第九話 ダンタリオン 手紙の余白と届かない言葉
言葉というものは、かつての彼らにとって「発した瞬間に意味を確定させる魔力の術式」に過ぎなかった。
言霊を紡げば空間が歪む。
偽りを口にすれば呪詛が相手の精神を蝕む。
言葉とは意思を伝達するための不確かな道具ではなく、現実を改変するための絶対的な行使力でもあったのだ。
だが、この街にはもう魔力など存在しない。
いやこの世界にはもうないのだ。
人間など一人もおらず、万能の権能を失った元悪魔たちだけが身を寄せる永遠の黄昏の街。
誰もが血の通った脆い肉体という器に閉じ込められ、意思を伝えるためには、喉を震わせて不器用な音を出すか、紙の上にインクで泥臭い記号を書きつけるしかなかった。
『珈琲店 ベルゼ』の店内に、夜の静寂がゆっくりと降り積もっていく。
カウンターの奥で、ベルゼは磨き上げられた真鍮のドリップスタンドのネジを締め直していた。
金属が噛み合う小さな音が、静かな空間に落ちる。
ドアベルが控えめな音を立てた。
チリン。
店内に足を踏み入れたのは、長い漆黒の髪を後ろで緩く束ねた女性だった。
肩には深いインディゴブルーのショールを羽織り、胸元にはインクの小さな染みがついた木製の小さな箱。
代筆用具一式が収められた手提げ箱を抱えている。
かつて、対峙する者の精神を筒抜けに読み取り、心の隙間に滑り込んで恐怖や疑念を植え付ける心理戦の支配者。
元参謀にして「読心術師」のダンタリオンだった。
現在の彼女は、街の路地裏で小さな机を出し、同胞たちの手紙や契約書を代筆する代筆屋を営んでいた。
「ごきげんよう、ベルゼ。……まだ、お店は開いているかしら?」
「ええ、いらっしゃいませ、ダンタリオン。あなたの場所は、いつだって空いていますよ」
ベルゼが温かく迎えると、ダンタリオンはほっとしたように細い吐息を漏らし、カウンターの端の席へと腰を下ろした。
手提げ箱を膝の上に置き、深くショールをたぐり寄せる。
「ずいぶんと長考されたようなお顔ですね。何か難解な手紙の依頼でもありましたか?」
「ええ……本当にね。難解どころの騒ぎではないわ」
ダンタリオンは苦笑し、手提げ箱のフタを開けた。
中には、厚手の白い高級便箋と、真鍮の万年筆、そして黒と深緑のインク瓶が整然と収められている。
彼女は一枚の便箋を取り出し、カウンターの上へと広げた。
だが、その便箋の上には、一文字も書きつけられていなかった。
ただ、中央に小さなインクの点がポツンと残されているだけだった。
「珈琲をいただく前に……少しだけ、話を聞いてもらってもいいかしら? ベルゼ」
「もちろんです。深煎りモカを準備しながら、伺いましょう」
ベルゼは豆をミルに入れ、ゆっくりとハンドルを回し始めた。
ゴリ、ゴリ。
重厚な音が店内に響き始める。
ダンタリオンは真鍮の万年筆を指先で弄びながら、紙の余白を見つめた。
「かつての私なら……相手の目を見た瞬間に、その者の脳裏に浮かぶすべての思考、過去の記憶、内に秘めた欲望や葛藤まで、すべてを手に取るように読み取ることができた」
「ええ。あなたの前では、どんな悪魔も秘密を持つことすら叶いませんでしたね」
「そうね。言葉なんて発する前から、答えはすでに出ていた。沈黙すらも雄弁な情報だったわ。……けれど、魔力を失って、この肉体になってからというもの……私は完全に『盲目』になったの」
ダンタリオンは万年筆を便箋の脇に置いた。
「相手が何を考えているのか、本当はどう思っているのか……顔を見つめても、声を聞いても、さっぱり分からなくなった。言葉を発してくれても、それが本心なのか、強がりなのか、ただの照れ隠しなのか……推測するしかなくなったのよ。魔術ってすごいものだったのね。当たり前にあるから、失ってから気づくこともある」
「読心術を失った元心理戦担当が、街で唯一の代筆屋を営んでいるというのは……皮肉なようですが、実に味わい深い物語ですね」
「ふふ、皮肉どころじゃないわよ。最初は絶望したもの」
ダンタリオンは自分の指先を見つめた。
「依頼人が私の前に座って、あれこれと口篭りながら話すの。『あいつに手紙を書いてくれ』ってね。昔なら一瞬で読み取れた感情が、今はまったく見えない。彼らが放つ、しどろもどろな言葉、途切れ途切れの言い訳、視線の泳ぎ……そういった『不完全な破片』を必死に拾い集めて、解読するしかないの」
彼女は広げられた白い便箋の余白を、そっと撫でた。
「でもね……分かったのよ。言葉にしないと絶対に伝わらないということが、どれほど途方もなく……そして、愛おしいことか」
「愛おしい、ですか」
「ええ。かつての私たちは、思考を直接共有すくこともできていたから。だからこそ、そこに『余白』がなかった。勘違いも、すれ違いも、思いやりも存在しなかった。……でも今は違うわ。伝えたい思いがあるのに、適切な言葉が見つからなくて苦しむ。不器用な言葉を選んで、紙の上に書き付ける。……その『届かなさ』を埋めようとする時間こそが、人間のように生きる私たちの、一番温かい営みなのだと気づいたの」
ベルゼはミルから粉を取り出し、ネルフィルターへと移した。
湯を静かに注ぐと、モカ特有の甘く芳醇な香りと、酸味を含んだ湯気がふわりと立ち上る。
「素晴らしい気づきですね、ダンタリオン。……それで、その白い便箋は、どなたからの依頼なのですか?」
ベルゼの問いに、ダンタリオンは万年筆を握る手に少しだけ力を込めた。
彼女はくすりと悪戯っぽく微笑み、目の前の店主をまっすぐに見つめた。
「……サタン様よ」
ベルゼの注ぐ湯の手が、一瞬だけぴたりと止まった。
「……サタン様が、代筆を?」
「ええ。昨日の夕方、私の店にやってこられたわ。あの威厳に満ちた、そして今は少し偏屈な元・大魔王様が、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、気まずそうに立っていたの」
ダンタリオンは昨日の出来事を思い出して、声を潜めて笑った。
「『ダンタリオン、手紙を書け』とおっしゃるから、誰宛てかと尋ねたの。そうしたら、顔を背けながら『……ベルゼだ』って」
「私に……ですか」
「そうよ。サタン様はね、『あいつの淹れる珈琲は苦すぎて不味い』だの、『店の椅子が固くて腰が痛む』だの、散々文句をおっしゃっていたわ。でも、私が『では、文句の手紙をお書きしましょうか?』と便箋を開いたら……急に黙り込んでしまわれてね」
ダンタリオンは便箋の真ん中にある、小さなインクの点を指差しした。
「一時間も私の前で腕組みをしたまま、唸っていらっしゃったわ。何かを言おうとしては口を閉じ、顔を赤くしたり青くしたりしてね。……最後に、万年筆を握った手が震えて、ポタリとこのインクのシミを落とされたの」
「……サタン様が」
「そして、こうおっしゃったわ。『……あいつが、毎朝火を起して珈琲を淹れていること。……その一杯がなければ、俺の不完全な一日が始まらないということ。……それを、書け』って」
店内に、ネルドリップから落ちる、珈琲の音だけが響いた。
ポタリ、ポタリ。
ダンタリオンは愛おしそうに便箋を見つめた。
「『感謝している』とか『ありがとう』なんて言葉は、サタン様のプライドが絶対に許さない。でもね、サタン様が伝えたい思いは、そんな陳腐な四文字の言葉なんかじゃ収まりきらないほど、深く、重いものだと思ったのよ。……サタン様は言葉を選びきれなくて、結局『お前に任せる』と言って、金貨を一枚置いて逃げるように去っていかれたわ」
ダンタリオンは万年筆をインク瓶に浸した。
黒く澄んだインクが、真鍮のペン先へとしみ込んでいく。
「でもね、ベルゼ。私、一晩中考えて……結局、何も書けなかったの」
「なぜです?」
「だって、サタン様が唸りながら落としたこの一滴のインクのシミと、何も書かれていないこの白い余白以上に、あの男の不器用な感謝を雄弁に物語る言葉なんて、この世のどこを探しても存在しないんですもの」
ダンタリオンは便箋を丁寧に折りたたみ、小さな角型の封筒へと収めた。
そして、封緘ワックスを削り、火で溶かして封筒の口へ垂らす。
深紅の蝋の上に、サタンの紋章を模した小さなスタンプをギュッと押し当てた。
しっかりと封がなされる。
ダンタリオンは、その手紙をカウンター越しにベルゼへと差し出した。
「サタン様からの手紙よ、ベルゼ。……代筆屋として、最高の仕事をさせてもらったわ」
ベルゼは、差し出された深紅の蝋封がついた手紙を、両手で恭しく受け取った。
指先に伝わる、紙の厚みと、固まった蝋の感触。
中には、文字など一文字も書かれていない。
ただ、一滴のインクの染みと、伝えきれなかった思いが詰まった「余白」があるだけだ。
ベルゼは手紙を胸ポケットに静かに収めると、深く、深く頭を下げた。
「……確かに受け取りました。生涯の宝物とさせていただきます」
「ふふ、喜んでもらえてよかったわ。……さて、代筆屋の仕事が終わったところで、私の喉の渇きを癒やしてもらおうかしら」
「ええ、喜んで」
ベルゼは丁寧に抽出し終えた深煎りモカを、白磁のカップへと注ぎ入れた。
湯気とともに、フルーティーな甘みと重厚な苦味が交ざり合った香りが、ふわりと広がる。
ダンタリオンはカップを受け取り、その温もりに目を細めた。
「いい香り……。本当に、あなたの淹れる珈琲は不思議ね。言葉以上に、淹れた人の心が伝わってくるわ」
「言葉にできない思いを、湯気と苦味に閉じ込めているだけですよ」
ダンタリオンはゆっくりと珈琲を口に含んだ。
芳醇な液体が喉を通り、お腹の底へと温かく落ちていく。彼女は満足げに溜息をつき、カップを置いた。
「ねえ、ベルゼ」
「なんでしょう」
「返事は……どうするの? サタン様へのお返事の手紙」
ベルゼは少しだけ考え込むように目を閉じ、それから丸眼鏡の奥の瞳を和ませて微笑んだ。
「手紙は書きません」
「あら、どうして?」
「言葉にしてしまえば、この完璧な余白が壊れてしまいますからね。……明日、サタン様が店にいらしたときに、いつもより少しだけ丁寧に淹れた、とびきり苦い珈琲をお出しするだけにします」
ダンタリオンはハッとしたように目を見開き、それから歓喜に満ちた笑い声を上げた。
「ふふ……あははは! 素晴らしいわ、ベルゼ! それ以上のお返事なんて、この世に存在しないわね!」
「ええ。サタン様なら、一口飲んだだけで『苦すぎる』と文句を言いながら、すべてを理解してくださるでしょう」
二人は顔を見合わせ、静かに笑い合った。
窓の外では、完全に夜が訪れ、黄昏の街に小さな灯火が点々と輝いていた。
魔力を失い。
言葉の万能性を失い。
思いを伝えることに苦しむようになった元悪魔たち。
けれど彼らは、届かない言葉のもどかしさを愛おしみ、紙の上の余白や、一杯の珈琲の苦味の中に、確かに「心」を巡らせ合っていた。
胸ポケットに収められた一通の手紙。
一文字も書かれていないその白い紙は、どんな雄弁な詩よりも温かく、ベルゼの胸を静かに温め続けているのだった。
「ひとつ、いいことを思いつきました」
「あら、何かしら?」
「皆さんに招待状を送りましょう。魔王城のパーティへお招きしますと」
ベルゼはかつての悪魔からのような笑みを浮かべていた。




