第22話 三十日だけの国家試験
バサァァァッ!
乾いた音を立てて、デスクの上に積み上げられていた書類の山が、雪崩のように床へと崩れ落ちた。
「ああっ、もう……! 拾うだけでも一苦労じゃないの」
ルネは床に散らばった羊皮紙の海にしゃがみ込み、一枚一枚を拾い集めながら深いため息をついた。
それらはすべて、王都の『南三区』から寄せられた、魔法インフラに対する苦情の束だった。
実証試験一日目。三十日限定の対象に指定されたその区画は、病院、市場、住宅が極度に密集している。ルネが事前に役所から取り寄せた過去一年分の不具合報告書は、文字通り机から零れ落ちるほどの物理的な質量を持っていた。
「夜中に暖房が切れた、朝は水圧が低くて水が出ない、市場の冷却結界が瞬く……どれもこれも、継ぎ接ぎだらけの魔力線が互いに干渉し合って起こる、典型的な渋滞エラーだわ」
拾い集めた書類を睨みつけながら、ルネは技術者としての苛立ちを募らせていた。
そこへ、静かな足音と共に執務室の扉が開いた。
「書類に埋もれているな、エルフォード監査官」
漆黒の外套を着こなしたレオンが、数人の付き人を連れて入ってくる。その手には、国王の印が押された正式な認可状が握られていた。
「公爵様。国王陛下からの試験条件は、どうなりましたか?」
「極めて明確な数字が設定された」
レオンはデスクの一角に認可状を広げ、要点を指で叩いた。
「成功の条件は四つ。一、南三区における生活設備への魔力供給停止時間の半減。二、魔力維持費用の三割削減。三、工事に伴う重大事故ゼロ。そして四、これらすべてを既存の予算内で完工することだ」
ルネは提示された数字をじっと見つめた。
半減、三割減。数値だけを見ればただの目標だが、それが意味する現実は重い。
「……つまり、この三十日間で、手術中の病院の灯りを絶対に消さない構造を作れということですね」
「その通りだ」
レオンは深く頷き、無機質な数字を、具体的な『生活の成果』へと翻訳して語り始めた。
「病院の灯りを消さない。市場の氷を半日溶かさず、商人の売り物を守る。そして何より……夜中に魔力供給が止まった時、地元の保守員が王都の高級な専門技師を何時間も待たずとも、自分たちの手で一次復旧して、温かい夕食の待つ家に帰れる仕組みを作ることだ。それらすべてを満たして初めて、この実証試験は成功となる」
「現場で保守できる標準化……まさに、私たちが公爵領でやってきたことの王都版ですね」
「そうだ。だが、今回は三十日という絶対の期限がある。君の計算ではどうだ?」
問われたルネは、先ほどから睨んでいた南三区の地下配線図をレオンの前に提示した。
「正直に申し上げます。この密集した古い区画の線をすべて掘り起こし、都市景観も含めて完全に多点格子へ敷設し直すなら……六十日は必要です。三十日では、物理的な日数が足りません」
さらに、旧式主幹線と新しい格子を繋ぐ変換留点には、高純度の『位相安定晶』が要る。今回使えるのは王家の予備庫にある三個だけで、南三区の実証には足りても、全国展開分までは賄えなかった。
技術者として、不完全な妥協はしたくない。だが、嘘をついて期日に間に合わせられない方が罪は重い。ルネは悔しさを噛み殺しながら、正確な工期の見立てを伝えた。
しかし、レオンは全く動じなかった。
「ならば、三十日で終わるようにスコープを切るまでだ」
「スコープ、ですか?」
「ああ。今回三十日でやるのは、景観を整えるための美装工事ではない。命綱となる生命線の確保と、誰でも直せる保守性の確立だけだ」
レオンは図面の上に置かれていた赤いペンを取り、無駄に遠回りしている装飾的な線をバツ印で消した。
「表面の装飾や、地下深くへの完全な配線の移設は、今回の実証が成功し、国家標準として本予算が降りた後の『第二期工事』へ回す。今は、目に見える生活の改善に全力を注げ」
配置の完全さを一旦諦め、人々の生活と命を守る機能を最優先する。
ルネは、以前の自分であれば「線を途中で放置するなんて醜い」と反発していただろう。だが今は違う。完全な完成品よりも、後から誰かが引き継いで拡張・更新できる構造こそが本当に美しいのだと、彼女はすでに学んでいた。
「分かりました。機能の最適化と標準化に的を絞ります」
「話はまとまったようだな。だが、三十日という短期間で王都の複雑なインフラを組み替えるなら、私の『省スペース設計』のノウハウが必要不可欠だろう?」
不意に、開け放たれた扉から、楽しげな男の声が響いた。
ルネが振り返ると、そこに立っていたのは、上質なスーツを着こなした王都一の魔法建築家、セドリック・アーレンだった。
「セドリック先生! どうしてここに?」
「どうしてって、レオン公爵から直々のご指名を受けたからね。かつてのライバルが、今度は国家規模の標準化という大仕事に挑むと聞いて、黙って見ているわけにはいかないだろう」
セドリックはウインクを一つして、ルネの隣に立った。
さらにその後ろから、公爵領から呼び寄せられたゲルトとミナも、大きな荷物を抱えて入ってくる。
「おう、監査官殿! 王都の地下を引っ掻き回す荒仕事と聞いちゃあ、俺たち現場の人間が黙っちゃいられねえからな」
「ルネ先生! 私、分かりやすい保守手順書をいっぱい書きますから!」
現場を力強く束ねる鬼軍曹。専門知識を誰もが分かる現場語に翻訳する助手。そして、極限まで無駄を省いた魔力経路の設計ノウハウを持つ、かつての最強の敵。
レオンは、ルネの技術を国家規模で実装させるために、これ以上ないほど完璧なチームを事前に編成していたのだ。
「頼もしいわ……これなら、三十日でも絶対にやれる!」
ルネは瞳を輝かせ、全員に向けて力強く頷いた。
「さっそく、一番苦情の多い市場の冷却結界から配線を整理しましょう。セドリック先生、市場周辺の管轄図はありますか?」
「ああ、役所から最新の区画図を取り寄せておいたよ。これだ」
セドリックが持ち込んだ大きな図面をデスクに広げ、ルネの引いた魔力経路図と重ね合わせた。
しかし、その図面を見た瞬間、ルネの表情がピシリと引きつった。
「……え? これ、どういうことですか?」
「ん? 何か問題でもあったか?」
ルネは図面の一点、市場へと続く太い地下導線の束を指差した。
「この市場前のメインストリートの地下導線……一本の同じ溝を通っているのに、管轄を示す色が三つに分かれています。これってもしかして……」
ルネの悪い予感に、セドリックは困ったように肩をすくめた。
「そのまさかさ。その道路の地下は、上から順に『水道局』『治安維持局』『商業局』の三つの役所が、別々に管理している。しかも、彼らは互いの点検口の鍵すら共有していない」
技術的な困難に立ち向かう前に。
極めて厄介な「お役所仕事の縦割り」という、分厚く硬い制度の壁が、ルネたちの行く手を真っ向から塞いでいた。




