6 隠しファイル
1.
夢を見た。
寝ているところに狐が現れた。赤茶色の毛並みが綺麗で……。俺の鼻先をくすぐって。それで……。
はっと目が覚めて、自分の家の布団の上で、それですぐ、俺はノートを開いてペンを走らせた。
休みの日は最近ずっと、朝の仕事が終わるとそのまま留まって本を読んでいる。勿論、妖怪関連の本と、先生の作品。それから昼ごはんも用意して、用事がなければまた先生と一緒に食べる。
「わぁ、チャーハン! と餃子! ンハァ〜ッ! すきっ腹にはたまらんねぇ〜」
先生はその嗅覚で、ごはんだよと声をかけなくても下に降りてくる。
「餃子は冷凍。わかめスープつきです。」
ワーィと軽くスキップして、先生は食器の準備をする。
レンゲにこんもりすくった炒飯を、一口頬張って、口の中いっぱいにして食べる先生を見て、つい俺は口を滑らせた。
「先生って悩みなさそうですね」
「え」
俺はなんて事を。
「あ、じゃなくて。人間生きてりゃ悩みのない人はいないって分かってますけど……なんかこう、先生っていつも幸せそうにご飯食べるから……」
先生はレンゲをお皿に一度置いて、口の中のものをごくん、と飲み込んだ。目が優しく光った気がした。
「間違ってないよ。だって美味しくて僕は幸せだもの。君から見て僕がすごく毎日幸せそうに見えるのは、君のおかげだよ。ありがとうね」
そう言った先生はふんわりと暖かく笑う。
体が熱くなった。顔が赤くなったかもしれない。どうしてこの人は、恥ずかしい事をそのまま言葉にするんだろう。作家だから、相手を喜ばす言葉がすらすらと出てくるんだろうか。
違うな、これはこの人の本心に違いない。この人は心の奥からそう思ってくれている。俺には分かる。
「先生あの、」
わかめスープを飲んで、ふう、と息を吐いた先生に俺は聞いた。
「すごく、すごく、こんなこと聞いて、先生の事を馬鹿にしてるんじゃないかとか、作家って仕事を舐めてるんじゃないかとか、そう思うかもしれないんですけど、あの、相談が……というか、聞きたいことがあって」
「え、なにどうしたの。そんな事思わないよ、なになに」
「これ……」
ルーズリーフの端っこをホチキスで止めた、雑なものだ。カバンから出してテーブルに伏せて置く。
「何これ、え、何? 陽、何か書いたの?」
「……あの、先生みたいな怖い話じゃないけど、なんか変な話を書いてみました。恥ずかしいんで、読むなら俺がいないところで読んで下さい! 無理なら読まなくていいです!」
「えー!!」
早く読みたい、と言って先生はチャーハンと餃子をがつがつかっこんで、スープで流し込んだ。お皿をシンクに戻し、水で浸す。律儀だ。
「ごちそうさま! 二階で読んでくるねッ!」
バタバタ、と駆け上がり二階の仕事部屋のドアが閉まる音がする。
今日の朝、目が覚めた時に、ふわっと何かの光景が頭に入ってきて、とても素敵だったので書き留めたものだ。先生は小説と言ってくれたけど、そんな大した者じゃない。凄く短いし、自分でもこれが何か分からない。でもひとつの形になったから、まずは誰かに見て欲しかった。
◇
『きつね』 松永 陽
俺は死にかけの子供だ。
兄弟が上にたくさんいて、ご飯が足りない。
お母さんは俺のことが嫌いで、ちゃんと食べさせてくれない。お腹が空いた。
ある日、お母さんが兄弟を連れて出て行った。
一人寂しく暮らしていると、どこかからきつねが現れて、食べ物を持ってきてくれた。いちじく、びわ、ぶどう、干し柿、くり。美味しく食べた。
きつねは俺が病気だと知って、お世話をしてくれた。
食べ物も毎日持ってきてくれた。
俺はきつねと友達になった。初めての友達だったから凄く嬉しかった。もうすぐ病気で死ぬけど、とても幸せだった。
とうとう死ぬなと思ったある日、俺はきつねに聞いた。
「何でそんなに親切にしてくれるの」
「お前が好きだからだ。だからたくさん世話してやる。その代わり、お前が死んだらお前の体を食べていいかい。おれもお腹が空いているんだ」
俺はいいよと言った。
もうすぐ死ぬけど、きつねに食べられるんならいい。
このまま腐って汚くなっていくより、きつねのご飯になってあげたい。きつねの中で俺はその後もきつねと一緒だから、寂しくないし。
ある日俺はとうとう死んだ。
きつねは泣きながら、俺をがぶりとひとのみにした。
2.
先生は随分長い間二階にこもった。俺はその間、買い出しに行ったり普段出来ない大きな洗濯をしたり、庭の掃き掃除をした。とうとう日が暮れかけても降りてこない。
ようやく階段を降りてくる足音がして、先生がキッチンを覗きにくる。
「陽ちょっとおいで」
予想と違って先生の声が硬い。
リビングのソファに向かいあってかける。
先生は手にさっきのルーズリーフと、ノートパソコンを持っていた。無言だ。読んでくれたんだよな。それで、そのことについて、俺はここに座らせられてんだよな。先生、の顔を覗き見る。全然笑ってない。
忙しかったのに、時間を取らせて、先生の原稿が進まなかったのかな。謝んなきゃ。
「あの、失礼な真似をして申し訳ありませんでした。拙い駄文……」
「ちょっと黙っててね」
「はい」
怖い。『愛喰』を渡された時みたいに、背中がひんやりとする。
「これだけど、」
と先生はルーズリーフをこちらへ返してくる。
「君が書いたんだよね」
「はい」
「何を参考にした? 僕の本? 妖怪の資料?」
「えっ」
怒ってる? つまらないものを読ませたから? 確かに先生の小説には多分影響を受けてるはずだ。アイデアを盗んだりはしてないけど、文体が無意識に先生に寄ったのかもしれない。だから怒らせてしまったのか?
「答えて。これは何を元に書いたの?」
「……怒ってますか。ごめんなさい」
「謝ってって言ってるんじゃないの。分かる? どうしてこれが書けたの?」
少しだけ声のトーンが上がる。
「どうしてって」
困った。先生は何が聞きたいんだろう。
朝起きて、イメージが頭の中に流れてきたんだ。それだけだ。よく知らないけどそれは、作家ならみんな経験することなんじゃないのか。
「あの、頭の中に、こう、わーって、話が流れてきて。キツネが出てきて、死にかけの子供がいて、なんやかんやで仲良くなって、死ぬ、みたいな。ただそれだけの、……映像?でもないですけど、うまく言えません」
先生は怒っているのではなさそうだ。眉間に少し皺がよって、思い詰めたようにきゅっと口を結んでいるけど、それはどちらかというと泣くのを我慢しているように見えた。理由は分からないけど、俺のこの駄文が先生をそうさせたので間違いないだろう。
「自分の頭の中から、湧いてきたんだね。間違いないね」
「はい、それは間違いなくそうです。あの先生、俺の変な文章読んで下さってありがとうございました。もう、あの。書きませんから。今後先生に迷惑かけませんから。不愉快な思いをさせてごめんなさい」
「何言ってるの違うんだよ、もっと書いて欲しいんだ」
先生は手元の小さめのノートパソコンを俺に差し出した。
「使ってよこれ。もう僕は使ってないけど、小説書くソフトはまだ入ってる。さっき確認したらちゃんと起動した。少し古いけど。まだきっと、君は書けると思う。他にも書いて。読ませて」
「え?」
「素敵な話だった」
と先生はルーズリーフをもう一度手にとった。
そして、
「この少年は、君なんだ」
先生はそう不思議な事を呟いた。
翌週、新しいイメージが、今度は二つ湧いた。
それを簡単なあらすじにしてメモする。
ファイル名をつけて保存する。
【あらすじ_召使い.txt】
……召使いと冷たい男の話
【あらすじ_医者.txt】
……医者が毒を飲ませる話
先生に借りたパソコンはほとんど何も入ってないようだだった。ネットにも繋がってない。ただ文章を打つためだけにしか使えない。何かの面白そうなファイルも動画も入ってない。先生の弱みになるようないかがわしいサイトの履歴や画像もない。ぬかりないな。その痕跡を消すために、あのあと二階に篭っていたのではないかと思うほどだ。
ふと、画面の右下に、見慣れないドキュメントフォルダだがあった。
【temp_ka94】
添付。KAは、「カ」? そして、94。カクシ。……隠し。隠しファイル。
俺は何故かガッツポーズをしてしまった。全く隠せてませんが、先生。
先生は二階で作業している。俺は仕事を終わらせて、リビングで好きな時間を過ごさせてもらっている。足音が聞こえたら、閉じればいい。見てしまえ。
俺はそのフォルダを開いた。
中には三つの文書ファイルがあった。
なんだ、エロ系じゃないのか。と肩を落とすが、もし小説の資料か何かだったらそれそれで見てみたい。消し忘れたゴミかな。書きかけのやつかな。アイデアノートみたいなものかな。どんなものでも、先生がどんな風に小説を作っているのかそのプロセスを見てみたい。
三つのファイル名には人の名前が付けられていた。
【朝太の場合】
【鶴丸の場合】
【直助の場合】
歴史モノ? いつごろ作ったやつだろう。こんな本出てたかな。それぞれの保存日時を確認すると、日付は十年前になっていた。
十年?……そんな前。よく残ってたな。
俺は、カーソルを、保存順に読もうと、まずは「朝太」に合わせて、クリックした。
次いで、「鶴丸」「直助」の話も続け様に読んでいった。
3.
拭っても拭っても、よく分からない感情が湧いてきて、涙が止まらなくなってしまった。どうしても今すぐ先生に会いたくなった。
俺は目をこすって、もう一度、自分で作ったメモを開いた。さっき保存したばかりの、自分で書いた話のあらすじ。
「『召使い あらすじ』 松永 陽
あるところに心の冷たい男がいた。お母さんがいなくなっても、お父さんが死んでも、泣かない男だった。
娘が死んだのにも気がつかない。それを見た奥さんはおかしいと思って夜中起きていた。男は、召使の男を殺して、翌朝起きると召使が居ないと泣いていた」
「『医者 あらすじ』 松永 陽
あるところに医者がいた。医者は病弱な娘を好きになった。しかしその娘は、結婚相手が決まっていたから、嫉妬した。家庭を壊そうと、娘に薬だと言って毒を飲ませた。飲ませても飲ませても娘は死なない。おかしいなと思った頃、やっと後悔した。
神様にお祈りをした。あの娘に飲ませた毒を消してください。神様は、ならばお前が飲めとその薬を突き返してきた。その男も嫁を娶って娘が生まれた。指が一本ずつ多かった」
カチ、とファイルを閉じる。
「きつね」は「朝太」
「召使い」は「鶴丸」
「医者」は「直助」
俺の頭に浮かんだ適当なあらすじが、先生が書いたものにまるきりリンクしている。だから先生はああやって、どうやって書いたと言ったんだ。
俺にも分からない。なんでこんなものを書いたんだろう。どうして書けたんだろう。
どう言うことかわからない。ただ胸が苦しい。
先生はどこ? まだ仕事?
ここにいて欲しい。「先生、助けて」と独り言のつもりで呟いた。
すると、「はい。助けますよ」とリビングの入り口から先生の声が聞こえたので驚いた。
先生は俺の顔を見て、眉をハの字に下げて、笑った。
「ねえ、汚い。ドゥルドゥルだよ」
そしてウェットティッシュとタオルを持ってきて、涙と鼻水で汚くなった俺の顔を綺麗にしてくれた。
先生は、いつものようにソファの向かい側には座る事なく、俺の横にゆったりと座って、俺が開いているパソコン画面を覗き込んだ。先生の明るい髪色の頭からふんわりと、いい匂いがして、少し落ち着いた。そしたらまた涙がポロッと出てきた。それを袖で拭き取る。
「先生は赤く無いんですね、髪」
と言うと先生は、俺を見て、笑って、「僕も少しは老けたかな」と答えた。
「見たな? 僕の『隠しファイル』」
「はい。ごめんなさい」
「いいの。見て欲しくてわざと消さずに渡したんだから」
「そうだったんですか。……ふふ、」
「ん?」
「俺、てっきりエロ動画かと思って期待して開きましたよ」
「ブフッ、そうなの。ごめんね、つまんなくて」
二人で、わはは、と笑ったら、リビングに声がこだまして、それから、しん、と静まった。
「ね、こっちの『あらすじ』って?」
と先生が指をさす。
「きつね」を書いた後、また思い浮かんだイメージのメモだと言って、パソコンごと見せた。それに目を通した先生は少しの間じっと固まって、「あぁ、ここまで」と苦しそうにため息をついた。
先生は静かで細い呼吸を一つした。
「どうしようかな……」と言ったその声の終わりが震えている気がした。
「長くなるんだ」
と言ったきり黙り込んだ。
何分か、ずいぶん長い間に感じたけど、とにかくしばらく沈黙してから、唐突に明るく「一緒にお風呂入ろっか!」と言った。
「はぇ??」
と俺が変な声で返事をしたのも無理はないと思う。
沸かしてくるから、その間にお家に電話しなさい。そう言って先生はばたばたと廊下に行った。
先生は新品の下着とパジャマを出してくれて、俺が脱ぐのを躊躇っている間にサササッと男らしく脱いで、前も隠さず風呂場に颯爽と入って行った。
すげえや、と思って、俺はモタモタと脱いで、下着やなんかをどこに置けばいいか戸惑った。
「しつれいしまぁ〜す……」
おずおずと入ると、先生は既に湯船に浸かっていた。俺はどうにでもなれと、ざあざあとお湯をかけ、泡をつけて体を洗った。その頃には変な羞恥は少しマシになっていた。
「あち」
つま先を入れた時は少し熱かったが、じんわりと体が暖まり気持ちよかった。恥ずかしくないフリをしていたが、先生の顔はお湯に全身浸かるまで見られなかった。
湯船に入り、お湯をすくって顔にかける。そのまま前髪から後ろへ指で梳かして、ふぅ〜と長い息を吐くと、ようやく先生の顔を正面から見ることができた。
肩や首筋に水滴が付いて、少し頬が上気している。先生は濡れた髪を、俺と同じように前髪から後ろへ撫でつけて、形のいい額を出しているので少し新鮮だった。
優しい目をして俺を見ている。眉も鼻も輪郭に俺は改めて見惚れてしまった。
「先生の顔が整いすぎている」
「ええ? 何それ。」
ふふと笑う声が、風呂場に反響した。
「背中流しますよ」
緊張が少し解けたので、俺は先生の後ろに座って、泡をつけて洗った。
「痛くないですか」
「うん。気持ちいい」
右肩に手のひらの大きさくらいの少し色の違う皮膚があって、そこだけ他の皮膚より薄く剥がれたようになっている。
「先生ここ、怪我? 痛くないんですか」
「うん。やけど。燃えた木の破片が落ちてきて」
「……え、いつ?」
「地震の時」
「いつの?」
「関東大震災」
「先生何歳なの?」
「え、多分、三百か四百歳くらいかな」
「ははぁ」
何言ってんだろう俺たち。ばっかじゃないの。
「頭も洗いますね」
「いいのに」
「洗わせてくだせぇよ」
「その口調なに?」
「江戸っ子」
「そうなの」
先生の背中と頭を洗うと、前後を交代して、俺の頭を今度は先生が洗ってくれた。頭皮をゆっくり強めに触られると気持ちよくなって、ずっと触って欲しいと思った。
その後もう一度、二人でお湯に浸かる。
熱めのお湯だったが、少しだけぬるくなっている。
ゆったりした気持ちで目を瞑る。
ぽちゃん、という水滴の落ちる音。
――寒かろうにすまんな。
突如、知らない男の声が頭の中に響いたので、体がビクッと反応した。目を開く。
――生きていけます、大丈夫。
――広いお湯屋は気持ちがいいですね。
先生の声もした。目の前にいる。先生じゃない?
自分の顔が歪むのがわかる。何? 何これ? 顔を覆う。視界がにじみ、また涙が出てくる。
「思い出させてごめんね」
先生は、俺の頭をゆっくりと撫でた。
「思い出すって、何? 俺、先生とお風呂に行った事なんかない」
「あとでゆっくり話すから。今はね、あったまろう。あ、逆にのぼせちゃう? 出ようか」
風呂を出て、拭いて、着る。頭を拭いていると、先生がかして、といってタオルで柔らかく包んでくれた。
「二階に布団敷いたんだ」
先生はお茶のペットボトルを2本持って、俺と一緒に二階へ行った。仕事部屋の横の、先生の寝室。ここにも入ったことはない。
畳の部屋には布団が二組敷かれていて、その上に座った先生がおいでーと言うので、傍に行った。先生はドライヤーを当ててくれて、さらさらとこめかみや後頭部を撫でながら、髪を乾かしてくれた。熱風が顔の周りで吹き荒れて、内心、わー、となったが、先生の指や手のひらが心地よかった。
俺は喋らなかった。
髪が乾いて、先生が終わったよ、と言うので俺は寝転がるように先生に抱きついた。子供がするようにもうずっとこうして甘えたかったし、甘えさせてくれると分かっていた。
先生の胸の中で丸くなっていると、先生はポンポンと背中を軽く叩いたり、こすったり撫でたりしてくれた。知ってる。分かってる。俺はこの人が好きだしこの人も俺が好きだ。
それが分かると、それだけでとりあえずこわばった力が抜けて、落ち着けた。
「先生」
「はい」
「眠いです、俺」
「はは、そうだね、寝る?」
「でも、話……聞きたい……。起こしてください。1時間だけ、寝ます」
「わかったよ」
ずっとずっとこの人のことが好きだった。
でも、ずっとずっと、本当に長い間忘れていた。
「ごめんね」
耳元で、心地よい先生の声を聞いて、俺は深い眠りの中に落ちた。俺のほうこそ、と思った。
◇
「直助さん」
目が覚めると朝太がおれを覗き込んでいた。
「ん、朝太、おはよう。はええな」
「今日天気がいいんで、きっとたくさん人が来ますよ」
「おお、そうか」
体を起こすと、確かに空が晴れている。
「今日も売るか……、ヴン?」
喉が痛い。
「風邪かな。う、さむっ。な、寒くないか?」
「いえ、今日はあったかいですけど……。ちょっと、診せてください、熱出たんじゃないですか」
朝太はそう言って俺の額に手を当てた。すっと少し楽になるが、言われてみれば少し頭がふらつく。
「熱、これ、だめです直助さん。寝てないと。薬売りに行くの今日はやめて、休みましょう」
水持ってきますね、と朝太は部屋を出た。
あれぇ、っかしいな。部屋がぐるぐる回る。ヘナヘナ、と俺は布団に逆戻りした。
「大丈夫ですか」
朝太が水差しから水を飲ませてくれる。
「悪いねえ」
ぐらぐら、わんわん、と頭の中を何かが廻っている。
「疲れたんですかね。無理しないでください」
辛そうに眉をぎゅっと寄せてる朝太。そんな哀しそうにしねえでくれよ、たかだか風邪で。
朝太はあれこれと薬を出して、熱冷ましと節々の痛みに効く薬をかいがいしく飲ませてくれた。それから濡らした手拭いを額に置いてくれた。
「手足が痛みますか」
と、手首から腕から、足首、ふくらはぎまで摩ってくれるので、薬と合わせて随分と痛みがマシになった。
「いいよ、ありがとう朝太、大丈夫」
まるで殿様みたいじゃねえか。いい気分だ。
朝太といると、辛い気持ちが全部無くなる気がする。
朝太といると、心があったかくて、嬉しくなる。
幸せになる。ああ、分かった。
「朝太」
「なんですか。」
「おれお前が好きなんだわ」
◇
頬杖から顎が落ちて、私は目が覚めた。
陽の寝顔を見ながらほんの数分、うとうとしていたらしい。
陽。直助。……鶴丸。
結局直助は、その後あっけなく命を落としてしまった。今で言うインフルエンザウィルスか何かだろうか。最期はうわごとばかりで可哀想だった。何とかしてやりたく、なにより再び一人置いていかれる恐怖から必死で看病したが、直助の命は取り戻せなかった。
何度もこの身を呪った。彼でしか満たせないこの空腹。一人、目的もなく放り出されて、何のために生きていけばいいか分からない。死なないのだから、どんな風にだって堕落できる。してやろうか。
そんな私を救ったのは直助の記憶だ。彼の記憶を食べた事で、彼の心根の真っすぐさが私の中に息づいた。そのおかげで、馬鹿げた発想で修羅に身を堕とすことはせずに済んだ。私は直助からその大きな心ごと多くのものを貰い、生かしてもらった。だから、彼のように捻くれずに、世を呪わずに生きていかなければならない。それが私の生きる縁だった。
私は直助の記憶と共にしばらくずっと生きていた。直助がもしこれを聞いたら馬鹿だと呆れるくらい、直助から「摂取した記憶」を、何度も何度も繰り返しなぞり、その面影を抱いて、何千何万の夜を一人過ごした。そうしなければ、永遠に近い時を一人で生きていくなど不可能だった。
神様がいるなら、どうしてこんな運命を私に授けたのか直接に問いただしたい。何故半永久的に生き続けなければならない運命の元に生まれたのか。何をしたらこの罰は終わるのか。
私は、自分が人の形をした人ではないものだ、と気がつくまでに時間がかかった。鶴丸を苦しめ、周りの人々が皆寿命を迎え、見送って、そこで初めて、「寿命」という人の世の理は、何故だか私には与えられていないのだと気がついて、そこで私は人ではないと理解した。
伝承上の他の妖怪だって自分は妖怪だと自覚していないと思う。これが普通で、こうして生きていくのが当たり前。人里に降りて、人の暮らしを見て知って、己の醜さと寂しさを知るまでは。
私だって、自分のことを普通の人間としか思えない。腹も立つし、喜びもする。悲しみも怒りもある。食事もするし、排泄もするし、性的機能もある。夜寝て朝起きる。人を好きになる。それらはほぼ人間と同じで、だからこそ人間社会の中で生きている。
なのに「記憶を食べる」「半永久的に生きる」と言う理不尽な課題を、その中で私一人だけが背負わされている。
なぜ、と強く問わずにはいられないだろう。訊かずにはいられないだろう。
私は、この苦しみの意味を知りたかった。そして、普通の人間として普通に生きて、愛する人と共に死にたい。
それを叶えてくれる唯一の存在は、今は陽という名でこの世に十七年前に生まれ、またこうして私の元に巡り合わせた。神のことは憎んでいるが、感謝もしている。
私の本能は彼の記憶を覗き込み、暴き、食べたいと望んでいる。しかしそれは、彼を不幸にするだろう。
陽の瞼が、ふつふつ、と揺れてゆっくりと目が開いた。
「陽さん」
「ん、朝太、おはよう。はええな」
ん?と言って陽は目をぱっちり開けた。
「先生いま俺変なこと言った?」
「そうかな?」
と言って、誤魔化した。
この陽と直助は同じ魂の持ち主だが、同じ人間ではない。私は果たして、まだ直助を愛しているのか、陽を陽として愛しているのか分からない。陽の中に直助がいるからこんなに執着してしまうのか。そんな事は、私の記憶を誰かに食べてもらい、頭の中を隅まで検分してみなければ分からないのだ。
「今、二十三時。このまま寝る? お話しする?」
眠たそうな陽の枕元に立肘をついて、その顔を見下ろした。
「はい、眠気取れました。聞けます」
分かったよ、と至近距離で笑うと、陽は照れて、布団の中に鼻先を潜らせた。
「じゃあ、話すね」
4.
天井の豆電球と枕元のライトだけつけると、先生はまた俺の枕元に、寝物語でもするように肘をついてそこに頭をのせた。
部屋が薄暗くなり、目が慣れるまでしばらくかかる。
「見える?」
と、先生が人差し指で自分の目を指差す。両目がほのかに赤く、じんわりと光っている。ああ、だから照明を落としてくれたのか。
輝く夕陽の色。あるいは、にじむ血の色。
あれ、瞳の中に何か見える。
人の想い、執念、愛や苦しみ、痛み。全てがない混ぜになり、掻き回され、赤い土がどろどろに溶かされて、一つの泥めかしい真紅になる。
それにしても綺麗だな……。そっちにいきたい。
「はい。おしまい。もう見ちゃだめ」
と言って、先生は何度か瞬きした。するとさっきの赤い光は消えてただの黒い目に戻った。
「陽、今のはちょっと危なかったよ。言わない僕が悪いんだけど。はい、おやくそくー。先生の目が光った時、いくら綺麗でも覗き込んじゃいけませーん」
と先生は手を少し挙げて、小学生の学級会みたいに喋った。
「ええーどうしてですか」
「食べられてしまうから」
先生の口調からふざけた色が急に消えた。
「はあ」
「ほんとだよ」
「ええ」
「本当なんだよ? 信じてないね?」
「信じてますよ。いや、信じて……んー、難しいです。食べるって何? 俺を? どうやって? 生で?」
「生って! 生肉のこと? なにそれ!」
笑ってから、うーん、と先生は立て肘をやめて、ごろんと仰向けになった。先生が少し遠ざかる。だから今度は俺が体を起こして肘で這って近づいて、先生の顔を覗き込んだ。
「食べるってなんですか?」
「記憶……。ほら、覗かない。だめだめ。しっしっ」
記憶?
「記憶を食べる?」
「まだ分かんない? 先生は『愛喰い』です」
「……はあ。ちょっと分かんないです」
うーん、どこから話したらいいかな、と先生はまた悩んでいる。
「先生」
はい、と返事を聞く前に、俺はえいっ、とその唇に触れた。
「えっ! あ、あ??」
「好きです先生。これでいい?」
「だめ!」
先生の顔が赤い、かもしれない。暗くてよく見えない。
「先生は?」
「え?」
「先生は俺のこと好き?」
沈黙がある。
身じろぎもしない。布団の擦れる音もしない。即答してくれると思ったのに。
すると暗闇の中で、ぐっと喉のなる音がした。それから先生は声を震わせた。
「何でそんな事」
何でって。
好きって言ってくれないのかな、俺のこと好きなはずなのにな、と思ってしばらくその先の言葉を待っていると、喉をしゃくりあげる音がした。俺は飛び起きて、部屋の電気をつけた。
「先生」
手で顔を覆って、布団の中で背中を丸めて泣く先生。
「あなたは、何でそんな酷い事聞けるんですか」
充血させた目でこちらを睨む先生は、ただの傷ついた大人だ。
でも酷いことって何?何でと言われても答えられない。俺のことを好きかって聞くのが、そんなに酷いかな。俺はその理屈がわからなかった。
しばらく俺は黙って、涙で濡れた顔を見た。俺は自分のことばかり考えていたけど、その時の先生はものすごく疲弊して、辛そうにしていた。
理屈がどうあれ先生は傷ついている。それは確かなようだ。その傷は、間違いなくたった今自分がつけたものなのだ。俺の存在が先生をこんなにも慟哭させている。そう気付いたら、抗いがたい甘やかな昂ぶりがじわじわと迫り上がってきて、俺はその歓喜を隠した。
先生は身を起こした。目が吊り上がっている。そして、あなたはどうせ死ねるからいいですよねと低く言った。
「先生、」
「私が一体、どれだけ長い間、あなたを待ってて、あなたを、思って、ひ、一人で……。だいたい何度も何度も、あなたが先に死ぬから! 私はいっつも置いてけぼりで、私だけがずっと哀しくて! あなただって、一度ッくらい私を見送ってくれてもいいでしょう。すぐ死ぬくせに、今じゃ子供のくせに、生意気言わないでください。それを、『俺の事好き?』って、馬鹿なんじゃないの。それに、私の言葉、さっきから何もちゃんと聞いてくれてない。信じてくれないなら話しません、いいです、もう。寝てください……。私は、私は……あなた以外誰を好きになれるって言うんですか。本当に本当に、ふざけないで。いい加減にしてほしい」
そう言って肩を振るわせておいおい泣くので、俺も泣きそうになって、でも、二人で泣いても仕方がないので我慢して、ごめんなさいと謝った。顔を覆ったままの先生を横から抱きしめて、先生先生、信じるから、ちゃんと聞くから教えてください、俺が悪かったから、大好きだから、ごめんなさい、と謝り続けた。
「俺も、いろんな事を受け止めるのがまだちょっと怖くて、変に茶化しちゃいました。ごめんなさい」
先生はずっと我慢してた、我慢してたといって泣いた。
豆電球を見上げる。ぼんやりとした光。先生の目の光となんとなく似ている。でも先生のはこんなに穏やかで安らかじゃない。先生の赤い眼は、もっと心がざわついて、何かが掻き乱されて、冷静でいられなくなる。
先生と俺は一つの布団に入った。俺がそう頼んだ。くっついて、頭を寄せて、二人並んで天井の豆電球を見上げた。
「私は、人の目を覗くとその人の記憶とか感情を奪えるんです。小さい時はお腹が減るといつもそうしてました」
先生は話し始めた。耳元で鳴る声は心地よい。
けれど、さっきから先生の口調がいつもと違う。丁寧な、ですます調になっているし、自分のことをいつも「僕」というのに、「私」と言い始めている。多分気がついてない。
「私は、あなたが書いたお話の『きつね』でした」
この人は一体、俺の知ってる先生なんだろうか。本当は誰なんだろう。全く俺の知らない人なんだろうか。そんな事ない、先生は先生のはずだ。ここにいるのは先生だ。俺は先生の腕に抱きついて、甘えるようにしがみついた。先生はそれをぽん、と軽く撫でた。
それからまた、人の記憶を食べる話をしてくれた。
——多分、江戸の中期だと思います。記憶の中の服装とか、髪型とかを見るとね、多分ですけど。
普通の人はそんな風に記憶を食べたりしないって知ったのは、あなたのお屋敷に拾われてからです。あなたが鶴丸って呼ばれるお武家のお坊ちゃんだった時。私はもともと、朝太という少年が子供の時に、病気で亡くなるその体を頂いて、人としてこの世に生まれたから、だから父も母もなく、人の営みが何一つ分からなかった。山で長い間暮らして、その内につまらなくって人里に降りて、ふらふら過ごしてたら、あなたのお父さんが暇なら薪割りでも手伝ってこいって裏口から入れてくれて。私はそこで初めて、人の生活を知ったんです。……あなたが、鶴丸が産まれるより少し前の事です。
夜は部屋の中で眠り、朝起きて食事を摂ること。そんなことも分かってなかったんですよ。毎日元気に仕事をして、また夜になると眠る事。それが人の生活だって事を知れたのは、あなたのお父さん、……鶴丸のお父さんのお情けのおかげです。
あなたが産まれた時、みんなすごく喜んでました。下働きだから、顔なんか見られないですけど、男子が生まれたってみんな大騒ぎして、その時は私たち下男にもご馳走が出たんですよ。
私はいつも遠くからあなたを見てました。
甘やかされたお坊ちゃんとして育ったあなたは、とっても毎日幸せそうで楽しそうでした。大人に怒られたり、威張ったり、勉強を教えてもらってたり、馬に乗ったり、綺麗な召物を着てた。愛されてていいなって思ってました。
そのうち、普通のご飯じゃ満たされない何かが自分の中にあるって、気がついたんです。空腹感に似てます。お腹が空くと誰でも、ご飯のことしか考えられなくなるでしょ? お腹すいたーお腹すいたーって。
それと同じで、食べたい食べたい、って本能的な衝動があって。それは誰かに教えられなくても、自分で何となく、どうしたら良いか分かってました。本能だからかな。簡単に出来ました。
「人の目を覗いて見つめ返してもらうと、人の記憶を食べれるんです。わたし」
先生の目を見る。俺の気持ちに気がついたのか、先生も俺を見る。光ってない。
「今は食べないから安心して。こうやって意図的に出来るようになるまで少しかかりましたけど」
と笑った。
「けど、」と先生は続ける。
……けど最初の頃はお腹が空いて、記憶を食べたくて、そういうもんだって思ってたから……。屋敷の下人長屋ってわかりますか。下働きをする男たちが寝起きする小屋があって、そこで隣に寝てる子の目を見てよく食べてました。そういうもんだって思ってたから、特に何も疑問に思わずに。
もしかしたら違うかもしれないって、それに気が付いた時はもう遅かった。とにかく私は当時、何も分かってなかったんで、暇があったら下人仲間のその子の目を見て記憶を食べてました。そしたら……そのうち、だんだんその子が仕事の要領が悪くなってきて……。例えば朝起きたら何をするか、水汲みはどこからどこへ持っていくのか、洗い物はどうするのか、薪割りは、湯沸かしは、洗濯、野良仕事。そういうのが一つ一つ、出来なくなってしまって。
周りの人は、どうしたんだボケたのか、病気かよって。その子は、自分でもどうしてだか分からないって言って困ってました。出来てたのに、分かってるはずなのに、やり方を思い出せないって。で、仕方ないからまた一から教えるでしょ? そしたら出来るようになるんです。やれば出来るじゃないかよって。
けど、教えた先から私が食べちゃうから……、その、記憶をね。また、その子はすぐ忘れて、の繰り返し。可哀想なことをしました。少ししたら、追い出されてしまって。
さすがに私はそこで、これ自分がやったんだなって気が付いて、ああやっちゃダメなんだって思いました。周りの人はそんな事誰もしてない。目を見て心を覗いて記憶を食べるなんて、誰もしてない。
だめだ、やめようって思いました。
だって人の迷惑になる。それくらいは分かりました。けどやめるやめるって思っても、余計にそのこと考えるでしょ。どうしようって思って……。
そこで先生はこっちを向いて、にこにこした。
「あなた、女中のおとせさんを困らせるほど脱走癖があったから、私に狙われてましたよ」
と言う。
「ある時、そのおとせさんが、偉い男の人に散々叱られてる声が聞こえました。その後でおとせさん、荷物をまとめて、裏口から出ていくのが見えて。
その後、たまたまあなたが、鶴丸が庭でぼんやり、しょんぼり歩いてたのを見て。わあ美味しそうって」
そこで先生は言葉を区切り、少し考えてから、ごめんねと俺の頭を愛おしそうな手つきで撫でた。
……あの時鶴丸は、おとせさんが居なくなって悲しんでたのに。私は可哀想って思わなかった。若君の母親がわりの人がいなくなって、ああお労しや、なんて思わなかった。私はそれをただただ美味しそうって思ったんです。あなたは傷ついてたのに、私はそれを食べたい食べたいって。美味しそうな記憶はねぇ、匂いですぐ分かるんですよ。つい、ふらふらっと引き寄せられちゃいました。
俺は言った。
「……今とあんま変わんないですね」
え? と先生は言う。
「俺がメシ作ってると、『あさひぃ、おなかすいたぁ』ってボサボサの格好で降りてくる」
先生は、ぱっと笑って、そうだね!と俺をぎゅっと抱きしめて、俺の髪と額にキスをした。
先生だ。
これはいつもの先生だ。
……それで、何でしたっけ。そう。おとせさんがいなくて、しょげてるあなたが歩いてて、美味しそうってなって。
でも全部食べたら、あの子みたいに、全部忘れちゃうから、ダメだ、少しにしないとって思って。おとせさんの事で悲しんでるところだけ頂いちゃおう思って。
それに哀しい記憶を消してあげたら、あなたの助けになるかと思ったんです。……そうやって正当化した。子供のあなたの後ろから近づいて、そっと話しかけて。そんな都合よく、記憶のこの部分だけ貰うなんて出来るのかなって思うんですけど、出来たんですよ。目を見ると、ここだって分かりました。
おとせさんのところ……悲しくて辛い記憶を貰いました。
5.
鶴丸の中の「おとせの記憶」を食べたところで、お茶でも飲もうか、と先生は言った。
「あ俺、淹れますよ。あったかいのにしません?」
先生はペットボトルのお茶を2本、せっかく寝室に持ってきてくれたけど、俺は何かほっとするものを先生に飲んで欲しかった。
トレイに乗せた二つの丸い湯呑みをリビングのテーブルに運んだ。寝室から出て、少し気分転換したかったのだ。
ソファに座った先生の目元が疲れてる。ずっと話してくれてたからな。
「ほうじ茶おいしい」
ふうふう、と手のひらの中でお茶の湯気を散らすのは、いつもの先生だ。ただの白飯も、ただのお茶も、いちいちじっくり味わってく俺の先生。
「夜はやっぱ冷えますね」
と、その隣に、先生と俺の肩と腕が触れ合うほどくっついて座った。
「ね。ふう、あったかー」
ひざ掛けも用意して正解だった。小動物の毛並みのような柔らかい感触が、心を和らげてくれる。
少し体が温まってきた。
「先生、手繋いでいい?」
「え? あ、はい。うんいいよ。どうぞ」
手を繋ぐ。
先生のこの体は、もうずっと長いこと生きている。俺を探して、見つけて、また探して、それを繰り返して。一人で。
「次、俺が話していいですか?」
「え? うん、いいよ。何。」
ごくん、とお茶を飲み込んだ。
何ってこともないですけど、と俺は切り出した。
「先生、薪割りとかしてたんですね」
「え? うん。してたよ。初めて覚えた人間の仕事だ」
「馬は乗れます?」
「どうかなあ、お世話は散々したけど。乗ったことない」
それから俺はたくさんのことを質問した。あの小説の中のこと。薬を作って生活してたときのこと。家族は? 結婚はどの時代が楽しかった? 逆に辛かったのは?
色々聞いた。一つ一つ、答えてくれた。
「直助は恋人? 好きだったの?」
手のひらで包んだその手を、先生は少しぎこちなく握り返した。
「恋人じゃない。好きでした」
そして、直助だけじゃない、と言った。
鶴丸も、直助も、その後巡り会ったあなたの事。全部好きだった。
「年季の入った激重愛ですよ。分かってます?」
うん、と俺は笑った。
だけど、覚えてないだけで、俺だって年季の入った激重愛のはずだ。思い出したい。それを示して、先生にあげて、安心させたい。それが出来ないことが悔しい。
三百年生きてきた感想は? と聞くと、ぽつり、
「長すぎだよね」
と力なく笑った。
ですね、と返すしかなかった。
俺は、体勢を変えて先生と向き合って、目を見た。
「何度も先に死んでごめんね。置いてってごめんね」
ん、と喉を詰まらせて、先生は目に涙を溜めた。
「ほんとですよ」
そしてそれを指で拭った。
「先生は俺の記憶の、辛い記憶を取って食べてくれてたんですよね。俺じゃないけど。俺の、昔の」
「ええ、勝手にね。私はあなたの心の中を勝手に覗いて、悲しみも苦しみも全部暴いてきた。浅ましくて、卑しい事をしてきました」
浅ましくて、卑しい? それは逆だ。
「先生に、恋人とかいた? 誰かそういうの、取ってくれる人いた?」
「……取ってくれる? 何を?」
「先生の辛い気持ち」
えっ、と先生はぽかんと口を開けて俺を見返した。
よく分からないと言った様子だったので、
「先生の悲しみは、誰か食べてくれなかったの?」
と聞き直すと、先生はやはり驚いたままの顔で、そんなの考えたことなかったと言った。
先生の書く小説が、怖いのに優しい理由がよくわかる。人の弱さや苦しみに、どうしても心を寄せてしまう先生の優しさが、あれだけの物を書かせるんだ。人の心を食べて、愛と痛みと悲しみを奪ってきた人だから。
けれど、人の苦しみを代わりに請け負って、癒してきたその優しい人の辛さは、一体誰が癒すのか。
「俺が愛喰いだったら間違いなくすぐ先生を食べる。人間だから出来ないけど、出来るなら辛いこと全部忘れさせてあげたい。どうやったらそれが出来るだろうって、先生の話を聞いて、ずっと考えてた」
ぐっと手を握った。暖かく包みながら、強い気持ちを伝えるように。
「俺じゃそれになれないかな」
そう言うと先生はしばらくぼんやりして、視線を漂わせてから、俺の手をそっとほどいて立ち上がった。
それから無言で歩き始め、二階へ上がっていった。
俺も後からついていく。
先生は終始無言で、どうしたのかなと思ったけれど、これが先生なりの答えなのかなと思ったから、何も聞かずに一緒に二階へ行った。
寝室に入ると先生は、やはり無言のまま布団に潜り、体を丸めて、繭の中に逃げ込むようにして布団の中に体全部を隠した。
それから、震える小さな声が聞こえてきた。少しづつ大きくなると、それが抑えられた泣き声だと分かった。くぐもった嗚咽だったそれは、次第に咽び泣きに変わった。弦楽器の細く切ない旋律が、息継ぎなしにその最高音を保つように、いつまでも尾を引いた。
――一人で永ぇこと背負い込んできたんだな。
そんな声が頭の片隅でぼんやり浮き上がる。
全部お前のせいだろう、と心の中で言い返した。




