第七話 アバドン・アザゼル 木屑の匂いと柔らかいパン
その日の『珈琲店 ベルゼ』には、二つの異なる香りが重なって漂っていた。
ひとつは、削りたての乾燥した薪が放つ、少し酸味のある香ばしい木屑の匂い。
もうひとつは、長年使い込まれた鋳物の鉄鍋が、熾火で熱されたときに放つ重厚な金属の残り香り。
人間など一人も存在しない、沈むことのない黄昏の街。
かつて世界の頂で猛威を振るい、今はもう一切の魔力を失った元悪魔たち。
彼らは今、血の通った脆い肉体という不器用な器を抱え、互いの不完全さを補い合いながら静かに暮らしている。
カウンターの奥で、ベルゼは大型のケトルを磨いていた。
店の片隅にある鋳物の薪ストーブでは、赤い火の粉がチチ、と小さな爆ぜ音を立てている。
その時、ドアに取り付けられたベルが、激しい振動とともにドスンと鳴った。
「ベルゼ! 頼まれていた冬越しの薪を持ってきたぞ!」
重い音とともに店内へ足を踏み入れたのは、見上げるような巨躯の男だった。
日に焼けた浅黒い肌に、短く刈り込まれた硬い髪。
肩から背中にかけて、丸太のように太い薪を束ねた巨大な背負子を担いでいる。
かつて、魔界の地下深くで裁きを執り行い、数多の魂を深淵へと刈り取った恐るべき元処刑人アバドンだった。
現在の彼は、街の外縁にある森で木を切り出し、薪や建築資材を仕立てる樵として生計を立てている。
「おいおい、アバドン。もう少し静かに入れないのかい? 繊細な道具が狂ってしまうだろう」
アバドンの背後から、呆れたような、だがどこか穏やかな声が続いた。
滑り込んできたのは、煤で薄汚れた作業着を身に纏い、丸い保護眼鏡を首から下げた細身の男性だった。
褐色の肌を煤で汚し、トレードマークだった額の二本ツノは今はもうない。
手には革の保護手袋と、ずっしりと重そうな鉄製の角型フライパンが抱えられている。
かつて、軍事兵器の開発や築城術を司り、破壊の宴を冷徹に補佐していた元補佐官アザゼルである。
現在の彼は、街の片隅で鍛冶屋と鋳物修理を営んでいた。
「いらっしゃいませ、アバドン、アザゼル。……ふふ、これは賑やかな組み合わせですね」
ベルゼはケトルを置き、二人に向かって静かに会釈した。
「ベルゼ、薪はストーブの脇に置くぞ。……ぬんっ!」
アバドンが背負子を下ろすと、ズシンと床が激しく揺れた。
極上の乾燥具合を誇るナラとクヌギの薪だ。
手作業で丁寧に割り揃えられた薪の断面からは、乾いた木の甘い香りが立ち上っている。
「ありがとうございます、アバドン。おかげでこの冬も、店の中を温かく保てそうです」
「おうよ! 俺の斧で一裂きにした薪だ。火持ちの良さは保証するぜ。……ふぅ、だがさすがに腰に来るな」
アバドンは太い丸太のような腕で自分の腰を叩き、豪快に溜息をついた。
かつて、巨大な断頭斧を一振りで振り抜き、いかなる巨体も一刀両断にしていた男が、今や数本の薪の重みに「腰が痛む」と零している。
一方、アザゼルは大切そうに抱えていたフライパンをカウンターの上へと置いた。
「ベルゼ、頼まれていた君の店の鉄鍋だ。底の歪みを打ち直して、表面の油膜も完璧に焼き直しておいたよ。これで焦げ付きなく、均一に火が通るはずだ」
「まあ……見事な仕上がりですね。見つけたときよりも深い漆黒に輝いている」
ベルゼは鉄鍋を手に取り、感嘆の声を上げた。
鉄の厚みが均一に整えられ、表面には美しい油の艶がのっている。
かつて城塞を焼き払う破城砲や、黒炎を放つ武具を精錬していたアザゼルの手が、いまや一器の調理器具を完璧に蘇らせていた。
「ふふ、これでも腕は鈍っていないつもりさ。……さて、アバドン。約束のブツを切り分けるとしようか」
アザゼルは作業着の大きなポケットから、布で厳重に包まれた平たい木箱を取り出した。
紐を解き、重ねられた布をめくると、中から現れたのは驚くほど分厚く、黄金色に焼き上げられた丸いパンだった。
ふわり。
焼き立ての小麦の甘い香りと、発酵バターの豊かな香気が店内に広がる。
「ほう……! これは美味しそうなパンですね」
ベルゼが目を細めると、アザゼルは少し照れくさそうにメガネの位置を直した。
「アバドンが薪を運んでくれたお礼に、うちの炉の残り火で焼いてきたんだよ。鋳物の重い鉄鍋に蓋をして、じっくり弱火で火を通したんだ。小麦粉と少しの蜂蜜、それに新鮮なミルクを捏ね込んでね。……ベルゼ、切り分けるナイフと皿を貸してもらえるかい?」
「ええ、喜んで。……それなら、ぜひ私の珈琲と一緒に召し上がってください。三人でテーブルを囲みましょう」
ベルゼはネルフィルターをセットし、三人分の大きめの磁器カップを用意した。
ケトルから注がれる細い湯の筋。
膨らむ珈琲の粉から、重厚な深煎りの香りが立ち上る。
アバドンとアザゼルは、店の奥にある大きな木のテーブル席へ腰を下ろした。
アバドンが巨体を預けると、木製の椅子がギシと音を立てる。
アザゼルは手際よく、木箱の中のパンケーキをナイフで六等分に切り分けていた。
やがて、ベルゼが淹れたての珈琲と、温めた小皿を運んできた。
「どうぞ。深煎りのブラジルです。苦味の中にナッツのような香ばしさがあり、小麦の甘みにはぴったりかと」
「ありがたい。……さあ、アバドン、遠慮なく食ってくれ」
「おう! いただくぜ!」
アバドンは分厚く切られたパンケーキの欠片を粗野な指先で摘み上げ、そのまま口の中へと放り込んだ。
豪快に咀嚼する。
次の瞬間、アバドンのイカツい顔が、驚きで目を見開かれた。
「これ……! めちゃくちゃ柔らかいぞ!?」
「ふふ、驚いたかい?」
アザゼルは嬉しそうに目を細めた。
「昔のパンみたいにカチカチじゃないんだ。重い鉄鍋の蓋で蒸気を閉じ込めながら焼くことで、水分を逃がさずに中までふっくらと火が通るように計算したのさ」
「柔らかい……本当に柔らかいな。噛むと、小麦の甘みと香ばしい油が口の中にジワッと広がりやがる……。喉をとおる時も、ちっとも引っかからねぇ……!」
アバドンは感極まったように、太い指で口元を拭った。
かつてのアバドンは、魔界の処刑場でただ壊し、殺ぎ落とし、無に還すことだけを命じられていた。
彼の手に触れるものはすべて断ち切られ、破壊される運命にあった。
その彼が今、目の前にある「柔らかく、温かいパン」を、まるで壊れものを扱うかのように慈しみながら食べている。
「ベルゼ、お前も食ってみろ! アザゼルのやつ、すごい物を作りやがったぞ!」
「ええ、いただきます」
ベルゼも小皿からパンケーキを一口食した。
表面はサクッと香ばしく、中は驚くほどモチモチとして柔らかい。ほのかな蜂蜜の甘みが、苦い珈琲の風味と重なり合い、完璧な調和を生み出していた。
「……見事ですね、アザゼル。火加減と鉄鍋の重みが、完全に計算し尽くされている」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
アザゼルも自分の分のパンケーキを口に運び、ゆっくりと味わった。
「昔の私はね、『火』というものを、城壁を溶かし、敵を焼き尽くすための戦いの道具としか思っていなかったんだ。熱量をどれだけ高められるか、どれだけ効率よく物質を破壊できるか……そればかりを考えていた」
アザゼルは自分の煤けた手を見つめた。
「だけど、魔力を失って、この手で鉄を叩き、薪をくべて火を起こすようになって、初めて知ったんだよ。『火』というのは、誰かを傷つけるためだけじゃなく、こうして硬い生地をふっくらと膨らませ、誰かを温めるために使えるんだってね」
「誰かを……温めるため」
「そうさ。アバドンが削り出してくれた薪がなければ、うちの炉はあそこまでの均一な熱を出せなかった。アバドンが木を切り、私が鉄を叩き、君が珈琲を淹れる。……全員の不器用な手仕事が重なって、今、この温かいパンと珈琲がここにある」
アザゼルは深く静かな眼差しで、テーブルの上の皿を見つめた。
アバドンは珈琲を豪快に一口飲み下す。
プハァッ。
息を吐き出し、照れ隠しのように頭を掻いた。
「へっ、俺はただ、大斧を振るう代わりに鋸と手斧を振るってるだけだ。……だがな」
アバドンは自分の傷だらけの手のひらを開いて見せた。
「昔、処刑斧を握っていた頃は、手が冷たくて仕方がなかった。どれほど血を浴びようが、心が氷みたいに冷え切っていた。気がする。……でもよ、樵になって木を伐り、薪を割っていると、身体の中から汗が噴き出して、手が熱くなってくるんだ」
アバドンは遠い目をして呟いた。
「俺が割った薪が、お前の店のストーブで燃えて、この店に来る同胞たちを温めている。アザゼルの炉で燃えて、あんな美味いパンを焼き上げる。……俺の手が、誰かを温めるための薪を作っていると思うとよ……」
アバドンは太い声を少し震わせ、力強く笑った。
「腰が痛かろうが、手にマメができようが……斧を振るうのが楽しくて仕方がねぇんだよ」
ベルゼは静かに二人の顔を見つめた。
かつて、壊すことしか許されなかった二人の悪魔。
処刑人と補佐官。
死と破壊の象徴だった彼らがいま、木屑の匂いを身に纏い、煤に汚れながら、「育み、温める道具」を生み出している。
「不完全になるということは……実に、美しいことですね」
ベルゼの言葉に、アザゼルは小さく微笑み、アバドンは眉をひそめた。
「なんだい、急に気障なことを言い出して」
「ふふ、本当のことですよ。万能だった頃の私たちは、何も作れなかった。ただ与えられた役割を演じ、壊すだけだった。……ですが、魔力を失い、腹を減らし、痛みに顔を顰めるようになって初めて、私たちは『誰かのために何かを作る歓び』を知ったのです」
ベルゼは自分のカップを持ち上げた。
「薪を割る手。鉄を叩く手。パンを捏ねる手。……そのどれもが、今の私たちにとって最も尊い財宝です」
「……違いないね」
アザゼルもカップを掲げた。
「おうよ! 今日のパンは最高だ!」
アバドンも豪快にカップを突き合わせる。
カチン。
磁器の澄んだ音が静かな店内に響き渡った。
三人は笑い合い、温かいパンケーキを分け合いながら、ゆっくりと珈琲を飲み進めた。
窓の外では、沈みきることのない茜色と紫紺の黄昏が、静かに街を包み込んでいる。
やがて、空になった皿とカップを前に、アバドンが満足そうなお腹を叩いた。
「ごちそうさん! 腹がいっぱいになったら、また薪を割りたくなってきたぜ!」
「ハハハ、気が早いなアバドン。腰を痛めたばかりだろう」
「ぬかせ! この程度の痛み、パンの美味さに比べたら蚊に刺されたようなもんだ!」
立ち上がったアバドンは、今度は少しだけ手加減しながら、ドアベルを軽やかに鳴らして外へと出て行った。
「また鉄鍋に不具合が出たら言いなよ」
アザゼルもそっと言い残し、彼の後を追うように店を去っていく。
去り際、二人の背中は夕暮れの光に照らされ、どこまでも力強く、温かかった。
静かになった店内で、ベルゼはストーブの前に歩み寄った。
アバドンが運んでくれた薪を一本手に取り、火の中へと静かに投入する。
パチパチ。
薪が爆ぜ、心地よい熱気がベルゼの顔を包み込んだ。
「……温かいですね」
静かに呟くと、二人が残していった空の皿とカップを手に取り、洗い場へと向かった。
「かつての私たちなら、この季節の移り変わりでさえ、大した意味もなかったというのに……。不思議と悪くないものですね」
人間など一人もいない、不器用な元・悪魔たちが集う黄昏の街。
そこには今日も、誰かを温めるための柔らかな時間が、確かに流れていたのだった。




