第24話 完璧を捨てる勇気
実証試験三日目。南三区の地下に敷設する『共通主幹線』のルート選定は、ルネの技術者としての魂を激しく揺さぶる苦悩の連続だった。
公爵館の仕事部屋。ルネのデスクには、彼女自身が引いた二枚の図面が並べられている。
向かって右側は、ルネが「理想図」と名付けたもの。魔力の抵抗を極限まで減らし、各留点への負荷を均等に分散させた、非の打ち所のない直線的な配置だ。技術的に見れば、無駄がない。
だが、この完璧なルートを通すためには、市場の地下深くに眠る古い石造りの基礎を大規模に掘削し、迂回させなければならない。どう計算しても、完成までに四十日はかかる。
そして向かって左側は、「現実図」だ。
既存の建物の基礎を避け、空いている地下の隙間を縫うように引かれたルート。三十日という期限内には確実に間に合う。しかし、配線はあちこちで不自然に曲がりくねり、ルネの目から見れば、全身に鳥肌が立つほどひどく歪んだ配置だった。
「……押せないわ」
ルネは右手に鉛筆を握りしめたまま、完全にフリーズしていた。
期限を守るためには、左の「現実図」を採用するしかない。頭では分かっている。だが、技術の粋を集めた新標準の基盤に、こんな不格好な線を許容して承認印を押すなど、ルネのプライドがどうしても許さなかったのだ。
「ルネ先生……お疲れですか?」
ルネが図面を睨みつけて一時間ほど経った頃、助手のミナが遠慮がちに声をかけてきた。彼女の腕には、色分けされた保守用の木札が山のように抱えられている。
「ミナさん……。いえ、疲れているわけじゃないの。ただ、この線がどうしても許せなくて」
ルネが左側の図面を指差すと、ミナはそれをひょいと覗き込んだ。
「ええと……。でも、この曲がりくねった現実図のルートなら、病院の予備灯と、市場の冷却結界の線だけは、来週には先に開通させられますよね?」
「ええ、そうね。でも、この角の線の取り回しがひどく不格好だわ。将来、さらに別のインフラを拡張しようとした時に、絶対に少し邪魔になるし……」
ルネが技術的な懸念を口にすると、ミナは不思議そうに小首を傾げた。
「将来の拡張の時って、この多点格子なら、また後から線を繋ぎ変えて綺麗に直すことができるんですよね?」
「え? ……ええ、もちろんよ。一度作ったものを壊さずに、部分的にアップデートできるのが多点格子の強みだから」
「なら、今は少し不格好でもいいんじゃないですか?」
ミナは、ごく当たり前のことを言うように、あっけらかんと言い放った。
「将来もっと綺麗にできるなら、今は完璧じゃなくても、一日でも早く病院の灯りが安定して、市場の氷が使えるようになった方が、みんなずっと喜びますよ」
「っ……!」
ルネは、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
これまで彼女は、図面上の「完成した構造物の完成度」だけを追い求めてきた。少しでも魔力流に無駄があれば許せず、完璧な配置でなければ満足できなかった。
だが、インフラを利用するのは人間だ。
ルネが完璧な図面を引くために十日余分に時間をかければ、その十日間、病院の手術灯は不安定なままで、市場の魚は腐り続ける。
(「生活者が待つ時間」……それも、設計の判断軸に入れなければならなかったのね)
自分はまだ、構造の外側にあるものを見落としていた。それを、専門教育すら受けていない弟子であるミナの、生活者に寄り添った素朴な言葉に教えられたのだ。
ルネは再び、二枚の図面を見比べた。
現実図は、決して「安全性を妥協」しているわけではない。安全基準と強度は完全に満たした上で、今すぐには必要のない「将来のための完璧な配置」と「装飾的な余白」を切り捨てているだけだ。
一度完成したら決して変更を許さず、壊れれば一から作り直しになるセレネス式の単核式。あれこそが、変化を許容しない硬直した完成形だった。
「……そうね。完成して終わりじゃない」
ルネの顔から、迷いが消え去った。
「不完全でもいい。生活を支えながら、いつでも後から直して進化していける構造こそが、本当に美しいインフラの形だわ」
ルネは自分の中の小さな技術的エゴを捨て去り、左側の「現実図」の隅に、力強く承認のサインを書き込んだ。完璧を捨てる勇気を持ったことで、彼女の視界はより広く、確かなものへと広がっていた。
翌日から、南三区の地下で本格的な共通幹線の敷設工事がスタートした。
ルネが完璧さを手放し、モジュール方式と暫定ルートを採用したことで、工事の進行は驚異的なスピードへと跳ね上がった。
「よし、古い管轄の線をぶった斬れ! 新しい共通幹線に繋ぎ直すぞ!」
ゲルトの怒号が響く中、職人たちがルネの引いた現実図に従って、次々と魔力線を切り替えていく。
部分的な開通は、すぐに目に見える成果となって現れ始めた。
実証試験八日目。市民病院の手術室では、これまでチカチカと瞬いていた魔導灯が、ピタリと安定した強い白光を放ち始めた。
「おお……! 全く光がブレないぞ。これなら精密な手術も安心だ」
医師たちが歓声を上げる。
市場では、冷却用の結界が低い稼働音を立てて力強く冷気を吹き出し始めた。
「おい見ろ、朝から氷が全然溶けてねえ! 今日の魚は最高に新鮮だぞ!」
商人たちの威勢のいい声が響き渡る。
街のあちこちで、形は不完全かもしれないが、確実に機能する魔法インフラが、人々の生活の不便さと不安を次々と取り除いていった。
そして、実証試験十日目。
レオンと共に南三区の現場を視察に訪れたルネは、区画の片隅に設置された、仮設の『魔力消費計』の前に立っていた。
それは、この地区全体で消費されている魔力の総量をリアルタイムで計測し、表示する計器だ。
「公爵様、見てください」
ルネが自信に満ちた声で指差した。
レオンが灰色の瞳を向けると、メーターの針が、ジリジリと、しかし確かな速度で左へ左へと傾き続けていた。
三つの役所が互いに干渉し合い、無駄に魔力を垂れ流していた最悪の渋滞が解消され、共通幹線によって魔力がスムーズに循環し始めた証拠だ。
「……これは」
「私の事前の計算予測を、さらに上回るペースで下がっています。インフラの最適化が、確実に街の燃費を良くしているんです」
三十日間の実証試験の成功条件の一つ、『魔力維持費用の三割削減』。
その達成を裏付ける明確な数値が、早くもルネとレオンの目の前で形になり始めていた。




