5 暖かい孤独
1.
「気づいたんですけど、みんな若いんですよね」
俺は、まずはこの辺り、と先生が勧めてくれた妖怪や怪談の書物にざっと目を通して気がついたことを、先生に投げかけた。
さわやかな土曜日の朝の事だ。
朝食はいつもの白米と味噌汁と目玉焼き。
「確かにね。なんでだと思う」
研究対象の妖怪の伝承に見られる、人の生気を吸う者たちは、どれもみな若くて魅力的な女性か、美しい男性の姿だ。
「ね、何で『愛喰い』はみんな若いのさ」
先生がせっつく。
「ええ〜と、じじいやばばあが生気くれって襲ってきたら絵にならないから? 物語として美しくない」
「じ……。陽は、たまに悪い口だね」
と先生が苦笑する。
「君もいずれじじいになるんだよ。いい?じじいになるというのは、本来とても幸せな……。ああ、まあいいや」
と言って先生は味噌汁をごくんと飲んで、はあ。お出汁……と呟く。
「じゃあ、見た目以外に、老人の妖怪が描かれない別の理由は?」
「本当は、見た目は若くて中身はおじさんとか。エキス吸って若返ってる」
先生の年齢不詳な顔をじっと見る。
「なんで僕を見るんだよ!」
と先生が笑った。
「先生若いしエキス吸う必要ないじゃないですか」
と俺も笑った。笑いながら、あれ、と頭に何かの引っ掛かりが生まれた気がした。
若い妖怪は若返る必要がない? つまり、若返り以外の理由。何かの気付き……には至らないが、その足がかりとなるような。
では、それは何だろう……。と思っていると、お給金はずむから、頼んだよ。と言って先生は食器を片付けた。
「はあい」
お給金って。小説の中の語彙がそのまま出てくるんだろうか。
帰宅すると母が診断結果と一つの紹介状を俺に見せた。
「総合病院……?」
「今度、詳しく脳を調べるみたい。MRIとかで」
「MRI……脳を?」
「そう。少し先だけど予約は取れたから。けどちょっと遠いし、裕司おじさんに頼んで連れてってもらうわ」
MRIって。よくわからないけど、寝っ転がって、機械の中に入れられるやつだろうか。そんなに、本格的で大掛かりな検査。どれくらいお金がかかるんだろう。
「あなたは、何も心配しないで。なんとかなるから」
「……うん。この前先生に相談したらバイトの時間も増やせそうだし、大丈夫」
大丈夫と言いながらも、全く大丈夫なわけがないと頭が混乱した。風呂から上がると電卓を叩いて検査費用、交通費、薬代、そして通院で母が仕事を休んだ分の給料の補填。
電卓の数字が、どんどん膨らんでいく。
片手の指で、自分のバイト代を計算する。
……足りない。全然足りない。
ため息をついたら、息が余計に苦しくなった気がした。どうしてこんな事になったんだ、俺が何をしたんだ。と考えたところで、この思考の方向性は良くない、と別のことを考える事にした。
枕元の、読んでいる途中の先生の小説を手に取る。
『後ろ髪の額縁』
……絵画をめぐる怪奇現象と、それに関わる複数の家族の静かな崩壊を描いた作品。
妹も弟も寝た。俺は布団を抜けて電気を消し、台所の明かりをつけ、キッチンテーブルで深夜まで読み続けた。俺はその後数時間かけて、その世界にとっぷりと浸かった。
先生の小説はただの怖い話ではない。もちろん怖いけれど、人の愛情に触れて深く慈しまれたかのような不思議な感覚が最後に残る。暖かい孤独。憎しみや怨嗟の奥底にある、人の真の姿。
最後のページを読み終えると、もう一度最初のページに戻り、一ページ目に出てくる人物に対してああこの人はまだ何も知らないのだな……と同情などしてみる。
もう寝ようかと、その本を本棚の隙間にギュッと詰め込んだ時、自分の心の黒いものを本が一緒に持っていってくれたような気がした。
翌日、日鞠に頭を下げた。
「平日も、毎日バイト行かせてほしい」
「ええ?」と日鞠。中二で、俺がいない間の兄弟達のリーダーだ。
「......夕飯の支度、代わってもらいたい。その分しっかり稼いでくるから」
日鞠が小さくため息をついて、
「わかった。病院代とかあるし、仕方ないか」
と言った。
「ありがとう」
俺はまた頭を下げた。下げながら、何故働く俺が頭を下げてるんだと思った。
2.
働けるだけ働くことにした。
平日は放課後から夕方まで。土日は朝から夕方まで。週に一度も休みがない。体の疲れがなかなか取れない。
しかもだんだん、朝起きるのが辛い季節になった。
アラームをいかに最短で止められるか。妹の夕紀はまだ五歳なので、下手に起こして機嫌を損ねられると全ての段取りが狂う。目覚まし時計のボタンを一度で止める五時半。俺は布団から音もなく抜け出す。
ただ起きる。それだけだ。他に何も考えない。暗い部屋の中で着替え、インスタントコーヒーを一杯飲んでから家を出るのが五時五十分。六時過ぎに先生の家に到着し、仕事を始める。
先生の家の中の台所から見える空が俺は好きだ。
東から昇り始めた金色が空を縁取る。はじめは黒く沈んだ海のようだった空が、次第に透明な水色と蜜柑色へと分かれていく。
そしてとうとう日が昇り切ると、空は自身の曖昧さを失って、はっきりとした、ただ爽快な青という目覚めの色を見せるのだ。
ここに立って、空の経過を感じながら先生の朝食の支度をする。早朝の眠気は空の変遷と共に、目覚めの輪郭へと変わる。それが俺にとっての「朝」だ。
土日の朝は時間に追われることがない。急いで食べ終わる必要がない朝食を、普段より少し丁寧に味わって、今日一日の段取りを考える。
洗濯、掃除、買い出し。
ひと段落したら、研究ノートに向かう。
・精気を吸う妖怪はなぜ若いのか?
・エキスを吸う、若返り以外の理由は何か?
昨日先生と会話して出た疑問と、自分なりの仮説をいつくかノートに書き留める。
仮説1・若くないと物語にならない
仮説2・若いふりをした老人
仮説3・高校球児みたいに腹が減っている
このふざけた疑問と仮説を頭の片隅に入れながら、二階の先生の仕事部屋の本棚から本を選び、また下に降りて本をめくり、答えにつながる情報がないか目を通していく。
先生の家のリビング、その居心地のいいソファに座ってうーん。と首を捻る。
「山姥は年寄りだけど、人を襲うんだよな」
しかし誘惑して精気を吸うというよりは、積極的に襲いかかり、人を食料にしている。
有名な金太郎の母は山姥だが、例外として彼女は母性的な妖怪だ。というより、金太郎と共に描かれる山姥は慈母として描かれ、単体で描かれる山姥は人喰い鬼として描かれる。
「ええーなんでだろう。金太郎のことは食べないのか? 息子だから? 好きだから?」
と独り言が出てくる。
昼食はうどんにした。
鶏肉のぶつ切りでしっかり出汁をとり、かまぼこと薄あげ、わかめ、それからネギをちらす。
「お出汁……!」
と、先生が感動するまでがワンセットだ。
「もっと寒くなったら鍋でもしたいですね」
「いいねえ。家族のみんなとはやるの?」
「ああ、はい。それもいいですね」
そんな時間や心の余裕があれば、だけど。
買い出し、調理、片付け、妹に食べさせる。食べ終わったら片付け、風呂、掃除、洗濯。一連の流れを想像したところでため息が出そうになった。
「先生、そうだ、これ見てください」
とさっき書いたノートを見せる。先生は少し戸惑ってから、なに? と言った。
「お、年齢で分けたんだね」
「はい。やっぱり若いヤツはよく食べます」
あはは、と先生は笑って、高校球児みたいな言い方だなあと言った。
「それから気になったのが、金太郎の母です。やっぱ人喰い鬼にも情があるのか、息子は食べないもんなんですかね」
「……そうだねえ。彼女の根本は、鬼なのか人間なのか。どっちだろう」
「え、鬼じゃないですか」
と言い切ると、先生は少しだけ目の奥を揺らしてから、口元をゆるめ、なぜそう思う? と言った。
違う答えを期待していたんだろうか。
「いや、だって、金太郎の怪力は鬼ゆずりなのかなって。……違いますかね」
「ああ、そういうこと。なるほどね、確かに!」
と先生は明るく笑ったので安心した。
一日の仕事が終わると、先生はお疲れ様でした、と玄関まで見送りに来てくれた。「ありがとうございました」と挨拶をして、ドアを閉める。
外に出るともう日はすっかり落ちて、空は朝の水色がすっかり落ち込んだ藍色になり、一面真っ暗だった。リビングの掃き出し窓から先生が顔を覗かせて、「気をつけてね」と声をかけてくれる。
自転車のペダルをぐっと漕ぐと、冷たい風が身を切る。ハンドルは冷え切っていて、手袋をしてこなかったことを後悔する。
住宅地を抜けて少し行くと、駅前の寂れた商店街を通る。そこのコンビニエンスストアの灯りを目にして、ブレーキをゆるくかけ、自転車をおりた。
中に入り雑誌コーナーで表紙を眺め、ファッション誌を手に取ってページをめくる。こんな全身にお金をかけてすごいなと少し笑えた。大して読みもせず棚に戻す。
店内をぐるりとしてから、レジ横のコーヒーマシンで淹れるホットコーヒーを買い、外に出て自転車に寄りかかりながら一口含んだ。苦い。
目の前を何台も車が通り過ぎていく。
自転車や徒歩の人も、みんな急ぎ足で帰っていく。俺もさっさと帰ればいいのに、ここから動く気力がない。コーヒーは飲みきれなくて、手の中で冷めた。中身をタバコの吸い殻入れの中に捨てる。無駄遣いしてしまった。だめだ、帰ろう。
……あんまり帰りたくないな、と言う言葉が頭の中にふわっと浮かんで、浮かんでしまったからには自覚せずにはいられなかった。
「遅かったね。」
帰宅すると中二の日鞠が髪を拭きながら言う。五歳の夕紀を風呂に入れてくれていた。
「ああ、ちょっと」
その後自分も入浴を済ませて、台所のテーブルで「研究ノート」を開いた。そこへ夕紀がやってきて、膝に乗ろうとする。
「ゆき、ちょ、おりて」
「陽にい、だっこして」
「ちょっと今、勉強してるからさ」
「じゃあ絵本は?」
「照いるじゃん、照に読んでもらいな」
「……はあい」
ええーと襖の向こうから照の抗議する声が届く。そこへ日鞠が来て、「ゆっちゃんおいで」と声をかけた。今日はこっちで寝ようか、と夕紀を促す。夕紀は、好きな絵本を数冊手にして今日は日鞠達が寝る部屋へとことこ向かった。
「陽にいは疲れてるんだよ」
日鞠はそう言って襖をすっと閉じた。閉じる直前こちらを一瞥した。
「おしごとだから?」
という夕紀の声が襖の向こうから聞こえる。
研究ノートを開いても、何も頭が働かない。文字が入ってこない。なんだかどうでもよくなって、俺はノートを閉じ、寝ることにした。
結局何もしないなら絵本を読んでやればよかったと思いながら、目を閉じた。
3.
週末の度に先生の元へ通った。
落葉樹が見事に真っ赤に染まり、先生の家の庭がいちどきはまるで燃えるようで、その暁が一気に目に入った時、一瞬苦しいほど胸が痛くなった。ただの秋の物悲しい感傷だろうけど、この痛みの側には誰かが居たはずだったとふと思った。
赤い葉が落ち始ると、庭掃除が忙しくなる。落ち葉を集めてゴミ袋にまとめると、すぐに満杯になるので、先生はそれを見て、焼き芋できそうだねと言った。やりますか?と言ったら、やりたいけど今の時代は周りの迷惑になるのがね、と言って、
「気持ちだけ」
と、キッチンのオーブンで焼いてくれた。
焼く間に庭に目をやる。庭木は細い枝ばかりが剥き出しになり、心許なくその向こうに空を透かしていた。
焼けたよ、と声がかかる。アルミホイルの中でほかほかと湯気をたてている。それを見て、夕紀に食べさせたいと思った。先日、保育園の園庭で焼き芋パーティをして、それ以来焼き芋がお気に入りになり、家でも食べたいと言っていた。まだ食べさせてない。
家事代行の仕事で疲れてはいても、苦痛ではない。妖怪の本を読むのも調べるのも、気分転換になって楽しい。俺なんかの中途半端な調べ物が本当に先生の研究に役に立っているのかは分からないけれど、彼ら妖怪が「命を吸い取る」理由を考えることは、無意味ではないと思えた。なぜそう思えるか。高槻先生がそう望むからだ。考えて欲しいと。
先生の所で過ごすことは稼ぐために必要だ。仕事の中に楽しみを見つけているだけだ。
夜になって帰宅すると、母が台所で何かをノートに書いていた。
「おかえり陽。お疲れ様」
一つに後ろで結んだまとめ髪はほつれて、白髪が増えた気がする。何年も着倒した部屋着は毛玉だらけだが、着心地がいいと言っていつまでも交換する気配がない。
目線を落とすとそのノートには今日の日付が書いてあり、その下に『今日は朝から……』と続いていたので日記かと思い、それ以上は読まなかった。
「母さんこれ」
キッチンテーブルにごろっとした音で置いたのはさつまいもだ。妹のことを話すと、先生が持たせてくれた。
「まあ、お礼言わなきゃ」
母は立ち上がって、それを冷蔵庫の上のボックスへ入れた。
「明日、夕紀に焼いてやってよ。焼き芋したいって言ってたから」
「いいけど、本当はあんたと食べたいんじゃないかしら」と呟いたのを、仕方ないじゃんと返して、俺は部屋に戻った。
ところが次の日の夜帰宅すると、夕紀が大声で泣いていた。
「母さんがさぁ」
と照が状況を教えてくれた。
母は朝、保育園に出発する際約束したそうだ。『お兄ちゃんが昨日、アルバイトの所でさつまいもを貰ってきたから、今日帰ったら焼き芋しようね』と。少しぐずっていた夕紀だが、その約束でご機嫌になり、1日中楽しみにしていたらしい。幼児の記憶力は案外高い。
ところが夜になってもやってくれない。
お母さん焼き芋してと訴えたのに、芋なんかないわよと言われた。
「お兄ちゃんがおしごとの人にもらったのがあるよ」
と言っても「何言ってんのないわよ」と。
しまいには「訳わかんないこと言わないで!」と母が叱って、夕紀が泣いた所へ、俺が帰ってきたらしい。
「もしかして兄貴、ほんとに芋とか貰ってた? どっかに片付けた?」
「……ここだよ」
冷蔵庫の上。
「あ!おいもー!」
夕紀が涙の目のままにこにこ笑って、芋を取りに来た。
「あるんじゃん、母さん」
と照が言った時の母の顔は、なんと表現したら良いか分からない。
私は悪くないはず、という誰かを責める怒りの色。そんなはずがない、理解できない、困惑、誰にも理解されないのだという強い孤独の感情。夕紀を傷つけた自己嫌悪。
「……ゆっちゃんごめんね。母さんすぐ忘れちゃうのよ」
おかしいわね、と昨日書いていたノートを開いた。
「書いてないの?」
と照がそれを覗き込む。
「ないわ」
そのノートは何なのか聞くと、「記憶ノート」だと言う。
「日記って事?」
「少し違うかな」
誰と何をした、どこで会った、何を話した。事実を記録するらしい。
「忘れても平気なように」
と母は夕紀をだっこして、その涙をぐいぐいと拭った。おかあさんわすれんぼだもんね、と夕紀が笑うので、そうなのと母は笑って涙をにじませた。
「ゆっちゃん覚えてたんだね。偉いね。お母さん、さつまいものことは、書き忘れちゃったのね」
昨日の夜、そのノートを書き留めている最中に俺が帰宅した。そこで芋のことを伝えたから、母はつい、記録し損なってしまったのだ。
「そんなの、いつからやってたの」
「クリニックに行ってからよ。先生に勧められて。もうこんなに症状が出てるんだもの」
母は、そのノートをぺらぺらとめくって、
「けど、天気の事とかどうでもいい事ばっかりたくさん書いてもね。あんたとの会話とかゆっちゃんとの約束を忘れてるんなら、意味ないわ」
とノートをポンとテーブルに置いた。
「薬で治療が始まったらまた違うかもしれないよ」
と、俺は適当なことを言うしか出来なかった。
さつまいもをごろごろと輪切りにする。濡らしたキッチンペーパーで全体をくるっと包み、耐熱袋に入れてレンジで様子を見ながら加熱する。
焼き芋ではないが、これはこれで美味しくなる。早いし洗い物も少ない。夕紀はそれを食べて、やっと満足そうに笑った。俺も母さんも照も、少し食べた。
「なにしてんの」
と日鞠と日和が部屋から出てくる。
「やきいもパーティーだよ。」
「げっ、ゆっち歯磨き終わってるのに食べさせてる」
と日和が言うので俺は「もっかい歯磨きするもんな?」と夕紀に約束させた。
週七全てバイトにした事で、さすがに疲労が溜まってきた。授業を全て寝ているのはともかく、宿題や課題などほとんどやっていないのでそのうち親に連絡が行くかもしれない。連絡が行っても、母はすぐ忘れるかもしれないが。
その日はなんだか、がっつり食べ応えのある豚汁にしたかった。良かれと思って具材をふんだんに盛り込んだら、味が濁ってしまった。
主菜はサンマ、副菜に小松菜のおひたし。
「で、芋食べさせたらころっとご機嫌になって。チョロいというか純粋と言うか」
少し味が薄いかなと思いながら、俺は一連のドタバタを面白おかしく話した。 嫌なやつだとは思うけれど口が止まらない。
「そしたら妹たちも集まってきて、また歯磨きしなきゃじゃんとか文句言いながら、結局みんなで夜中に芋食べました」
「楽しそうな家族だね」
違うんです、と反発したかった。
その先生の笑顔がいつもより静かな気がした。
「まだまだ手がかかって……わがままだし、すぐ泣くし」
楽しそうと言われると少し違う気がする。
「夕紀ちゃんが欲しかったのは本当に芋なのかな」
言葉に詰まってしまった。何故だか俺は、それで心がしぼんでしまって、ああ、塩を少し足せばよかったかな、と汁椀を口につけながら思った。
俺はうまく答えられず、「貰ったさつまいも美味しかったです」と的外れな事を言った。
「陽」
今度の土日だけど……、と洗い物をする俺の横に立って先生が言った。
「はい」
と答えた自分の声が少しだけ震えていた。
俺は先生の落ち着いた声や佇まいが好きだ。静かな雰囲気や、居心地の良さ。声を荒げたりせず柔らかく話す口ぶりが、心を落ち着かせてくれる。
先生が、あえてそうやって柔らかく話そうとしてくれているのが分かった。それで余計に心がざらざらとした。
「次の土日は休んで、たまには家で過ごしたら?」
「あ。何か用事でしたか? 出かけるとか」
「ううん。何もないよ」
力を込めて、陶器にスポンジを擦り付けると、ギュッと嫌な音がした。来るなと言うその声が、暖かくて混乱した。来るなと言いながら、包み込むような優しさを寄越さないでほしい。
「たまにはお家でゆっくりしなよ」
下の兄弟がいるとどんな暮らしになるのか知らないから先生はそういうことを言えるんだ。俺は、口の形が歪むのを感じた。
「家でゆっくりなんか出来ませんよ」
けれど謝れなかった。先生が次にこんな事を言ったからだ。
「夕紀ちゃんが小さいから? だったらなおさら家にいてあげなよ」
家族のために働こう、先生のために頑張ろう。それの何が悪いんですか。何でこんな事言われないといけないんですか。はい分かりました、すみません、と引き下がることも出来た。
「ああ、先生もたまには一人で過ごしたいですよね。気が付かなくてすみません。代わりに日雇いの他のバイト探しますから、気になさらないで下さい」
俺の声は明らかに冷たく、陰湿で、尖っていた。
先生は少し眉を寄せて、何かを言おうと口を開いたが、何も言葉がなかった。傷つけたのだと分かった。
先生はしばらくしてから
「そんなことないよ、ごめんね」と言った。
「嘘だよ、来ていいよ」
そんな風に先生に言わせて、俺は思い通りになったはずだ。勝ったはずなのだ。だけどすごく、悲しかった。
◇
『◯月×日
記録ノートをつける事にした。
帰り道に買い物。じゃがいも。にんじん。玉ねぎ、豚肉とカレールーを買う。カレーの作り方は忘れていない。
帰宅後、ノートを読み返し、傘を忘れてきたことを思い出した。』
『◯月×日
朝ごはんは昨日のカレー。
雨が降ったので、折りたたみ傘を使う。これをもしまた忘れてきたら、今度はカッパを使うしかない。
陽が心配だがどう言葉にしたらいいかわからない。
今日は傘を忘れなかった!』
『◯月×日
晴天。清々しい。天高く馬肥ゆる秋。
朝冷たい空気の中、紅葉した並木道を、夕紀と手を繋いで歩いた。夕紀は息が白い、と何度も興奮していた。綺麗な赤い葉っぱを一枚拾いあげて通園カバンに大事にしまっていた。ちー先生に見せるのだと言う。その姿を忘れたくなかったので、保育園に送ったあと通勤バスの中でこれを書く。
同僚達にはいつ伝えるべきか。要相談。
帰りにお惣菜を買った。メンチカツとコロッケで悩んだけど、陽がいつか「脂っこい」と顔をしかめていたのを思い出し、結局ささみ揚げを買った。
それを選んだ後で、それは覚えてたんだと自分で嬉しくなる。
日鞠がご飯を炊いて、味噌汁を作ってくれていたので、夕飯の支度がすぐに済んで助かった。
みんないい子だ。』
『◯月×日
今日は朝から夕紀が泣いて、困った。なんとかなだめて出発する。何がそんなに嫌なのか分からない。
今日は書くことがあまりない。思い出せない。』
……ノートを閉じて、同じ場所に戻す。
日鞠が背中から、おかえり、と言ったが、ああ、とだけ返してそのまま布団に入った。
4.
家にいると、稼げたはずの時給のことを考不安になる。
「ミカちゃんやって」
妹の夕紀が女の子の人形を渡してくるので、一緒に居間の隅っこに座って、ヒーターをつけた。
「ゆっちゃんはママ役ね。ママは、“けんさ”にいってきまーす。とことことこ……」
今日ようやく、総合病院での大きな検査の日になった。裕司おじさんが母を連れて行き、その背中を見送って、何か進展があるといいなと思った。
ところがそのすぐ後で、今度は日鞠が家を飛び出してしまった。バイト中の留守を任せる予定でいたのに、俺が家で夕紀を見なくてはならなくなった。
すぐに先生に連絡をして行けないと告げると、電話口ではいつも通りの優しい口調だった。この前のことをまだ謝れていない。でもそのまま電話を切った。
時計を見る。まだ十時だ。
「おなかすいた」
「ん。わかったよ」
芋を蒸した。夕紀は大喜びで食べた。安上がりで助かるなと思った。しかし二時間もしないうちに、「おひるごはん、なに?」と来る。育ち盛りはよく食う。幼児の胃袋は無限だ。
一瞬、妖怪研究のことが頭にうかぶ。
妖怪はなぜ、人間のエネルギーを奪うのか。腹が減るのか。妖怪も育ち盛りなのか?
「おにいちゃん、おひるごはんはなに?」
「ん? チャーハンかな」
と言うと夕紀はチャーハン、チャーハン、とおどけた。
部屋に篭っている照と日和も呼んで、昼ごはんにする。四人分には少し足りない。俺はさりげなく自分の分を全員に選り分け、三つの皿を山盛りにした。
「よく食べるなあ、ゆっち」と照が言う
「食べなきゃおとなになれないんだよ。おにいちゃんもたべなさい」と夕紀が、俺のところに皿がないのを見て言う。
「え、陽兄の分ないじゃん」と日和。
「いやちょっと俺腹痛くて。昼やめとくわ。ゆっち、にいちゃんは大人だからそんなに食べなくていいんだ」
「おにいちゃん、もうおとななの?」
「そうだよ。ゆっちはこれから大人になるんだよ」
「ふふふ。ゆっちねえ、本屋さんになるの」
「おとなになったら?」
「うん。それでねえ、おとながおわったらねえ、お店の本を……ねえおにいちゃん」
「なに?」
「……おとなになっても食べていいの?」
と眉を寄せて言うので笑った。
「いいんだよ」
「なんで? 大人はたべないって」
「食べなきゃ腹減るじゃん、人間だし」
「でも大人なんでしょ? おおきくならなくていいのに食べるの?」
「大きくはならないけど、体に栄養は、」
必要……と言ったところで、ん? と俺は頭を捻る。
人を襲う妖怪は育ち盛りなのか? 腹が減ってるのか。なぜ食べるか。愛喰い。育ち盛り……。育ったらどうなる、つまり人を襲った後の妖怪は、大人になる。
ゆっちは大人になったら本屋さんになる。
妖怪はならない。何になる……?
大人? 妖怪が大人。歳をとる……。
と考えたところで思考が止まる。
「ごちそうさまデシタ!」
夕紀の食後の挨拶はハキハキしていていつも気持ちがいい。食べてもらえてよかったと思える。
……日鞠はどこかで時間を潰しているんだろうか。何か食べたろうか。
食器を洗っていると、「おそといきたい」と言う。朝からずっと笑顔でお利口さんにしてくれていたので、こちらも機嫌良く付き合うことが出来た。
「なら散歩でもしてくっか」
「うん」
徒歩で十分ほどのところに昔ながらの駄菓子屋と公園があるので、行くことにした。俺は中一の照と小五の日和に、しっかり戸締りするように言って、夕紀に上着を着せた。
外に吹く風は冷たく、夕紀とつないだ手だけがポカポカと暖かい。
「わー、ゆっちの手めっちゃあったかいなぁ」
「そうかな?」
妹と、秋の空の下を歩いた。
落ち葉を拾ったり、石を持ち帰ろうとしたり、よその家の犬に話しかけたりしてなかなか前に進まないが、別に急ぐことはないから好きにさせた。
母の記録ノートの中のあのページを思い出す。
――その姿を忘れたくなかったので……これを書く。
確かに覚えておきたい光景だなと思った。もし、今日の夜一旦記憶をリセットします、と言われたとしたら、多分俺はこの一瞬のことをノートに書くだろう。
「ねえお兄ちゃん、きょうおしごと行くのやめて、遊んでくれてありがとうね」
と夕紀が言うので、「うん」と答えた。
「行かないでって泣いてごめんね」
「いいよ。寂しかったもんな」
子供の、こうやってすぐ素直に謝ったり感謝を伝えられる能力というのは、いつごろ無くなってしまうんだろう。俺にも昔はあったんだろうか。
「お兄ちゃんもいつも遊べなくてごめんねゆっち」
「いいよ。あそんでくれてありがとう。お散歩いかせてくれてありがとう」
しばらく歩いてから、
「ひまちゃんのご飯なんだろうね?」と夕紀が言った。
「なにかな。何か食べてるといいね。お兄ちゃんさ、朝、日鞠と喧嘩してごめんね」
「いいよ。ひまちゃんどこ行ったの?」
「分からない」
「なんじにかえるの?」
「分からない」
「なんで?」
「だって、……どこ行くか聞かなかったから」
「そっかあ」
母の症状は出たり消えたりだ。さすがに中学生の弟と妹は母の様子が普通と違うものだと理解して、今まで以上に気をつけて見てくれるようになった。頑張ってくれていた。
つまり、妹たちも大変な思いをしていたが、俺はそれをあまり見れていなかった。
俺はとにかく稼ぐのに必死だった。先生のところに通い詰めては朝も夜も、土日は昼もずっと先生のところで働いていた。家事代行の仕事が終わると後は研究の手伝いで、頼まれた資料を読み指摘された本や論文を読み、まとめる。時給が割増になると言われて、新たなバイトを探さなくてよくなったのが本当にありがたく、自分なりに本を読み漁った。この調べ物にどれだけの価値があり、なんの意味があるのか分からないが、望まれれば働くし、働いた分稼ぎになるならやる以外道はない。
俺は俺で、兄妹たちが不自由しないようにと精一杯工夫してやってきたつもりだった。家事を回しながら稼がないといけない。薬代、検査代だけじゃない。母さんがいつ働けなくなるか分からないから。
けれど、稼ぐだけ稼ぐ、働けるだけ働く、というやり方は、間違いだったんだろうか。それが俺のやるべき事だと思って信じてきたけど、実は違うんだろうか。
——今日の朝、日鞠が家を飛び出した。
検査に行く母と裕司おじさんを見送った後、早速俺も先生のところへ行こうと支度をしていた。
そこへ夕紀が来て
「行くのやだ! ゆっちゃんとあそぶよ!」
と俺のズボンをひっぱった。散歩中に夕紀が謝ったのはこのことだ。夕紀はなにも悪くない。そして俺も謝ったけれど、俺は多分兄としてよくない行動をした。今は夕紀のことを可愛いと思えるのに、その時は感情的になるのを抑えられなかった。
バイトの時間が迫っていた。静かに諭すのが煩わしい。兄妹たちは奥の部屋に篭っている。俺は夕紀の、保育園児の、柔らかくて細くて折れそうな腕を、少し、——ほんの少しのはずだ——強く掴んで引き剥がした。そして、
「日鞠と遊んでな」
と言う。それは奥の部屋の日鞠にむけてかけた言葉でもあった。しかし「ひまちゃんイヤ! お兄ちゃんがいいの!」と一層泣いて離さない。お兄ちゃんがいいと懸命に泣かれれば、よしよしと思う事も普段なら出来るのに、そんな我儘も決して可愛くないわけではないのに、俺はその時、眠たくて、休みたくて、余裕がなくて。この状況で、お前ら誰も何もしないのか、と。襖の向こうで聞こえてるんだろう、夕紀がしがみついて離れようとしないのを、分かってるんだろう。
……早い話が、鬱陶しかった。
「日鞠! お前ちゃんと見とけ!」
妹に苦情を言った。語尾にありったけの不満を滲ませて。お前がこいつに優しくしないから、お前が助けないから、だから俺が迷惑を被ってるんだ。
すると日鞠は部屋から出てきて、泣き喚く夕紀を見下ろした。夕紀は涙を止めた。
「バイトがそんな偉いのかよ」
日鞠は低く唸った。
「あのな。仕事だぞ。分かってるよな」
「それが偉そうだって言ってんの。本当はただこの家にいるのが嫌なんでしょ。いっつも自分だけ一人で楽しそぉーに出かけてくもんね! 今もね!」
「は?」
楽しそう?どこが?
――夕紀ちゃんが欲しかったのは……。
日鞠は俺の三つ下で、五人兄妹の中で二番目だ。俺がいない間の兄妹のリーダーだ。俺はほとんど居ないから、実質兄妹をまとめるのはいつもこの中二の妹だ。それもあって一番気が強くしっかりしていて、一番俺に対して反抗的だ。
それにしても楽しそうに出かけてくとは何だ。
今日だって、先生は来なくてもいいと言ったのを、無理に仕事にしてもらったんだ。それを分かって言ってんのか。
「どうせ、」
と妹は唾でも吐き捨てるように言った。
「頭のおかしい母親と、役に立たない妹と、うるさいガキがいて、もううんざりだって思ってるんでしょ」
「頭の……おまえ、」
その頬を叩かなかったのは、弟が後ろから「兄貴」と低く声をかけてくれたからだ。俺の不穏な気配を察知してくれたのだろう。しかしそれでも妹は怯まない。まるで殴ってみよとでも言うように、下から掬い上げるように目を合わせてくる。
「仕事仕事って、家から逃げてんだよ! 本当のこと言えば? お前らなんかマジでうんざりだって! そんくらい分からないとでも思ってんの? バレバレなんだよ!」
「そう思ってんのは誰だ。お前と一緒にすんな」
「は!?」
耳に響くキンとした裏声が、最高に苛立った。
「……留守の間お前にばっかり苦労をかけてることは謝る。でも母さんを侮辱するなよ」
妹はそこで、フン、と鼻を鳴らして、侮辱って、と口を歪ませた。
「そんなもんどうせ忘れるんだからいいじゃんか」
――今日は忘れなかった!
――みんないい子だ。
ああ。どうせ忘れるのか。
落ち葉を拾ったことも、カレーを作ったことも。惣菜コーナーで悩んだことも。忘れるから、いいのか。俺が毎日バイトしてることも、眠いけど頑張って早起きしてることも、全部忘れて無かったことになる。
だからいいのか。
「……そうだよな」
と言う声にどうにも力が入らない。馬鹿馬鹿しい。
日鞠はいからせた肩を少し落とした。
「俺だけじゃない。母さんはいつかお前の事も忘れる」
そう言うと日鞠は泣きそうな顔をした。けれど言葉は止められなかった。そんな顔するくらいなら最初から言うな。
「いいんじゃない? どうせ忘れるんだから。どれだけでも酷い事言ってこいよ、今から。ほら」
あれだけ興奮していた妹は何も言えず、固まってただ俺を見た。哀しくて悔しくて、腹が立った。
「何してんだ早く行けよ。バス乗り継いでさ、総合病院まで行き方分かるか? 教えてやるから。それで、この際全部言ってこいよ、言ってきてくれよ、なあ。俺の分まで」
声が大きくなる。喉が震える。
日和が夕紀を連れて一緒に部屋に戻った気配がした。けど俺だって傷ついている。
「働かせんじゃねーよって。朝も昼も夜も、ガキを働かせてんじゃねえ、ガキにガキの世話させてんじゃねえって。俺だってやりたいことあんだよ。全部我慢して働いてんだ自分の時間なんかいっこもねーよ。伝えてこい、今すぐ」
ほら行けよ、と指差した玄関の方を、妹はただ黙って見て、静かに涙をこぼして、小さなカバン一つ手に取って、玄関のドアを開けた。
怒っているだろうから、騒がしい音でドアを閉めるのだと思った。けど日鞠は静かにドアノブを回して、ドアをゆっくりと閉めた。
あ。あいつ上着持ってってないな。
と、後で気がついた。
朝、そんなことがあったから、夕紀は今日一日、ずっとわがままを言わずににこにこしている。賢いのだろう。自分の癇癪のせいで兄や姉が喧嘩したと思ったのだろう。そう思わせてしまった。夕紀に罪はない。けど、俺にも日鞠にも、罪はない。みんな悪くないのに、みんな自分が悪いと思っていて、そう思うことで優しくなれるなら、優しさとは罪悪感なのだろうか。
駄菓子屋で、いくつか興味の向いたものを買ってやり、その後で公園に行った。ベンチで買ったものを食べさせて、親子連れで賑わう遊具コーナーを何気なく見た。歩いているうちはまだいいが、座ると寒い。
「パパ!」
と大きな声で父親を呼ぶ男児がいる。さっと夕紀がそちらを見る。
「助けて!」
ジャングルジムに登って、上の方でそのまま降りられなくなったようだ。父親らしき男性が近づき、その子を下ろしてやる。
その様子を見た夕紀が言う。
「ねえ、ゆっちゃんのお父さんはいないんだよね?」
「居ないわけじゃない。ここには、いないだけ。居るんだよ」
「どういうこと? どこに居るの?」
「……んー、分からん」
「そうなんだあ」
あげる、と夕紀は小さなラムネ菓子をひとつぶ、俺の手のひらへ転がした。
「食べていいの? ゆっちゃんのだよ」
「いいの。たべてほしいの」
と言うので、ありがとうと言って口の中へ放った。
舌の上でそれはしゅうっとすぐに解けて、味わう前に消えてしまった。安っぽい酸味が鼻の奥でつんと冴えた。そういえば腹が減っていた。
帰宅するとどっと疲れが出て、夕紀と一緒に布団を敷いて寝てしまった。起きたら窓の外が真っ暗で、家の中は電気がついていた。
いつのまにか日鞠が帰ってきていた。そして戸棚から袋ラーメンを出して自分で食べ始めた。
夜、先生から電話があった。
明日は、午前中用事で出るので、来るのは昼前からにして欲しいとのことだった。
5.
玄関が開いて目に飛び込んできたのは、大ぶりでド派手な花柄エプロンだった。
「ちょうど焼けたよ」
と言う先生の後についてキッチンへ行くと、ふわっといい匂いがした。鍋には味噌汁、炊飯器からはおいしい蒸気。
角皿には卵焼きが乗っている。先生は魚焼きグリルの上のアルミホイルの包みを、トングを使ってお皿にとった。
「さ、食べよう」
味噌汁とご飯をよそうと、先生はエプロンのまま、テーブルについた。
戸惑って立ち尽くしていると、ほらほら、と椅子を引かれ、肩を静かに押されて座らされた。
「先生、これは……」
「シャケのホイル焼き。僕大好きなの。陽もたまに作ってくれるけど、急に食べたくなっちゃってね」
いや献立の話じゃなくて、と問う間もなく、冷めちゃうからと先生が促す。
「いただきます」
美味しそうな湯気の立つお味噌汁。ホイルの包みから立ち上るバターの香り。急に舌の裏で唾液が増した。
薄あげがたっぷり入ったお味噌汁は優しい味だった。自分で作るのと、似ているけど少し違う。これが先生の味なのか。なんだかじんわりと染み込んでくる。
ホイル焼きをアツアツ、と言いながら開くと、ホクホクに蒸されたシャケが薄い桃色をして、つつかれるのを待っている。醤油と酢を垂らした秋鮭の身を、きゅっと噛み締めると、ご飯がすすんだ。下に敷いてある玉ねぎやきのこ類も、味が染みて美味しい。
玉子焼きは、すごくふんわり、ふるふるしていた。あまり甘くないのがいい。夢中で頬張っていると、先生が箸を置いて、「陽」と口を開いた。
「いつもありがとうね。頑張ってくれて。傍に居てくれて。本当にありがとうね」
と言う。
変なエプロン。何その花柄。ダサいよ。なんでそれにしたの?いつもボサボサの頭で、寝ぼけながら俺のご飯を食べてるのに、今日はいつもより身綺麗で、変だよ。おまけにこんな風に優しくされると、なんだか直視できない。
そう心の中でぼやいているうちに、みるみる視界が滲んだ。見られたくなくて俯くと、ぼたぼたと大粒の雫がテーブルや、箸やお皿を持つ手首に落ちた。
家では今日もまた、出がけに夕紀が少しぐずった。それを母が宥めた。日鞠がお米を炊いて朝ごはんを作ってくれた。日和は洗濯を回し、照は掃除機をかける。一生懸命やればやるほど、家の中はいつも戦争だ。みんなのことは好きだ。家族は大事だ。
だけど一人になりたいこともある。妹は大事だが鬱陶しい。学校では成績が悪すぎて惨めだ。解放されたいと思った自分は嫌なやつなのか。
そして俺だけが、先生の心のこもった手料理を一人でゆっくり食べている。誰にも邪魔されず、構われず、誰のことも気にせず、自分のことだけを考えて、先生と一緒に優しい時間を過ごしている。美味しくて、美味しくて。箸が止まらない。嬉しい。幸せだ。けど、幸せだと思っちゃだめなんだ。なんで? ……だって、仕事で来てるから。
あっという間に食べ終わってしまった。
空になったお茶碗を見て先生はおかわりいる?と聞いた。食べます、と答え、それも俺はすぐにたいらげた。お味噌汁もおかわりした。
一息ついて下膳すると、先生はお茶を淹れてくれた。それを一口飲んでから、俺はやっと言った。
「なんか俺、めっちゃ食べてすみません」
「ええ?なんで?食べてくれて嬉しいよ。それに育ち盛りなんだから。沢山食べないと」
「けど」
俺は食事を作り、食べさせる方で、こうしてもてなされる側じゃないのに。なのに脇目も振らずに……。恥ずかしい。
「あの、どうしてですか?」
やっと、先生の目を見た。
「ん?」
先生の瞳は窓からの光に照らされて少し不思議な色をした。優しくて深い色だ。
「俺、仕事しに来たのに」
すると先生は、ああ、と少しだけ目を開き、ウンウンと何度か頷いて、「そうだね、ごめんね」と言った。
「陽が心配してるような事は何もないんだよ。仕事させないとか、減らしたいとか、そういうことじゃない。本当にただ、たまには僕がね、陽に食べさせたかったんだ。気持ち、気持ちだよ」
俺をソファに座らせると先生は自分もその横に座り、話を聞かせて欲しいと言った。何の、と聞くと、話したいことを、と言われた。
「妹に、『逃げてる』って言われて」
「逃げてる?」
「はい」
家族のために、みんなのために、将来のために、俺が稼いでくるのが一番正しいと思った。働いている、なんなら自己犠牲をしていると。
「仕事仕事って言うけど、本当は家にいるのが嫌で、先生のところへ行くのがいつも一人だけ楽しそうだって言われて。俺、否定できませんでした」
親指に中途半端なささくれがある。俺はそれを引きちぎった。血が滲んだ。
「楽しんでるつもりなんて。でも、そう思われてんだなって……。確かに先生のところで働くのは、他のどんなバイトより楽しいって思ったのは事実だけど、でも、俺は遊んでるわけじゃない」
「うん。分かってるよ」
「先生、俺ちゃんと働いてますよね? ちゃんと時給もらえるような仕事してますよね? 本当は手抜きになってます? やり方甘いですか?」
「あのね、陽。分かんないかな?」
と先生は首を傾げた。
「お昼ご飯、言ったよね、僕の気持ちだって。それでもまだそんな事言う? どれだけ助かってるか、感謝してるか、伝わらない?」
待ってて、と先生は一度立ち上がり、絆創膏を持ってきて、俺の親指に巻き付けた。それからその指を触れるか触れないかくらいに撫でてから、「なんなら僕が言い返してやるよ。」と呟いた。
「妹ちゃんに」
「へ。」
「『お兄さんが辛そうに働いてたらそれで満足? 意地悪な大人に混ざっていじめられて、苦しい肉体労働をして、ボロボロになれば、おぉ兄貴は頑張って働いてるなぁって思えるから、少しは気が晴れる?』って」
先生は眉をぐっと寄せてわざと性悪な顔をした。
「陽が望むなら言ってあげるよ」
そして、ふっと笑ってからこう言った。
「けど君は、そんな事望まないだろう」
「はい」
「妹ちゃんも、陽に苦しんでくれって言ってるわけじゃないと思うよ」
「そうなんですかね。やっぱでも、ウキウキで出かけられるとムカつくんじゃ……」
「ウキウキ?」
と嬉しそうなので、「う、あ、いや」と言い訳めいた呻きを漏らてしまった。
「妹にしてみれば、って事です」
「つまりウキウキしてない?」
「してますね」
「してるの」
「はい」
すると先生は照れたようにふふふと笑って、つんと俺の肩をついた。なんだか顔が熱い。
帰り際、先生は「ちょっと計算してみたんだけどね」と、メモ書きを見せながら、あることを説明してくれた。
帰りに寄ったスーパーで、白菜とネギが安かった。
鶏ひき肉は値引き品を買った。さつまいもは少し割高だったが、つい買ってしまった。
この日俺が早めに帰宅するとみんな驚いていて、「早く帰るならそう言ってよ」などと日鞠はぼやいていたが、土鍋とコンロを出しといてくれと言うと
「え! 鍋!」
と言って浮き足だった。
「ご飯は? 炊くの?」
「それもいいけど……」
シメに鍋用のラーメンも買った、と言うと夕紀が寄ってきて、ラーメン!ラーメン!と踊りだした。
食材の準備が終わり、あとは煮込むだけになった時、母が「夕べ、ちゃんと話せなかったから」と今後のことを教えてくれた。
「て言っても、まだなにも確定はしてなくてね。全部の検査結果が出るのはまた2週間後なの。」
「分かった。俺からもちょっと話があるんだけどいい?」
先生が帰り際に渡してくれた一枚のメモ。
「計算したんだけど、俺このまま行くと、母さんの扶養から外れるって」
「え、そうなの! 確かに働きすぎとは思ってたけど……」
「俺も考えなしにシフト詰めちゃって。先生と話して、平日は週四に減らすことにした。土曜日は半日だけ。思ったよりあんま稼げなくなるけど、いい?」
「十分すぎるくらいよ。あんたに頼るしかなくて、ごめんね。ありがとうね陽」
その様子を、母の後ろで何となく聞いているそぶりの日鞠に、「そういうことだから」と呼びかけた。
「何が?」
と口を尖らせるので、
「金曜日は俺がご飯作れるから。月から木は頼んだ」
「……分かったよ」
と去ろうとするので、あとな、と声をかける。
「俺がバイトに楽しそうに行っててムカつくのか知らんが我慢しろ。バイト先で楽しく働けてんのは俺と雇い主の努力と気遣いのおかげ。いちいち拗ねんな」
格好のいいことを言ったが、つまり、ただ俺が先生を好きなだけだ。そこは誰にも否定されるものじゃない。
「は? 拗ねてないし!」
と足をどたどたさせて部屋に戻ろうとするので、
「まて、」と止める。
「まだ何?」
「昨日、夕紀が、お前のこと心配してたから。ガキにいちいち真面目に相手すんのはばからし……」
「分かってるし!」
と今度こそ戻って行った。
俺は母と顔を合わせて笑った。
「書いとこうかな」
と、母はノートを広げ、「陽と日鞠が仲直りした。」と書いた。
「仲直りしたのか? これは」
「したでしょ。」
『◯月×日
朝、久しぶりに陽がゆっくり起きてきた。
夕紀がやかましく騒いで陽を起こそうとしたが、日鞠がそれを止めたので、夕紀の機嫌が悪くなった。
陽は昼前、顔色の悪いままアルバイトに向かった。
日中、日鞠と話をする。昨日、陽と喧嘩したそうだ。兄が楽しそうにアルバイトに行くのが羨ましいと。家が嫌なわけじゃないけど、私も気晴らししたい、一人で遊びたい。一人になりたいと。
多分、外の世界で働くことへの憧れもあるだろう。昔から「大人」への憧れが強い子だった。そして身近には、自分よりひと足先に、大人の世界で働いて稼ぎを得る立派な兄の姿がある。それを日々目にしていれば、自然にその思いが強くなっても無理はない。
労働を尊しとすることは立派だが、親としては日鞠にも陽にも、そんなに早く大人になって欲しくない。もう少し勉強をしてもらいたい。学業は子供に唯一許された、かけがえのない我儘と贅沢なのだから。けれど結局口だけで、頼っている。ただただ申し訳ない。
日鞠と陽が仲直りした。』
「食べるぞー!」
と声をかけると、皿とお箸と飲み物のコップを手際よくそれぞれが用意する。
「ゆっちゃんは? ゆっちゃんは何する?」
皆について自分も何か準備しようととうろうろする夕紀に、みかんを渡した。
「あっ、おみかん。」
「お父さんにあげてきて」
はあい、と夕紀は小さな仏壇にみかんを備えて、コーンと鈴をうった。そして手を合わせて、
「きょうのよるごはんは、おなべです。お父さんは死んだからもう食べれないけどがまんしてね」
と神妙に言うので、みんな笑った。
鶏団子の味噌鍋。みんなで狭い狭いと言って一つの鍋を囲んだ。こたつの電気は勿体無いので入れない。入れなくても良いくらいに暖かかったので、俺は気付かれないよう少しだけ泣いた。




