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滅びゆく世界の悪魔たち 黄昏街の珈琲店ベルゼ  作者: 志摩


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7/10

第七話 アバドン・アザゼル 木屑の匂いと柔らかいパン


 その日の『珈琲店 ベルゼ』には、二つの異なる香りが重なって漂っていた。



 ひとつは、削りたての乾燥した薪が放つ、少し酸味のある香ばしい木屑(きくず)の匂い。



 もうひとつは、長年使い込まれた鋳物の鉄鍋が、熾火(おきび)で熱されたときに放つ重厚な金属の残り香り。


 人間など一人も存在しない、沈むことのない黄昏の街。


 かつて世界の頂で猛威を振るい、今はもう一切の魔力を失った元悪魔たち。


 彼らは今、血の通った脆い肉体という不器用な器を抱え、互いの不完全さを補い合いながら静かに暮らしている。



 カウンターの奥で、ベルゼは大型のケトルを磨いていた。


 店の片隅にある鋳物の薪ストーブでは、赤い火の粉がチチ、と小さな爆ぜ音を立てている。


 その時、ドアに取り付けられたベルが、激しい振動とともにドスンと鳴った。



「ベルゼ! 頼まれていた冬越しの薪(まき)を持ってきたぞ!」



 重い音とともに店内へ足を踏み入れたのは、見上げるような巨躯の男だった。


 日に焼けた浅黒い肌に、短く刈り込まれた硬い髪。


 肩から背中にかけて、丸太のように太い薪を束ねた巨大な背負子(しょいこ)を担いでいる。


 かつて、魔界の地下深くで裁きを執り行い、数多の魂を深淵へと刈り取った恐るべき元処刑人アバドンだった。


 現在の彼は、街の外縁にある森で木を切り出し、薪や建築資材を仕立てる樵(きこり)として生計を立てている。


「おいおい、アバドン。もう少し静かに入れないのかい? 繊細な道具が狂ってしまうだろう」


 アバドンの背後から、呆れたような、だがどこか穏やかな声が続いた。


 滑り込んできたのは、煤(すす)で薄汚れた作業着を身に纏い、丸い保護眼鏡を首から下げた細身の男性だった。

 褐色の肌を煤で汚し、トレードマークだった額の二本ツノは今はもうない。

 手には革の保護手袋と、ずっしりと重そうな鉄製の角型フライパンが抱えられている。


 かつて、軍事兵器の開発や築城術を司り、破壊の宴を冷徹に補佐していた元補佐官アザゼルである。

 現在の彼は、街の片隅で鍛冶屋と鋳物修理を営んでいた。


「いらっしゃいませ、アバドン、アザゼル。……ふふ、これは賑やかな組み合わせですね」


 ベルゼはケトルを置き、二人に向かって静かに会釈した。


「ベルゼ、薪はストーブの脇に置くぞ。……ぬんっ!」


 アバドンが背負子を下ろすと、ズシンと床が激しく揺れた。

 極上の乾燥具合を誇るナラとクヌギの薪だ。

 手作業で丁寧に割り揃えられた薪の断面からは、乾いた木の甘い香りが立ち上っている。



「ありがとうございます、アバドン。おかげでこの冬も、店の中を温かく保てそうです」



「おうよ! 俺の斧で一裂きにした薪だ。火持ちの良さは保証するぜ。……ふぅ、だがさすがに腰に来るな」


 アバドンは太い丸太のような腕で自分の腰を叩き、豪快に溜息をついた。


 かつて、巨大な断頭斧を一振りで振り抜き、いかなる巨体も一刀両断にしていた男が、今や数本の薪の重みに「腰が痛む」と零している。


 一方、アザゼルは大切そうに抱えていたフライパンをカウンターの上へと置いた。


「ベルゼ、頼まれていた君の店の鉄鍋だ。底の歪みを打ち直して、表面の油膜(シーズニング)も完璧に焼き直しておいたよ。これで焦げ付きなく、均一に火が通るはずだ」


「まあ……見事な仕上がりですね。見つけたときよりも深い漆黒に輝いている」


 ベルゼは鉄鍋を手に取り、感嘆の声を上げた。


 鉄の厚みが均一に整えられ、表面には美しい油の艶がのっている。

 かつて城塞を焼き払う破城砲や、黒炎を放つ武具を精錬していたアザゼルの手が、いまや一器の調理器具を完璧に蘇らせていた。



「ふふ、これでも腕は鈍っていないつもりさ。……さて、アバドン。約束のブツを切り分けるとしようか」


 アザゼルは作業着の大きなポケットから、布で厳重に包まれた平たい木箱を取り出した。


 紐を解き、重ねられた布をめくると、中から現れたのは驚くほど分厚く、黄金色に焼き上げられた丸いパンだった。


 ふわり。

 焼き立ての小麦の甘い香りと、発酵バターの豊かな香気が店内に広がる。


「ほう……! これは美味しそうなパンですね」


 ベルゼが目を細めると、アザゼルは少し照れくさそうにメガネの位置を直した。


「アバドンが薪を運んでくれたお礼に、うちの炉の残り火で焼いてきたんだよ。鋳物の重い鉄鍋に蓋をして、じっくり弱火で火を通したんだ。小麦粉と少しの蜂蜜、それに新鮮なミルクを捏ね込んでね。……ベルゼ、切り分けるナイフと皿を貸してもらえるかい?」



「ええ、喜んで。……それなら、ぜひ私の珈琲と一緒に召し上がってください。三人でテーブルを囲みましょう」


 ベルゼはネルフィルターをセットし、三人分の大きめの磁器カップを用意した。


 ケトルから注がれる細い湯の筋。

 膨らむ珈琲の粉から、重厚な深煎りの香りが立ち上る。


 アバドンとアザゼルは、店の奥にある大きな木のテーブル席へ腰を下ろした。

 アバドンが巨体を預けると、木製の椅子がギシと音を立てる。

 アザゼルは手際よく、木箱の中のパンケーキをナイフで六等分に切り分けていた。


 やがて、ベルゼが淹れたての珈琲と、温めた小皿を運んできた。


「どうぞ。深煎りのブラジルです。苦味の中にナッツのような香ばしさがあり、小麦の甘みにはぴったりかと」


「ありがたい。……さあ、アバドン、遠慮なく食ってくれ」


「おう! いただくぜ!」


 アバドンは分厚く切られたパンケーキの欠片を粗野な指先で摘み上げ、そのまま口の中へと放り込んだ。

豪快に咀嚼する。


 次の瞬間、アバドンのイカツい顔が、驚きで目を見開かれた。


「これ……! めちゃくちゃ柔らかいぞ!?」

「ふふ、驚いたかい?」


 アザゼルは嬉しそうに目を細めた。


「昔のパンみたいにカチカチじゃないんだ。重い鉄鍋の蓋で蒸気を閉じ込めながら焼くことで、水分を逃がさずに中までふっくらと火が通るように計算したのさ」


「柔らかい……本当に柔らかいな。噛むと、小麦の甘みと香ばしい油が口の中にジワッと広がりやがる……。喉をとおる時も、ちっとも引っかからねぇ……!」


 アバドンは感極まったように、太い指で口元を拭った。


 かつてのアバドンは、魔界の処刑場でただ壊し、殺ぎ落とし、無に還すことだけを命じられていた。

 彼の手に触れるものはすべて断ち切られ、破壊される運命にあった。



 その彼が今、目の前にある「柔らかく、温かいパン」を、まるで壊れものを扱うかのように慈しみながら食べている。


「ベルゼ、お前も食ってみろ! アザゼルのやつ、すごい物を作りやがったぞ!」


「ええ、いただきます」


 ベルゼも小皿からパンケーキを一口食した。


 表面はサクッと香ばしく、中は驚くほどモチモチとして柔らかい。ほのかな蜂蜜の甘みが、苦い珈琲の風味と重なり合い、完璧な調和を生み出していた。



「……見事ですね、アザゼル。火加減と鉄鍋の重みが、完全に計算し尽くされている」

「そう言ってもらえると嬉しいよ」


 アザゼルも自分の分のパンケーキを口に運び、ゆっくりと味わった。



「昔の私はね、『火』というものを、城壁を溶かし、敵を焼き尽くすための戦いの道具としか思っていなかったんだ。熱量をどれだけ高められるか、どれだけ効率よく物質を破壊できるか……そればかりを考えていた」



 アザゼルは自分の煤けた手を見つめた。


「だけど、魔力を失って、この手で鉄を叩き、薪をくべて火を起こすようになって、初めて知ったんだよ。『火』というのは、誰かを傷つけるためだけじゃなく、こうして硬い生地をふっくらと膨らませ、誰かを温めるために使えるんだってね」


「誰かを……温めるため」 



「そうさ。アバドンが削り出してくれた薪がなければ、うちの炉はあそこまでの均一な熱を出せなかった。アバドンが木を切り、私が鉄を叩き、君が珈琲を淹れる。……全員の不器用な手仕事が重なって、今、この温かいパンと珈琲がここにある」


 アザゼルは深く静かな眼差しで、テーブルの上の皿を見つめた。



 アバドンは珈琲を豪快に一口飲み下す。


 プハァッ。


 息を吐き出し、照れ隠しのように頭を掻いた。



「へっ、俺はただ、大斧を振るう代わりに鋸(のこぎり)と手斧を振るってるだけだ。……だがな」


 アバドンは自分の傷だらけの手のひらを開いて見せた。




「昔、処刑斧を握っていた頃は、手が冷たくて仕方がなかった。どれほど血を浴びようが、心が氷みたいに冷え切っていた。気がする。……でもよ、樵になって木を伐り、薪を割っていると、身体の中から汗が噴き出して、手が熱くなってくるんだ」



 アバドンは遠い目をして呟いた。



「俺が割った薪が、お前(ベルゼ)の店のストーブで燃えて、この店に来る同胞たちを温めている。アザゼルの炉で燃えて、あんな美味いパンを焼き上げる。……俺の手が、誰かを温めるための薪を作っていると思うとよ……」


 アバドンは太い声を少し震わせ、力強く笑った。



「腰が痛かろうが、手にマメができようが……斧を振るうのが楽しくて仕方がねぇんだよ」


 ベルゼは静かに二人の顔を見つめた。


 かつて、壊すことしか許されなかった二人の悪魔。

処刑人と補佐官。



 死と破壊の象徴だった彼らがいま、木屑の匂いを身に纏い、煤に汚れながら、「育み、温める道具」を生み出している。



「不完全になるということは……実に、美しいことですね」


 ベルゼの言葉に、アザゼルは小さく微笑み、アバドンは眉をひそめた。


「なんだい、急に気障(きざ)なことを言い出して」

「ふふ、本当のことですよ。万能だった頃の私たちは、何も作れなかった。ただ与えられた役割を演じ、壊すだけだった。……ですが、魔力を失い、腹を減らし、痛みに顔を顰めるようになって初めて、私たちは『誰かのために何かを作る歓び』を知ったのです」



 ベルゼは自分のカップを持ち上げた。


「薪を割る手。鉄を叩く手。パンを捏ねる手。……そのどれもが、今の私たちにとって最も尊い財宝です」

「……違いないね」


 アザゼルもカップを掲げた。


「おうよ! 今日のパンは最高だ!」


 アバドンも豪快にカップを突き合わせる。


 カチン。

 磁器の澄んだ音が静かな店内に響き渡った。




 三人は笑い合い、温かいパンケーキを分け合いながら、ゆっくりと珈琲を飲み進めた。



 窓の外では、沈みきることのない茜色と紫紺の黄昏が、静かに街を包み込んでいる。

 やがて、空になった皿とカップを前に、アバドンが満足そうなお腹を叩いた。



「ごちそうさん! 腹がいっぱいになったら、また薪を割りたくなってきたぜ!」



「ハハハ、気が早いなアバドン。腰を痛めたばかりだろう」


「ぬかせ! この程度の痛み、パンの美味さに比べたら蚊に刺されたようなもんだ!」


 立ち上がったアバドンは、今度は少しだけ手加減しながら、ドアベルを軽やかに鳴らして外へと出て行った。


「また鉄鍋に不具合が出たら言いなよ」


 アザゼルもそっと言い残し、彼の後を追うように店を去っていく。


 去り際、二人の背中は夕暮れの光に照らされ、どこまでも力強く、温かかった。


 静かになった店内で、ベルゼはストーブの前に歩み寄った。



 アバドンが運んでくれた薪を一本手に取り、火の中へと静かに投入する。


 パチパチ。

 薪が爆ぜ、心地よい熱気がベルゼの顔を包み込んだ。





「……温かいですね」


 静かに呟くと、二人が残していった空の皿とカップを手に取り、洗い場へと向かった。




「かつての私たちなら、この季節の移り変わりでさえ、大した意味もなかったというのに……。不思議と悪くないものですね」




 人間など一人もいない、不器用な元・悪魔たちが集う黄昏の街。

 そこには今日も、誰かを温めるための柔らかな時間が、確かに流れていたのだった。




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