第25話 天才より、直せる仕組み
実証試験二十一日目。南三区の魚市場は、朝から活気に満ちていた。
だが、その喧騒の裏側で、地元の初老の保守員が、市場の裏路地に設置された冷却結界の制御盤を見て小さく首を傾げていた。
「おや、赤いランプが点滅してるな」
彼は慌てることなく、腰の工具袋から薄い小冊子――ミナが作成した『色分け保守手順書』を取り出した。
ページをめくり、ランプの点滅パターンと照らし合わせる。
「ふむ。冷却ラインの第三留点、魔石の出力低下か」
保守員は手順書の図解の通りに、黄色い目印が塗られたカバーの留め金を外し、中から寿命を迎えて黒く変色した汎用魔石を抜き取った。代わりに、予備として支給されていた新しい汎用魔石をカチャリとはめ込む。
ただそれだけだ。作業にかかった時間は、カバーの開け閉めを含めてもわずか二十分足らずだった。
「終わった終わった。……昔なら、ここで役所に頭を下げて、ふんぞり返った王都の高級技師様が来るのを半日以上も待たされたもんだがな」
保守員は拍子抜けしたように笑い、工具箱を閉じた。
彼が魔石を交換した直後、市場の地下から「ゴォォォン」という低く力強い稼働音が響き、一時的に弱まっていた冷却結界が完全な出力を取り戻した。
「おう! 冷気が戻ってきたぞ!」
「氷が溶ける前に直ったな! さあ、商売再開だ!」
魚屋の商人たちが、安堵と喜びの入り混じった威勢の良い声を上げる。
保守員はそれを満足げに眺めながら、「これなら、今日は明るいうちに帰って、子供たちと一緒に温かい夕食が食えるぞ」と、軽い足取りで家路についた。
その光景を、少し離れた建物の陰からルネとレオンが見守っていた。
「見事なものだ」
レオンが手元の報告書を見下ろして言った。
「現在、南三区の試験区間における魔力維持費は改修前比で六十二パーセント減。そして、インフラの停止時間は七十パーセント減という結果が出ている。数字の面でも、文句のつけようがない」
だが、ルネにとって、その無機質なパーセンテージは結果の裏付けに過ぎない。彼女の目に眩しく映っていたのは、半日も店を閉めずに済んだ商人たちの笑顔であり、高級技師を夜中まで待つことなく帰宅できた保守員の背中だった。
共通幹線を敷き、現場で保守できる多点格子のモジュールに入れ替えた結果、ルネ自身がトラブルの現場に呼ばれ、【再配列】を使わなければならない回数は、共通幹線の部分運用が始まってからの十一日間で目に見えて減っていた。
「――素晴らしい成果ですね、エルフォード監査官!」
突然、背後から声をかけられ、ルネは振り返った。
そこに立っていたのは、数人の部下を連れた王都の新聞記者だった。手にはマイクの役割を果たす記録用の魔導具が握られている。
「南三区の劇的な改善は、王都中の噂になっています。かつてセレネスを追放されたあなたが、これほどのシステムを構築するとは驚きです」
記者は表面上は称賛の言葉を並べながらも、その目には特ダネを狙う意地悪な光が宿っていた。
「しかし、監査官殿。この『誰でも直せる標準化』が王都全域に、ひいては国家規模で進めば……いずれ、あなたのような『天才』は現場で不要になるのではありませんか?」
記者の言葉が、鋭くルネの核心を突く。
「ご自身の類まれなる才能を必要としない仕組みを作るなど、自らの存在価値を削る、墓穴を掘るようなマネではないのですか?」
ルネは一瞬、息を呑み、言葉に詰まった。
不要になる。その言葉は、かつて王宮の大広間でアルベルトから投げつけられた「お前はもう必要ない」という拒絶の記憶を呼び起こす。自分が必要とされなくなることに怯え、誰よりも必死に分厚い報告書を書き、価値を証明しようと足掻いていた。
だが――ルネはゆっくりと、先ほどまで商人たちが笑い合っていた市場の方へと視線を向けた。
そして、顔を上げ、記者に向かって誇り高く微笑んだ。
「ええ。おっしゃる通りです」
一切の迷いのない、澄み切った声だった。
「私がいなくても、当たり前にインフラが安全に稼働し、もし壊れても地元の職人さんがすぐに直せる。……私が現場から完全に不要になること。それこそが、この実証試験の『大成功』を意味するのですから」
その言葉を聞いたレオンは、手元の報告書を閉じた。
ルネへ向けた視線が、一拍だけ長く留まる。彼は何も言わず、記者の質問が終わるまで彼女の隣を動かなかった。
記者がルネの堂々たる宣言に気圧され、逃げるように去っていく。
二人の間に、不思議なほど穏やかで満ち足りた空気が流れた。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
ジジジジジ……ッ!!
大気をビリビリと震わせるような重低音が、足元から、いや、空間のすべてから鳴り響いた。
「……公爵様。空が」
ルネが呆然と上空を見上げる。
夕暮れで赤く染まっていたはずの王都の空が、まるで毒を流し込まれたかのように、不気味な『緑色』に発光し始めていた。
ウウゥゥゥゥーーーッ!!
直後、王都全域に設置された巨大な魔導サイレンが、絶叫のような警報を上げ始める。
「特大の雷魔力警報だ……!」
レオンが鋭く叫び、ルネの肩を抱いて庇うように身構えた。
緑色の雲の隙間から、尋常ではない太さの魔力雷が、街を貫くようにして落ちてくる。
ルネが南三区に作り上げた「新しい標準」が、机上の試験ではない、自然の猛威という最大の本番テストに晒されようとしていた。




