で動く監査鏡板と、非常遮断点を設置してもらいます。あなたたちには、私が指示した番号順に、物理的なレバーを下ろす作業を担当してもらいます」


「は、はい! ですが、我々だけで王冠塔の主基盤まで止められるでしょうか……」


「主基盤の遮断は、私がやろう」


 画面の端からアルベルトが進み出た。


「王宮の防衛結界へ魔力を回す『優先供給切替鍵』と、王冠塔の中枢を止める『永久停止用主遮断鍵』は別系統だ。後者には王家の魔力波形による認証が要る。私が王冠塔最下層の中央制御室に残り、君たちのタイミングに合わせて回す。……エルフォード、操作手順の確認を頼む」


 かつては現場の細かい作業など見向きもしなかった王太子が、自らの手でインフラを止めるための実機訓練に真剣な表情で参加していた。


 だが。


 避難と停止の準備が形になりつつあったその時、王宮のアルベルトの元へ、建設院からの返答が届けられた。


 鏡板越しのアルベルトの顔が、怒りに歪む。


「……マルセルめ」


「殿下、どうしましたか?」


「図面の提出を拒否してきた。……『王都結界の詳細構造は重大な国家機密であり、他国に漏洩することは法的に認められない』と」


「なんですって?」


 ルネは眉をひそめた。


「それだけではない。あやつは建設院の独立権限と議会の息のかかった連中を動かし、王宮からの『避難準備の通達』の公表まで差し止めた。……パニックによる経済損失を防ぐという大義名分を掲げてな」


 謝罪と決意だけでは、国は動かない。


 自己保身と利益のために現実から目を背け、法という盾に隠れて破滅へ向かおうとする強大な隠蔽の壁が、ルネたちの前に冷酷に立ちはだかっていた。

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