第十話 ベルゼブブ 黄昏の夜に、不揃いな乾杯を
その日、街にあった人間たちの遺物、大きな駅が完全に崩壊した。
形だけは保っていたものの、少ない電力では動かす、置き物になっていたものだが。
それでも周囲の人間にとって、崩壊を告げる大きな音であったことは確かだ。
世界の余白がまた一つ削り取られた日の夜。
『珈琲店 ベルゼ』の店内には、普段の静寂とは打って変わって、どこか浮き足立ったような熱気が満ちていた。
きっかけはベルゼが依頼した招待状。
それが皆に届いたのだった。
皆が少しずつ集まり出した時、アバドンが街の外縁部で見つけてきた「掘り出し物」を持ってきた。
崩落した旧地下倉庫の奥から、壊れかけた木箱に入った数本の葡萄酒と、塩漬けの干し肉、そしてわずかな乾燥ハーブが発掘されたのだ。
「おいおいアバドン! 大鎌を斧に持ち替えて木を切るだけじゃなく、酒の匂いまで嗅ぎつけるとは優秀な鼻だな!」
豪快に笑いながら、自分のグラスになみなみと酸っぱい葡萄酒を注いだのはアスモデウスだ。
かつて親衛隊長として猛威を振るった男も、いまや精肉店と居酒屋を営む骨太な店主。
慣れた手つきで干し肉を薄く削ぎ、大皿へ盛り付けていく。
「たまたま……樹根を掘り返していたら見つかっただけだ」
照れくさそうに口数を減らすアバドン。
足元には、彼が趣味で作った削った木彫りの動物が転がっていた。
「ちょっとアスモデウス、溢れてるじゃない! 貴重な酒を1滴でもこぼしたら承知しないわよ!」
隣で鋭く叱りつけたのは、仕立て屋のベリアルだ。
かつての外交官は、いまや手触りのいい生地の服を皆に縫い上げる街のデザイナー。
今夜もサタンの擦り切れたコートの袖口を、手際よく針と糸で補修している。
「まあまあベリアル。人間のような『空腹』や『ほろ酔い』を感じられるのは、なかなか乙な体験ですよ」
バイオリンのケースを脇に抱え、優雅に微笑んだのはパイモンだ。
夕暮れの広場で奏でたばかりの曲の余韻を惜しむように、一杯のハーブティーを口に含む。
「ふん、相変わらず無駄に賑やかな連中だ。過去の遺産を掘り返しては、安酒で浮かれる……これだから野蛮な男どもは」
カウンターの端で、古書を読む手を止めて眉をひそめたのはアスタロトだ。
言葉とは裏腹に、彼女が密かに書いた未発表の恋愛小説の原稿が、チラリとポケットから覗いている。
「文句を言いながらも、アスタロトが一番その安酒を減らしているようだが?」
狐のような細目を緩め、懐中時計のネジを巻いたのは時計職人のメフィストフェレスだ。
カチカチと静かに時を刻む小さな機械装置を愛おしそうに眺めている。
「サタン様、また『苦すぎる』なんて文句を言わないでくださいよ! あなたの好みに合わせて、わざわざ浅煎りの豆をブレンドしたんですからね!」
不満そうに声を張り上げたのは、骨董店兼アンティークショップ店主のマモンだ。
サタンの隣でモノクル(片眼鏡)を直しつつ、店から持ってきたガラクタの真鍮杯を自慢げに磨いている。
「ふん。どれだけ工夫しようが、ベルゼブブの淹れる珈琲は昔から苦いと相場が決まっている」
元大魔王サタンは鼻で笑い、不機嫌そうな、けれどどこか嬉しそうな顔でカップに口をつけた。
「それはサタン様、あなたが煙草の吸いすぎで舌が馬鹿になっているからですよ」
仕立てのいい黒スーツに身を包んだマスター、ベルゼブブが、丸眼鏡を押し上げながら静かに反論する。
かつて筆頭側近として政務を完璧にこなした几帳面さは、いまやネルドリップの抽出角度と温度管理に遺憾なく発揮されていた。
「心の声を読まなくても、皆がとても楽しそうなのは伝わってきますね」
部屋の隅で、羊皮紙に何かを書き留めていたのは代筆屋のダンタリオンだ。
他人の心が読めなくなったいま、彼女は仲間たちの日常を文字にして残す仕事を楽しんでいた。
「ふむ……今夜は星が見えないが、鍛冶場の火とは違う温かさがあるな」
そう言って、手焼きの鉄板で作った素朴なパンケーキを運んできたのはアザゼルだった。
焦げ目のついた甘い香りが、店内にふわりと広がる。
アバドン、アスモデウス、ベリアル、パイモン、アスタロト、メフィストフェレス、マモン、サタン、ベルゼブブ、ダンタリオン、アザゼル。
かつて世界を裏から揺るがしていた11人の巨頭たちが、狭い喫茶店にひしめき合い、今日という一日を無事に生き抜いたことを喜び合っていた。
魔術があった頃は、傷つくことも、腹が減る惨めさも知らなかった。
けれど、ただの「人間」として傷つき、汗を流し、泥臭く助け合って生きるいまの暮らしは、どこか壊れそうなくらい温かく、愛おしいものだった。
夜が更けるにつれて、宴は静かな温もりを深めていく。
「……おい、ベルゼ」
仲間たちが少し酔いと疲労でまどろみ始めた頃。
サタンがカウンターの端へ歩み寄り、低い声で呼びかけた。
「はい、サタン様。何でしょう?」
「……あいつらだ」
サタン名前はあげず、そっと話しかけた。
「……あの二人、何か隠しているな。マルコシアス、ブエルの奴だ。俺たちを少し避けるような、怯えるような変な動きをしている。あの目は、ただゆっくりと今を生き延びている奴の目じゃない。……何か隠している者の目だ」
それはここにはいない、彼らより少し下の階級の悪魔の名だった。
この街にある悪魔は下級から全ていたはずだが、世界の崩壊に合わせて自我を失い、死んでいったものも多い。
残っているのは力の強い方から数えてあと何名だろうか。
ベルゼブブは静かに真鍮のケトルを磨く手を止め、深く、温かい笑みを浮かべた。
「……だとしたら、サタン様。それはとても素晴らしいことです」
「……ふん。壊れゆく箱庭の中で『明日』を望むなど、正気の沙汰ではないがな」
サタンはそう吐き捨てたが、その瞳に宿っていたのは冷酷な蔑みではなく、どこか祈るような、静かな熱だった。
サタンは胸ポケットから、古びた真鍮の鍵を取り出し、カウンターへカトンと置いた。
「これは?」
「魔界の西の門の防衛隔壁を開ける鍵だ。……昔、俺が管理していた。人間界との境界が壊れ、どこでも混ざってしまった今では、意味があるものかわからんが」
サタンは手製の刻み煙草に火をつけ、紫煙を細く吐き出しながら続けた。
「……昔言っただろう。異端の魔神クロセルが、人間の妻を連れて西の果てへ向かったとな。……もしあのバカどもが俺に何かを話してきたら……俺は覚悟を決めねばならんかもしれん」
ベルゼブブは真鍮の鍵を見つめ、それからサタンの横顔を見つめた。
「覚悟……ですか?」
「ああ。俺たち高位の魔族は弱いものを守らねば。今の世では狂っておかしくなる奴らの脳を焼き切ることくらいしかできんが」
サタンの言葉は、恐ろしいほど冷徹で、そして哀しいほど優しかった。
「それでも何かはしてやらんと。俺はそういうのはほっとけない」
ベルゼは、丸眼鏡をそっと押し上げた。
静かに、けれど力強く深く頭を下げた。
「……いつまでもお供いたします。サタン様」
夜が更けていく。
ランプの火が揺れる。
仲間たちの賑やかながら、かつての荘厳さはない静かな宴会。温かい話し声が重なり合う。
壊れゆく世界。魔法の消えた肉体。迫り来る狂気。
けれど、この小さな店の中に満ちていたのは、絶望ではなく、明日へと繋がる不滅の温もりだった。
そして朝が来れば誰かがこの店の扉を叩くことになるだ。




