3 隠しファイル(3)【直助の場合.txt】
あァ、薬、くすりはいらんかね。
世にも珍しい忘れな薬ィ、いらんかねぇ。
よ、そこの。
そうあんた、きれいな姉さん。……あんたしかいねえだろ。横見てみなよ、ぼけナスとじゃがいもしかいねえじゃねえか。
どしたい、綺麗な顔してひどく疲れてるね。
ああ、言わなくていい、言わなくていい。
恋だね恋。それも、とびきり辛い恋。
あんた優しいお人だろう。だから、許しちまうんだ、男が他所へ通ってもさ。おまけに賢そうだ。
心が優しくて物覚えがいい。こんなに生き辛いタチもないさ。憎めねぇし忘れらんねぇ、それが人は一番辛ェんだ。
へへ、実はな、ちょうどそんなねえさんにぴったりの薬があるんだよここに。
世にも不思議な「忘れな薬」だよ。
どう?興味あるかい?
これが最後のひとツ、これきりしかないよ。
なんでって。
これを作れる優秀な薬師が、もう、どっか行っちまったからさ。
あ、おれ?おれはただの町医者の倅。薬の作り方はほとんど全部そいつッから教わったんだ。けど、この忘れ薬の作り方だけは、どうしても教えてくんなかったんだ。そ、だからこれで、最後。
そんな薬あるわけない?
いや、おれを見な。
おれだって昔その薬を飲んだんだ。
見ての通りさ、悲しいこと辛いことなんかあるように見えるか? ぜーんぶこの薬のおかげさ。
おっと……。そんな簡単には渡せねえな。あぁ、これは金の話じゃねえのよ。これがどんな薬か、ちゃんと知っとかねえと。よく言うだろう、用法容量を守って正しくお使いください、って。一歩間違うと危ねぇんだ。
それでも欲しけりゃタダでやるよ。どうだ?
……そうかい。
じゃ、まずは話を聞いてくんな。
昔……、植木良庵先生って偉いお医者さんがいてな。薬師はそこの助手だった。
良庵先生ってのは、しがない町医者に過ぎない親父からすれば、雲の上の存在だ。けど、武家に奉公に行ってたおっかさんのツテで、その先生の元でおれが医者見習いする段取りが出来たってんで、親父もお袋も大喜びさ。
ま、それでもおれが出来の悪い倅だったなら二人とも諦めたろうよ。だが残念なことに賢かったんだよおれは。いやいや自慢じゃねえ。物覚えがいいのも良し悪しって話さ。
それにおっかさんのせっかくの気持ちだ。息子にいい仕事見つけてやりたかったんだよ。おれは親父の跡さえ継げりゃいいと思ってたから、別に偉い先生んとこなんか行かなくてよかったんだけどよ、無碍にできないだろう。
要するにだ。
おれが賢くって、おっかさん思いのいーい倅だったから、この薬が今ここにこうして存在するってわけ。
な、あんたもおれと同じ、賢くで優しい人だろう。だったらこの薬、この先絶対必要になるはずさ。
どんな時に必要になるかって?
そうさな……。
◇
――嘉永元年。
見習いの仕事はまず庭掃除、用具の手入れなどの雑用から始まった。それらに慣れた頃、いつもは静かな医校の裏庭がざわざわと騒がしくなった。
それは「草取り衆」と先生が名づけた十人ほどの集団で、主に薬の材料に必要な植物採取を仕事としている。時にはお上から許可を得て国の外まで行くと言う。
その男は「草取り衆」の一人だった。
植物採集から帰ってきたその細身の男は、旅姿も解かず、笠を被ったまま先生と何やら親しく話し、採ってきた葉っぱだの根っこだのを見せて「今回は随分といい収穫がありました」と話していた。
顔は見えないが声は若い。胸が薄く、少しなよっとして見えるが、いく日とかけて旅をするのだから、きっと健脚なのは間違いない。
先生はおれに気がついて、「見習いの直助だ」と声をかけておれを指した。
その男は
「ああ、どうも、しつれい」
と言いながら笠を外した。
笠の下から、炎の鮮やさが覗いた。手入れのされていないその髪は、陽の燃え落ちる直前の、焼けつく色をしていた。つやがなく、乾燥している。
伏せた目がゆっくりと上がり、視線が交差する直前に、おれは顔を背けた。
「どこでそんなすごい技を身につけたんです」
医校の裏手の作業小屋で、一人もくとくと植物と格闘する男にそう話しかけた。採取したという大量の植物をまず仕分け、干す。それから加工して薬にする。手間のかかることだが、それらをほぼこの男が一人で担っているらしい。
その男は大層驚いてこちらを見てから、控えめに口元を緩ませて、
「ずっと山をねぐらに暮らしていたので。大したことではありません」
と答えた。
「じゃ、ご自分で研究したんですか。誰にも習わずに」
「ただの草遊びです。大げさですよ」
とキツネのように目を細めて笑った。
そんな生業だから、その男の指先の皮が薄く剥がれ、爪のきわが痛々しく乾燥していた。ちょうどうちで処方している軟膏があったので、戸棚から一つくすねてそいつにやると、とても感謝された。その男は、それを大事そうに懐へ仕舞い、綺麗に笑った。
その男は、朝太と名乗った。
往診のない日は、医校で先生から学び、空いている時間はいつも朝太と過ごした。
朝太はおれの兄弟子だと思っていたが違うらしい。
「私は医者なんぞになれません。ただ良庵先生に仕えているだけです」
仕えているが、身分が不確かなために、武家屋敷に出入りするような先生の往診には付いてはいけないのだ。
「時々山に入って、降りてきたらここで薬を作ってるのが性に合ってます」
と言った。
時には朝太が薬草から煎じた汁を使って、自分の身を使って検分をした。まだ人に処方する許しの出る前の薬の、よい実験台となった。
時には肌がかぶれることもあったが、面白い発見も時にはあって、楽しかった。楽しいというのは別に風邪が治ったとか怪我治ったとかではない。
ある時、朝太が含み笑いをしてある丸薬をくれた。
「朝太おめぇ何飲ませた」
見る間に腹が痛くなって厠に走る。
戻ってくると朝太は大笑いして、はらくだしです、と震える声で答えた。お前そんな風に笑うやつだっけ、とその瞬間に思い、自分でも何のことだろうなと思った。そんな風な企みをおれにしかける朝太と過ごすのは楽しかったし、おれが酷い目に会って、それを笑う朝太を見るのは、悪くはなかった。
ある時朝太が、小屋の外の釜で作業していた。大きな鍋の中身を一定時間沸かす必要があるらしく、朝太は腰を屈めて薪をくべては、空気を送りこんで火加減を念入りに見ていた。鍋には、何かの植物と、そこから煮出された真っ赤な液体がぐらぐら煮えている。
「薬を作ると髪もそんな色になるのかい」
と聞くともなく呟くと、驚いたようにこちらを見上げた。それから、
「生まれつきです」
と言って、
「朝日が私を産んだのでこんな髪になったと、母がいつか言いました」と笑った。
風が通り過ぎるとその明るい髪が落ち葉のように軽くなびいて、秋の枯葉の物悲しさを思った。
「なんだそりゃ。おっかさんはアマテラスってか。じゃあそっから生まれたお前は女神様だな。アァありがてえ〜ありがてえ」
といってふざけて両手をあわせて拝んだら、そんないいもんじゃないですよ、とどこか投げやりに言うので、お前だってちゃんとおっかさんから産まれたんだよ、と返した。
そうでしょうかね、となぜか泣きそうになるので、めそめそすんな、と背中を叩いた。あなたはいつも陽気で明るいですねと言われたので、でなきゃ生まれた意味が無いと適当に答えた。
朝太は本当に色んな薬を作れた。
腹痛の薬、胸焼けの薬、お通じの薬。
やけど薬に捻挫薬、頭痛めまい吐き気……。
どの植物がどんな風に変化して何になる、という簡単な事を教えてもらった。
「まさか惚れ薬なんてのはないだろうね」
「色事に効くものならあるって話ですけど。ここでは作ってません」
「じゃあ、頭がよくなる薬は」
「ないです」
「だよな」
と笑うと、「あ、でも」と朝太は付け加えた。
「忘れ薬なら作れますよ」
「忘れ薬。飲んだら忘れちまうのか。そんなの、誰が欲しがるんだい」
「だれも。けど、必要になったら仰って下さい」
必要になる時なんか来るはずねえよとその時は思った。
◇
その娘はお千代という。
大きな武家屋敷に住むいいとこのお嬢さんで、初めて会ったのは十三の時だった。見た目は元気そうだが、理由の分からない吐き気とめまいを長く患って、子供時代を元気に過ごせず辛そうにしていた。
おれは見習い医者としてその子の家に往診に通ううちに、その健気な姿にだんだんと惹かれていった。そりゃまあ、白くて小さな手だとか、優しい肌とかに触れて、うぶなおれが何も思わないわけじゃなかったけど、おれがその子とどうにかなりたいだなんて考えもしない。おれの想いはともかく、ちゃんと元気になって、そして可愛い娘さんらしく幸せになってくれたらいいなと思ってた。
ある時、そのお千代を泣かせてしまった。
その日はいつもより顔色が良かったんで、ご機嫌良さそうですねと言うと「先生が来る日は元気が出るんです」と殊勝なことを言う。おれが来る日だけじゃなくて、来なくったって元気で過ごせる日がきっと来ますよ、とおれは励ますつもりで言ったのだが、
「治ると来なくなるんですか」
と言うので「そうですね、治ればそうなります」とこたえたら、
「だったら、治らないでおきます」とお千代はけらけら笑って、布団を被った。
話しかけても出てこない。脈も目の色も見せてくれない。幼い悪ふざけか。けれど、おれに会えなくなるのが嫌だから病気のままでいるだなんて、健気で可愛い冗談じゃないか。そう受け流すのが正しかったのだろう。
その頃おれは、診察して薬を処方するという以外に、何か気分転換になる楽しい事は出来ないかと考えて、気分が良い日には本を読んでやったり、話をしたり、体調の良い日には庭の散歩に付き合ったりしていた。医者の領分を超えた親切だと分かってはいたが、お千代のことを好いていたから苦ではない。しかし何度も言うが、だからといって町医者と士分の娘の恋の成就を夢見たわけでは決してない。ただ純粋にお千代の回復と日々の幸福を願っていた。
お千代が言いたいのは多分その事だ。治ったらそうやってわたしの遊び相手をしてくれなくなるんでしょう、と。
その気持ちはわかる。年頃の娘さんが日がな部屋の中にいたって、人の世の何の楽しみがあるだろう。気晴らしをしてくれる数少ない話し相手と、病が治ったからと言ってそれきり会えなくなるのは寂しい。
それは分かるのだ、分かろうとしたんだ。
けど、「これ苦いから嫌いなの」と布団の隙間から指を出して、ごみでも捨てるようにぽいっと薬を畳の上へ投げた時、おれの胸の中に、朝太の顔が浮かんだ。――傷ついたように優しく笑う朝太の顔。それから、奥方様と旦那様、周りの者が千代を見る眼差しの暖かさと切実さ。そして、自分のおとっつぁんにおっかさん、先生。それぞれの顔が浮かんでは消えて行った。
そして最後に、貧しい子どもがどこかで病に伏せて、誰にも看取られず一人寂しく命を終えていく様子が、頭をよぎった。見てきたみたいに鮮明に。助けてやりたかった。
おれは何も言わず、投げ捨てられた薬包を指先で拾い上げた。そして、薬が欲しい、けれど金がない、そうして死んでいった、この屋敷の外ではたんなるありふれた光景でしかない、あまたの不幸を思って泣いた。
「先生」
おれの溢した涙を見たお千代はさすがに体を起こして、自分が何か悪い事をしたのだと理解したようだった。
「あーあ、高ぇのに」
頬をぬぐい、おれは努めて明るくこう言った。
せんせい、と言いかけてお千代は声も出さなかった。
「普通は買えねぇんですよ、お千代様。そうやってぽいっと捨てちまうのは流石に勿体ねぇから、内緒でおれにくださいませんかねぇ」
おれの声の意外な明るさにお千代は少しだけ驚き、また僅かに元気を取り戻し、「先生もご病気なんですか」と聞いた。
「おれじゃねぇです。お千代様は行ったことないですよね。ここから南に真ッ直ぐ一里半ほど行ったらね、南柳原っていうじめッとした湿地がありますから。すぐに見つけられますよ。あァ〜駕籠は、拾えますかね、この辺り」
「何……何です先生。駕籠? どこに行かれるんです」
おれは大きく口を開けて言った。
「あぁ、おれ、今からこれをね、貧乏長屋のガキんちょ達にあげてきますよ」
するとお千代は目をまん丸にして、唇を少し震わせた。怯えたのだ。おれは続けた。
「そうだお千代様、いいこと思いつきました。今日はご気分が良いのでしょう。散歩がてらご一緒しましょう。あまり清潔なとこじゃありませんけど、治りたくないんなら今更どんな病にかかっても構いやしないでしょう。さ、お支度なさって。女中さんお呼びしますか、どうします」
するとお千代はわっ、と身を伏せて激しく泣き始めた。
言い過ぎたと分かっていたが、おれは謝りもせず、ただし薬だけはお千代の枕元に戻して、屋敷を出た。
門をくぐり抜けながら、あ、死ぬなと思った。
ただの見習い医者が、お武家の娘さんに言って良い言葉の範疇を超えていた。少なくとも何かしら責を問われるのは間違いない。医者の道が閉ざされるならまだマシで、もっと重い罪に問われるかもしれない。
「朝太ァ、やっちまったァ」
「何をです」
薬草の作業場で、鼻歌でも唄いそうに穏やかな横顔で葉っぱを選り分ける朝太を見ると、まあそれでもいいかと思えた。
おれは土間から朝太がそうしていつもいる作業台のそばに腰掛けて、それからごろりと寝転がった。薬草の匂いは、すっとして、すっきりする。かさかさ、と葉っぱをもぎ取る音が耳に心地よい。落ち着く。
「ねえ、何があったんです」
「死ぬかもな」
「えっ。そんなにお悪いんですか。そんなご様子じゃなかったでしょう」
「いや、お千代は元気だったさ。おれだよ」
「へえ直助さんが。なぜ」
お千代がお前の薬をぽいと投げ捨てた時、おれはお千代ではなくお前のことを思ったんだ。そうは言えない。
「お武家様を怒らせたかも、なーんて」
「ああ、そいつはまずい。まずいですよ」
「だろう」
「打首獄門」
「ひどい」
「はりつけ」
「なんてこった」
「さらし首」
「助けてくれよぉ」
ははは、と朝太は笑った。
薬の効果があったから、あるいはなかったから、朝太はいちいちそこに心を乱されない。薬が効くことも、体に合わないことも、それはすべて、ただ自然と植物の成り行きの中で、人として出来うる事を全うしている命のあり方の一つでしかない。
おれがお武家さまにとんだ失礼をこいて、きつい仕打ちを受けるかもしれねえという時さえ、朝太は軽々と笑っている。
そんな肩の力の抜けた自然な生き方に、人としての謙虚さを見て、えらいやつだなと思った。病を治してやるという気負いも傲慢さもない。良くならないじゃないかという失意も恨みもない。こんな風に強く生きられたら。
「けど、本当にそうなったらどうしよう」
「そうなる前に逃げましょう」
「どこへ」
「山へ。楽しいですよ、山」
「おれァ猟師みたいには生きていけねぇよ。無理だ。熊に喰われてすぐ死んじまう」
「私が一緒に行きますよ。山育ちなんで。生きていけます、大丈夫」
「一緒について来てくれんのかい」
「ええ行きますよ」
「そっか、なら、いっか」
「はい。気にしないことです」
この男の名誉を少しでもおれは守ろうとした。
薬が手に入らず死にゆく見知らぬ子どものことを、心に抱いた。お千代の幸せを願って、きついことを言った。
だから、これでいいと思った。
ところがお千代の家から来た使いが持ってきたのは、お千代が書いたやさしい字の文だった。
『母に訴えたら、薬を放り投げるような悪い手は要らない、お前が悪い、きちんと先生に謝るよう叱られた。』
『してはいけないことをした。優しさに甘えてわがままを言った。』
『二度としない。きちんと薬を飲む。だからまた往診に来てほしい。』
そのようなことが、柔らかい字体で、もっと可愛らしい文体で書かれていた。
次の往診でおれも奥方様とお千代に謝った。二人は静かに頭を下げて、自分たちが悪かったと慇懃に言うので、おれは慌ててそれを「やめましょう、お千代様が元気になるのが一番ですから」と伝えた。
それからお千代は薬がどんなに苦くて不味くても、頑張って飲み続けた。二年ほど往診と薬の処方と、時々の散歩と読書を続けるうちに、次第に食事の量も増え、顔色が良くなってきた。
「体を動かすとお腹がすくんですね。知らなかったです」
二年ほどかかったが、ほとんど回復したので、往診の頻度を減らしながら様子を見た。三年目には時々だけ診るようにり、お千代は薬が必要なくなった。すっかり元通りになった。
十六になったお千代は、父方の親戚の楠木何某という格上のお武家様の嫡男と祝言をあげることになった。
「三年も待たせてしまいました」
と最後の往診でお千代は言った。
「三年で済んでよかったじゃねぇですか。幸せになってくださいね」
「なれますか。うまくやっていけるか不安です」
と言うので、
「だめンなれば、戻って来られたらいいだけですよ」
と言うと「まあ」と笑った。
◇
お千代が嫁いで一年半ほど経った。
おれは医師の難しい試験に苦戦して、まだ見習いの身分から抜け出せずにいた。何度か挫けそうになったが、「お前は筋がいいから諦めてほしくない」と良庵先生に励まされ、日々奮闘していた。
そんなある日、お千代の家から再び使いが来た。お千代本人からではなく、旦那様からのお召しだった。
これはどうしたことだろうと先生や朝太と顔を見合わせた。お千代の診察をしなくなってから丸二年。
「懐かしさに会いに来てほしいということでしょうか」
と朝太は言う。
広間に招かれ座して待っている間、使用人からなにから屋敷中に、張り詰めた重たい空気が充満しているのが分かり、息が詰まりそうだった。往診して通っていた日々とはまるきり違う。おれは歓迎されていない。
何だ、何が始まるのかと思っていると足音が近づき旦那様が上座に着座された。頭を下げてお声がかかるのを待っていると、「しばらくだな」と建前だけの声がかかる。
勿論お千代がどうしているかなんて話は聞かせてもらえず、唐突に「そこもとの処方する薬について尋ねたい」と静かに問われた。
「答えられる事ならば」
と身を硬くして頭を僅かに上げた。
どう言う事だ? 処方と言うが、そんなものとっくの前に終わっているではないか。
「単刀直入に申す。この世には、産まれ出づるややこの形が歪むような薬は、理屈として存在するか否か」
――ややこ……?
「あ、あの、よもや……」
「そちから問い返すことは許さぬ。問われた事のみ答えよ。かような薬は存在するか」
「ややこの、形……」
「むつかしく考えず事実を申せばよい。ただの理屈だ」
それが本当なら手紙で済んだはずだ。医学の確かな知識を知りたいだけなら見習い身分のおれを呼ぶ必要はない。
「……ややこの因果となりうる薬は……、確かに存在いたします。医者として、妊婦には勧められぬ薬はあまた存在いたします。ただ、子の形の歪み、となると……。なにせ当方は未熟な見習いの身、この場で不確かな事実をお伝えする前に、立ち戻り我が師とその薬師に確認致したく」
どうか、と頭を下げる。
お千代に何かあったのだ。何が、何があった。
まさか嫁ぎ先で毒など盛られてなかろうな。
おれは朝太と良庵先生に事の次第を伝え、今度は三人連れ立って再び屋敷へ馳せ参じた。
「お千代様への処方は二年前に完全に終えております。二年の時を超えて胎児の形を変える薬など、存在いたしません」
良庵先生はきっぱりと答えた。
そして朝太も
「直助が既に申しましたように、妊婦の障りになる薬自体は確かに存在いたします。気を下げる薬、血の巡りを盛んにしすぎるために胎の子によくない薬、堕胎薬として扱われる薬……。しかしながら、まずお千代様にはこれらの薬は処方しておりません。さらに、それが長く母体に留まり数年を経て胎児に害を及ぼすという可能性は万に一つもございません。そんな薬が存在するとすればそれは医術ではありません」
その時、襖が冷たい音を立てて勢いよく開いた。
「医術ではないと申すか」
垂れ髪を散らし、片手に赤子を抱いた乱れた裾の女が入って来た。襖がぶつかる硬い音に、腕の中の赤子はびくりと体を反らせた。
「それは祟りということかのう」
その女の灰色に落ち窪んだ瞳が、ゆったりと虚空の暗闇を覗いている。その異様さに背筋がぞわりとした。
――うまくやっていけるか不安です。
楠木公との縁談が決まり、そう恥ずかしそうにおれに教えてくれたお千代。
「お千代様……」
と呟いた時、その目がぎょろりと回ってとおれを見た。
「先生」
ぱっとお千代は笑った。しかしかつてのような笑顔ではない。顔色が悪く、肌も髪も乾燥している。手首が枯れ枝のように細い。
「抱いてやってください」
と、腕の中の寝ている赤子を、おれに見せた。断ることもできずに御主人を見た。無言で頷くので、お千代に促されるままにその赤子を腕に抱く。
「み月経ちました」
すうすうと、白い頬を上下させて眠る赤子。
大人たちが何を言っているかなど気にも留めず、ただ己の生命力に従って、ひたすら眠りに没頭する命。その健気な力強さ。ずしりと腕に乗る、甘い湿度。密着する暖かさと幸せ。
――……の事は忘れとうなかった。
何か胸の中に一筋の猛烈な痛みが湧き、涙が頬を伝った。
おゆき。
ぼそりと呟いた自分でも分からぬ誰かの名前に、おれは遠い記憶の彼方から、かつて抱いた赤子甘く苦しい重みを呼び覚ましたような気がした。いつか、こんな風にいとけない命をこの腕に乗せて泣いた気がする。
するとお千代が反応した。
「そう、おゆきです。父さまからもうお聞きでしたかしら。けど可哀想に、もうすぐお別れなのよ」
無邪気におれの腕の『おゆき』を覗き込むお千代は、何故かお別れなどと口走る。
「ね、見てここ、先生」
お千代は人差し指を差し出して、おゆきの手のひらに当てた。するとおゆきは、赤子の反射でそれを握り返す。
「多いでしょう」
おゆきの小指の外側に、もう一本小さく可愛らしい「おまけ」がくっついていた。
「楠木様は、わたしが悪いんだって。わたしの体がおかしいんですって」
おれはおゆきの、手のひらの外側に生えたその小さな芽に触れた。触れると、ぴく、と動く。爪が生えている。ああなんてかわいい。ただの指じゃねえか。
おゆきや。これは神様がくれたのだよ。この世はただ生きるのだけでも大変だから、指一本くらい余計に用意していきなさいと、優しい神様がおゆきに与えて下すったんだよ。親ならそう言ってやれよ。どうか、おゆきを捨てないでくれ。
旦那様は側近の者に何かを告げてお千代を下がらせた。お千代はおれの腕の中のおゆきに見向きもせず、ずるずると裾を引きずって部屋を出て行った。それを見計らって旦那様は口を開いた。
「そなたはお千代に懸想していたそうだな」
硬く張った空気が耳に触れて痛い。
おれは目線を、おゆきから旦那様へと、ゆっくり上げた。そして腕の中のおゆきを、今一度しっかりと抱き直した。この度はおれが、おゆきにしがみついているのだ。
「『お千代がよその男に奪われるのを恨み、密かに薬で祟りを為した』という事にする」
「祟りを為した」? と、いう事にする……?
「……待ってください」
朝太が静かに憤慨した口調で声をあげようとすると旦那様は「だれが口を開いて良いと申した薬屋。慎め」と低く告げた。そして、真木直助よ。とおれに言う。
「そなたがお千代を大事に思うてくれていたのは知っておるぞ」
「……あ、あの」
声を出せない。出したらおゆきが泣いてしまう。
「医者としての領分を超えた行いだったことは、そなたが一番よく知っているのではないか」
否定できない。確かにお千代に惚れてた。けど変な意味じゃない。お千代の幸せを願ってた。いい旦那様に貰われて、何不自由ない幸せな生活をと願っていた。
「お千代が申すにはのう、」
と旦那様は扇子を手に取って、膝にぽんと当てた。
「そなたに、薬を飲めとしつこく言われたそうだ」
「そ、」
「飲まねば貧乏長屋に連れて行くと脅されてな」
良庵先生が息を呑む音がする。
「おまけに、嫁ぎ先でうまく立ち行かなくなれば戻って来いと申したそうだな」
「……そんな、全部誤解です、おれはそんなつもりでは」
「では、申した事自体は事実であるのだな」
けど、文脈ってもんがあるでしょう。その言葉が喉に引っかかって出てこない。これを伝えたのがお千代であるなら、お千代は「そのように」受け取ったということだ。
薬を飲めと言ったのは、治ってほしいからだ。
貧乏長屋に連れて行くなんて言ったのは確かに言い過ぎだった。けど薬を投げ捨てられて、これは人として言わなきゃならねえ事だと思ったんだ。嫁ぎ先を壊す気なんかあるわけがないだろう。不安がっていたから、いざとなったら逃げ道もあるって言いたかっただけだ。
心からの真心があった。胸を張って言える。けれど何一つ彼女には通じていなかった。
「わたしも、そなたが奇術だの呪術だの使ったとは本気では思ってはおらぬよ」
ふいに旦那様の声質が和らいだ。
「ましてそなたがこの屋敷でお千代を診ていたのは何年前だと思っておる。そんな前からの薬がお千代の体に留まって胎の赤子に悪さをするなど、本気で思っておるわけではない。そこまでわたしもうつけではない。分からぬか」
「……分かりません。分かりません、何故そのような事を」
「お千代のために泥を被ってくれぬかと申しておる、真木直助よ。そなた、父は菱屋町の医者だそうだな。御母堂は息災か」
「はい……おかげさまで……」
何だ、何の話だ。父や母に何をする気だ。
「それはよかった。それで……そう。情けない事だがな、我が家はこう見えて火の車なのだよ。楠木様のお力添えがどうしても必要なのだ。鈍いのうまだ分からぬか」
誰か誰か助けてくれ。このお人は何を言っているんだ、まるで分からねえよ。その時朝太がおれの背に手を当てた。支えるように、包むように。そこでかろうじて、おれは正気を保てた。
「お千代の体は健康そのもの。赤子に何の悪影響もない。もしあるとすれば、以前飲んだ薬の残りが体に僅かに留まった故。ただし、その毒は今やおゆきに託されて、お千代の体からは消え去った故、何も心配には及ばぬ――という、医者からの一筆が必要なのだ。……お千代の体に欠陥はないと分かれば、楠木様はお千代を離縁しない」
「おれに、診察医としてその証文を切れと……」
「そうだ」
まさか、と口にしようとした時、ふぁっ、と腕の中でおゆきが泣いた。
ふわぁ、ふわあっと、繰り返し泣いたので、乳母がおゆきをおれの腕から奪い去った。おゆきを勝手に持って行ってしまったことにおれは腹が立った。触るな、やめろ、おゆきを取るな。言いたかったが言えなかった。腕の中の、じっとりとした湿気と赤子の匂いがかき消えて、体がすっと冷えた。ああ、おゆきを再び失った、おゆきが居なくなったと思って、おれは泣いた。
◇
——嘉永六年。
海に近い街道は汐風が背中を押してくれるようで、足取りも軽い。
「あぁ、くすり、くすりはー」
「朝太そりゃダメだ誰も来ねえ。かしな」
腹に力の入ってない朝太から薬箱を奪って背負い込み、
「アァ〜〜〜! くすりィ〜〜〜!」
思い切り声を張ると、後ろからどこかのオヤジにうるせえと怒鳴られた。振り返って、
「そんな怒りっぽい旦那には、そう、サイコカリュウコツボレイトウがお勧めだよッ」
と目を見て言うと、「訳わかんネェこと言ってやがんな」と背中を丸めて逃げて行った。
忘れ薬ってのは便利だな。あんな馬鹿な目にあっても、こうして楽しく生きていけるようになった。
そう。
あんまりおれは辛かったんで、とうとう朝太に頼んだんだ。忘れ薬をくれよって。
朝太は一粒の小さな丸薬をおれに渡して飲ませた。
ごくん、と飲み込んだ味は苦くもなんともねぇ、無味無臭。それから朝太はおれの目をじっと見る。飲んだ後の体調とか身体の反応を観察しなきゃならねえらしくてよ。おれは飲み込んだ後、あぐらをかいておとなしく座ってた。
「動かないで」
朝太は膝立ちになって、おれの頭を抱え込んでからこの二ツの目を覗きこむんだ。こう、鼻と鼻がくっつくんじゃねえかってくらい。
こうも言ってたな。……目の色が変わるんだとよ。だから忘れ薬を飲んだ後、目の中をちゃんと見てやるんだと。
薬の効果かな、少しするとおれはぼうっとして、なんだか妙にうっとりしたような気分になってよ。まるで夢でも見るみたいにして朝太の目の中を見つめ返した。不思議な色なんだ。赤くて、夕日が入ってるみたいで。あったかくて。それから、その目の奥に、不思議なんだが……見たこともない綺麗な景色が見えるのよ。しかも一つじゃない、動いて移り変わっていく。万華鏡みてぇに綺麗だった。
ひっそりとした山小屋みてぇな場所だったり、野良仕事してる子供だとか、今よりもっとむかしの殿様みたいなお屋敷だったり。おれはそんな所勿論行った事ねえよ。けど、とにかく馬に乗ってたり、子供が庭で遊んでたり、赤ん坊がいて、風呂に入ってたり……、とこう、前後脈略のない、熱にうなされてる時に見る夢みてえだった。
……そのどれも幸せな光景なんだが、おれは何度か泣きたくなってね。優しくされて、心がじわっと満たされると、なんだか涙が出てくることって、ねえさんだってあるだろう。な。そんな気分だったよ。
「いいよ」
と言って朝太の顔が離れると、ふわっと眠気が襲ってきて、そのまま寝ちまった。起きると、それまでの気分の重たいのが、すっかりなくなっちゃって。
それからおれは、嫌なこと全部なくなって、面白おかしく暮らしたさ。
まず朝太と一緒に東海道の神奈川宿に生活の場を移したんだ。薬を売り歩いて、旅の疲れで具合の悪くなってる人を相手にな、風邪薬、きず薬、腹痛、吐き気。旅するのにやっかいな症状が消えるってんで、よく売れたよ。
本当に売れたんだよ。なんでかっていうと当時、黒船を観にきた見物客であの辺は今よりすごい賑わいだったんだ。おれ?おれも当然見たさ。でっけえ船でよ。遠目から見ても分かるんだ。おそろしかった。大変なことになっちまったと思った。
けど、楽しいことも起こるって分かったんだ。あの船に乗ってさ。海を渡って、薬を処方するだけじゃなくて、本当の人の体の病気がどうして起こんのか、人の体の中で何が起きてんのか、もっぺん一から学んでみてえなあって。夢みてえな話だけど、絶対出来ないって訳じゃねえだろ。そう明るい未来を思い描けたのは、朝太の薬のおかげさ。
けど……黒船が持ち込んだのは蘭学だけじゃねえ。向こうの人にそんな悪気はなかったんだろうが、外海の悪い病も一緒に入ってきちまった。慣れない病気に太刀打ちできなくって、朝太――いや、おれはそれからすぐ死んじまった。可哀想だった。
どんな薬も効かなかったよ。
死んじまったから、おれは外へは行けなかった。
さ、ねえさん、どうする。
え、黒船来航? そう。嘉永六年のペリー提督来航。今? 今年はそうさな、丁度黒船来航から四十周年だな。おれ? ……若すぎる? はっは、ねえさん、褒めても何も出ませんぜ。
え、やっぱり忘れ薬なんか嘘だろうって。
なんでさ。
お武家の娘さんの治療をしてたのを裏切られて、辛い思いをして、それを忘れ薬で忘れた。うんそう、その通り。
聞いてて苦しかったって? ありがとうよ。
え? 違う? 褒めてない?
……薬で何もかも忘れちまったはずなら、一体どうして、この話をねえさんに教えてやれるのかって。
おれは、一体誰かって?
ははァ、やっぱりねえさんは賢いねえ。
と、言った男が、頭の手拭いをサッと剥ぎ取り、軽妙な手つきでぽんと叩いたその頭は、火のように赤い髪だったとさ。




