第26話 雷の夜、消えなかった街
実証試験二十九日目の夕刻。王都の空を不気味な緑色に染め上げていた雲が、ついにその腹を割った。
バリバリィィィッ!!
大気を引き裂く轟音とともに、特大の雷魔力が地上へと降り注ぐ。それは単なる自然現象の雷ではない。大気中に飽和した魔力が臨界点に達し、稲妻となって地上の魔力線網へ襲いかかる『魔力雷雨』だった。
強烈な魔力サージが、王都の地下に張り巡らされたインフラ網を直撃する。
「あっ、東区の街灯が……!」
公爵館のバルコニーから雨除けの結界越しに王都を見下ろしていたルネが、悲鳴のような声を上げた。
ルネの【構造眼】が捉えるまでもなく、その惨状は明らかだった。セレネス式の単核式に依存し、無秩序に絡み合って互いに干渉し合っていた旧市街のインフラが、許容量を超える外からの負荷に耐えきれず、次々と断末魔の悲鳴を上げ始めたのだ。
大通りの魔導街灯がパンッ、パンッと火花を散らして弾け飛び、噴水の水柱が力なく崩れ落ちる。
王都が、ブロックごとに次々と重く冷たい暗闇へと沈んでいく。まるで巨大な獣が都市の光を喰い荒らしていくような、絶望的な光景だった。
だが――。
「……公爵様、見てください」
ルネが震える指で一点を指し示した。
王都の半分が機能を停止し、深い闇に包まれる中。ルネたちが二十九日かけて生命線を組み替えてきた『南三区』だけが、黒い海に浮かぶ孤島のように、ポツンと煌々と灯りを保ち続けていたのだ。
「第三ブロックの中継核が飛んだぞ! 魔力流が逆流してくる!」
同じ頃、南三区の保守詰め所では、けたたましい警報音が鳴り響いていた。
落雷の直撃を受け、区画の魔力格子の一部を担っていた小さな汎用魔石の一つが、黒焦げになって焼き切れたのだ。
だが、現場の保守員たちの顔に、パニックの色はなかった。
「落ち着け! 中継核が一つ死んだだけだ、全体はまだ生きてる!」
初老の保守員が、ミナの作成した色分け手順書を片手に怒号を飛ばす。
「手順書通りだ! 黄色レバーを落として死んだ回路を切り離せ! その後、青の予備線を開いて負荷を横の留点に迂回させろ!」
「了解! 黄色、落とします! 青、開通!」
若い職人が手動の切り替えレバーをガチャンと押し下げる。
これこそが、ルネが設計した多点格子の真髄だった。魔法による高度な「自動切替」などという、ブラックボックス化した複雑なシステムは採用していない。何らかの異常が起きた時、安全にシステムを止め、現場の人間が「手動で確実に迂回させられる」フェイルセーフな構造。
ルネという天才の【再配列】など必要ない。地元の職人たちの手作業によって、五分とかからずに迂回路が繋がり、南三区の魔力流は再び力強く安定した脈動を取り戻した。
「……復旧完了! 各ライン、出力安定してます!」
職人の報告に、詰め所内に「おおうっ!」と安堵と歓喜の声が響き渡った。
その頃、南三区の中央に位置する市民病院でも、戦いが続いていた。
窓の外では雷鳴が轟き、他の区画が次々と闇に飲まれていくのが見える。
「先生、血圧低下! 急いでください!」
「分かっている! 明かりをしっかり照らせ!」
手術室の中では、緊迫した緊急手術が行われていた。
もしここで魔力供給が止まれば、目の前の患者の命は確実に失われる。かつての王都であれば、魔力雷雨の夜に手術を行うなど狂気の沙汰だった。
だが、天井から降り注ぐ魔導灯の光は、雷鳴が轟こうとも一切ブレることなく、強い白光を保ち続けている。
少し離れた産科病棟でも、未熟児を収容するための保温魔導具が、柔らかなオレンジ色の光を放って安定稼働していた。小さな命が、冷たい嵐の夜から確実に守られている。
「……信じられない。本当に一度も瞬かないぞ」
手術を終え、額の汗を拭った老医師が、眩しい魔導灯を見上げて深々と息を吐き出した。
「この灯りがある限り、俺たちはどんな夜でも戦える。……あの若い監査官の言う通りだったな」
無機質な数字ではなく、人々の生活と命が守られたというこの事実こそが、ルネの設計思想がもたらした完全なる勝利の証明だった。
*
実証試験三十日目。
魔力雷雨が去り、澄み切った青空が戻った王宮の謁見の間。
「見事という他ない」
玉座に座る国王は、提出された南三区の実証結果報告書を手に、感嘆の息を漏らした。
「王都の半分が沈む大混乱の中、南三区だけが主要機能を停止させることなく維持し、さらには王都の高級技師を呼ぶことなく、現場の保守員の手だけで復旧を完遂させたというではないか。そなたの言う『止まらず、誰でも直せる構造』の価値は、この嵐が見事に証明してくれた」
国王は、玉座の前に膝をつくルネとレオンに向けて、力強く宣言した。
「ルネ・エルフォードよ。余は、そなたが設計した『多点格子式』を、我がノルガルドの『国家暫定標準』として採択する」
「……! ありがとうございます、陛下!」
ルネは深く頭を下げた。胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
まだ永久的な正式標準ではない。だが、セレネス式の単核式という絶対的な権威を覆し、新しい構造が国家レベルで認められた、巨大な一歩だった。
「そして、レオンよ」
国王はレオンに視線を移す。
「この暫定標準を全国へ展開する新機関を設ける。その名も――『王立魔導構造院』。ルネ・エルフォードに指揮を執らせよ。ただし、南三区で使った位相安定晶は予備庫の最後の在庫だ。来週入港予定の第一便が滞れば、展開順を重要施設に絞り直せ」
レオンは頷いた。輸入元がセレネス一国に偏っている危険は、すでに調達台帳へ赤字で記されていた。
かつて祖国で「書類女」と蔑まれ、解任された令嬢が。
隣国において、インフラの未来を担う国家機関のトップへと推挙された瞬間だった。
王宮を退出し、レオンの執務室へと戻ってきたルネは、まだ夢見心地だった。
「王立魔導構造院……私が、国家機関の責任者に」
ポツリと呟くルネに、レオンが歩み寄り、デスクの上に一束の書類を置いた。
一番上には、真新しい『構造院長』の役職を保証する辞令書がある。
だが、レオンがルネに手渡したのは、その下に綴られていた分厚い法案の草案だった。
「目を通しておけ。新設される構造院の組織規定と、権限に関する法案だ」
「権限、ですか?」
ルネが書類を受け取ると、レオンは静かに、だが確固たる意志を込めて告げた。
「君の技術的判断を、二度と誰にも――私を含む公爵や大臣の権力でも、決して強制したり覆したりできないようにするための法案だ。君の『完成承認の判子』は、君だけのものにする」
ルネは法案を受け取り、紙面に記された自分の名を、指の腹でそっとなぞった。




