第20話 元婚約者が、私を買い戻しに来た
ノルガルド王都の中心部にある大ホールは、各国の工務卿や技術者たちの熱気に包まれていた。
だが、その喧騒は、壇上に一人の男が姿を現した瞬間に水を打ったように静まり返った。
金糸の刺繍が施された豪奢な礼服。セレネス王国の王太子、アルベルト・セレネスである。彼は壇上の中央に進み出ると、広大な会場の後方席に座る一人の少女を真っ直ぐに見据えた。
「ルネ・エルフォード殿。いや、かつての我が王国の優秀なる魔法構造監査官よ」
数千人の視線が、一斉にルネへと突き刺さる。
アルベルトは拡声用の魔導具を手に、よく通る声で告げた。
「我が国は、王都南環結界の破断という未曾有の危機に直面している。この事態を収拾するため、私は王太子の権限において、君にセレネス王国への帰還を要請する。復帰の暁には、君の『セレネス王国主席監査官への任命』と『侯爵位の授与』を国王陛下へ上奏する。そして――白紙に戻した君との『婚約再協議の場』も設けよう」
会場が大きなどよめきに包まれる。
一国の王太子が、一度追放した令嬢に対して提示するには、あまりにも破格すぎる条件だった。権力、財産、そして未来の王妃の座すら匂わせるその言葉は、傍から見れば最上級の誠意にも聞こえるだろう。
だが、ルネの心は氷のように冷え切っていた。
地位。名誉。婚約。それらを並べ立てるその姿は、かつて「書類女」と蔑んで捨てた能力を、今度は金と権力で『買い戻しに来た』という構図を、これ以上ないほど露悪的に示していた。
「……エルフォード」
アルベルトは壇上から、わずかに苦渋を滲ませた声で続けた。
「あの完成式典での私の判断が、誤りであった可能性を認めよう。私は、君の専門家としての警告よりも、建設院が発行した『安全証明』という書面上の権威を重く見てしまった。結果として、君を傷つけ、国を危機に晒した」
アルベルトが公の場で自身の非を認めるのは、彼なりの大きな譲歩なのだろう。
「今のセレネス王国には、君のその力が必要なのだ。どうか、祖国のために戻ってきてはくれないか」
切実な訴えだった。
だが、ルネはその言葉を聞けば聞くほど、彼との間に横たわる絶望的なまでの価値観の断絶を感じずにはいられなかった。
アルベルトは、ルネ個人の技術者としての尊厳を理解したわけではない。マルセル総監が牛耳る腐敗した建設院の制度を、根本から改革する決意を固めたわけでもない。ただ、「結界が壊れて困っているから、直せる人間が必要だ」と言っているに過ぎない。
周囲の視線が、ルネの隣に座るレオンへと集まった。
他国の王太子が、公爵の専属契約者を公衆の面前で引き抜こうとしているのだ。普通であれば、激怒して立ち上がり、契約の正当性を主張してルネを背後に庇う場面だろう。
しかし、レオンは腕を組んだまま、静かにルネの方を向いた。
「君に提示された条件だ。回答権は、君自身にある」
レオンは、ルネの口を塞いで代弁するような真似はしなかった。彼女の技術と意志を尊重するからこそ、この決着は彼女自身の手でつけるべきだと、ただ場を明け渡したのだ。
ルネは小さく頷き、毅然とした態度で立ち上がった。
「アルベルト殿下。過分なご提案、恐れ入ります」
ルネの澄んだ声が、静まり返ったホールに響く。
「ですが、お断りいたします。私はセレネス王国には戻りません」
どよめきが再び広がる中、アルベルトの顔が驚愕に歪んだ。
「なぜだ! 君が不当な扱いを受けたことへの補償は、すべて用意したはずだ!」
「殿下が必要とされているのは、私という技術者ではなく、ただの『事故の後始末に便利な道具』だからです」
ルネは冷徹に事実を突きつけた。
「専門家の警告を面子で潰しておきながら、問題が起きれば金と地位で呼び戻そうとする。そんな、技術を使い捨てにする組織構造の元で、私が本来の監査業務を全うできるとは到底思えません」
「それは……っ」
「それに、殿下は『安全証明を重く見たのが間違いだった』と仰いましたが、今のセレネスはその過ちを本当に正せたのでしょうか?」
ルネは一歩踏み出し、壇上のアルベルトと、その後ろに控える使者たちを見据えた。
「博覧会の準備に入る前、公文書便で『遠隔安全手順書』をお送りしました。結界の完全崩壊を防ぎ、市民を守るための、最低限の迂回マニュアルです。……お答えください。あのマニュアルは現在、現場でどこまで実施されていますか?」
水を打ったような静寂。
アルベルトは絶句し、背後の使者や官僚たちに視線を向けた。官僚たちは一様に顔を青ざめさせ、目を泳がせている。
「……どういうことだ。私はそのようなマニュアルを受け取っていないぞ」
アルベルトが低く唸るように問うと、使者が震えながら前に出た。
「そ、それは……他国の、しかも一度解任された者の指示書をそのまま現場に下ろすのは、建設院の規定に反すると……現在、マルセル総監を交えた上層部で、内容の査読と承認会議を行っておりまして……」
ルネは、心底呆れ果てたというように深く息を吐いた。
「……それが、答えです」
ルネの声には、もはや怒りすら含まれていなかった。
「刻一刻と崩壊が進んでいる結界を前にして、まだ書類の規定や会議の面子を優先している。私が直接戻っても、その制度が変わらなければ、専門家の判断はまた握り潰されるでしょう」
ルネは深く一礼した。
「私は今、専門家の判断を守り、その結果を決裁する方と契約を結んでいます。その環境を捨ててまで、戻る理由はありません」
会場に、反論の声は上がらなかった。セレネス旧式の致命的な怠慢だけが、公の場に残された。
各国の代表者たちが、セレネスの官僚たちに向けて冷ややかな、あるいは軽蔑の視線を向け始めた。
アルベルトは唇を噛み締め、拳を固く握りしめた。だが、彼はここで逆上してルネを力ずくで連れ去るような愚か者ではなかった。自らの国が抱える病巣の深さと、それを放置してきた己の無力さを、これ以上ないほど残酷な形で突きつけられたのだ。
「……すまなかった、エルフォード」
アルベルトは誰に言うともなく短く呟き、悄然と壇上から降りた。
彼がホールの出口へと歩みを進めた、その時。
王都から同行していたセレネス旧式の若い現場技師が、真っ青な顔をしてアルベルトの元へ駆け寄ってきた。
「殿下! お、お待ちください!」
「どうした、騒々しい」
技師は周囲の目を気にするように声を潜め、だが隠しきれない絶望を顔に貼り付けて、アルベルトの耳元で囁いた。
「た、たった今、王都の観測所から定時通信が入りました。王都南環から逆流した負荷が、ついに中央の主幹線を圧迫し始めています」
技師の言葉に、アルベルトの顔から血の気が引く。
「王都結界の安全余力が……ついに、三割を切りました!」
それは、ルネが不在のセレネス王国において、魔法インフラの完全崩壊という破滅の足音が、もうすぐそこまで迫っていることを意味していた。




