第19話 「一時帰国」には応じません
消毒薬と血の匂いが混じる、博覧会場の仮設医務室。
シャツを脱ぎ、医師から右肩の裂傷の縫合治療を受けているレオンの傍らで、ルネは手渡されたばかりの重々しい書状に目を通していた。
「ルネ・エルフォード殿。それは、アルベルト王太子殿下からの特別なご配慮を示すものですぞ」
セレネス王国の紋章を胸に付けた使者が、狭い医務室には不釣り合いなほど仰々しい態度で胸を張った。
「我が国の結界事故における、あなたの先見の明は証明されました。殿下は過去の行き違いを水に流し、あなたに莫大な謝罪金を支払うご用意があります。加えて、国外退去命令の撤回と王宮における名誉回復、そして結界修復における全監査権限の付与をお約束いたしましょう」
使者の声は、まるで迷える子羊に救いの手を差し伸べるような響きを持っていた。
だが、ルネの目は書面の甘い言葉には一切惹かれていなかった。彼女の視線は、契約書めいたその書類の、一番下にある小さな一文に釘付けになっていた。
「……使者殿。この『期間三ヶ月の臨時雇用とする』という一文は、何ですか?」
「文字通りの意味ですが? 現在の結界の損傷を調査し、復旧の目処をつけるまでの三ヶ月間、臨時主席監査官としてあなたをお迎えするという――」
「なるほど。よく分かりました」
ルネはふうっと深いため息をつき、書状をパタンと閉じた。
つまり、そういうことなのだ。彼らはルネの技術的な正しさを認めたのではない。ただ、自分たちが壊してしまった結界の後始末をする能力が、今すぐ必要なだけなのだ。
一番苦しくて厄介な事故の尻拭いを三ヶ月間だけ押し付け、状況が落ち着けば、また「用済み」として放り出す。
「そのご提案を検討する前に、一つ確認します」
ルネは鞄から、中立保全庫の受領番号が記された控えを取り出した。
「博覧会の準備に入る前、私は南環の連鎖崩壊を遅らせる緊急迂回手順を、正式な公文書便で送りました。現場では、どこまで実施されましたか?」
「そ、それは……解任された者の指示をそのまま採用することは規定上難しく、建設院で査読と承認会議を――」
「つまり、まだ現場へ下ろしていないのですね」
使者は答えられなかった。
「市民を守るための手順は、すでに渡しています。私を買い戻す前に、まず自国の現場を動かしてください」
「だ、だからこそ、あなた自身が戻って承認を通せばよいのです! これほどの条件を用意したのですぞ!」
「いいえ。私は戻りません」
ルネは冷たく言い放った。
「な……ぜですか。祖国の市民を気にかけておきながら!」
「市民を助けることと、あの国へ戻ることは全くの別問題だからです」
ルネは毅然と顔を上げた。
「専門家の警告を『面子が潰れるから』という理由で無視しておきながら、いざ事故が起きたら謝罪金と三ヶ月の臨時雇用で都合よく買い戻そうとする。そんな、技術者を使い捨ての道具としてしか見ていない構造の国に、どうして戻らなければならないのですか」
ルネの言葉は、氷のように冷たく、そして論理的だった。
「私は現在、私の技術を正当に評価し、守ってくださるノルガルドの公爵様と契約を結んでいます。その契約を反故にしてまで、戻る理由がありません」
「ぐっ……なんという強情な! この破格の条件を蹴るというのなら、王宮も黙ってはおりませんぞ!」
使者は顔を真っ赤にして、なりふり構わず声を荒げた。
「このままでは済まされません! これ以上の拒絶は、王太子アルベルト殿下ご本人が、直接このノルガルドまで交渉に参られることになりますぞ!」
元婚約者の名前が出た、その瞬間だった。
パキッ。
乾いた音が室内に響いた。
ルネと使者がハッとして振り返る。
音の出処は、治療を受けながら、残った左手で現場の被害報告書にサインをしていたレオンの手元だった。
銀細工の高級万年筆の軸に、細い亀裂が走っている。そこから滲んだ黒いインクが、レオンの指を汚していた。
「……あ」
ルネが小さく声を漏らす。
レオンは表情を変えず、インクで汚れた左手を布で拭った。
ルネだけが、その指先へ一瞬、視線を止めた。
「……インクが漏れたな」
レオンは万年筆を脇へ置き、使者を一瞥した。
「エルフォード監査官の答えは聞いたはずだ。使者殿、話が終わったなら、さっさとこの部屋から退室していただこうか」
「ひっ……し、失礼いたしました……!」
レオンから放たれる凍てつくような殺気に当てられ、使者は逃げるように医務室から転がり出していった。
*
翌日。
ノルガルド王都の中心部にある大ホールでは、各国の工務卿や建築の専門家たちが集う『国際工務会議』が開催されていた。
昨日の地下崩落事故の影響について報告を行うため、右肩を吊ったレオンと、その付き添いとしてルネも会場の後方席に着いていた。
「公爵様、肩の具合は大丈夫ですか?」
「問題ない。痛み止めが効いている」
二人が小声で言葉を交わしていた、その時。
広大な会場の入り口付近から、ざわ、ざわ……と、波紋のように大きなどよめきが広がっていった。
扉が大きく開かれ、数十人の近衛騎士を引き連れた一団が、堂々たる足取りで会場の通路を進んでくる。
金糸の刺繍が施された、豪奢なセレネスの王族の礼服。
壇上へと続く階段を上り、数千人の視線が集まる光の中に姿を現したのは――。
「……アルベルト殿下」
ルネの目が、スッと細められた。
自分を公衆の面前で侮辱し、追放した元婚約者が、ついに自らの足で、ルネを買い戻すために公の場へとやってきたのだった。




