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4 黒歴史本

1.


 土曜日の朝はいつも早起きだ。

 行きがけに母が「待って、(あさひ)」と、クシャクシャの白いビニール袋に入った何かを渡してきた。中を見るといちじくだった。

 ごろんごろんと実が詰まったそれを見て「俺も狙ってたのに」と不平を漏らすと、二人で食べりゃいいでしょと言われた。

「ほら、なんだっけ、えーと、なに先生だっけ……」

高槻(たかつき)先生だよ。じゃ行ってきます」

「いってらっしゃい」

 母はまだ眠そうに俺を送り出した。

 

 夏の盛りが過ぎた九月の早朝なのに、まだまだ日差しが強い。俺は軽く汗をかきながら自転車をすっとばした。

 十分で到着するのは『高槻』という表札。一人暮らしには少しだけ大きく、家族で住むにはかなり手狭な、この可愛い和洋折衷の家が、俺の大事なアルバイト先だ。

 

 息を切らせてチャイムを鳴らし、反応がないので鍵を使って中に入り、リビングのカーテンを躊躇いなく開ける。キッチンを通り過ぎながらテーブルにイチジクの袋をガサっと置くと、

「先生、(あさひ)ですー! おはようございますー!」

 階段の下から、二階に向けて大きく声をかける。図々しいのではない。これが俺の「仕事」なのだ。

 しばらくすると古い階段がキシッキシッと鳴る音がして、障子戸に背の高い猫背の影がうすぼんやりと映る。

 ぬっ……、と音もなく襖が開かれ、現れたのは、

「おはようあさひぃ、お腹すいたぁ」

 高槻(たかつき)先生。茶色のボサボサ頭でよれたスウェットを着たこの人が、俺のバイト先の作家先生だ。


 炊き立ての白米からほかほかの湯気が立つ。

「はぁ……新米……。美味しい」

「そんな季節ですね」

 寝ぼけた先生が、色素の抜けた髪をポワポワさせ、朝ごはんを頬張りながら少しずつ覚醒していく。それを見るのが好きだ。

 先生の朝食のリクエストはいつもシンプル。基本はまず白米、味噌汁、それにプラスして目玉焼きか焼き魚。今日は目玉焼きだ。

 先生は目玉焼きを白米の上で崩しながら、もうすぐ一年か、と呟くので、何がです? と聞く。

 先生は「君がここへ来てからだよ」と言った。

「ああ。まだ一年ですか。なんか、十年くらいいる気がします」

 すると先生は、だったら君何歳なのと笑った。

(あさひ)が来てくれて本当によかった。毎日ご飯がおいしい」

 とにこにこしているので、こちらも嬉しくなる。

 中学生の時は早朝に新聞配達の仕事をしていた。高校になってもしばらく続けてはいたが、この高時給の募集を見て即座にこっちに変えた。

 作家先生の手を家事で煩わせない事が俺の仕事。平日三日は学校帰りに三時間、土曜日は朝ご飯から昼まで六時間。加えて帰宅後は家の手伝いもあるから、正直大変だ。

 けど、同じ時間の中で、どうしたら先生を喜ばせられるか。どうしたら先生の笑顔を見れるか。それを考えるのが今では生活の励みになっている。

 朝日が差し込んで、先生の髪が明るく光った。少しくすんで色の抜けた明るい茶色で、綺麗だなと思った。


 ある日、先生はその古ぼけた本を、「僕の黒歴史本」だと言って俺に笑いながら寄越した。マニア垂涎(すいぜん)のプレミアものだという。

「プレミア? 黒歴史? へー」

 俺は食器洗いが丁度終わったその手を丹念に拭いて、振り返った。黒歴史というからには、とんでもない先生の恥ずかしい過去か?

 差し出した手に、先生が本をとん、と乗せる。それを手にした瞬間、ぴり、と静電気のように指先が痺れた。

 表紙に描かれた鬼や雪女や、狸、狐が、美しい佇まいながらも、どこか観察するようにこちらを見ていて、半袖の二の腕のあたりがすう、と寒くなった気がした。

 構わずページをめくると、日光がブラインドから差し込んで梯子状の影を手元に落とし、その黄ばんだページを照らした。

『……古代から平安期には既にその「現象」について、人々はさまざまな名をつけ、断片的ながら書物に記していた。

 人々はこの現象を恐れ、様々な名で呼んできた。

 魂食み(たまはみ)赤目鬼(あかめのおに)

 またの名を、愛喰い(あいくい)。』


 ――愛喰い?


「『愛喰奇譚総覧あいくいきたんそうらん』……。なんですかこれ。小説じゃないんですね」

「希少価値はある。中身は……どうかな」

 と肩をすくめて、歳の割に幼い笑い方をした。もうじき四十だと言っていたが、もっと若く見える。けれど肩をすくめるにしても首を傾げるにしても、若ければ許されるような仕草ではないが、先生がやると不快も嫌味もなく見える。

「雪女、あるいは……六条御息所のような生き霊、人の形をした物怪。あとは、狐、たぬき、天狗。彼らが人間にとある共通の影響を与えた、という仮説をもとに、この現象の正体は一体何なのか? を紐解く、真面目なオカルト本」

「真面目なオカルトというのは」

「真面目なノリでふざけたことを一回書いてみたかったんだよ」

 あげる、と妙に明るい口ぶりで言ってこれをくれた。貸してくれることはよくあったけど、くれたのは初めてだ。

「ありがとうございます。助かります。プレミアついてるんじゃないんですか?幾らになりますかね」

「……え、(あさひ)、君まさか売る気じゃ……」

「う、嘘ですよ」

「本当だろうね? 売らないね? 読んでくれるね?」

 と俺の肩をガクガク揺らす。わはは、と俺は笑った。

 

 高槻先生は和風ホラー作家だ。しかも、大作家。えらい先生らしい。

 幾度か家事代行のアルバイトを雇っては辞め雇っては辞めを繰り返し、今現在は金目当ての俺が釣れたということだ。

 俺は大作家先生だとは知らずに働いていたのだが、あるとき本屋で先生の名前を見て、うちの先生はすごい先生だったのだと知ることとなった。

「先生にならコアなファンが沢山いるんだから、その人達がいくらでも感想書いてるでしょう、ネットとかで」

「いやぁだ、読みたくないのそういうの。君に読んで欲しいの。お願いだよ」

「……つまり、仕事ですか?」

 先生は、わざとらしく「ヒィ」と言った。

 ふふ、っと二人で笑った。

「……嘘ですよ、読ませてもらいます。時間がないだけで、読書は好きですから」

 すると先生は、ふんわりと笑って、自分でお茶を淹れてご馳走してくれた。

 

 土曜日の仕事は昼過ぎに終わる。買い物をしてから帰宅して、小さい妹の相手をし、やはりまた家事をして妹を風呂にいれ、上がってからやっと布団の上に転がって、先生から借りた「黒歴史本」を開いた。


 何気なく全体的にぱらぱらとページをめくっていくと、カラー図版があった。

 着流しの町人風の男。赤い目をして薄く微笑む細身の人物。柳の木の下で、座り込む誰かの手を取っている。

 その赤い目と、目が合ったような気がした。ぞわっとして、急いでページをめくる。眉唾インチキ本にしてはなんだか本気で人を怖がらせようとしていようで、気味が悪い。

 自分の本を俺に読んで欲しいと言ってくれるのは嬉しい。けれどこれは違う。神経を逆撫でするような感覚。身体の内側をざらついた砂を擦り付けられるような不快感。

 そんなものを、先生が何故読んで欲しいと思ったかが分からず、それでもページをめくる手は止まらなかった。

 けれど、ページをめくる手が止まらない。

 雪女、生霊、鬼、天狗、狐狸……。

 どれも、様々な形で「人から何かを奪う」と記されている。婚姻関係により、肉体関係により。あるいは、ただ見つめるだけで。その美しさに魅入られるだけで。

 つまり、先生が言いたいのは——

 雪女も、六条御息所も、狐も狸も、全部同じ「何か」なのだと。

 それがこの……「愛喰い」。

 俺はもう一度、さっきの挿絵のページに戻った。

『愛喰食人図』と冠された油絵。柳谷洸麟(やなぎやこうりん)作とある。大正期の画家らしいが知らない。

 地面に座りこむ一人の男に手を伸ばす赤目赤髪の男。その男は、一見美しく優しげな若者として描かれている。足元に座り込んむ男に助けの手を差し伸べようとしているのか。それとも、怯える男を今まさに襲おうとしているのか。どちらともとれるように俺の目には見えた。

 愛喰食人……つまり愛喰いが人を襲っている場面だ。この座り込んだ男はこれから、この愛喰いに「何か」をされてしまう。食人……食べるのか。

 

『これら物怪あるいは現象の共通点について。

 簡潔に言うと彼らは人から正気やエナジー、魂、心や記憶を奪い、廃人同然にする。……』

 記憶を、食べる?

 ――先生。頭大丈夫かな。

 と心配になるほどの突飛なアイデアが、その後もいかにも真実味のある気迫と誠実さで書かれていた。しかも偏った断定や理屈が多く、なりふり構わない必死さが見える。なぜ?インチキ本なんじゃないの?

 先生は、笑ってこの本を渡して、「真面目なノリでふざけた事を書いてみたかった。」と言った。けど、本当は逆じゃ無いのか。ふざけたノリで、真面目な事を書いたんじゃないのか。本気で信じて書いて、だけど、こんなの冗談なんだよ、本気で受け取らないでよって茶化してるだけなんじゃないか……。

 

 ページをめくる指先が冷たかった。




2.


『……世の中の細かい物忘れ現象。原因は様々だが、この現象がもし愛喰いの仕業であった場合、医療による症状の改善は見込めないと私は結論づける。……』


「行ってきます」

 俺は寝不足の目が開き切らないまま、自転車に跨る。結局あの妙な本は全部読んでしまった。体がだるい。

「いってらっしゃい。あ、今日ヨシ君とこ行ってさ、体操服のお下がり受け取ってきてよ」

 ヨシ君とは近所に住む幼なじみで、俺の弟の一学年上だ。サイズアウトした中学の体操服をくれる約束をしていた。

「分かったよ。あ、ねえ、母さん今年で何歳だっけ」

「……え?」

 少しだけ表情に翳りがあった。

「なんでもない。行ってきます」

 俺はいつものように自転車を漕いだつもりだが、足に力が入らなくて、全然前に進まなかった。


 近頃は寝に行くだけになっている学校がやっと終わり、スーパーに寄る。味噌、味噌、とカゴに入れる。必要なのはあと洗剤と、サラダ油、納豆、卵、コーヒー。けっこうあるな。自転車はやはり重い。と思ったら空気が抜けてペシャンコになっている。

 これ以上漕げないので、押して歩く。本気で行けば十分で済む距離が、重たい買い物袋のせいでひたすら長く感じる。

 先生の家にやっと辿り着いて、ほっとする。

「こんにちは、陽です……」

 返事がないので、多分先生は仕事中だ。俺はなるべく静かにキッチンに滑り込み、買い物袋を床に広げた。

 あー、と声をあげそうになった。

 洗剤を買い忘れた。だめだ、買いに戻ろう。今日は良くても明日の先生が困る。

 自転車は使えないから、俺は走って近くのドラッグストアへ向かう。

 するとそこに妹がいた。

「お前何やってんの」

「お母さんのお使い。醤油がないんだって」

「……醤油あるよ。シンクの下の左んとこ」

「え、そうなの? やだなお母さん」

「じゃな。気をつけて帰れよ」

「お母さん、なんか最近さ……」

 と妹は何か言いかけたが、俺は急ぐから、とそこで別れた。妹が言おうとしたその先は、俺も薄々分かっている。

 俺は急いで先生の家に帰って、滞った家事をこなしていった。けれど今日に限って段取りがうまくいかず、風呂の栓を閉め忘れたり、炊飯器のスイッチを入れ忘れたり、魚を焦がしてしまった。

「陽……お腹すいた……。ごはん……。ん、今日は魚?」

 先生が鼻をひくつかせながら、ボロボロの髪の毛になって上から降りてきた。先生は原稿がひと段落するといつも髪が爆発している。いつもは微笑ましいその光景も、なんだか今日は滲んで見える。

「あ、先生。お疲れ様です」

「あれ、まだ出来てなかったの」

 白米は炊飯中。焦がしたフライパンは水につけたまま。炭と化した魚の切り身の、なんとか食べれるところは先生のお皿に取り分けたけど、見た目がすごく悪い。

「今日はなんか、……失敗しちゃった感じ?」

 と先生が言うので俺はとうとう我慢できなくて、俯いて涙を床に落としてしまった。

「あっ、あっ、陽! ごめんね!」

 と、先生は慌てている。

「毎日疲れてるのにね、ごめんね。……僕がなんでも頼りすぎてた。働かせすぎたかな、僕仕事しながらでもちゃんと家事出来るから、しばらく陽はアルバイト休んで……」

「嫌です、休みません。働きます。ダメですか? 働いたらダメですか?」

 決まったわけじゃないけど、今後バイトを増やさないといけないかもしれない。

「え、ダメ……じゃ、ないけど」

 うーん、と少し困ったようにしてから先生は、俺の肩にポンと、手を置いた。

「一回座ろうか」

 優しい言葉なのに、逃げられない何かがあった。


 先生はダイニングではなくて、リビングのゆったりとしたソファーに俺を座らせた。そして散らかったままのキッチンに戻ると、お茶を淹れてきてくれた。

「ね、聞かせてくれない。何かあった?」

 何か。あったと言うべきなのか、勘違いなのか分からないので、言葉に詰まった。

「……こないだの僕の本読んだ?」

 向かいに座る先生の声がひっそりしていて少し怖い。なぜそう感じるのかは分からない。

 先生はいつも優しい。雰囲気が柔らかくて、絶対に怒ったりしない。今だって怒ってるわけじゃない。なのに得体の知れない冷ややかさが先生の背中から立ち上って、こちらを見下ろしてくるようだ。先生に威圧感がある。なぜ?

「読みました」

「どうだった?」

 間髪入れずに返してくる。いつもの先生はこんな風に、追い詰めるようには話さない。

「どう、どうなんでしょう?」

 笑おうとして口を開いたけど、先生の目が真剣に光っていたから、そんなふざけた誤魔化しできなかった。

 口をお茶で湿らせてから、声を出す。震えている。

「俺、このアルバイト、結構好きなんです。実入はいいし、家事は嫌いじゃないし。何より先生が喜んでくれるから。それが楽しみなんです。あ、俺先生のこと好きなんですよ。優しいし、頭はいいし。けど、そんな優しい先生が……。そう。先生がなんであんな本を俺に読ませようとしたのか。分からなくて」

 そう、それがわからない。

「読んだんだ」

「読みました。止まらなくて、昨日一気に読んじゃって。最後にこう書いてあったんです。若年性の認知症も、その妖怪かなんかのせいだって」

「せいだ、と断定はしてないよ。もし認知症なんかじゃなく、それが『愛喰い』のせいなら治せないだろうって、そう書いたはず」

 膝に乗せた拳が自分でもわかるほど震える。

 肩も背中も、力む。

「……母が。先生、母が。あの」

「うん」

 その優しげな声に少し安心し、促されてやっと核心を話す。

「いつも朝いってらっしゃいって言うんですけど、先生の名前をいつまでも覚えないんです。高槻(たかつき)先生だよって言うんですけど、またすぐ、何先生だっけ? って」

「そうなの……。いやあ、僕もまだまだなんだね」

 という先生なりのジョークに返す余力もない。

「それから、近所の友達が弟に体操服をくれるって話で、昨日俺取りに行ったんですよ。昨日ですよ。それですぐ母に渡したんですけど……なのに、母がまた、今日の帰りに取ってこいって」

 口が渇いてお茶で潤した。

「まだあります。俺が昨日買ったばかりなのに今日、妹に醤油買いに行かせて……。醤油今うちに多分五本くらいありますよ。先生これ、」

 まさか、と思っている。でも、先生の本に書いてあったことと、母の症状が重なって見える。

「ま、典型的な初期症状にも見えるね」

 先生は穏やかに、迷いなく言った。

「はい……。でももしそういう、認知症? とかだったら、母さん働けなくなるし、そしたら俺高校辞めて働こうかと思って、けどそんなの、って不安で……」

「どっちにしろ気になるなら、受診は早くしたほうがいい。完治はしなくても、進行を遅らせる手はあるはずだから。……高校辞めるなんて思い詰めなくていいよ、方法はきっとある」

「けど、あ、違うんです。あの、先生、そうじゃなくて、」

 先生はカップに手を伸ばして一口お茶を飲む。

「何?」

「『愛喰い』なんとかって、妖怪ですか? それ、先生本当にそう思って書いたんですか。人から魂を奪う妖怪の総称でしたっけ」

 ゆっくりと先生はそのカップをおろす。カチ、と陶器のなる音が冷たく響いた。

「……そう信じ込んでる変な人に見えるように、書いたつもりだよ」

 見えるように。

「あの、それってつまり先生自身はあの内容を、ノンフィクションの皮をかぶったふざけたフィクションと思ってるってことですよね。母は病院にかかればそれで済みますよね。へんな妖怪の仕業だなんて、先生は言わないですよね」

「そんなの言わないよ。あのね、さっきも言ったけど、気になるなら早めに行ったほうがいい。身内の人の直感は当たる事が多いんだって聞くよ。勘違いならそれで良かったで帰れる」

 ふう、と先生は息を吐いて、背もたれにゆっくりともたれた。

「お母さんのこと、知らなくてごめんね、そういう症状がある人のこと苦しめたいわけじゃない。侮辱したわけじゃないんだ。本を読んで気を悪くしたんなら本当に申し訳ない」

 君を苦しめたいわけじゃないんだよ、と言った先生こそ、辛そうな顔をしている。

 そうだ。先生が母のことを知るわけがないし、知った今は、こうして真剣に心配して受診を勧めてくれる。先生は僕の力になろうとしてくれているのがわかる。

 けど、だからこそ分からない事がある。

「……俺、俺の母さんがその妖怪のせいでそんな風になったって、そんな事を先生が言いたいわけじゃないって分かってますよ。けど、じゃあなんでこんな本を、先生は俺に読ませたかったんだろうって思って。

 それが一番知りたいんです。先生の気持ちがわからないのが、俺は怖いんだって昨日気付いたんです。だから教えてください。どうしても読んで欲しいって言ってましたよね。なんでですか?」


 赤い目をした美しい若者が、

 座り込んだ男に手を差し伸べるあの絵を思い出す。

 その手は、暖かいのだろうか。

 ふとそう思った。

 

 


3.


 作った夕食が冷えたままなのが可哀想だと言って先生は全部食べてくれた。俺は喉が通らなくて、ソファーに座りその様子を見ていた。

 食べ終えた先生は、ソファーに来て、俺の手を取った。

「おいで」

 手の先から疲れがすっと抜けた気がした。

 俺はそのまま引っ張られるようにして立ち上がった。そして階段の前まで来ると先生は、さあ二階へと言った。

「いいんですか?」

 ここから先は仕事エリアのため、入っては行けないと言われた。

「君に見せたいんだ」

 言われるがまま二階の、薄暗い仕事部屋に入らせてもらった。

「見てご覧、この辺りから、このひとつ分」

 先生が指差したのは部屋の壁一面の本棚。いくつもの別々の本棚がぴっちりと隣り合わせにうまいこと嵌っており、その上から下まで本がぎゅうぎゅうに敷き詰められている。本が増えるたびに増設したのだろう。そのひとつ分がまるまる妖怪関係。古い伝承、民俗学。年代物のものから、最新のものまで。

「すごいたくさん。……歴史も」

 けどホラー作家が怖い話を書くならこれくらい別に普通じゃないのかなとも思った。

「先生はこういうのを参考に、話を書くんですか」

「え? ううん? しない。小説を書く参考に使ったことは一回もないよ」

 じゃあ、何のために?

 ……研究のために? 愛喰なんとかの本を、書くために? だって先生はあれ、「そう信じてる人に見えるように書いた」って。嘘だって。

 室内を見回す。

 仕事部屋の奥に大きなデスクと三画面のパソコンがある。座り心地の良さそうなしっかりした大きな椅子。

 中央にはローテーブルと二人掛けのソファ。俺はそこに腰を下ろした。夜の七時。日がすっかり落ちて、もうそろそろアルバイト終了の時間だ。けど肝心なことが聞けてない。


 少しだけ部屋に沈黙が流れたあと、先生は俺を見た。

「で、どうして君にあの本を読ませたかったか」

 なんだけど……、と先生はタイヤ付きのワーキングチェアに座った。

「簡潔に言うと、僕のことを手っ取り早く知ってもらいたかっ……あー、この言い方もダメだねわかんないよね」

「はい。あ、いえ。」

 先生は少しだけ頬を緩ませた。

「君に手伝って欲しい。『愛喰い』についての研究を」

「研究。愛喰いの。……研究?」

 ――本気なんだ。先生は本気で言ってる。

 あの本を読んだ時の印象は当たっていた。ふざけた事を真面目に書いたんじゃなくて、真面目なことをふざけた皮の下に隠していたということだ。本気だ。

「研究というのは……?」

「彼らの生態。どこからやってきてどこへ行くのか。僕の長年のテーマ「

 先生は本棚に目を向けた。

「色々な妖怪や伝承の事例を体系的にまとめたのが、あの『愛喰奇譚総覧あいぐいきたんそうらん』。だけど、本当に僕が……知りたいのは、その先。彼らは人から生気を奪ったあと、どこへ行くのか。何のために人を襲ってそんな事をするのか。彼らは果たして悪いヤツらなのか?」

 俺が戸惑っていると、先生はニッと悪戯めいた笑みを浮かべ小首を傾げた。

「……彼らに寿命はあるのか。年齢はあるのか。彼らはどこから生まれて、どこへ消えていくのか。死ぬのか。それはいつ、どうやって」

 ……の、研究が本当は僕が作家をやりながらもやりたくて、だけど出来なかった事なんだ。そう先生は話した。


 家に帰って、風呂の後、濡れた髪のまま、先生が貸してくれた本を手に取る。

 妖怪のその後だなんて、考えた事なかった。たいてい物語の妖怪たちは、人間にイタズラや悪さをして、そのまま姿を消して物語はそこで終わる。考えてみれば当たり前なのかもしれない。人間側からみたら、いたずらをされて、困らされて、怖がらされて、その後妖怪たちがどう過ごしてるかなんかどうでもいいことだし、知りようがない。

 彼らはその後、また新しいターゲットを探し続けるのか。探してはまた次々に人を襲うのか。永遠に?

 先生の言う通りだ「何のために?」。

 先生は言った。彼らは悪いヤツらなのか。

 目的はあるのか?

 いつかは満足、するのか。

 したら――どうなる。

『彼らに寿命はあるのか』

 先生の言葉が頭にこだまする。

 ――寿命。

 ページに手をかけたところで、

「陽ちょっといい?」

 襖の外から母親の声がして、顔を上げる。

「なに」

 

 狭い市営住宅で、兄妹たちそれぞれが一部屋ずつ貰えるわけではない。俺は中一の弟と一番下の五歳の妹の三人で、一つの部屋で寝ている。中二と小五の妹二人は年頃なので、別の部屋で母と寝ている。

「シャンプーの詰め替え、洗面台の下に十個くらいあるのよ。これ母さんが買ったのよね」

 後ろで漫画を読む弟の手を止めて「他に誰が買うんだよ」と小さくぼやくが母には届いていない。俺は弟の頭をポスンと指で叩いた。

 妹はすやすや寝ている。

「シャンプーの詰め替えなんか別にいくらあっても困らないでしょ」

「それもそうかしらね……。最近おかしいのよ母さん。ごめんね、おやすみ」

 と母は廊下の奥へ消えた。

「母さん、本当にボケた?」

 うっすらと弟が笑う。

 悪気はない。弟なりに不安の形を感じて、なんとか笑い話に変えようとしている。俺も笑って、「トシじゃねーの」と安心させてやりたい所だが、今の俺には出来ない。

「困ったな」

 そう言って、寝ている妹のふっくらした頬を手の甲で軽く撫でた。




4.

 十月のある日、家族でじいちゃんのお見舞いに行った。

「ハヤトじゃねーか! 元気か!」

 ガッハッハ!と快活に笑うしわしわの顔が好きだ。骨太で色黒で、海辺の街で漁師をしていた。俺のことを、自分の息子である隼人……つまり俺の父と混同している。

「あさひだよ」

 そう言うと、「ふーん。ああ、、あさひ?」と繰り返した。闊達な笑顔が一瞬で頼りなく不安な表情になるのが少し辛い。

「隼人にそっくりだから、仕方ねぇな」

 と笑うのは裕司おじさん――父のお兄さんだ。

 じいちゃんは隣県の山の近くにある綺麗な施設で生活している。お見舞いには電車とバスを乗り継いで、半年に一度ほど来る。今日は俺と弟と母の三人で来て、妹たちは留守番だ。

 じいちゃんの介護や世話は、ほぼ全部独身の裕司おじさんがやっている。父が亡くなって以来、そっちの親戚とはどうしても疎遠だが、じいちゃんのお見舞いには時々来させてもらって、裕司おじさんとも少し喋る。

「遠いところ来てくださって、すみませんね美幸さん。親父の元気なツラ、拝むのも辛いでしょう。来るごとに何発かずつ殴ってっていいですよ、どうせ覚えちゃいないんだから」

 昔は、この裕司おじさんのきつい言葉が苦手で嫌だった。今ならわかる。俺たちを励まそうとしてくれているのだ。弟はまだ多分このおじさんの言葉をうまく飲み込めていない。


 元漁師のこのじいちゃんは、施設の世話になるかどうかと家族が悩む程度に、痴呆がまだらに進んでいた。ある日突然、仕事だ、と言って止めるのも聞かず勝手に海に出ようと船を動かした。それを追いかけた父親は波に飲まれ帰ってこなかった。じいちゃんは、何が起きたかも理解せずに帰ってきた。周りはすぐに、じいちゃんを施設に入れた。

 父親がそうして五年ほど前に海の事故で死んだ時、一番下の妹はまだお腹にいた。

 母のじいちゃんへの思いは、子供の俺が何か口出し出来るものでは当然なかったが、最近は少しずつ、こうしてお見舞いに来れるようになった。

「無理してこなくっていいんだよ。例えジジイの事殺したって誰もあんたを責めない」

 裕司おじさんは、わざと口汚くじいちゃんを罵る。母に合わせる顔がないからだ。

「そんなこと」

 母の口元は笑っているようで、笑えていない。

 

 施設を出てバス停まで行く時、俺は

「あ、ちょっと受付に忘れ物した」

 待っててと弟に伝えると「兄貴、バス! あと五分!」というので、じゃあ先帰ってろ! と答えた。

 そして俺は建物に戻るふりをして、裕司おじさんの後ろ姿を探した。

 駐車場にはいない。ロビーに入る。自販機の前に立つ、父と似た背中。

「おじさん!」

「あれ、陽。帰ってねえのか。どうした」

「あの、実は……」

 受付の隅におじさんと座って、母の最近の状態について話した。物忘れにしてはひどい。買いだめしたことを忘れる、人の名前、行動したこと。指をいじりながら、なるべく冷静に話した。

「……そうだったのか。それ、お前一人で」

 無言で頷くと、

「ああ、辛ぇなあ」

 と、肩をガシッと掴まれて、その大きく暖かい温度に父を思い出してしまう。

「病院には連れてったほうがいいって分かってるんです。でも、どこの病院に、どうやって、誰に相談すればいいか分からなくて……」

「そうだよなあ。うん、そうだそうだ! 子供はな、病院の予約の取り方なんて知らなくていいんだよ! 任せろ、俺がなんとか母ちゃんを病院に連れてってやっから。心配すんな」

 ありがとうございます。そういうと涙が出てきた。

「そのうち、自分ン家も忘れて、帰り道に迷子なんてことにならなきゃいいが」

 と言う裕司おじさんの言葉を聞いて、俺は勢いよく立ち上がる。

「すいません、ありがとうございました! また電話します!」

 と言って、走った。


 バス停に佇む二人分の人影にほっとする。

「おせーよ」

 と睨む弟だが、少し安心したようにしていた。

「悪かった」

 あと五分、といって急かしたバスを見送って、弟は母と二人で俺を待っていた。

「次は三〇分後か。まあのんびり待とう。」

「うん。母さん、ほら、座ろう。」

 弟と母と二人で、先に帰ってもよかったのだ。だが、母の目線が少しぼんやりしていたから、そこで弟は判断に迷ったのだろう。このまま二人でバスに乗って、途中で母さんの「あの」症状が出たら、弟は母の腕を引っ張って、話の通じない母を連れて自力で家まで帰らないといけない。

「オレ一人じゃちょっと」

「うん、待っててくれて正解だった」

「何よ、何がよ」

 母さんは、今は少しシャキッとして、兄弟の会話に入ろうとする。何でもないよと言うと、そう? と言って、朱く紅葉しかけた遠くの山を眩しそうに見た。

 ただ景色を眺めているだけなのか。その美しさを忘れないよう、その目に刻みつけているのか。もし忘れたら、その山の美しさは、無かったことになるのか。そんなはずはないと思って、母の横顔を眺めた。


 次の日先生のお宅に伺い、愛喰いの研究は出来ないと伝えた。

 検査費用や治療費のため、家事手伝い以外にも別のアルバイトを増やす、だからどうしても時間が取れない。

 けれど先生は、研究の手伝いにも給料が出ると教えてくれた。しかもコンビニバイトなんかよりずっと稼げるという。

「来る時間、増やしたいだけ増やしていいよ」

 差し伸べてくれた手を俺は迷わず取った。

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