第27話 私の判子を、誰にも奪わせない
レオンから手渡された分厚い法案草案をめくるルネの指先は、微かに震えていた。
そこに記されていたのは、新設される『王立魔導構造院』――通称、構造院の組織規定と権限に関する設置法だった。
無数の条項が並ぶ中で、ルネの目を何よりも釘付けにしたのは、構造院内部に「独立監査室」を設けるという一文と、院長の権限について明記された特別な項目だった。
『構造院長が下した魔法建築物に対する完成承認、および拒否の判断は、国家の安全を担保する最終決定である。いかなる王侯貴族、各省庁の大臣、および工務卿であっても、個別案件に対する同院長の技術的裁定を権力によって覆すことはできない』
「これは……」
ルネは息を呑み、顔を上げた。
かつてセレネス王国で、ルネは王都防衛結界の危険性を訴え、完成印を拒否した。しかし、彼女の専門家としての正当な判断は、アルベルトという王太子の権力と、建設院の面子によって公衆の面前で無残に握り潰された。
レオンが法務官と書記官に起草させたこの法案は、二度とあの悲劇を繰り返させないための、強固な法的な盾だった。
「暫定とはいえ、君は国家のインフラ基準を定めるトップに立つ」
レオンはデスク越しに、静かな瞳でルネを見据えた。
「王都の改修が進めば、既得権益を奪われる貴族や業者は必ず君を政治的な圧力で潰しにかかるだろう。だからこそ、君が握る『判子』の効力を、何人たりとも侵せない聖域として法で守る。この草案は明日の法務会議へ提出する。国王裁可までの暫定命令も、法務官に準備させてある」
「……公爵様でさえも、私の判断を覆せないのですか?」
「当然だ。技術的な最適解と、政治的な妥協は分けるべきだ。私が君の判断に口を挟めば、結局はかつてのセレネス旧式の体制と同じになる」
ルネは、レオンがどれほどの覚悟でこの法案を用意したのかを理解した。
彼はルネを庇護するだけでなく、技術者としての魂そのものを守ろうとしているのだ。胸の奥が熱くなり、感謝の言葉が口をついて出そうになった。
だが、その瞬間。ルネの技術者としての冷徹な理性が、鋭い警鐘を鳴らした。
「……公爵様。この法案には、致命的な欠陥があります」
ルネは草案をデスクに置き、真っ直ぐにレオンの目を見返した。
「欠陥だと?」
「ええ。私一人に、絶対的な権限が集中しすぎている点です」
ルネは図面を引く時と同じ、厳しい専門家の顔になっていた。
「人間は間違える生き物です。疲労や思い込みで、構造の死線を見落とすこともあり得る。もし、絶対的な権限を持った私が誤った判子を押そうとした時、誰もそれを止められなくなる。……それは、インフラの構造として極めて醜く、危険な状態です」
巨大な権力は、巨大な単核式と同じだ。そこが崩れれば、すべてが連鎖して破滅する。
「インフラにフェイルセーフが必要なように、組織にも安全な迂回路が要ります。構造院内に置く独立監査室は、外部からの干渉を防ぐだけでなく、内部を監視するチェック機関としても機能させるべきです」
ルネは早口で、次々と法案の修正案を口にした。
「一人の目ではなく、複数人での監査体制を義務付けてください。そして、監査記録は包み隠さず完全公開し、第三者からの客観的な異議申立て手順も追加してください。……院長である私の判断すらも、常に厳格な記録に残り、再審の対象となるようにしなければなりません」
それは、自らに与えられた絶対的な権力を、自らの手で縛り上げるような提案だった。
静寂が、執務室を包んだ。
レオンはわずかに目を見張り、ルネの顔をじっと見つめていた。
「……自分自身すら、システムの単一障害点にしないか」
やがて、レオンの口元に深い弧が描かれた。それは彼が見せる最も純度の高い、心底からの賛賞の笑みだった。
「見事な構造だ、ルネ。君を構造院のトップに推挙した私の目に、狂いはなかったようだな」
レオンは手元のペンを取り、ルネが口にした修正案の要点を草案の余白に書き留めていく。
「複数監査の義務化。記録の完全公開。そして、独立監査室による院長判断の再審手順。法務官には、この三点を外さず条文へ落とさせる。……これでいいか?」
「はい、完璧です」
ルネはホッと息を吐き出し、柔らかく微笑んだ。
レオンは、甘い言葉でルネを籠の中に囲い込もうとはしない。彼女が自ら厳しい制約を課すことを「合理的だ」と即座に理解し、受け入れた。
ルネは修正の入った草案を胸元へ引き寄せた。礼を言おうとした声が、わずかに掠れた。
「あなたは本当に……変な人ですね。普通なら、自分の手駒にした技術者に権力を持たせて、思い通りに動かそうとするのに」
「私は効率を愛しているからな。最も美しい構造を維持するためには、君が君らしくあるのが一番だと知っているだけだ」
レオンがペンを置き、立ち上がってルネの横へと歩み寄った。
窓から差し込む星明かりの下、二人の距離が自然と近づく。
図面の端に置かれていたルネの小さな手の上に、レオンの大きくて温かい手が、そっと重ねられた。
ビクン、とルネの肩が揺れる。だが、彼女はその手を引き抜こうとはしなかった。
見上げた先にある灰色の瞳には、冷徹な実務家の顔は影を潜め、一人の男性としての熱を帯びた感情が色濃く滲んでいた。
交差する視線。吐息が届くほどの距離。
だが、二人の唇が重なることはなかった。
今はまだ、これで十分だ。言葉にするよりも雄弁な、確かな信頼と体温の共有。重なり合った手から伝わる鼓動が、これから始まる過酷な国家改修を乗り越えるための、何よりの力になると二人は知っていた。
*
国家暫定標準の採択から一週間後。
改修班の編成と資材の手配を進め、王立魔導構造院の暫定トップであるルネが、地方へ第一陣を送り出す予定の朝だった。
すがすがしい秋晴れの空とは裏腹に、公爵館の仕事部屋の扉が、けたたましい音を立てて乱暴に開かれた。
「る、ルネ先生! 大変です!」
「おい監査官殿! えらいことになったぞ!」
血相を変えて飛び込んできたのは、ミナとゲルトだった。
「どうしたんですか、二人とも。そんなに慌てて」
ルネが図面から顔を上げると、ゲルトが額に脂汗を浮かべたまま、手にした一枚の報告書をバンッと机に叩きつけた。
「港の物資管理局からの急報だ! 今日の国家改修の第一便に使うはずの資材が……届いてねえんだよ!」
「届いていない? そんなはずは……事前の調達計画では、十分に余裕を持たせて発注していたはずです」
「他の資材は揃ってる。だが、たった一つ……一番肝心な部品だけが、港の倉庫から完全に消え失せてやがるんだ」
ゲルトの言葉に、ルネの顔からすっと血の気が引いた。
国家改修において、地方の網から旧式の巨大な主幹線へと魔力を繋ぐために不可欠な『変換留点』。そこには、極めて高い負荷に耐えうる特殊な素材が必要だった。
「……まさか、『位相安定晶』ですか?」
「ああ」
ゲルトが忌々しそうに顔を歪める。
「今朝の入港便にも、位相安定晶は一個も積まれていなかった。……セレネスからの輸出船が、一隻残らず止まってるんだ」
それは、資源の供給網を握るセレネス王国による、明確な悪意を持った反撃の狼煙だった。




