2 隠しファイル(2) 【鶴丸の場合.txt】
側女中のおとせをいいくるめ、師範との約束を破って散々遊んだ。思いつくまま悪戯をして着物を破いて帰った後、傅役がおれではなくおとせの方をきつく叱っていたのを横目に、おれは襖を閉めてゴロリと横になった。
「鶴丸様。おいでですか」
「おらん」
襖の向こうで傅役の隅田が渋い顔をするのが目に見えるようだ。たしか齢は三十を少し過ぎたくらいのはずだ。
「隅田は、とせを叱らねばなりませんでした。理由はお分かりですね」
「叱っても無駄じゃ」
おとせがおれに厳しくすることは出来ない。隅田も父が怖いのでおれに思い切ったことは言わず、かわりにとせを叱る。おれはつまり鷹を括っていた。
「そうですね。ですからとせには暇をとらせました」
ばっと身を起こし勢いよく襖を滑らせると、大人の目が二つ、暗い廊下の上で置き物の獣のようにこちらを見ていた。
「暇とはあんまりな」
元々はこの家の代々の家臣筋の娘だった。良縁に嫁いだはずだったが、子に恵まれず数年で離縁され出戻った。同じ頃、おとせの父と兄である嫡男が共に逝去。家を失い行き場をなくしたおとせを、主家である父が、亡き家臣への義理立てのため手を差し伸べた。
それ以来、おれの側女中として務めていた。そのおとせが暇に出された。
「莫迦が、早く連れ戻せ」
「そう仰られましても。旦那さまのご意向ですので」
「おとせはお前が引き取る心積りではなかったのか」
「……とせがそう申したのですか」
「言わずとも分かる。可哀想じゃ」
「あれも武家の娘です、憐れみは無用。大体、箪笥の引き出しじゃあるまいしこちらの都合で出したり戻したり出来るものではありませんよ」
隅田の顔色は読めない。憐れみは無用と言うが、それは憐れみの裏返しではないのか。
拳を握り込んだ。悪いことをしたのはおれだ。大人の言うことを聞かなかった。確かにそうだ。だからおれだけ罰したらいい。なぜ、おとせを? 暇に出すほどのこととは到底思えない。
「後悔ですか。何の役にも立ちませんな。必要なのはご嫡男としての自覚と責任です。立派に元服なさればそれで少しはとせも報われましょう」
襖が硬く閉められた。
行く方なく庭の奥まで歩いて出てぼんやり池を眺めていると、誰かに何か話しかけられた気がしたがあまり覚えていない。少し優しく、そして哀しい気持ちになって、けれどおとせの将来や処遇に対する辛い気持ちはそれきりすっかり忘れてしまっていた。
おとせは母のかわりだった。
おれが五つで弟が三つの時、妹が産まれた。産後の肥立が悪く、母はその後すぐに儚くなってしまった。
おれも弟も、ずいぶんと寂しい思いをした。わがままはそのせいかもしれない。そして聞き分けの良かった弟までもが、母を求めて散々泣き暴れて、中身が入れ替わったかのように手のかかる存在になった。かえって寂しさがまぎれ、気がそっちにそれたのはいいのか悪いのか分からない。
それはおとせがちょうど出戻った頃だった。おとせは父の計らいでおれと弟の側女中として屋敷に勤めることになった。父としては子供達に亡き母に似たぬくもりを与えたいと思ったのは当然で、その役目を仰せつかったおとせは、おそらく自分が産むことの叶わなかった子の分まで精一杯仕えてくれた。
隅田は、おとせが厳しく躾ける事ができずおれを奔放に育ててしまったがために暇をとらせたが、何をしても叱りもせずただわがままと寂しさを受け入れる存在は、おれと弟の心を柔く包んで、辛い幼い日々の暗い影を随分と和らげた。あの甘やかしは、必要だった。その証拠にしばらくして、弟の癇癪も次第に鳴りを顰めた。実の母がいないながらも、穏やかに過ごせるようになった。おとせの功績である。
しかし家の中が落ち着くと、今度は一部のものが「後家が後妻気取りをなさる」と陰口を叩いた。そんな事実は一切無かった。父は己の妻を、おれの亡き母のことを真に大切に思っており、その後誰かを迎える事はなかった。
そればかりか父は、おとせを隅田に娶らせれば事が全てうまく運ぶとさえ考えていた。隅田にはおとせに親切にしてやれと事あるごとに話していたし、おとせには、「隅田の甲斐性はわしが保証する」などと言っておとせを赤面させていた。
だから、おとせもいつかは幸せになる、と子供ながら信じ込んでいた。
そんなおとせが暇を出されたのは、ひとえにおれのせいだった。おれの、嫡男としての自覚のなさ。幼さ。無責任さだ。そのことをもっと重く受け止めるべきであった。
だのに、元服を済ませたおれの姿を見た父が「この目出度い姿をおとせに見せれなんだのが悔やまれる」と涙ぐむまで、おれはおとせの事を思い出さなかった。
弟に「兄者は薄情じゃ」と冷めた目で言われ、しかし忘れていたのだから仕方ないと思った。
◇
元服を控えたある冬、おれは風呂に入っていた。その晩はひどく寒かった。冷え切った身体に、熱い湯加減が心地よかった。常はぬるいが、またその事に頓着した事はなかったが、その日はどうにも居心地が良く、つい長湯をした。
その間じゅう、下男が側で薪をくべて焚いていたので、申し訳ないと思い、焚き口窓へ向かって「寒かろうにすまんな」と声をかけた。
返答がないので誰もいないのかと、湯から立ち上がり外を見た。
夜のとばりの中、火が飛び移ったのかと錯視した。あざやかな赤い髪であった。驚いて声も出ない。そして向こうもこちらが外を覗くとは思わなかったようで、酷く怯えた様子で、おれの目線から頭を手拭いで隠した。
「火をくべるとそんな髪になるのか」
と湯に浸かりながら尋ねると、
「醜いものをお見せしまして。お許しください」
と恐縮するので、醜くない、と言った。
「産まれついた時からでございます」
といらえがあった。
「では母の胎で火事にでもおうたか」
と聞くと、
「母の胎には居たことがございません。わたしは朝日に産み捨てられたました」
と下男にしては妙に気の利いた事を言う。
◇
元服から少し経つと、家臣筋の某から菊という娘を娶り祝言をあげた。
「幾久しく可愛がってくだされませ」
初夜、純白の肌着でそう頭を下げたお菊は、そう言う割に可愛げのない大層気の強そうな眉目をして、にこりともしなかった。
やがて子を成した。雪のように白い肌をしていたのでおゆきと名付けた。おゆきを腕に抱くとこの世の全てが愛おしいと思われ、父や母を思い泣けた。
「食べてしまいたいのう」
とその頬に口を寄せると、乳母が厳しい顔で「おやめあそばせ」と叱るので、お菊が綺麗に笑った。
しかし、ただ愛され守られるためだけに息づくその小さい命は、二つめの正月を超える前に病魔によってあっけなく奪われてしまった。
昼も夜もなく、暗闇の中でお菊と泣き暮らした。「おととたま」とおれを呼んだ。そのまろい頬を両手で撫で尽くしたのが嘘のようだった。小さな肩を落とす老いた父を見た。
程なくして長男が産まれ、おれの幼名である鶴丸を名乗らせた。その後、菊との間には男を一人と女を一人もうけた。
◇
長男鶴丸に馬を与えた。
馬丁に赤い髪の男がいた。いつかの風呂焚き下男だ。
顔の煤がすっかりとれたその顔つきは、白く、涼やかだった。またわずかに身綺麗になっている。日の下で見るとよりその髪は鮮やかに映えて、目の色も一風変わっていた。
「もう風呂焚きはせんのか」
と聞くと、「まさか覚えておられるとは」と身を小さくした。
「馬方へ引き上げられたのならめでたい事だ。そなたの湯加減が良かったが、諦めよう」
と冗談を言って笑うと、滅相もないと下を向かれた。
「下男にお声をかけてくださるお優しい方が私の主と知り、見に余る光栄です。ますます誠心誠意お仕えいたします」
そう慇懃に話す姿は、どう見ても下男の佇まいではない。そしてふと、その後ろ姿を見て、既視感に襲われた。この赤い髪を、風呂場以外でも見たことがあるような気がするが。……いや、気のせいだろう。風呂場で会った時の印象が強かったからだ。
ただ、やはり少し気にはなったので、下役頭にその出自を尋ねた。しかし、どこかで拾っただけで、生まれや育ちはよく分からないとの事だった。
「しかし白すぎないか」
言葉や立ち居振る舞いだけでない。
決定的なのは下働きの者にはいない肌の白さだった。肌が焼けているかどうか、そこが育ちの違いの最も現れる所である。だから娘たちはなるべく日に焼けさせぬよう親は苦心するのだ。
煤が取れて現れたのは、赤髪の、目元の澄んだ凛々しい青年。本当は下賤の生まれではなく、どこか高貴の出ではないのかと思ったのだ。しかし、
「不審でしたらすぐにでも追い出します」
と言うので、慌てて、それはやめよと伝えた。
◇
長男は健やかに成長し、次男亀吉はきかん坊になった。
おれは次男の気の強さと無邪気な残酷さに手を焼いた。してはならぬ事はしてはならぬと叱った。泣いて謝る姿は可愛らしく憎めないので一旦はほだされて許すのだが、また同じ事を繰り返すので困り果てた。
「兄の鶴丸を見よ。心優しく文武両道、そのようなこと一度もしなかったぞ」
そう諭すのだが、ふへへへと笑って膝にじゃれつくので気が削がれ、これ以上話しても無駄と、叱るのをやめた。
「鶴丸は年下のものの良い手本じゃな。励めよ」
と鶴丸に伝えると、「はい」と大人しい答えがあった。
だから、
「旦那さまは亀吉びいきです」
とお菊が言った時、何のことか分からなかった。
よく出来た兄をよく褒めることはあっても、出来の悪い次男を贔屓したことは無い。
鶴丸は性格が優しく、亀吉に喧嘩でやられることもあった。しかし亀吉のそれは「甘え」と理解している鶴丸は、年長者らしく弟の未熟さを受け流し、受け入れていた。それが鶴丸の器の大きさであり、嫡男の素質でもあるとおれが一番認めていた。
亀吉は読み書きも危うい。叱られても立ちあがろうという根性もない。一方鶴丸は覚えもよく、堪え性があり、藩学校では師範のお墨付きも頂く。おれの息子とは思えないほど立派に育ってくれている。
だから、それは菊の思い違いだと言ったのだが、鶴丸自身さえ「父は出来の悪い亀の方がお可愛いのです」と言うので、全く呆れた。出来の良し悪しでそなたらの可愛さを区別したことは無いと言うと、父上がお気づきにならないだけです、と冷静に返された。
話にならん、と切り上げた。
その夜、夢を見た。庭で誰かと話している夢だ。
その者は静かに、うんうん、とおれの話を聞いてくれた。顔は思い出せないが、その穏やかな笑い声だけが耳に残っている。目が覚めると、着物の裾が夜露で濡れていた。
◇
「あの赤い髪の男をどこかへやってください」
寝床で菊が思い詰めたように言った。わけを訊くと、
「得体が知れなくて」
と掴めぬ事を言う。
「あの男が何かしたのか」
「いいえしておりません。けれど、ちかごろは視界に入れる事さえ辛うございます」
「わざわざ下男を視界に入れることはないではないか。まことには何があった」
と聞くのだが、これといって具体的な事は話さず、気味が悪い、何を考えているか分からず怖い、とだけ訴える。
「邪魔なのです」
とまで言う。
「其方が言うのだから出来る限り叶えてやりたいのは山々だ。だがはきとした理由がなく、ただなんとなくというだけでそこまで疎ましく感ぜられるのだとしたら、原因はあの者にではなく、そなたの心の方ではないか。卑しい生まれの者だからという一点で軽んじているそなたの心のこそ、」
卑しい、と言い差してさすがに口をつぐんだ。
お菊は、こめかみのあたりに怒りを露わにした。
そして、「鶴丸の時さえ」と声を震わせた。
「今は鶴丸の話はしていない」と言うと、菊が指を掌の中へ握り込む音が聞こえるようだった。
「鶴丸が……、『父は亀吉の方が可愛いのでは無いか』と言い募った鶴丸にさえ、何を馬鹿なと取り合わなかった。いえ、亀吉にもです。あの子が悪さをしたところで、なんら心を込めてお叱りにもならず、すぐにお許しなる。それは、二人のことがどうでも良いからです。
けれど、あの赤毛の者の事となるとそうしてむきになって、普段はお見せにならないお心を曝け出してしまわれる。いったい、なぜです」
そのような事は断じてない、と何度伝えても心には届かぬようだった。
赤毛の下男の名前さえ知らない。けれどお菊が言うように、あの男を何か悪く言われると、瞬間的に言い返したくなる気持ちがあるのは確かだった。その理由はうまく説明できない。
◇
歳を重ねると、別離の数が増えた。
娘のおまさが遠い家に嫁いだ。お菊は泣いて、消えそうになる程悲しんだ。
おれを叱った隅田は隠居した。
父は小さくなり亡くなった。
周りに、親しい人間が一人一人と減っていくのは何度経験しても慣れない。慣れるはずがないのに、お菊はそんなおれのことを「冷たい」と一方的に罵った。
「どうしてそんな平気でいられるんです。旦那さまは、心がからっぽです。悲しいことを悲しいと思う心がなんにも無いのです」
「からっぽとはなんだ。おれだって悲しいが、悲しいと泣いているだけでは暮らしてはいけないから、平気なふりをしているだけだよ」
「おゆきのことも、きっと忘れてるんですよ」
誰だって?
「……おゆき?」
聞き返して、「やっぱり忘れていらっしゃる」と散々に菊を泣かせたあと、二つになるかならないかで旅立ったあの小さな命の事を思い出した。その途端、双眸から滂沱の涙が、溢れる思い出と共に泉の如く沸いた。
しっとりとした重みを。乳の香りの残るあの温度を。じわりと汗ばんだ産毛を。耳に心地よいあの笑い声を。
「すまない。忘れていたわけではないのだ」
違うな。忘れていた。何故か分からないが、おゆきを失った辛さごと、いつのまにかおゆきの暖かい頬の感触とともに、記憶から消え去っていたのだ。
その事が悲しい。おゆきを忘れるはずがないのに。
お菊が何を言ってるか初めは分からなかったが、やはりおれには心がないのではなかろうか。
しかし湧いて湧いて止まらない涙が、心はここにあるとしっかり教えてくれる。おれは心がある。おかしくなんかない。おゆきを喪った辛さも、お菊を泣かせる情けなさも、しっかりと感じている。だのにおゆきのことは、今言われるまで本当にすっかり頭の中から消えていたのは、一体どういう事だ。
「おれは、やはりどこかおかしいのではないか」
呟くと、お菊は涙を止めて、何かを考えているようだった。
おゆきを忘れた理由などいくら考えてもわからなかった。ただその時々で泣いて、立ち直って、笑って、そうして過ぎて行くおれの人生も、いずれ同じようにそっと幕を閉じるのだろうし、同じように忘れられて行くのだろうなと思うと、人の営みの円環を感じ、またそれも悪くはないなと、自分を納得させた。
考えてみれば、他にも思い出せないことがある。昨日の夕刻、何をしていただろうか。庭に出た記憶はあるが、そこから屋敷に戻るまでが曖昧だ。しかし、一人ではなかったはずだという感覚だけが残る。そのことを思い出そうとすると途端に頭の中の霧が濃くなって、何も分からなくなる。
歳のせいだろうか。
いや、まだそんな歳ではない。
父の喪が明けてすぐ、お菊が改めて話があると膝を突き合わせてきた。
そして突然こんな話をし始めた。
「あの赤い髪の下男は今は下役頭だそうですね」
「そうなのか。それがどうした」
「……ご存知ではなかったのですか」
「知るも何も、あいつと話したのは生涯二度きりだ」
風呂の時と、長男に馬を与えた時。
するとお菊は、武家の奥方らしからぬ大口を真っ赤に開けて大笑いした。
「私のことをどこまでもうつけだと思って、そうやって侮辱しても、どうせ私が出て行かぬと断じておられるのは何故でしょうね」
「待て、一体なんの話をしている」
「生涯二度きり?よくそんな嘘を。しょっちゅう会っておられるじゃありませんか」
誰の話だ? 誰の事を、おれと間違えているのだ?
それとも菊は、何かの怪異の話をしているのか。おれを怖がらせようとして。寒気がした。
「すまぬが、何のことか少しも分からん」
「お気づきにならない?あの男が旦那さまを見る目も、その時、旦那さまがどんな顔をしているのかも」
ああ! とお菊は叫んだ。
「ご自身の顔など分かるわけありませんわね! 鏡でも見ない限り! あはは!」
妻の姿が、嫁に迎えた日から初めて醜くこの目に映った。このお菊は本当にお菊だろうか。そう思うと急に心細くなり、
「……お菊お前、まさか出てゆかぬよな」
と問うと、
「知りません。早くあの男を追い出してください」
と、いからせた眉をゆるめ、肩を下げた。
◇
鶴丸が元服し、弥太郎重時と名乗った。
既に夫婦の間は冷え切っていたが、この時ばかりは二人で重ねた年月を思い、しみじみと祝った。
息子の元服の報告のため、父の墓に共もつけずに訪れた。
お参りが済むと、すぐ隣に建てられたおゆきの小さな墓にも手を合わせる。少し萎れた花が、既に供えられていた。
その時横から、赤髪の下男がその手に花を持って現れた。お菊ではないが、流石のおれも此の度はぎょっとした。
まるで年を取っていない。いや、取ってはいるのだろうが、年月の経過が緩やかすぎる。
男は古い花を捨てて、代わりに持ってきた可愛らしい花を供えた。
「おれが歳をとるのが早すぎるのか」
風呂焚きの時。元服したてのおれより少し年上だったはずだ。年を追い越すなど、人間ではあり得ない。
「いえ。見た目が変わらないだけで、ちゃんと年は取ってます」
おれの前を頭も下げず通り過ぎるその男は、まるで旧知の仲であるかのような親しさでおれに話した。その事にさして違和感はなく、ごく自然な振る舞いだった。
「其の方の名は」
「……朝太。朝日から生まれた朝太です」
母の胎からではなく、朝日から生まれたと。
「お菊がな……。そなたと話す俺の、その時の目つきが変だと申すのだ。だが俺には其方と話したのはどう考えても二度か三度で、そのどれもお菊はその場に居なかった」
「どなたかと見間違えたのではありませんか」
「やはりそうだろうか」
「そうですよ。だって、旦那様は何も覚えていらっしゃらないのでしょう」
と笑った。
お菊はこの男の何を拘っていたのだろう。
身分は低いが利発そうなしっかりした顔をしている。機転も効くし、物腰も柔らかく、女子供を怯えさせ、危害を加えるように見えない。
帰り道に、朝太に馬を引かせて歩いた。
「歳はとりたくないものだ」
「そうなのですか」
「おゆきの事をずっと忘れていた。おぬしでさえ墓参りしてくれてたのに。あの花はいつもお前が供えてくれていたのか」
「はい……あ、でもあの花をいつも用意するのは私ではなく、だ……」
そこで朝太はぐっと言葉を飲むように口を閉ざした。
「いえ、大した事ではないです。墓前の掃除も、私の仕事だと仰せつかりましたので」
「お菊にずいぶん叱られた。そんな歳ではないつもりだったが、体より頭が先に耄碌する質かもしれんな」
はは、と冗談めかして笑うと、
「……後悔されてますか」
と静かに問われる。
「何をだ?」
ふと見ると、朝太が暗い顔をしている。
「おゆき様の事を忘れてしまったことを」
「している。無論だ。悲しみはいつか薄れても仕方ないが、おゆきのことは忘れとうなかった。おれは親失格だ」
それきり、朝太は話さなくなった。
その日、朝太の夢を見た。俺は子供になっていて、朝太と一緒に遊んだ。遊んだことなどないはずなのに、庭の池を飛び越えたり、木に登ったり、下人長屋に共に忍び込んで悪戯をした。遊んで、ああ楽しかったと思ったところで目が覚めた。
目が覚めて、本当に、遊んだ事はなかったのだっけ、と分からなくなった。だが何度思いだしても、子供の頃に朝太と遊んだことなど無かったから、夢なのだろうと思った。……本当に、夢だろうか。
朝になる前に朝太は姿を消した。
お菊に笑顔が戻った。
◇
長男が祝言をあげ、子が生まれた。
俺はお菊と共に、心から喜んだ。
か弱い赤子を胸に抱いて、おゆきのしっとりとした重みと柔らかさを思い出し、泣いてしまった。それを見たお菊が笑いながら「じじさまは泣き虫じゃ」ともらい泣きした。きっと同じく、おゆきを思ったに違いない。
おれは、体が弱り、寝て過ごすことが多くなった。
もうお菊は、おれの事を冷たいとなじることはなかった。代わりに、ひどく優しく、労ってくれるので、そのことが余計にこの身に沁みた。
「良い夫でなくて済まなかった」
と伝えると、「ほんとですよ」と泣いた。
眠りにつく前に、赤い髪の朝太を想った。
いつか、おれに無断で消えてしまった朝太。
あいつは一人だろうか。一人でいるなら可哀想だ。
寂しくしてないといいが。
おれは、お菊に「心が無い」と言われたが、そんな事はやはりないと今も思う。
おゆきを思う時、朝太を思う時、しくしくと痛んでその場所を教えてくれる。
目を閉じて、暗闇が訪れてもなお。




