8 円環
1.
正月、母達の家に行った。
「陽にい」
玄関を開けると夕紀が待ち構えていた。一年生になった夕紀はもう膝に登ってこない。抱っこもさせてくれない。けれど、元気か、と言うとウフフと笑って手を引いて、自分の部屋を見せてくれた。書き初めの練習をしていたらしい。うまいと誉めてお年玉をやると、漫画を買うと言って嬉しそうにした。絵本じゃないのか、と寂しくなった。笑うと前歯の乳歯が二本抜けているのが見えて、まだまだ可愛いと思った。
裕司おじさんも含め、みなでお雑煮とおせちを食べた。母も見た目は元気そうにしている。
「ちょっと、また増えてる」
忘れる回数が、と言うことだ。
食事の後、日鞠がこっそり教えてくれた。薬で進行を少しでも遅らせてきたが、それがだんだん効かなくなって来た。そもそとが、治療というよりは、緩和するためのものだから仕方がない。
それもあって、約束の六年を待たずに裕司おじさんは同居することになった。
数年前、籍を入れる前のファミレスでの会話を、母は事細かにその日のうちに記録ノートに記していた。余程重要だと思ったのだろう。俺の言葉の一言一句がほぼ正確にそのまま書かれていた。かなり辛辣な言葉が並んでいたはずだが、それを見たおじさんが、年頃の異性がいる家庭の事情について、かなり丁寧に学んでくれたらしい。
「ふんわりとしか理解してなかったことを、きちんと知れたのは本当によかった」
とおじさんに感謝された。
脱衣所は鍵が取り付けられ、トイレも増設した。女子用男子用で分け、それぞれが掃除を担当する。その他も同居前に色々とルールを決めようとおじさんは提案したが、
「そんなの住みはじめてから言うから!」
と日鞠と日和が急かした。
それほど母の状態が進んだのだ。
俺は久しぶりに母の記録ノートを読んだ。随分と増え、今年で七冊目に突入していた。
異様なページをみつけた。日付は去年の夏。歪に破かれ、ぐしゃぐしゃに丸めたような皺があり、それを後でセロテープで止めた跡があった。
読むと、他愛のない買い物リスト、夏休みのみんなのそれぞれの予定、日和が通う塾の夏期講習の日程などが記されていた。
「支払い忘れてさ、受けれなかったんだよ」
覗き込んだ日和が言う。
六年生から進学塾に通い始めた日和は中学受験をし、特待生枠で私立中学に通っている。
その中学一年生だった去年、母は塾に夏期講習の費用を期日までに振り込まなかった。メモしていなかったのだ。
「買い物なんかどうでもいいだろ、なんでそんなくだんないことメモして振り込みのこと書いてないんだよって、怒っちゃった。そしたら母さんが、そのページを破いたの。意味がないって」
意味のない買い物リスト。意味のないメモ。役に立たない記憶の痕跡。
いつか、シャンプーやら醤油を何本も買い溜めしていた。さつまいもがあることも忘れて夕紀を泣かせた。そういえばその時も言っていた。天気とか、買い物とか、そんなどうでもいいことをいくら書いたって、大事なことを忘れてるんだから意味がないと。
俺はそのシワシワになったページを、手のひらで伸ばして、よく読んだ。
「あんまり、あれだったから、なんか可哀想で。あとで私がセロテープで貼ったの」
「可哀想?」
「この買い物リストが。別に意味なくないのに」
素麺、しょうが、めんつゆ
トマト、ねぎ、鶏肉、片栗粉
ぞうきん、ストロー、百均でガラスの器、
わりばし、水風船、かき氷のシロップ
「意味なくないんだよ」
母は素麺をつくり、庭で水遊びを子ども達にさせ、そのあとでかき氷を作って食べた。食べようとした。みんなで夏の思い出を作ろうとした。その光景は俺は見ていない。けれどこのリストは、楽しい夏のひと時を鮮やかに脳裏に描いた。
真夏の太陽の強烈さ、水しぶきの心地よさ。疲れた体、そうめん、カラリと器とぶつかる氷の音。どんな風にみんなが過ごしたか、目に浮かぶようだった。
「でもそれが、その時私にはわからなかった」
どうでもいい一ページなどない。意味のない記憶はない。
夏期講習は受けれなくて、それは本当に残念だ。日和は勉強が好きで、得意だ。大人しいが根性がある。辛いことを耐えて、努力する力を持っている。だから頑張りたかった。その出鼻をくじかれて、悔しかっただろう。
けれど、家族のために作ったこのリストが、意味のないものになるはずがない。ここにこそ、母の、そして家族それぞれの、暖かい想いが詰まっている。
記憶がなくなるとは、この記録ノートのどこか一ページを、予告なく無理矢理引きちぎられる事だ。ではノートから千切られたページは、消えてしまうのか、無かったことになるのか? ノートに残された他のページは、穴あきのノートだからと使えないのか、無意味になるのか?
そんな訳がない。残されたページには、無いという穴が残る。千切られた方もどこにも行かない。そこに込められた人の思いは、どこにも行かない。見えなくなった、記憶がなくなった、それは愛がなかったということにはならない。
それに、消えたと見せかけて、他のページに顔をだすこともある。
「ここ見てよ」
その夏が終わるページ以降、ノートの上段の余白に、「冬季講習振り込み」という文字が続く。毎ページ書いてある。めくってもめくっても、ときにはカタカナで、ひらがなで、或いは「トウキ、フリ」などの暗号で。それは十二月の初めの、「冬季講習振込完了」と記されたページまで続いた。
「私もカレンダーとかホワイトボードに書くことにした。忘れたく無い予定はさ。母さん一人に甘え過ぎてた。だめだよね。覚えてる人が覚えてればいいんだから、こういうのは。私記憶力いいし」
引っ込み思案だと思っていた。あの狭い市営住宅で、いつも部屋から出てこなかった。日鞠と違ってハッキリとした物言いをする方ではないから、多分外では損することの方が多いかもしれない。優しく穏やかな性格だから。だから心配もしていた。けれどこんなに立派に成長している。
「あんま深刻そうにしないでよ、心配いらないよ。おじさんもいるんだし。 」
と言うので、
「心配くらいさせてくれよ」
と返した。
帰り道、俺は文房具屋に寄り、書きやすそうな少し高価なノートを五冊買った。
2.
「いただきまぁす」
渋い濃い緑茶と、道明寺の桜餅。
「無理だったら残してくださいね」
「年寄り扱い禁止」
「年寄りでしょ」
この前先生が、珍しく春風邪を引いた。お風呂上がりに陽、さむい。と言って震え出し、熱を出したのだ。少なくとも俺と暮らすようになり、体調を崩したのはこれが初めてだ。
先生には、実は偽造した健康保険証がある。体は目の色が光る以外は人間と変わらない。けれど三百年前から存在する人の真っ当な戸籍などあるわけがなく、先生は生きるため仕方なく「高槻」という戸籍を違法に手に入れた。一九七〇年代に、養子縁組制度を利用して、買ったのだという。
「若く見えても実年齢は妖怪、戸籍上は五十三才なんですから、無理しないでください」
見た目はどう見ても三十代だが。
ともかく、そのせいで保険証を持って病院に行くことはなるべくしたくないと考えた。幸運にも、愛喰いという異質な存在だったからか、一度も風邪を引いたり大病を患ったりしなかった。怪我はしても、大怪我ではない。だから保険証が必要な場面はほぼなかった。
しかしここに来て、初めての風邪。先生はほぼ初体験の人体の免疫システムに、かなり弱気になった。
ただ、熱は熱だがインフルほど高くはない。とりあえず解熱剤で体を休ませ、様子を見ることにした。一眠りしてもまだ高熱が出るようなら受診したらいいと思い、水分をよく摂らせ、温かくして寝かせておいた。
一晩様子見をして、翌日には微熱。昼には起き上がれた。鼻水と咳は、風邪の終わりの症状だ。油断は禁物だが、とりあえず風邪だったのだろうと落ち着いた。
そして昨日、ようやく食欲が戻ったので、俺は少しいいところの、職人が手作りをする和菓子屋で桜餅を買ってきた。
「風邪にはもう二度とかかりたくない」
「これからどんどんかかると思います」
「酷い」
「喜びましょう。また一つおじいちゃんに近づきましたね。健康長寿を目指しましょう」
「人間って大変だねえ」
見た目は何度も言うが三十代だ。
『「喜ばしいことですよ。また一つおじいちゃんに近づきましたね。健康長寿を目指しましょう。」
見た目は何度も言うが……』
「さんじゅう、だい、だ。と。よし出来た。」
「こんなことも書いてるの?」
キッチンで、さっきの桜餅の会話をノートに書き留めていると、先生がそれを後ろから覗き込んだ。
「記憶なんてどれだけあってもいいですからね」
先生が眼鏡をしている。その奥の瞳が綺麗だ。以前、老眼鏡ですかと聞いたら近視ですと怒られた。細い黒縁の大きなガラスの眼鏡。それも最近になって使い始めたのだ。
「その眼鏡似合ってますね」
俺は座ったまま、先生の腰を引き寄せて膝の上に座らせた。抱っこだ。そして唇をふわりと触れた。かちゃ、とフレームがなる。
「そう? 似合ってる?」
と先生が俺の方に腕を回す。
「可愛いです。好きです」
もう一度キスをすると、先生は真っ赤になった。
「どうしたんですか今更」
「いや、なんか、こういうの、こ、恋人みたいで……」
照れる……。と頬を抑えた。
「恋人じゃないんですか? 俺ら」
「いや、そうなんだけど。でも。なんか、恋人みたいだぁ……」
と膝から逃げていった。
先生は人に近づきつつある。そしてそれには理由がちゃんとある。その理由も、このノートにちゃんと記してある。
◇
このノートは、俺の記録ノートだ。
話はこの前の正月に遡る。
母達の家から帰ってからすぐ、高一からの五年間で初めて先生の仕事の手を止めさせて一階に呼び出した。
「俺と一緒におじいちゃんになってください」
先生は藪から棒にと言う顔をした。こういうのは勢いだと俺は思っている。
「なに? おじいちゃん? コスプレでもすんの? どいこと?」
とまるで理解していないので、ソファに座って順を追って説明した。買ったノートを見せながら。俺は先生と、肩と頭を寄り添わせた。
「ここに、俺の記憶を書きます。好きなページを先生にあげます。食べてください。どこを食べたか教えてくれれば、俺は後でそのページを読み返すから、ああこんなことがあったんだって分かるでしょ?」
母の記録ノートからヒントを得た。
記憶を食べてもらう。それだけだと先生は多分食べない。俺の記憶を奪いたくないからだ。けれど、先生のためなら穴あきのノートになりたい。そしてノートは実際には穴あきにはならない。奪われた記憶はノートを見て補完すれば良い。
「どうですか? よくないですか?」
「どうって……。え? 何? どうって。いや、何言ってんの食べないよ?陽。僕は君のことは、食べない。そう言ったでしょ、前に」
「先生、やっぱり俺のことはどうしても食べてくれないの?」
と言うと、先生は体を離し、ギュッと固く口を結んだ。
「なんかその言い方、やだ。なんか、えろいこと言ってるみたいで」
「いやエロくはないですけど」
先生は、洸太郎の時からずっと記憶を食べていない。そんな自分を嫌悪しているからだ。でも我慢しているだけで絶対に食べたいはず。何より俺が食べて欲しい。先生に美味しいご飯を作る時みたいに、記憶を食べてもらうことは俺にとって嬉しいことなのだ。
「先生が嫌だって言っても、俺はノート書きますからね。あとで食べたいって言っても、あげませんからね!」
と言うと、
「えー、いじわるだぁ」
とふざけて泣き真似をした。
「食べたいと思えるように頑張って書きます。ちゃんと食べてくださいね。好き嫌いしないで。それで、……俺と一緒におじいちゃんになってください」
「ぷ、」
「プロポーズです。はい。指輪はまだ買えませんけど。金なくて」
籍は入れられないし、誰かに祝ってもらうこともない。けれど俺は先生さえ喜んでくれたらそれでいい。
先生は了承してくれなかったが、俺は構わずノートを作り始めた。
朝、夜、そのノートを台所のテーブルに広げ、いつでも読める状態にしておく。先生は、美味しい記憶は匂うと言っていた。これはメニューのようなものだ。食欲を刺激するための工夫。
けれど先生は、ちらっとも見ない。目もくれない。それでも俺は諦めずにノートを書いた。一ヶ月、頑張った。どうすれば食べてくれるだろう。何を書いたら、先生は食べたいと思ってくれるだろう。食べたい、ではない、食べずにはいられない話を書かなければ。
ネットで調べた。導入が大事らしい。ストーリーが大事らしい。悩んで乗り越えるとカタルシスがあるらしい。いや俺は別に小説を書きたいわけじゃない。などと思いながらも、読んでくれるためならと拙い工夫をあれこれつめこんだ。小説家に読ませるんだから、推敲はし過ぎることはない。
ある日風呂から上がると、先に風呂を済ませた先生が台所の椅子に座り、そのノートを読んでいた。初めての事だった。
「読みました?」
「……うん。ここだけ」
いつか、日鞠と喧嘩した日。夕紀と散歩して駄菓子屋に行き、その後公園に行った。公園で夕紀は遊ばず、他所の家の父親の姿を見ていた。他愛のない会話をし、ラムネを一粒くれた。その日の事だ。
「夕紀ちゃん、また遊びに来てくれないかな」
先生は少し寂しそうにして、そのノートを閉じた。
食べてはくれなかったけど、前進した。
俺は出来事だけでなく、その時いかに自分の中から温かい気持ちが湧いたか、どれだけ先生や家族が大事か、つまり「愛喰い」のエサとして「愛」を多くノートに書いた。
中学生時代、新聞配達は辛いけど、仕事終わりに朝日が昇る空の様子が綺麗だったこと。
高校になって、先生の家に初めてきた時。慣れない仕事を優しく見守ってくれた眼差し。水仕事で指が裂けた時、先生がつけてくれた軟膏。絆創膏。
また「愛」は、楽しい出来事だけに含まれていたわけではなかった。父を亡くした時のこと。その時の母。身重だった。そして生まれた夕紀が、どれだけ家族にとって希望だったか。
照が同級生と喧嘩したので、父親がわりに学校に出向いた時のこと。最後まで照は理由は言わなかったが、後に家族を執拗に馬鹿にされた事が原因だったと分かった。
書くことは山ほどあった。
愛喰いの大好物の、愛。そんなものは書いても書いても書ききれないほどに俺の人生の中に溢れていると分かった。自分で書いて泣けた。苦労は多いけれど、幸せだと思った。
愛は止まらない。先生が、美味しいと言って食べてくれたご飯。失敗して慰めてくれた事。二階で篭って仕事をしている時の、階段まで伝わってくる緊迫感。それが終わった時の可愛らしさ。その手首を捕まえた事。捕まえたあと、何も出来ずに固まってしまった自分。特別ドラマなど起きないただの毎日の積み重ねを、俺がどれだけ愛おしいと思っているか。
俺が、どれほど先生を好きか。どれほど、失いたくないと思っているか。記憶ノートだけれど、半分以上は先生への熱烈なラブレターだった。これで落ちないわけがないだろ、伝われ、伝われ、という思いで懸命に書き連ねた。
そんなページ達を先生は、読んだのだろうが、やはりぱたん、とノートを閉じて、とうとうこんな事を言った。
「おもい……たべられない」
聞き間違いか?
重い?
俺の気持ちが重い?
先生は重いと言った?
言った。確かに聞こえた。
先生は、すたすた、とそのまま静かに二階へ上がろうとする。俺は大股で歩み寄って手首を強く掴んだ。引きずるようにして自分の部屋に連れて行き、そのまま押し倒してめちゃめちゃにキスを浴びせた。
下着に手を入れると反応があった。嬉しくなり、キスをしながらゆるゆると刺激すると先生はすぐに達した。
力が抜けた先生のシャツや下着を全部取り払い、自分も上を脱いだ。耳を噛むと、喉から掠れた声が上がった。そのまま首筋を辿ると、先生は小さく震えた。
先生と行為を最後まではまだしたことがない。触って触られて、出して出されて、そんな事ばかり積み重ねて、でもいつかは繋がりたいと思っていた。
それはいつかのために取っておこうと思っていた。何も解決してないのに体だけ繋がっても、現実逃避みたいで嫌だからだ。
いろんなことが片付いたら、優しく、優しく、包み込んで、たくさん愛したい。そう思っていた。
けど、もういい。
愛が重いなんて知ってる。その重いものを絶対に食べさせてやると思った。
「したいの、陽。しようか。いいよ」
先生は笑った。妖艶に。
泣いてもない。暴れもしない。全部俺を受け入れるみたいに笑っている。受け入れて欲しくてやった訳じゃない……。
「先生。ごめんなさい」
「なんで? いいよ」
「先生が望まないならやらない」
「え、ちがうよ。したいよ。しようよ」
先生の乱れた服を元に戻して、自分も着直す。
「でも俺の記憶は食べてくれない」
そうだ。先生が望まないならいくら気持ちを込めてノートに書き綴っても意味がない。
少し気持ちが落ち着いた頃、先生が訊いた。
「君の記憶を食べないから、怒ってるの?」
俺はすぐに答えられなかった。
そうなのだろうか。俺の気持ちを、愛だと思って書いたものを、先生が受け取らないから?
「違う。違います、多分」
「じゃ、何?」
この苛立ちを、俺は何度も経験して知っているはずだ。届かない気持ち。そうだ、何度言っても、どれだけ工夫しても、気を揉んでも、あいつら平気なんだ。伊達に五人兄弟の長男を長年やってない。日鞠とどれだけ喧嘩してきたと思ってる。照をどれだけ泣かせてきたと思ってる。日和と夕紀を、何回叱ったと思ってる。何回も繰り返して、反省して、自己嫌悪に陥って。
「一つは自己満足。それは認めます。それで気持ちをぶつけた。先生に。乱暴なことしてごめんなさい」
頭を下げる。自分の気持ちを受け入れてもらえないから。その苛立ちをぶつけたのは自分が悪い。危うく犯罪者になるところだった。先生はそれでもやっぱり笑っていて、しようよ、していいよ、したいよ、などと軽い口調で言っている。
もう一つは、
「本気で心配したから」
「心配?」
断られても、差し出す。そうでなければ長男は務まらない。父親代わりにはなれない。少しうざがられた程度でひくわけにはいかないのだ。
ついてくんなと言われても、妹に夜道はなるべく歩かせない。細かいこと言うなと言われても、年頃の妹と再婚相手のおじさんの同居は認めない。うるさいと言われても、宿題はしたか、明日の用意はしたか、忘れ物はないか、寒くないか、お前それ鼻水出てるぞ風邪じゃないのか体温計もってこい。……腹は減ってないのか。
「先生」
「ん?」
「俺の人生って、いっつも先生になんか食べさせてるんですよ。記憶だろうと飯だろうと」
「そうだね。なんかごめんね」
いらないと言われても食べさせる。
それは、先生に対してだって同じだ。
いらないと言われても、記憶を、愛を。
だってそれが俺だからからだ。どうあっても、食べさせたいのだ。多分、もうずっとそうして生きてきた。生まれる前から、先生に食べさせるために生きていた。
だったら。
「もし、この人生で先生がずっと『陽の記憶は食べません』と言ったとして、それで来世の俺は諦めるかな」
先生は目を開いて黙った。眉が少し寄る。……また泣いた。俺が来世なんて言ったからだ。だけど先生だって矛盾している。僕を置いていっただの、先に死なれただのと泣くくせに、だったら今回はと記憶を差し出しても「いやそれは」と断る。
でもそれを責めたいわけじゃない。諦めさせたいのだ。もういい加減、堪忍しろといいたい。
「どう思う? 俺は、多分また先生のところに来ると思う。何回生まれ変わっても先生に食べさせにくると思う。だってそのために生まれたから。そのための輪廻だから。先生はどう思う? この人生の俺が死んだら、また来ると思う? それとももう二度と現れないと思う?」
「……え、そん、そんなの、わかんない。ねえ陽、死ぬとか嫌だよやめてよ」
「わかんなく無いよね。先生、俺のこと待つよね。早く生まれてこい、って。陽の生まれ変わりを、待つよね、先生。待たないわけがないよ」
「何で、そんなこと言えるの?」
「だって先生もそのために生まれたから」
暴論だ。やけくそだ。めちゃくちゃだ。
だけどそうでもしないと先生は食べない。食べないと俺が先に死ぬ。そしたらまた泣く。だから理屈はどうでもいい。
「先生は俺の愛を食べるために生まれたんだよ。朝太の体を借りて」
先生はもう我慢ができないと言うように両手で顔を覆って、震えて、喉の辺りで声を飲み込んで、うぐ、えぐ、と唸っている。
「……聞いてください。俺はこの後ジジイになって死にます。それからまた、生まれて先生の目の前に現れる。んでまた俺は、先生にせっせとメシ作って、記憶を食べさせなきゃならなくなります。だったら今そうしてもいいんじゃないですか? 何もわざわざ、間に一回、一人っきりの何十年を挟まなくたって、これで、今回で、松永陽のところで食べ終わって、人生終わっとけばよくないですか」
手を取る。目が赤い。涙のせいだ。
違う。愛喰いの目だ。でも目尻まで赤いのは、やっぱり泣き疲れたせいだろう。皮膚の薄いまぶた、そして目尻にキスをする。涙の道を通って、唇にも触れる。顔を離すと、先生の目がいよいよ鈍く光った。その虹彩は赤黒く彩られ、鈍い光で俺を見た。夕焼けを覗き込むと、指が見えた。俺の指だ。それに触れるのは先生。優しく包んで、荒れた手に軟膏を塗ってくれた。初めて先生の家に来た日……。
すうっと頭の中から一筋の光が絡め取られ吸い取られる感覚があった。その時先生は幸福そうに目を閉じて、確かに喉をごくり、と嚥下させた。
「先生、さっき、乱暴なことしてごめんね」
「いいよ。でも、本当に、してもいいんだよ。僕乱暴なの好きだよ」
ええ、と前のめりになりそうになったが、それはそのうち、と答える。
「でもさ、何か怒るきっかけがあったんだよね」
「……先生が悪いわけじゃない。けど、俺の愛が重いって言うから」
「え? そんなこと言った? いつ?」
「こんな重いの食べられないって。ノートを読んだあと」
「えー? あ、違うよ、違う違う! 誤解! 僕が言ったのは、『こんな想い』だよ」
「……ん?」
「……こんな大事な陽の『想い』食べられない。そう言ったんだよ」
「え……そ、うすか」
そんな俺を先生は優しく抱きしめた。
「僕、陽のノート全部読んだよ。小説家みたいだね」
先生はとん、とん、と背中を叩いてあやすようにした。
「それに陽の考え方も分かる。だから、何か食べてみてもいいかなって思ったのはほんと。けど、実際読んだらさ、何て言うか、思ったより凄いことかいてある。全部大事すぎて、綺麗すぎて……。陽さ、文章うまいね。だから、こんな綺麗な思い出、何一つ陽から奪っちゃいけない気がして。誤解させてごめんね。ちゃんと読んだよ。僕のために書いたんだもんね。ありがとうね陽。大好きだよ」
「先生」
俺は顔をあげて、先生を見た。目を見た。
「俺、嫌ですよ。このまんま俺だけ年取ってくの。先生は今のところ三十代に見えるけど、俺が三十に追いつくの、まだまだ先だと思ってません?」
と言うと、先生は口を閉じて、う、と唸った。
「うん。想像つかない。陽が三十になるところが」
「人間ってすぐ年とりますよ? もう抱っこ拒否ですよ、絵本じゃなくて漫画ですよ。おもちゃじゃなくてゲームソフトですよ。本当にいいんですか」
「夕紀ちゃんに振られた?」
ふふふと先生は笑う。
「振られてないです。いや、そんなのはいいんです、先生。ねえ、真面目な話ですよ。俺だけ先にじじいになっていいんですか?」
「陽が?」
「冗談じゃなく本当にそうなりますよ、今のまま食べないでいると。そうだ先生マイナンバーカード作りました? もうこれ以上市役所は騙せませんよ? 俺死んだあと、どうすんですか? 五十年百年また待つんですか? 無理でしょそんな……」
そこまで言ったところで、先生はふるふると唇を震わせてわっと泣き出してしまった。そして胸の中に飛び込んできた。
「嫌だ。また一人になるのは嫌だよう。どこにも行かないで。一人でおじいちゃんにならないで。陽が好き。好き。どこにも行かないで。ずっと僕と一緒にいてよう」
何だか小さい子供みたいだ。
「俺も。俺もですよ。先生が好きです。だから俺の記憶食べて、一緒に年取りましょう?ね?」
先生は、うん、うん、ありがとう、ありがとう、と言いながら、長い間静かに泣いていた。
◇
「……と、言いながら、長い間泣いていた。うん。いい話だな。」
「いつの読んでんの? 一月? 初めてのえっちのやつ読んでる」
俺が自分の分の桜餅を食べ終わり、お茶のおかわりをしていると、恋人みたいだと照れて逃げたはずの先生がまた戻ってきた。
「これもいつか食べてくださいね」
とノートを閉じた。
そのうちね、と先生は笑った。
先生はあれから、時々ノートから、食べたい記憶を選んで食べてくれるようになった。食べた所には日付を書く。俺のノートはまだまだ余白があり、先生が食べていないページもたくさん残っている。けれど先生はどれを食べるかということも、一つ一つじっくり考えて、悩んで悩んで、最後に小さく遠慮がちに「これにする」と呟くのだ。
先生はそうやって食べるうち、ずいぶん人間らしくなってきた。風邪をひいてしまうし、褒めると照れる。おじいちゃんになりたくて始めたことなのに、年寄り扱いするなと怒る。視力が低下し、眼鏡屋に行こうというと、老眼鏡ではないと言い張る。前より感情的で頑固で我儘になった。
俺はそんな先生を前よりももっともっと好きになった。好きになるから、なればなるほどノートのページは増えていく。増えると先生は食べてくれる。そんな風に循環しながら、俺たちは尊い月日を人らしく歳を重ねて生きていった。
◇
そうして十年が経ち、二十年が経った。
夕紀が結婚し、先生が泣いた。先生が洸太郎を失い孤独だった時、そばに寄り添ってくれたのが夕紀。親のような気持ちでいるという。
二十五年経った頃、母が亡くなった。
俺と先生は東京を離れて海の見える街に引っ越した。二人で喫茶店を開き、早朝には朝靄のかかる街を二人手を繋いで散歩し、昼は馴染みのお客さんと話し、軽食を提供し、穏やかに毎日を過ごした。
日鞠は子供を連れて遊びに来た。日和は海外で暮らしている。照は離婚して項垂れている。夕紀が大きなお腹を見せに来た。無理をするなと伝えた。
さらに時間が過ぎた。
先生は俺と同じく時間を重ね、その頃には同じ年齢に見えた。けれど先生だけは歳を取っても美しくて、美しいまま、ずっと憧れていた「おじいさん」になれた。
そしてやがて、眠るようにベッドで息を引き取った。俺はやっと、先生の願いを叶えてあげられた。先生を一人にしなかった。先生を見送る事ができて、本当に良かった。
先生は今際の際に
「陽、ありがとう。一人にしてごめんね」
といつものように優しく笑った。
それから、ああ、やっと……、と呟いた。
「やっと、見送られる幸せが分かったよ……。僕は幸せだ。幸せだ」
そして目を閉じて、静かにこの世を去った。
◇
僕は借りたものを返すために歩いていた。
懐かしい匂いがする。家畜と肥料の臭い。土から立ち上る雨上がりの湿気の匂い。
ここを曲がると田んぼがある。田んぼを上がっていくと、小さな小屋がある。あそこに、僕は返しに行かないといけない。
立ち止まって、見渡してみる。見渡すまでもないその小さな物置のような家を。かつて朝太が一人命を燃やした場所。
こんな可愛い小屋だったろうか。こんなにささやかで、愛おしい場所だったろうか。もっと辛くて苦しくて、冷たくて、寂しい場所ではなかったか。あの頃の悲惨な思いは露と消え、ただ人の営みの愛おしさだけを残している。
入ると、朝太が、少年の姿のままそこに座っていた。あの頃の不健康な様子はない。綺麗で清潔な服を身につけ、ふっくらと肉付きがよく、子供らしい丸みのある頬をしている。手足は健康に伸び、真っ赤な髪は艶があり、目には光が灯っている。
「返しに来たよ」
そう言うと、朝太はニコッ! と可愛らしく笑った。そして、僕に抱きついた。
「君に、体を返すよ。長い間、借りっぱなしだった。君のおかげで、愛いっぱいのいい人生を経験できた。空っぽの僕は人の愛を知りたかった。愛を知るために愛喰いになった。僕はもう愛を知った。十分愛を食べた。君のおかげだ。ありがとう」
そう言うと、朝太は無言で、部屋の奥を指した。黒髪の、暗い色の着物の男は、かつて僕を朝太に引き合わせ、体を引き継ぐ時に共にいた男だ。
その顔に見覚えがある。
僕を、最期まで見守ってくれた人。見送ってくれた人。とうとう僕を、最期まで一人にしなかった、ただ一人の人。僕が求めてやまなかった、僕の最愛の人。こんな所にいた。いたの。ずっと? 最初から?
「なあんだ。最初から僕たち一緒にいたんだね。寂しいことなんかなんにもなかったのに。遠回りしちゃった」
「先生、おかえり。待ってたよ」
「待たせてごめんね」
「来てくれるって信じてた。そろそろ、行こうか」
僕たちは手を取って、その小屋を後にした。
小屋を出ると、ふわりと体が浮き上がった。上から見ると、山を降りたすぐ近くに鶴丸の屋敷があった。その上を通る。鶴丸が生まれた。僕が喜んでいる。僕たちは浮かびながら、次の景色へ移った。
朝太が小屋で、直助と薬をよりわけながら笑っている。
様々な、僕たちの違う姿が流れていく。
あれは洸太郎。
一人だ。僕の絵を描いている。あの絵は見た事がない。いや、……ある。あれは、あの本の図版に載せた油絵だ。赤髪の愛喰いが柳の下で男に手を差し伸べる。あれは、洸太郎の作品だったんだ。
やがて洸太郎は震災に見舞われ、頭に怪我をして、近くにいた画家の友人に看取られて亡くなった。逝く時、一人じゃなかった。よかった。
あそこにいるのは陽のお父さん。悔いのない人生だと、浮かんでいる。こんにちは。バイバイ。
陽がいる。生まれたばかりの夕紀ちゃんを抱いている。可愛い。妹を愛おしいと思う、陽のその顔が可愛い。それから、僕と出会った。たくさんの愛を注いでくれた。僕の恋人。
「先生」
僕の横で、陽が甘く呼びかける。
「俺は今ここにいますよ。あんな思い出じゃなくて。こっちを見て。俺を見てください」
その笑った顔が大好きだ。
僕達は、空の上で世界一幸せなキスをした。
◇
「……キスをした。』と。」
「どうですか? その結末」
「僕を勝手に殺さないでくれよ。でも悪くない」
と笑う先生の頭に、白いものが混じっている。その眼鏡は正真正銘の老眼鏡だ。
俺は飲み終わったコーヒーをシンクに片付けると、ハンガーからコートを下ろして肩に引っ掛けた。
「いってらっしゃい陽。帰りは?」
「二次会には行かないつもりだから」
「そうなの? ちゃんと人脈開げたほうがいいよ」
「先生だって、ぼっちだったじゃん」
「僕は売れっ子だからいいの。君はまだまだ新人でしょ。頭下げて売り込んでこい!」
「へぇい」
現代ファンタジー新人賞の映えある大賞を、五回目の応募でやっと勝ち取った俺は、家事代行の会社を円満退社し、相変わらず先生の家の家事をし、先生からバイト料をもらいながら、作家稼業と家事代行を続けていくことになった。
いくら書いても尽きることの無い思い出。買い足したノートのページはまだまだ余白がある。先生は勿体無いと言ってあまり食べない。少食になった気がする。
だから余ったページに俺は未来を描いた。
あんな未来になりたくて、俺は今日も明日も、全力で先生のために生きていく。
〈了〉




