7 回帰
1.
十二月、初雪がそっと降った。
先月受けた詳しい検査の結果が出た。予想通り、母には若年性アルツハイマーの初期段階という診断が出た。
投薬による治療が開始され、裕司おじさんが通院に協力してくれた。次第に母の症状は安定していき、年が明けて、一月、二月と冬が過ぎていくうちに、家族みんなの心が、少し新しい形でまた平穏を作り始めた。
母は相変わらず記憶ノートを続けている。
情報を共有するためそれはいつも台所の棚に置いてあった。俺も時々読んで、母の目線や考え方を知ったり、自分がアルバイトで不在の間の弟たちのやりとりを知って楽しんだ。特別な事が起こらないページの一つ一つに、母やみんなの暮らしが見えた。悲痛な覚悟で開始されたノートだったが、次第に家族みんなの「楽しみ」になりつつあった。
母が安定したために、俺の負担が減った。その分学校で居眠りする事もなくなり、以前より真面目に授業を受け、下から数えた方が早かった順位が、ようやく真ん中あたりになった。初めて勉強が楽しいと思えた。
三月に入り梅の花が咲き始めた頃。
じいちゃんが亡くなった。春休みの少し前だった。
亡くなる少し前に見舞いに行った時、じいちゃんは枯れ枝のような指で俺の手を取り、
「陽かあ、デカくなったなあ」と笑った。「陽だよ。もうすぐ高校三年だよ」と言うと、
「えらいなあ、えらいなあ、勉強頑張れよ」
と言った。
「俺ァ本当は勉強したかったんだ。陽、勉強だ、とにかく勉強しろ。いいとこ入って、お母さん楽さしてやんな」
と、泣いた。俺はその会話がじいちゃんとの最後だと知らなかったから、母さんの前で言うなと少しだけ苛立った。「いいとこ」にはもう今更入れない。勉強はしたくても出来ない。そのことを気にしている母さんの前で、そんな事を言うな。それがじいちゃんとの最後の会話だと知っていたら、嘘でも分かったよ勉強頑張るよと言って安心させてあげられたのに。
葬儀が終わりじいちゃんを見送って、しばらくした週末の事。
春休みに入り、バイトの前の時間帯に母から「ちょっとお茶しない?」と呼び止められた。何かと思って近所のファミレスに行き、二人でドリンクバーの美味しくもないコーヒーを啜った。
そして母は
「あなたもう三年生になるでしょ、進路はどうしたいの。あなたの人生だからあなたが決めていいのよ」
とそんな話を藪から棒に言い出した。
「え。どうって……就職って決めてあるじゃん。あ、どこの企業かってこと? まだそんなのわかんないよ」
「やっぱり、そうよね。そう思ってるわよね」
とため息をつく。それから少し考えて、
「あのね、母さん、裕司さんを頼ろうと思ってる」
と言った。今でも既に頼ってるだろうと思うのだが、母が言っているのはもっと具体的で個人的な話だった。
「それってさ……」
「あなたが高校卒業したら再婚しようと思ってる」
「えー!」
と思わず大きな声を出したので、周りの家族連れがぎょっとコチラを見た。
「え、いつのまに? 付き合ってたの?」
「付き合って……はないかな?」
ん? と母が首を捻るのに合わせて、俺も、ん? となった。
「母さんね、通院の帰りに裕司さんを時々うちに誘ってたのよ。うちでよかったら夕飯召し上がりませんかって。でも『家族の団欒を邪魔するのは悪い』っていつも断られて。だから『もう家族みたいなものじゃないですか』って言ったの。そしたら……」
母は少し照れくさそうに笑った。
「『家族と思ってくれてるなら、本当に家族になりませんか。それなら行きます』って」
俺は目を丸くした。
「これって、プロポーズよね?」
母が確認してくる。
「それ以外ないでしょ」
「そうよね。で、だから付き合ってるわけじゃないの。恋愛なんかいらないのよお互い。けど、家族になるっていう言葉がね……なんとなく、しっくり来たのよ」
まあ、そうなのか、そういう流れになったのは別に不自然じゃない。けれど、
「だから進学もできるのよ」
という言葉は、ごろっとした手触りで、うまく飲み込めなかった。
「あなたが望めば」
裕司さんを頼ろうと思ってるというのは、そういうことらしい。しかも来春、今住んでる市営住宅を出て、中古の一軒家へ引っ越すつもりだという。
「え? もうそんなところまで話進んでんの?」
「狭くても、部屋が多いところを探そうと思って」
しかし夕紀はまだいいが、日鞠や日和は思春期の女子だ。いくら個室があったって、ほとんど顔の合わせた事のない親戚のおじさんと、突然一緒に住むのはあまりに抵抗が大きいのではないか。
「待って、母さんそれはまだ早い。無理だよ」
俺は頭を抱えた。
「日鞠なんか俺の事さえうざがってんのに、これからもっとだよ。夕紀の風呂の世話なんかよその男にさせらんないし……」
言いながら、風呂や着替え、トイレのことが頭をよぎった。
「第一今でさえ、俺も照も、日鞠も日和も、お互いにどんだけ気を遣ってると思ってんだよ。おじさんは悪い人じゃないけど、あいつらにとっては知らない男の人だよ」
すると、お互いの生活のことだから気を遣うこともあるでしょうけど、と、母が反論しようとする。
「けど他人じゃなくて、おじさんよ? お父さんの兄弟よ? そんなに気にしなきゃいけない?」
「いやいや」
俺は遮った。
「そこは母さんが一番考えなきゃならないとこだ。俺がいいって言っても、母さんが止めなきゃならないところだよ。父親代わりにあいつらの反抗を受け止めてきた俺が言うんだから間違いない。あいつらはおじさんとは暮らせないよ」
「そうかしら……そんなに?」
「おじさんさ……言っても気ままな独身でしょ? その延長で、風呂上がりにパンツでウロウロされたら困んだよ」
「嫌だ、それくらい言えば分かるでしょ流石に」
「じゃあ、風呂場とか洗面所のこと、ちゃんと気を遣ってくださいって言える?」
俺は畳み掛けた。
「風呂入ってる時に脱衣所に人の気配があるだけで、あいつら不安になるんだよ。生理だってある。ナプキン見られるのも嫌だろうし、下着を手洗いしなきゃいけない時もある。その辺、全部分かってる? ちゃんと。我が子たちは年頃なので弁えてくださいって、母さんちゃんと言える? あいつらのこと守れる?」
「ええ?そんな細かい……」
「そーだよ細かいよ、んでそんな細けーこと気にすんなみたいな事言うんだったら、そんな人とは絶ッ対に、無理だよ」
はあ、と息を吐くと、母はしばらくの間沈黙して、頬杖をついて少し遠くを見た。ファミレスの窓の外を、家族連れが笑いながら通り過ぎて行く。父と母に挟まれ手をひかれる小さな男の子。
母はずいぶん考えてから、一口コーヒーを飲んで、
「そうよね」
と静かに言った。
「確かに、そこがね。なかなか、年頃の子がいるとね。母さんが考えなしだったわ。うん。なし。やめるわ。断っとく」
「いや、……別に、母さんが好きなら断らなくてもいいけどさ」
「ううん、それで日鞠たちが嫌な思いするのはおかしい」
「じゃなくてさ、話が早すぎるんだよ。いきなり言っても皆ついて行けないと思う。裕司おじさんはなんて? それでも一緒に住もうって?」
「いいのいいの、忘れて。みんな年頃だしね。うん、ナシ。この話、忘れましょう」
と言ってから、母は何か思いついたようにあはは! と一人で笑った。
「母さんが忘れましょうって言ったら洒落にならないわ」
との冗談に笑う気も起きなかった。
「再婚は、俺たちのため?」
「……え?」
「母さんが裕司おじさんとちゃんと幸せになりたいなら賛成できるけど、……なんていうか、身も蓋もない言い方するとお金のためだったら反対だ。おじさんと嫌な結婚させるほど俺は困ってないし、母さんが思うほど俺たち不幸じゃないから。そういう話ならもうしないで」
「嫌な結婚てわけじゃないの。違うのよ、陽。母さん、そういうつもりじゃ」
「ならおじさんの事が好き? 好きだから再婚したいってそう言える? 夕紀の前で。父さんの仏壇の前で。そう言えるんなら俺は何も言わないよ、一緒に暮らし始める時期さえ考えてくれれば」
「……そうね。陽の言ってることは、正しい」
母は真剣な目で俺を見た。そして、正しいと言いながらも、引かない強さがあった。
「だけど、あなたの進路のことは、本当に裕司さんに頼っていいのよ。その権利があるの。あなたには」
「権利?」
俺は首を傾げた。
「なにそれ。おじさんそんなに金の使い道持て余してんの? だったら寄付でもすればって言っとけよ」
言ってから少し後悔した。母の顔が、傷ついたように見えたからだ。
「……バイトに間に合わなくなるから」
俺はそう言い置いてファミレスを出た。
けれど先生は「可哀想に」と母の肩を持った。
「ええ? お金のために愛のない結婚をする方が可哀想じゃないですか?」
「二人の間に愛がないかどうかは分からないけどさ」
先生は昼ご飯の天ぷら蕎麦を啜りながら言った。
「お金のために結婚するの、そんなにダメ? 陽もさ、進学の支援してもらえるなら喜んで乗っちゃえばいいのに。金は金持ってる奴が出しゃいいんだよ」
ごちそうさま、と先生は器を下げた。そして仕事に戻る前、洗い物をする俺を呼んだ。
「君の人生だから君が決めたらいい、って大人は言うだろう?」
「え?はい……」
たしかに母もそう言った。
「それは欺瞞だ。実際に未成年の君が決められる事なんかほとんどないんだ」
先生の口ぶりは少し強く、けれど傷つけるという意図ではなく、激励に近かった。
「……はい。知ってます」
「無限の可能性なんてのはない。確かにこの世に、選択肢は無限に存在してるように見えるだろうけど、子供は目の前の大人が差し出す手の内からしか選べない。可能性は有限だ。なのに大人は無限の可能性なんて嘘をつく。示せる道なんかほとんどないのに、選ばなかった子供のせいにする。理不尽だと思うなら、せめてその中で一番良いものを、僕だったら何がなんでも選ぶけどね。そんな優しさでは生きていけないよ。もっと強欲になりな」
そう言ってから、先生は唇に触れるだけのキスをしてくれた。優しくて、ふわっとしたキス。
「わ」
何度しても、戸惑ってしまう。わかった? と柔らかく聞かれて、腑抜けたように「はい」と答えた。
俺と先生の関係に名前はないが、ハグやキスをする関係だ。それだけで満たされて幸せだから、それ以上の関係を先生に求めようとは今は思わない。先生もそれ以上してくることは無い。
「いつまで可愛い子供でいるもりなの?」
先生は、俺を優しすぎると言う。
俺にはそれがよく分からない。けれど、前よりも勉強だとか進学ということを、全く自分とは無関係のものと思わなくなった。もしかしたら、という可能性を少しだけ考えるようになった。
「夜学か通信は……」
という小さな呟きは洗い物の水音で少しかき消されそうだったけど、口に出してみると案外すんなりと喉から出ていった。
2.
学年が上がると先生は研究は休みにして、その分使勉強を教えてくれるようになった。俺が「夜学か通信なら行けるかも」と溢したのを耳ざとく拾ってくれていて、すごく喜んでくれた。だったら、と教えてくれることになった。
天気の良いゴールデンウィークが終わり、梅雨入り前の爽やかな日々。俺は週に三回、家事代行の終わりに一時間、先生の家で勉強を教わっていた。
そして、母はその頃には裕司おじさんと『付き合う』ようになっていた。そして成績が上がってくると母は、やはり昼間の大学を目指せと言い出したのだが、そこは線を引いて欲しいと断った。
七月、新緑が眩しい季節に、裕司おじさんに招待され少しいいところのレストランで食事をした。将来を見据え、改めて弟妹に紹介するためだ。日鞠も日和も「はい」とか「はあ」とか返事にならない返事をしていたが、なんとかつつがなく終わった。
その後、しばらくしてから母が教えてくれた。
「籍を先に入れて、一緒に暮らすのは日和が高校を卒業する六年後。それでもいいかって聞いたら、それでもいいって」
「え、よくそんなこっちに都合のいい条件おじさんのんだね」
「強気、強気よ。本気なら六年くらい待てるでしょ、って方に賭けたの。だから安心して。あなたは進学出来るし、日鞠たちも嫌な思いはさせない」
けれど俺は、おじさんから大学の資金を援助してもらうのを断った。
「まだ金かかる奴が俺の後四人いるだろ、そっちに全振りしてやって。日和は多分勉強好きなタイプだから塾通わせてやって」
というか、生活基盤をおじさんに頼ることにしたなら、家のことは母がやり、その空いた時間で日鞠たちに好きなことをさせてやるべきだ。
「あいつらを全員大学進学させて、それでもお金が余って仕方なかったら、その時でいいから少しだけ俺ににくれよ」
そう言うと母は少し寂しそうに笑って「子供達の中であなた一人だけ、先に大人にさせるしかなかった。あなたを子供のままいさせる力が母さんになかった。それが申し訳ない。」と言った。
母はそう謝ったけど、俺はそこまで悲観していなかった。その頃は先生の家で、勉強と仕事の両立がなんとか成立していて、満足していた。学びたいと思ったら、お金を貯めてから大学に入る事も出来るはずだ。経済的理由で進学を諦めたわけではなく、先生のもとで働きながら、勉強もしたい。その両立のための夜学か通信教育という選択だった。
梅雨はとっくに明けて、湿度の高い夏。
七月の初めの日曜日の明け方、庭の草むしりをしながら、先生にそう伝えた。真夏の炎天下の庭仕事は危険だから、早朝にやるしかない。
「先生ん家で通信の勉強していいですよね、仕事の合間に」
と言うと、
「え? 僕のところで通信を?」
とものすごく驚いた顔で額の汗を拭った。
「家事のバイトしながら?」
「……はい。出来ます? え?」
何かダメだっただろうか。
「陽、就活は?」
「えっ」
俺は両手に抱えた雑草を一度土に置いて、「ん?」と首を捻って考えた。
「……陽?」
「すいません先生。俺、ものすごい勘違いしてました。あの、ずっと先生のところにいるんだと……。そうですよね、そんなわけ、ないですよね」
中学生の頃から、家族を養わなければならないという重たいプレッシャーを当たり前のように背負ってきた。突如、それがすっかり無くなった。もう何一つ、背負う必要が無くなった。「もう自由になった」「みんなこれで幸せになれる」という解放感と安心、これでやっと勉強にうちこめるという期待が、この頭の中から、企業訪問や説明会、インターンなどの活動の予定までも一緒に排除してしまっていた。
草むしりを終えて、シャワーを借り、上がると先生がサイダーを水色のグラスに注いでくれた。家のこともうまくいっている、先生との生活も楽しい。未来は明るい展望がしゅわしゅわ、といい音を立てて沸き立ったあとで、急激に萎んでいった。卒業後は先生の元から去らなければいけないのだ。
「陽はさ、就活も『家族のため』って動機で動いてたから……それが無くなってホッとしちゃったんだよ。それで、ちょっとウッカリしてただけだよきっと。陽はこれから自分のために生きていけるよ」
と先生はグラスの炭酸を飲み干してから、プハーッと息をついた。
確かに担任にも「(通信で)進学を考えている」と伝えてあった。成績も上がっていた。だから学校側も何も言わなかったのだろう。
「自分のために。そっか。俺、バイトやめなきゃいけないんですね。来年の四月からはここには来られなくなる……掃除も洗濯も食事の用意も、研究の手伝いも……」
急に胸の中が暗くなった。
ここを辞めて、どこかに就職して自立した生活を送る。その生活の中には支えるべき家族もいなければ、大好きな先生もいない。そんな人生に何の意味があるのか、ちっとも見出せなかった。
◇
厳しい夏が終わり、就職活動がやっと終わった。
すこし涼しくなったころ、先生が家族みんなを家に招待してくれた。もちろん既に籍を入れた裕司おじさんもだ。
「ご馳走が出るから、ちゃんとした服着てくぞ」と日鞠に言うと夕紀と一緒にワーィご馳走! とはしゃいでいたが、母は少し困惑していた。
先生はその日のために老舗料亭の仕出しをとった。手土産のお菓子類も別室に用意してある。和室に膳を置いて、みんな慣れない正座をし、母も日鞠も、キョロキョロと驚いていた。何故か開かない汁椀の蓋に苦労したり、その蓋をどこに置けばいいか彷徨わせたり、慣れない形式の食事に驚きながらも楽しんだ。
デザートが終わると、先生が母のとおじさんの前に正座して、深々〜と頭を下げた。
「いつも陽君に助けてもらっています。大事な息子さんを我が家で長らくお預かりしておりましたこと、ご不便をおかけしたこともあったかと思いますが、私としては本当に陽君の存在に助けられ支えられ、感謝の言葉もございません」
母とおじさんは戸惑いながら、「ああ、いえ」「そんな」と返していた。
「いつも、息子に良くしていただいて感謝しています。勉強も教えて頂いて助かっております。こちらこそ、ありがとうございます」
母も膝の前に頭をがつくほど頭を下げた。
二人が頭をそろって上げた時、最初から頭の上に浮かんでいたが聞くに聞けなかった「で、これは何の会食なの?」と言う疑問が母とおじさんの顔の表面に出た。
「本日お越し頂きましたのは」
「はい。」
おじさんも、横で膝の腕拳を作り、緊張している。
「四月から陽君をここに住まわせてやって下さい。そのお許しを得たくて本日は皆さんをお招きしました」
「えっ! 住まう! 住む! えっ?」
「住み込みの家事代行兼、作家の助手として、陽君を僕にくれませんか」
「えっ! くれる!」
おじさんが驚いた声を出して、顔を赤くした。プロポーズみたいなその言葉に自分達の状況を重ねたのかもしれないが、なぜおじさんが照れるんだと思っておかしかった。
「陽君はアルバイトとして良く働いてくれました。就活もバイトと両立して頑張っていました」
「ええ、知ってます。でも、まだ決まってなくて……。え、決まらないからあんた先生にお世話になろうって? だめよそんなご迷惑!」
「違うんですよ、お母さん。就職、決まったんですよ」
「ええ! そうなの? いつ? ここから通うの?え、でもさっきここで働くって……」
「先生、俺から言うよ」
七月後半から八月いっぱい、就活を必死でやった。説明会に参加し、面接の練習をして、何個か実際に受けた。けれど、どこに行っても「ここじゃない」という暗い気持ちが拭えなかった。志望動機は語れない。やりたい事が見出せない。求人票を見ても、先生の家での日々と比べてしまう。
「だってずっと俺は家族のために生きてきたから、自分のために働く、ってのが急に言われても分からなかった。何がしたいか見えなかった」
母が、はっと息を呑む。
「犠牲って意味じゃないよ。みんなの役に立つ、先生の役に立つ、それが俺のやりたい事だった。そこに気が付いてなかった」
みんなの役に立つ事がしたい。みんなのために俺ができる事。庭仕事、料理、掃除、洗濯買い物。先生の仕事の手伝い。それだって立派な仕事のはずだ。
「だから俺、家事代行業者に応募して、先生の家での経験が認められて、採用された」
「そうだったのか」おじさんが目を細めた。
母はまだ謎の解けない顔をしている。
「……それで、だからってなんで先生の家に」
「先生はその企業に週に三回家事代行頼むんだって、四月から。俺指名で。平日あと二日は別の家に仕事に行く」
おじさんが「なるほど」と呟いた。
「それで、空いた時間に、先生の仕事の手伝いがしたい。先生に通信の勉強も見てもらいたい。だからここに住みたいんだ。許してくれないかな」
母はしばらく考えて、答えず黙っていた。すると、それまでずっとお利口さんにしてきた夕紀が、「陽にい、ここに住むの?」と母に甘えた。
「……そうよ」
母はその頭を優しく撫でた。
「お引越し? やったー!」
「違うのよ、陽だけ。ここに住むのは陽だけよ」
「えっ」
「陽にい、春になったらお引越しだよ、ゆっち」
日鞠が付け加えた。
「え……」
「さようならなのよ、夕紀」
ゆき。
さようなら。
その言葉を聞いた時、辛い別れをしたあの赤子の記憶が一瞬鮮明に蘇ってきた。
——おゆき。……おゆき。俺のおゆき。連れて行かないでくれと言ったのに。一本多い指は、あの豆のような指は、神様が贈ってくれたんだ。生きてくのは大変だから、一本くらい余計に持ってけって。
「嫌だぁ」
夕紀は大きな涙をぼろぼろと流し、「いやだぁいやだぁ」と泣いた。母は夕紀を膝に乗せてあやした。夕紀が泣けばすぐ叱る日鞠はこの時ばかりは叱れない。
「陽にい、勉強とお仕事、先生の家で頑張るんだって。応援してあげよう? 今までたくさん、お世話になったでしょう。今度は夕紀が、陽にいのこと応援してあげようねぇ。頑張れって、言ってあげようねぇ」
我慢していたものが、涙になって全部出た。先生がハンカチをくれた。
夕紀が泣き止んで、先生は家族に仕事部屋以外ではあるが、家の中を案内した。ここが陽君が使う部屋、ここが台所、お風呂、庭、と見せてくれた。
「本当なら僕が松永さんの所へ伺うのが筋なんでしょうけど、こうやって実際、住むところ見て頂いた方がお母さんも安心するかと思いまして。ご足労頂きました」
「いえ、本当に、何から何まで助けて頂いて……」
「助けてもらってるのは僕のほうですよ。たまには遊びに来てください、夕紀ちゃん連れて」
夕紀は、大泣きしてぶすくれていたのに、先生にはなぜか抵抗なく抱っこされ、終盤には先生を我が物としその腕の中で家の中を案内されていた。
「あ、せんせいのおめめ、きれいね。ふふふ」
「ふふふ、ゆっちのおめめもきれいね」
と顔を合わせて笑っていた。俺は心のシャッターを切った。
じゃあそろそろお暇しましょうか、となって玄関に行った時、俺も靴を履いたのを見た夕紀が、
「陽にいのおうちはここでしょ?」
と俺を家の中に押し戻そうとするので、みんな笑った。
「四月からよ」
母が言った。
「四月から?」
「そう。ゆっちは四月に年長さんよね。年長さんになったら、お兄ちゃんはここに住むの。それまでは、今までと同じところに住むの。まだ一緒なのよ」
どうやら夕紀は今日お別れだと思っていたらしく、母の説明を聞いて「なあんだ、ならいいよ」とあっけらかんと言った。
秋が終わり、冬が過ぎた。
その間、仕事以外で夕紀と共に何度か先生の家に遊びに来た。先生と夕紀は気があって、仲良く遊んだ。俺は大好きな長兄という立場から、先生を巡った「らいばる」に格下げされ、先生と喋っていると間に割り込まれた。
春が来た。
皆、新しい生活への準備を始めた。おじさんとの同居はまだ先だが、あの市営住宅を引き払い、広めの中古一軒家に越した。
一人一部屋使えるその家に、時々おじさんが通って来る。週に一度、または二週に一度。そうして慣れてお互いの距離を掴みながら、六年後を待つらしい。
「気が長い話ですけど、六年を貫いたら本物ですね」
俺はダンボールの中身を先生の家で片付けながら、そんな家族の状況を話した。
「六年なんて瞬きする間に終わっちゃうよ」
「……ああ、先生は四百年待ちましたもんね俺のこと」
「そーだよ、分かってんの?」
「分かってますよ。とんでもない野郎ですよ、直助もその他も」
「違うよ」
と先生が後ろから腕を回して、耳元で囁いた。
「六年で本物なんだったら、僕の本気がどれだけだか分かるよね?」
「わあー」
一気に体温が上がり、俺は先生の腕から逃げた。
先生はふふふ、と笑って片付けの続きを始めた。
先生と俺の関係や距離も、変化の時がすぐそこまで来ている。
3.
四月になり新生活がスタートした。
入社した家事代行サービス会社「スマイルキープPLUS」で、週三は先生が俺を指定しての定期契約、週二回は単発で他の依頼者の家で仕事をする。
はじめは段取りがうまくいかず、時間があっという間に過ぎた。その家によって環境が違う。また一件一件求めるものが違う中、毎日仕事の質を保つのは難しかった。
帰宅してお風呂に入り、先生と食事を摂ると、一階の自室で通信教育の課題に目を通す。最初の頃は目次を読むだけで寝てしまった。
入社して二ヶ月が経ち、単独で仕事が出来るようになった。少しだけ慣れてきた、七月のある日。依頼者である七十代の女性が、涙をこぼした。
「ど、どうかされましたか、大丈夫ですか」
「違うの、嬉しくてね。ありがとう」
半分認知症を患いながらも一人で暮らしていたが、段々と部屋が片付かなくなった。見かねた別住まいの息子さんが「スマイル」に連絡をくれた。
俺は夏の暑い時期に、散らかった部屋、臭いの染みついた家を、いく日かに分けて綺麗にした。正直、辛い仕事だった。なんとかやり遂げ引き渡すと、泣いて感謝された。
自分がした事が、誰かの役に立っている。しかもそれが、仕事になっている。その給料で先生に家賃と光熱費を払い、共に生活している。自分が社会の一員として小さくとも一つの役割を果たしている。それを実感できた瞬間だった。すごく嬉しかった。
就活せず、先生の家で今まで通り家事代行の仕事することも本来なら出来た。けれど、先生が「社会」を見たほうがいいと、当時就活中の俺に言った。
「家事代行の仕事をするのは賛成だけど、陽は若いんだからたくさん社会を見るべきだよ」
そして先生は、俺が就職したスマイルキープPLUSに定期契約料を支払い俺を雇ってくれている。企業を通さず直に俺に支払う方が先生は当然安く済む。けれど、会社と契約して料金を払ってでも、俺に社会勉強をさせたいと言ってくれた。
そこまでしてくれるのだから当然、俺の中の最優先は全てにおいて先生だった。先生の側にいたいから家事代行を仕事にしたし、先生の助言があるから会社に勤めるし、先生が会社に契約料を支払うから俺は給料が貰える。俺の生活の循環の全ては先生によって回されている。
ある日、理不尽なクレームを受けた。あなたに洗わせたはずの靴下が片方ないという電話が来て、上司と共に呼び出され急行したが、向こうは燃え上がるばかり。散々罵倒されたあとで、結局、帰宅したその家の息子が「それ元々片方しかないやつだよ」と謎の呪文を唱えて鎮火した。
元々片方しかないやつ? 何を言っているのかさっぱり分からない。そんなものを洗濯機に入れるな。
どっと疲れが出て、その日は先生に帰るなり抱きついた。
「頭を吸わせてください」
「陽お疲れ、遅かったね。んん? どーしたの」
「疲れました……」
先生と一緒にお風呂に入って経緯を話すと、汗と共にイライラが流れていき、楽になった。
「心が子供のまま体が大人になったタイプか。成長を放棄してるんだな」
「かと思えば泣いて喜ぶおばあちゃんもいるし、人間いろいろ、分からないですね」
「ねえ」
と笑う先生とキスをした。それだけで幸せだった。
「順調に社会に揉まれて、いい男になってきてるねえ」
と先生は俺を労ってくれた。
先生は、俺が立派な社会人になったような気で居させてくれるけれども、結局は先生に包まれその優しさの中で生きているだけだ。俺の給料の出所も元々は先生が会社に支払ったものだし、住むところに困らないのも部屋を先生が貸してくれるからだ。
人の役に立つ仕事は楽しい。依頼者の笑顔のために頑張ることは張り合いがある。怒られることもあるけれど、それも社会経験の一つとして俺に蓄積されていく。この仕事は自分にあっていると思う。
けれど、慣れてくると、他のお宅の家事をしながら、心の中で先生を思った。掃除しながら、先生の身の回りを綺麗にしてあげたい、調理をしながら、先生の好物をもっと作りたいと思った。
もっと先生のためだけに生きていきたい。社会に出て、人の役に立つことは大事かもしれないけれど、その全てを本当は先生のためだけに使いたいと、強く思うようになった。どうしたら先生のためになるのか。どうしたら喜ぶのか。何をしたら先生の笑顔が見れるのか。先生は何を望んでいるのか。
けれどそんな事を言って、会社を辞めて、先生からお小遣いを貰って先生ただ一人のために生きていくなんて、人として健全じゃないし、先生もそんな視野の狭い男は嫌だろう。いくら俺がずっと何百年前からの先生との約束の相手だとしてもだ。
先生のために全てを使いたいけど、先生には頑張っている社会人として見てほしいから、そのために働いた。
母はこれからは自分のために生きなさいと言ってくれたけれど、希望通りの就職先を手に入れて、望み通りの先生との暮らしを手に入れても、俺自身は自分のための人生とは何なのかが、いまいちよく分からないままだ。
そしてあっという間に二年が経った。
俺は仕事と勉強と、「愛喰い」の研究の手伝いをしながら、その二年の日々を過ごしていた。「愛喰い」の研究といっても、行き着くところは結局妖怪の本を読み漁るだけになって、成果はよくわからない。それでも先生はそれでいいからと言ってくれている。ただただ俺が、妖怪博士並みにそっちの知識が豊富になっていくだけで、先生の役に立っているかは分からないが、先生がそう望むからそれでいいかと思った。
けれどあらゆる本を読んで、なんとなく自分の中の一つの推論が出た。
「妖怪は育ち盛り!」
先生は心底馬鹿にしたように俺を見た。そんな目で見られたことはない。
「いつまで育つ? 僕は、いつまで育ち盛り?」
「先生腹減ってますか。食べても食べても腹が減ってりゃ育ち盛り、もう食えなくなったら老人です」
「馬鹿にしてるのかな」
「してないですよ」
「僕はまだ老人じゃないよ」
「そうですね」
「食べてるよ」
「じゃあまだ育ちます。まだ若いです。そのうち食えなくなったら、老人です。今は違います、すいませんでした」
ふーん、とけれど先生は「食えなくなったら、か」と少しだけ目を柔らかくして俺を見た。
そして変化は——そう、変化が全くなかったわけではない。仕事、勉強、それらは何の障りもなく順調だった。その意味での大きな波風はない。
波乱が起きたのは、二年目。二十歳になり、先生の隠しファイルが実はあれだけではなかったことから始まった。
二十才の誕生日を先生と迎えた。十月のある日だ。
先生がプレゼントをくれた。老舗ブランドの高価な皮の財布。こんな高価なものをと驚いたが、
「十年以上使えるから、高くないよ。その代わり大事にしてね」
と先生は言った。
「十年経っても、一緒に住んでていいですか?」
と聞いたら、少し照れくさそうにして、もちろんそうだよと言った。
夜には食事に誘ってくれて、徒歩でいける場所にある小さなイタリアンに連れて行ってくれた。料理名も全部カタカナでよく分からないが、全てがおいしくて大満足のお店だった。そこで初めてワインを一口だけ飲んだ。
帰って、風呂から上がり部屋で寛いでいると、先生が、紙の束を俺に持ってきた。ちなみに俺の部屋は一階の和室で、勉強机とベッドと本棚でぎゅうぎゅうの六畳間だ。そこへ先生が声をかけて入ってきて、そのプリントされた紙を渡したのだ。
「陽、もう一個のプレゼント。二十歳おめでとう」
「え?はい、ありがとうございます……?」
何だろうと思っていると
「もう大人だもんね」
と謎の言葉を残し、目を細めてまた襖を閉じて出て行った。大人だもんね? どういう事だろうと思って表紙を見た。
タイトルは、
「洸太郎の場合……?」
それは鶴丸や直助の小説、「隠しファイル」共通タイトルだ。しかし先生は今度は「隠さずに」俺に手渡した。この手の小説がまだ他にあったことにも驚いたが、新作の小説なのか、昔からあったものなのかは分からない。
ベッドに腰掛けた俺はぺらり、と表紙をめくって読み始めた。
……それは大正期が舞台の、先生である朝太と洸太郎との恋愛小説だった。鶴丸の場合は主従、直助の場合は友人以上恋人未満。切ない二人の物語は、ついに光太郎の所でぐずぐずに蕩ける激しい恋にまで急進展した。
「……ん?」
出会った二人は、初めからお互いが運命の相手だと分かっているかのように惹かれあった。……大人同士の恋愛だ。
「ん? んん?」
そしてついに、俺の過去である洸太郎が先生の過去である朝太に挿入するシーンがあった。
「んんんん?」
うまくいえないが、臨場感があり、しかも官能的なだけでなく、お互いの気持ちが通じ合い、或いはすれ違い、その中での堪えきれない二人の感情がぶつかりあう、そんな激しいシーンがいくつもあった。
朝太が身悶えし、息も絶え絶えにねだる。甘える。絡みつく。洸太郎は執拗に何度も何度も責める。文字が直接脳に刺激を与え、心臓がバクバクなって、血流が集まって、……健康な反応があった。
やべえ勃ってきたと思っていると、先生が襖をとんとんとノックした。
「陽? 入っていい? あのさ、それ、」
「ダメです!」
勢いよく拒絶し、毛布で隠した。今見られるのは恥ずかしい。
「……もしかして読んだ?」
「え、……は、あ、いや、」
その。あの。
「入るね?」
いいよと言っていないのに先生が襖を開けた。俺も、出て行けとは言わなかった。恥ずかしいけれど、それを先生に見られる拒絶よりも、助けを求めて甘える気持ちが勝った。
「あ、読んだんだね。」
俺の反応を見て、読んだかどうか確認するな。
「これ、これも先生の記憶ですか? え、えろ……」
「君が全部したくせに」
「そんなの覚えて……」
「ふん。触ってあげようか」
「え?」
「手で」
「え? え??」
「あ、口がいい? どっちでもいいよ。」
「ええええ???」
ちょっと、だめです、何してるんですか、わー、と大騒ぎして先生の手から逃れ、俺は壁際の、ベッドの端っこまで逃げた。
すると先生は、おてあげ、のポーズをした。
「ベッドなんかに一緒に居たら、僕最後までして欲しくなるから、やめとくね。」
「ふえ? 最後?」
先生は、じゃ、一人で頑張って! と部屋を出て、二階に行った。取り残された俺は、一人? 頑張る? と何度か口の中で呟いた。つまり一人で抜けと。
呟くうちになんだ、馬鹿にされたのかと理解できて、そのまま部屋を出て二階に荒々しい足音を立ててのぼり、先生の部屋に行った。仕事部屋ではなく、私室だ。
「わあ、陽、どうしたの」
柔らかく微笑む優しい顔を見て、怯んだ。けれど逃げたくない。
「おいで、ほら」
と先生は、もう馬鹿にすることなく俺を座らせた。
「してあげるって言われたらしてもらえば言いの」
先生はまずキスをしてくれた。
そして俺の熱に手を触れ、先走りと共にぬるぬると動かした。唇を繋げたまま、痺れるような快感が一気に駆け上りどくりと弾けた。
荒い息をしていると、陽かわいいと抱きしめて来るのが悔しくて、先生を背中から抱きしめて、先生のものにも直接触れた。
途端に先生の体からくにゃりと力が抜けた。先端の窪みを弄ると、喉の奥から甘えた声が出た。
硬くこわばったそれをさらに昂めながら、首筋に噛みつくと、小さな叫びを繰り返し、最後に高い掠れ声をあげて、欲を解放した。腕の中で幾度かびくびくと震えるのが愛おしかった。
その後も触り合い、お互いに何度か達した。
食事とお酒と、性の触れ合いで二人とも疲れてしまって、その日は先生の布団に寝転がった。
布団の中でぬくぬくと、先生の体温を感じながら俺は聞いた。
「あの話は、昔書いたんですか?」
「……そうだね。前からあった。高校生に読ませたら捕まりそうだったからさ。隠しといたの。先生の本当の隠しファイル。この日に渡そうと思って隠してとっといた。プレゼントというと、少し違うかな。大人になって順に理解できる事ってあると思って」
あれはね、と先生は真面目に言った。
「ただのエロ小説で終わりたくなかったんだよ」
先生はそれについて、教えてくれた。
……直助が死んで四十年後、二人は同年代の友人として出会った。洸太郎は油絵を描く芸術家だった。洸太郎は朝太にベタ惚れで、朝太を絵のモデルにした。
「自分でベタ惚れだったなんて言うと、すごい自惚れみたいですけど」
先生の口調が「朝太」になった。朝太は敬語で話し、自分を私と言い、俺の事をあなたという。
「違うんです。本当に本当に、気狂いみたいに愛してくれた。嬉しかった」
洸太郎と出会ったのは彼が二十歳の時。朝太自身の見た目も、出会った時は同じ程度だった。
「洸太郎は、ある時、描けないと言って苦しみ始めました」
洸太郎はとにかく朝太に執着した。愛し過ぎた。どうしたら朝太に喜んでもらえるか、どうしたら嫌われないか、どうしたら失わずに済むか。そんな思いだけが一日中頭を支配して、苦しんだ。
今の俺と同じだ。洸太郎のはそれよりは激しいかもしれないが、そう思った。
「他に何をしててもお前のことを考えていると言われて、私は嬉しい以外に何もなかった」
そうなのか。先生は嬉しいのか、と少しだけ心がじんわりして、先生を横から抱きしめた。
しかし先生の口調は次第に暗くなった。
何を描いても朝太のそのままを写しとれず、ただの、支配欲と独占欲に塗れた絵しか描けないと言って、光太郎は苦しみ始めた。
「画家じゃない私がそれを見ても、あまり違いは分からない。けど、芸術家の洸太郎にとっては、納得できないものがあったんでしょう」
洸太郎はなりたくて画家になったわけではない。それ以外の生きる道が、洸太郎にはなかった。人として何一つまともに生きていけない頭のおかしな男が、たった一つ見つけた光、それが芸術の道だった。その中でしか生きられない男が、絵を描けなくなった。
「生きていけないと……洸太郎はそう言って、伏せってしまった」
伏せった? 病気になったのか?
絵を思い通りに描けなくて、先生を愛しすぎて、伏せる? 過去の俺が? ば、馬鹿じゃないのか、と思った。けれど黙って聞いた。
「私は、洸太郎がまた死んでしまうと思って。放っておいたらこれでは命を落としてしまうと思って」
そこで朝太は、洸太郎の「朝太を好き」という思いを記憶ごと食べた。すると洸太郎は穏やかな心を取り戻し、素直な心で再び朝太の絵を描き始めることができた。朝太のことは忘れてはいない。その激しい想いを食べた。恋人ではなくいい友人に戻る。それはそれで寂しいが、命を失うよりはましだと、その関係に不満はなかった。
けれど洸太郎は再び朝太を愛した。ぶり返した愛は加減をしらず、より激しく危うい形になった。
「また、食べました」
洸太郎は朝太を描いては苦しみ、苦しみの頂点が来る前に朝太が食べた。食べると穏やかになり、また描く。その繰り返しを何度も辿った。
そんなふうに過ごして、出会いから既に十年ほど経った時、大きな地震が起きた。洸太郎とはその震災により二度と会えなくなった。おそらく、被害に遭ったのだ。朝太はいく日も瓦礫の街を歩き、歩き、歩き、けれど、もう何もそこには洸太郎の痕跡はなかった。行く先も知らなかったのだから。
「いつも使っていたアトリエは奇跡的に無傷で、遺された私の肖像画は無事でした。けどその頃洸太郎は、アトリエは使わずにどこか別の場所で描いてました。どこにいるのか教えてくれなかった。けど、何を描いているのかと聞いたらやはり私だと言うんです。モデルにならなくていいのかと聞くと、記憶の中の朝太を描く、心の中の朝太を描くと言っていました。あの人は、どこで描いているのかも教えてくれなかっただけでなく、描いたものを見せてくれませんでした。毎日は会えなかった。会いたかった。けれど会ったらまた苦しませてしまう。会いたい。そんな中での震災でした。最後の言葉も覚えていないのに」
直助が亡くなって四十年後、やっと出会えた魂の片割れは、それまでの年月を埋めるかのように朝太に愛を与え続け、苦しめ、濁流に溺れさせた。そして救うことなく一人逝った。朝太はしばらく、洸太郎が遺した絵を見返すことも出来なかった。
「おゆきちゃん」
そこで先生は泣き崩れてしまった。
「あ、あれは、おゆきちゃんだった。間違いなくおゆきちゃんだった」
夕紀。その前の命が、先生と出会っていた。震災の後。親を亡くした浮浪孤児として。
「かくれんぼをしてたんだって。アトリエに迷い込んできた。そこで私の絵を見たんです。そして私も、おゆきちゃんと共にその絵をやっと見ることができた。何枚も何枚もあった。同じじゃないんです。ちゃんと、絵の中の私が歳を重ねている……」
爪が手のひらにくいこむ。
ほとんど見た目の歳を取らない先生は、絵の中で歳を重ねていた。
「キャンバスの裏に年月日が記されていて、その順に並べました。洸太郎と過ごした十年間。年代ごとに、私はちゃんと歳を重ねていた。十年の間に、きっちり十才分の歳をとっていたんです。知らなかった。そこで始めて知りました」
先生が、なぜこの話を俺にしたか。何故このファイルを読ませたか。ようやく理解した。洸太郎と出会って過ごした朝太は、そこで年齢を重ねることができた。何らかの方法で。
「おゆきちゃんは」と先生は最後に語った。
「……つまり夕紀ちゃんのその当時の名前は、サチ。私は彼女をさっちゃんと呼んでた。私たちは親子になりました。私、彼女の養父になったんです。だから、あなたが心配するほどにはそんなに寂しい人生じゃなかった。そして再びサチに会えた。あなたの妹として。サチを私の元へ連れて来てくれてありがとう」
記憶を食べられるのはどんな気分だろう。
洸太郎は先生に記憶を差し出して、どう思ったのだろう。直助も、鶴丸も。先生は記憶を食べて、どう感じたのだろう。
「なんで俺以外は食べなかったんですか」
「偏食なのかな」
と笑った。
「美味しいんですか? 記憶って」
「味があるわけじゃないけど、美味しいものを食べた後みたいな気持ちに似てるよ。幸せになれる」
今まで、何度先生にご飯を作っただろう。その度に、先生は何度も何度も、美味しいと言ってくれていた。陽が来てくれて幸せだ、ありがとうと。
その気持ちに似ているのなら。
「食べていいですよ、先生」
俺は身を起こして、先生を見下ろした。先生は一瞬身震いした。俺は覆い被さって、唇を柔らかく触れさせた。
ずっと前からその幸せは俺が先生に繰り返し与えてきたはずだ。鶴丸も直助も洸太郎もしてきた。なのに今の俺だけしないのは納得できない。
「俺を食べて」
先生の役に立ちたい。先生を喜ばせたい。先生のことが好き。だから食べてもらいたい。
けれど先生は、僕が君の記憶を食べると、いつも君の人生がどこかおかしく歪んでしまったから、と言って、目を閉じてしまった。
「……忘れてしまうから?」
先生は目を開けず、寝返りを打って背中を向けてしまった。泣いているのかもしれない。何故泣くんだろう。あげると言っているのに。これは俺の愛なのに。
「俺、忘れたって平気だよ先生」
「そんなはずがない。だめです」
「少しくらい、いいよ」
「だめ、だめ」
「むかーしの、ほんの少しの、なんかこう、俺さえ忘れてるような記憶。食べてみたら?試しに」
「だめ、だめだって!」
俺は先生の肩をつかんで、こっちへ顔を向かせた。泣いていた。けれど構わず唇を重ねた。深くはしない。ふわ、ふわ、と優しく啄む。その度に先生はだめ、だめ、と泣いた。
「先生はさ、記憶を食べたら、歳をとるんだね」
「……多分そうです」
「知ってたんだね。歳をとる方法。俺、ずっと研究してたのに、無駄だった?」
「……いいえ。確かに歳をとる方法は私、知ってました。洸太郎の時に気がつきました。けどそれをあなたにするつもりはなかった。調べて欲しいとあなたに言ったのは、確かに騙してたことになるのかもしれない。けど違う。私が本当に知りたかったのは……あなたに、一緒にいて欲しかったのは、考えて欲しかったのは、」
そこで先生は少しだけ黙った。俺は先生を安心させたくて柔らかく抱きしめた。
「なに?一緒に考えて欲しかった事って。」
先生は少しだけ遠くを見た。
そしてゆっくりと口を開いた。
「なぜ、わたしが、うまれたか」
それは、いかにも人間らしい、純粋な問いだった。
私のような存在が、何故生まれたか。何故人の記憶を食べることでしか歳を重ねられない存在がいるのか。何のために? 何の目的で?
「何故わたしは三百年も、ずっと、愛する人を苦しめる事でしか生きられなかったか。人の食事で満足できず、人の記憶を奪うことでしか成長できないのか」
鶴丸の、直助の、洸太郎の愛を奪い、そうする事でしか生きられない私は、一体何のためにこの世にいるのか。
「そしてまた今、あなたの記憶を食べるなど、いくら私でも、そんな浅ましい事、出来ない。したくない」
そうしてしくしく泣くので、その頭を撫でた。
撫でながら、昔好き嫌いをして母に叱られていた夕紀のことを思い出した。
「けど……。そうしないと、先生、おじいちゃんになれないよ?」
「……お。おじいちゃん?」
そこで先生は戸惑ったように、少し声を硬くした。けれど、朝太の影がスッと消えた気がした。
「先生、じじいになるって本当は素敵な事だって、何年か前言ってたよ」
「言ってたかなあ……?」
「ちゃんと食べないと大きくなれないよ」
「ブフッ!」
あははー!と先生は笑った。
いつもの先生だ。俺の先生。
どうやってこの偏食家に食べさせてやるか、なんとか考えようと思った。
二十歳の誕生日は、幸せと涙と、いろんな気持ちが混ざり合ったものになった。
妖怪は、……その中でも人を襲ってエネルギーを奪う妖怪は、何のためにそんなことをするのか。若返るためではない。反対だ。歳をとるため。それが食事だから。食事をして、成長するため。成長して大人になる。そして、老いる。
「先生、それってほとんど人間と同じだよね。食べるものが、食べ物か記憶なのかってだけで。つまり先生は、記憶を食べてりゃ普通に死ねるんじゃないのかな」
そして、何でそんな風に生まれたのか。
その理由も人間とさほど変わらないはずだ。人間は、何のためにこの世に生をうけるるのか。生まれて、食べて飲んで老いて死ぬ、その一生は、何のためにあるのか。
自分のやりたい事。自分のために生きること。それが何なのか分からなくて、ずっとモヤモヤしていたけれど、やっと見つかった。
自分のために、そして先生のために何が出来るか。それら全てを叶える、たった一つの俺の望み。
先生に記憶をあげたい。先生を人間にして、先生と一緒に歳を取りたい。




