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「完成印は押せません」婚約破棄・追放された魔法監査官は、冷酷公爵の国を立て直す~戻れと言われても契約済みです~  作者: 他力本願寺


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第30話 十年計画に、私がいる

王宮の工務局に設けられた広大な作戦室。その中央の巨大なテーブルには、ノルガルド王国の全土が精緻に描かれた一枚の地図が広げられていた。


 ルネは、地図の表面をなぞるように引かれた無数の赤い線を、眩しそうに見つめていた。


 王都を出発点として、地方の主要都市、農倉地帯、そして国境の防衛拠点へと、まるで植物が根を張るように赤い線が伸びている。それは、ルネが設計し、セレネス旧式の輸出規制を撥ね退けて『第二段階』へと進化した【低負荷多点格子】の改修ルートだった。


「……信じられないわ」


 ルネはそっと胸に手を当てた。


 ほんの数ヶ月前、セレネスで婚約破棄を突きつけられた夜。彼女の正しさを信じてくれる者は、あの国には誰一人としていなかった。


 だが今、あの夜に彼女が引いた一本の小さな線は、現場の職人たちの手を経て国中を覆い、一箇所の故障で全停止しない国の、新しい血脈になろうとしているのだ。


「感慨に浸るのはまだ早いぞ、エルフォード院長」


 背後からかけられた声に振り向くと、国王との謁見を終えたばかりのレオンが、数枚の認可状を手にして立っていた。


「公爵様。国王陛下は……」


「ああ。南三区における三十日間の実証結果、魔力雷雨でも主要機能を止めなかった実績、そして資材封鎖への依存を技術によって大幅に下げた手腕。それらすべてが高く評価された」


 レオンは、国王の印章が輝く重厚な羊皮紙をルネの前に広げた。


「本日をもって、ルネ式多点格子を、病院・水源・避難路など生命線設備に限る『条件付き国家正式標準』へ昇格させる。適用範囲の拡大は、各地域の実測記録を独立監査室が確認してからだ。さらに、半年ごとの実測記録提出と、独立監査室による再評価を継続条件とする。そして同時に、君を新設される王立魔導構造院の『正式な院長』に任命するとの勅命だ」


「正式な……」


「さらに、君が求めていた現場の若手職人を『魔法検査士』として認定する新たな資格制度の創設権限も付与された。ミナのような熱意ある若者が、生まれや身分に関係なく、君の規格を学んで国を支えることができるようになる」


 ルネの技術が個人の才覚だけに依存する段階を脱し、検証を重ねながら広がる国家制度へ移された瞬間だった。


「ありがとうございます、公爵様。……ううん、レオン様。あなたが私の図面を信じ、権限を守り抜いてくださったおかげです」


 初めて呼ばれた名に、レオンの指が認可状の端でわずかに止まった。


 ルネが深々と頭を下げると、レオンはフッと目を細め、「礼には及ばん。私は最も効率的な投資をしただけだ」と、いつものように無表情を取り繕った。


 その日の夜。


 王立魔導構造院の正式発足を祝う王宮の宴の喧騒から密かに抜け出し、ルネはレオンの私室に招かれていた。


 静かな部屋には、暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音だけが響いている。


 レオンは上着を脱いで寛いだ格好のまま、自身の執務机に置かれていた分厚い書類の束を手に取った。


「それは?」


「ノルガルドのインフラ改修と、それに伴う経済発展を予測した『十年計画』の草案だ」


 レオンは書類をパラパラとめくりながら、暖炉の火に照らされたルネの顔をじっと見つめた。いつもの冷徹な灰色の瞳の奥に、隠しきれない熱が揺らめいている。


「この十年先の計画を立てようとした時……不思議なことに気がついた。どのページを開いても、どんな都市計画を描いても、当然のようにその隣に君の姿が存在しているんだ」


「……」


 ルネは息を呑んだ。


「私はこれまで、何事も効率と費用対効果で測ってきた。領地を豊かにするために君という優秀な技術者を雇い、権限を与えた。……だが、今私の中にある『君にずっと隣にいてほしい』というこの感情だけは、どう計算しても、効率や利益という言葉では説明がつかない」


 レオンは書類を机に置き、ルネの目の前へと歩み寄った。


 不器用で、飾り気はない。だが、自身の胸にある感情を誤魔化さず、真っ直ぐに言語化して伝える、彼らしい誠実な告白だった。


「ルネ。君は……どうだ」


 問われたルネは、微かに肩を震わせた後、フッと柔らかく微笑んだ。


「ええ。私も……同じです」


 ルネは自分から一歩、彼の方へと踏み出した。


「計算式に収まらない感情を、私もあなたに対して抱いています。だから……その答え合わせをしても、いいですか?」


 レオンの大きな手が、ルネの頬をそっと包み込む。


 どちらからともなく顔を寄せ合い、二人は静かに唇を重ねた。


 互いの体温と、言葉以上の確かな信頼がじんわりと伝わってくる、甘く穏やかな初めてのキスだった。


 少しの間を置いて唇が離れると、ルネは少しだけ赤い顔をして、クスッと悪戯っぽく笑った。


「でも、レオン様。職場では私は構造院長で、あなたは工務卿ですからね」


「なんだ、急に」


「公私混同して、私が無茶な予算申請をした時に甘く通したりしないでくださいね、ということです。私の図面に妥協はしませんから」


「……ふっ。安心しろ。私も国家の予算を私情で歪めるつもりはない。君の図面が非効率なら、容赦なく突き返すまでだ」


 レオンも微笑んで応じた。


 恋人同士になっても、彼らは互いの技術と役割を尊重する『仕事の相棒』としての枠組みを決して崩そうとはしなかった。それが二人にとって、最も心地よい関係の形だった。


「さて……甘い時間はここまでだ。少し、仕事の話に戻るぞ」


 レオンは表情を引き締めると、机の引き出しの奥から、厳重に封印された一束の古い書類を取り出した。


「これを、君に見せておこうと思ってな」


「古い書類……? これは、どこのデータですか?」


「私が工務卿の権限を使い、『国際工務同盟の重大事故保全庫』へ正式に照会して取り寄せたものだ。スパイを使ったり、秘密裏に持ち出したりしたものではない、公的な過去の事故報告書の写しだよ」


 国際工務同盟は、加盟国の重大なインフラ事故について、越境保険や復旧融資のために中立な保全庫に記録を残している。国境街道で初めて会った夜、レオンが照会を命じていた、あの中立保全庫の記録だ。


「セレネス旧式の……それも、百二十年も前の事故記録ですか?」


 ルネは手渡された古文書の紐を解き、中身を開いた。


 色あせた羊皮紙には、昔の魔法技師が手書きで残した結界の損傷図面が記されている。


「――ッ!」


 図面を見た瞬間、ルネの背筋をゾクリとした悪寒が駆け抜けた。


「ルネ?」


「公爵様、これ……」


 ルネは震える指で、その図面に描かれたひび割れのスケッチを指差した。


「私が追放された夜に見た、あの亀裂と同じです」

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