第6話 マモン ガラクタの価値と手触り
その客が訪れるとき、店内に届く音はいつも少しだけ奇妙だった。
金属と金属が触れ合う澄んだ響きではない。
古い革の擦れる鈍い音や、研磨されていない鉱石が乾いた木床を叩く不揃いな足音。
『珈琲店 ベルゼ』の店内には、本日も茜色と紫紺が交ざり合う静寂が満ちていた。
人間など一人もいない、沈むことのない黄昏の街。
かつて世界の頂に君臨し、そしてすべてを失った元悪魔たち。
そんな彼らが身を寄せる場所。
カウンターの奥で、ベルゼはミルクジャグを磨いていた。
その手付きは相変わらず無駄がない。
その時、ドアに取り付けられたベルが、少しぎこちなく一音だけ鳴った。
コロン。
店内に入ってきたのは、つぎはぎだらけだが仕立ての良いツィードのコートを羽織った、痩せ型の男だった。
細い丸フレームの眼鏡の奥で、金色に輝く瞳がめまぐるしく店内を見回している。
その両手には、すり減った大きな革のボストンバッグが大事そうに抱えられていた。
かつて、魔界の膨大な富を一手に統制し、無限の金銀財宝と鉱山を所有していたマモン。
現在の彼は、黄昏街の路地裏で小さなアンティークショップを営んでいた。
「やあ、ベルゼ。今日も相変わらず、儲けのなさそうな穏やかな店だね」
「いらっしゃいませ、マモン。お褒めいただき光栄です。うちは富を蓄えるための銀行ではなく、一杯の時間を切り売りする喫茶店ですから」
ベルゼは手を止め、静かに会釈した。
マモンはくすくすと笑いながらカウンターの端へ歩み寄る。
抱えていたボストンバッグを重い音を立てて床へ下ろした。
それから、大切そうにポケットから「あるもの」を取り出し、木製のカウンターへコンと置いた。
それは、真鍮や銀のような華やかな光沢など微塵もない、古びた銅製のカップだった。
表面は変色して暗い褐色に沈み、職人が叩き出した槌目の跡はすっかり擦り減っている。
あちこちに小さな凹みがあり、どれほど磨いたところで鏡のように光を反射することなど到底なさそうな、歪な一品だった。
「ベルゼ。これでカプチーノを淹れてくれないか」
マモンは少年のように目を輝かせ、その不格好なカップを指先で突いた。
「珍しいですね。あなたが器を持ち込むなど。……それに、カプチーノですか?」
「ああ。ミルクの泡を限界までふわふわに泡立てて、たっぷりと注いでほしいんだ」
「かしこまりました。ですがマモン……この銅のカップは、お世辞にもあなたのコレクションに見えるような一品ではありませんね。アンティークというよりは、ただの使い古されたものに見えますが」
ベルゼはカップを取り上げ、手の中で回してみた。
ずしりとした金属の重みはある。
だが、宝石が埋め込まれているわけでもなく、高価な金箔が施されているわけでもない。
骨董品としての市場価値を問われれば、ほぼ「無価値」と断じざるを得ないガラクタだった。
かつてのマモンであれば、このような「価値のない金属」は視界に入れることすら拒み、見るや否や粉砕していたはずだ。
「ふふん、分からないかい? ベルゼ。……まあ、そうだろうね。昔の僕なら、こんなもの石ころとして踏みつぶしていた」
マモンはカウンターの椅子に腰を下ろすと、両肘をついて愉しそうに目を細めた。
「昨日ね、廃墟と化した魔界と人間界の狭間で、崩れかけた倉の跡を見つけたんだ。そのガラクタの山の一番底から、これを見つけ出したのさ」
「崩壊した倉の跡、ですか」
「そう。磨いても磨いても、一切光らないただの銅だ。金のように変わらぬ輝きを放つこともなければ、銀のように澄んだ音も響かない。ただ……」
マモンは指先で、銅カップの取っ手の部分を撫でた。
指が触れるその場所だけ、長年誰かが握りしめていたせいか、金属の角が丸く擦り減り、手の脂が染み込んだような独特の滑らかさがあった。
「触ってみると、妙に温かいんだよ。誰かが毎日毎日、熱いスープか酒を注いで、この取っ手を握りしめていたんだろうね。……その手触りだけが、何百年経っても消えずに残っていたんだ」
「手触り、ですか」
「そうさ。昔の僕たちが蓄え込んでいた黄金の山を覚えているかい? アダマンタイトの金庫に積み上げられた、冷たくて固くて完璧なインゴットや宝石の数々を」
マモンの声から、ふっと嘲笑のような響きが消え、静かな懐かしさが滲み出た。
「あの頃の僕は、『重さ』と『輝き』だけを信じていた。どれほど膨大な金貨を積み上げられるか。どれほど光り輝くダイヤモンドを所有できるか。それだけが僕の存在価値だった。……だけどね、ベルゼ。あの冷たい黄金の山の上に腰掛けながら、僕は一度だって『温かい』とは感じたことはなかったんだ」
「……確かに。かつての私たちは、温もりという概念そのものを持ち合わせていませんでしたからね」
「そうなんだよ! 腹も減らない、身体も冷えない、倒れることもない。そんな不老不死の悪魔が、いくらゴールドを抱え込んだところで何になる? それはただの数値、権威の象徴でしかなかった。僕が守っていたのは、巨大な富という空っぽな何か」
マモンは力説しながら、ボストンバッグのファスナーを開けた。
中からゴロゴロと転がり出てきたのは、どれも価値のなさそうな骨董品ばかりだった。
取っ手の取れた陶器のスキレット。
刃のすり減った小さなナイフ。
模様の剥げかけた金属のスプーン。
「だけど、この肉体になってみろよ! 寒さで指先が震える。腹が減って目が回る。……そんな時にね、店で買い取ったこの擦り減ったスプーンで、アスモデウスの店から分けてもらった温かいスープをすくって飲むんだ」
マモンは愛おしそうに、一本の古いスプーンを握りしめた。
「驚いたよ。スプーンの柄が、僕の握りこぶしの熱を吸ってじんわり温かくなる。スープの熱が金属を伝わって、僕の唇に届く。……その瞬間、僕の中に電撃が走ったね。『ああ、金銀財宝の山なんかより、この使い込まれたスプーン一本の方が、はるかに価値がある!』って」
「価値基準の崩壊……いいえ、再構築ですね」
「まさにそれさ!」
マモンはパンと手を叩いた。
「重さや輝きじゃない。『誰かがそれを使い、誰かと時間を過ごした記憶の手触り』……それこそが、この世で最も希少な財宝だったんだ。昔の僕は、あまりにも貧しかったのさ。それに気づかないまま、虚しい数字ばかりを数えていたんだからね」
ベルゼは静かに微笑むと、手元に置かれた不格好な銅のカップに視線を戻した。
「素晴らしい気づきです、マモン。……では、あなたのその素晴らしいコレクションに、最高のエスプレッソとミルクの泡を注ぐとしましょう」
ベルゼはミルを回し始めた。
ゴリ、ゴリ。
重厚な音が店内に響く。
カプチーノのために選んだのは、強い苦味と深いコクを持つ深入りの豆だ。
エスプレッソマシン。
魔法ではなく、蒸気圧を利用する手動の金属製抽出器。
レバーを押し込み、濃厚な漆黒のエスプレッソをマモンが持参した銅のカップの底へと注ぎ入れる。
ジューッ……。
銅のカップが、熱い液体を受け止めて小さな音を立てた。
熱伝導率の高い銅の性質ゆえに、カップの表面へと一瞬で熱が伝わっていく。
続いて、ベルゼは真鍮のミルクジャグで温めたミルクを、空気を含ませながら丹念に泡立てていく。
キメの細かい、まるで絹のような白いフォームミルクが完成する。
ベルゼは銅カップのエスプレッソへ、白いミルクの泡を静かに注ぎ込んだ。
漆黒の液体の表面に、純白の泡がふわりと浮かび上がり、濃厚なブラウンとホワイトの美しいコントラストを描き出す。最後に、シナモンパウダーをほんの少しだけ振りかけた。
「どうぞ、マモン。『ガラクタの器』で味わう、最高の一杯です」
カウンターへ差し出された銅のカップから、シナモンと香ばしいエスプレッソ、そして甘いミルクの香りが混ざり合った湯気が立ち上る。
マモンは目を輝かせ、慎重に両手を伸ばした。
手が、銅のカップに触れる。
「……あ」
マモンの口から、小さな息が漏れた。
熱伝導の早い銅は、注がれたカプチーノの熱をダイレクトに外側へと伝えていた。手のひら全体に、じんわりとした、けれど確かな主張を持った温もりが広がる。
かつて誰かが何度も握りしめ、角が丸くなった取っ手が、マモンの指にしっくりと馴染んだ。
「温かい……。カップ全体が、まるで生きているみたいに熱を持っている……」
「銅は熱をよく伝えますからね。陶器やガラスよりも早く、中の熱をあなたの手へと届けてくれます」
マモンは両手で大切にカップを包み込み、顔を近づけた。
ふわりと口元に触れたのは、驚くほど柔らかで温かいミルクの泡だった。
続いて、その下から濃厚で苦いエスプレッソの旨味が流れ込んでくる。
「っ、甘くて、あたたかい……!」
マモンは夢中でカプチーノを口に含んだ。
ミルクの滑らかな泡が喉を通り過ぎ、お腹の底へ温かな塊となって落ちていく。
「美味い……美味いよ、ベルゼ! なんだいこれは! 僕の店で売っているどんな高価な酒よりも、胸の奥が満たされていく……!」
「カップの熱と、ミルクの泡。そして、あなたが感じている『時間』の手触りのおかげですよ」
ベルゼもまた、自分用の磁器のカップに珈琲を注ぎ、マモンの向かい側に腰を下ろした。
「マモン。あなたが今、集めている骨董品たちは……かつての『金銀財宝』とは違いますね」
「ああ、全然違うよ」
マモンは鼻の頭に白いミルクの泡を少しだけつけながら、破顔した。
「僕の店に来る客たちはね、みんな風変わりなんだ。アスタロトは『昔の紙の匂いがする』と言って古い手帳を買っていく。ベリアルは『縫い目の揃わない不器用さがいい』と言って古いハサミを買っていく。メフィストフェレスでさえ、ゼンマイ式の置き時計を大事そうに抱えて帰るんだ」
マモンは銅のカップを愛おしそうになぞった。
「彼らが買っているのは、道具そのものじゃない。『かつて誰かが生きていた痕跡』であり、『不完全なものだけが持つ温もり』なんだよ。……それを買い集め、彼らに手渡すのが、今の僕の仕事さ」
「素敵な画商……いいえ、財宝の買い付け人ですね」
「へへ、元・財政大臣の面目躍如ってところだろ?」
マモンは自慢げに胸を張った。
「何もなくなったこの世界。何があった証、何より価値がある」
かつて、世界の富を独占し、他者から奪うことしか知らなかった強欲の悪魔。
彼がいま、ガラクタ同然の道具たちの中に「愛おしさ」という無価値で不可侵な財宝を見出し、同胞たちへと分け与えている。
それこそが、彼らが肉体という器を手に入れたことで咲かせた、最も美しい変化だった。
「ねえ、ベルゼ」
「なんでしょう」
「このカップ、ここに置いてくれないかい?」
マモンが戯れに言うと、ベルゼは静かに首を振った。
「いいえ。それは元々、あなたが拾ってきたものでしょう? 私の持ち物ではありません」
「だよねぁ。……じゃあ、こうしよう」
マモンはボストンバッグから、先ほど見せた古いスプーンを取り出し、カウンターの上へとそっと置いた。
「このスプーンを、君に差し出すよ。僕が旧魔界の廃墟で見つけた、とびきりの財宝だ。……これと引き換えに、僕がここに来た時はいつでも、この銅のカップでカプチーノを淹れておくれ」
ベルゼは差し出されたスプーンを見つめた。
表面はくすみ、あちこちに細かな傷がついている。
だが、マモンが毎日握りしめてスープを飲んでいたおかげで、指の当たる部分だけが滑らかに輝いていた。
ベルゼは静かに手を伸ばし、そのスプーンを取り上げた。
金属の奥に、ほんのりとマモンの体温の残りが宿っているような気がした。
「……承知しましたらマモン」
「決まりだ!」
マモンは嬉しそうに笑うと、カプチーノを最後の一滴まで飲み干した。
空になった銅のカップの底には、白いミルクの泡がわずかに残っていた。
マモンは満足そうに深く息を吐き出すと、ボストンバッグを肩に担ぎ直し、席を立った。
「あー、身体が芯まで温まったよ! さて、店に戻って、今日見つけたガラクタたちの手入れをしなくっちゃな。誰かが『これは僕の宝物だ』って言って持っていくかもしれないからね」
「いってらっしゃいませ、マモン」
カラン。
マモンは黄昏の街へと飛び出していった。
つぎはぎのコートを羽織った彼の背中は、かつて金庫の奥で一人孤独に金を数えていた姿からは想像もつかないほど、軽やかで、満ち足りていた。
静けさが戻った店内で、ベルゼはマモンから受け取った古い
スプーンを、自分の胸ポケットへと静かに差し込んだ。
そして、マモンの残していった銅のカップを取り丁寧に洗い始める。
指先に触れる、少しザラつきのある槌目の感触。
使い込まれ、変色し、磨いても二度と光ることのないガラクタ。
「……あたたかいな」
ベルゼは誰もいない店内で、ぽつりと呟いた。
かつて神にも等しい力を持ち、不老不死を誇っていた悪魔たち。
彼らが手に入れたのは、滅びゆく肉体と、傷つく心と、そして何ものにも代えがたい「手触りのある愛おしさ」だった。
夕闇がゆっくりと深まっていく黄昏の街で、元・宰相は静かに微笑み、次の客が持ち込むであろう「不完全な物語」を待つのだった。




